6
日暮れ前。
土方率いる先方軍は宇都宮上へと攻め入った。
堅固な城壁に阻まれていた時とは違い、旧幕兵たちの士気は高い。
まさに破竹の勢いで敵を蹴散らしていく。
追い詰められる敵兵たちを見ながら、土方はにやりと口を歪めて笑った。
「この調子だと、大した苦労もなしに落とせちまいそうだな。」
勝利を確信しそう告げた瞬間、島田が廊下を慌てたような足取りで駆けてきた。
「土方さん、伝令です!
大広間の部隊が苦戦しているとのこと!」
「苦戦?」
訝しむように彼は眉根を寄せた。
「腕の立つ兵でもいやがるのか?」
「詳しいことは分かりませんが‥‥
俺が様子を見に行ってきましょうか?」
そう島田が言えば、彼は緩く首を振った。
「俺が行く。
ここを頼んだぞ。」
じきに片付くだろうこちらを島田に託し‥‥土方は歩き出そうとする。
そして、
「。」
ふと、後ろに控える彼女を呼ぶ。
「ここに残れって?」
きっとこちらの部隊を頼むとでも言われるかと思いきや、土方は少しの逡巡の後「いや」と否定を口にした。
「ついてこい。」
「‥‥めずらし。」
いつも邪魔だと言うくせにとからかうように言うと、土方は彼女をぎろっと横目で睨んで、
「いいから黙ってついてこい。」
それだけ言って歩き出した。
はひょいと片眉を跳ね上げただけでそれ以上追求せず、
「お願いしますね。」
島田に軽く頭を下げて土方の後を追いかけた。
城の大広間は異様な雰囲気に包まれていた。
敷き詰められた畳の上には、先鋒軍の‥‥味方の兵士達が折り重なって倒れている。
そして、その中心に‥‥
「やれやれ‥‥こんなところにまで来てやがったか。」
何度となく戦地で顔をつきあわせた敵の姿に、土方はため息を零してみせる。
「薩長と幕府が全面戦争やってるってのに、優雅にご旅行か?」
「‥‥」
すいと目を眇め、睨み付けるの少し前で土方は嘲るように口を開いた。
「鬼ってのは、よっぽど暇らしいな?」
なあ、
とその瞳が挑発的な色を浮かべて、鬼の姿を睨み付けた。
睨め付けられた男は、にやりと、口元だけを歪めて笑った。
「風間‥‥
どうしてここに‥‥」
「薩摩藩の命で密書を届けるというくだらない用事だったが‥‥まさか、ここで貴様らに会えるとはな‥‥」
問いかけるをじろりと見て、鬼は笑う。
「ふん、まだそのまがい物と共にいたか‥‥貴様もよくよく物好き奴だ。」
「‥‥」
「俺の傍に来れば苦しい思いもせずに済むというのに。」
鬼の姫として歓迎してやるものをと言う彼から庇うように土方は一歩前に出た。
そうすれば二人の視線がばちりと絡む。
「てめえの相手は俺だ。」
「まさかこんなに早くおまえと相まみえることが出来るとは思わなかったぞ。」
赤い鬼の目をぎらつかせ、土方を睨み付ける。
「顔にバツ印つけられたのがよっぽど嬉しかったのか?
そこまで喜んでもらえりゃ光栄だぜ。」
嘲りの言葉に風間はぎりと奥歯を噛みしめ、早々に刃を抜いた。
すらりと引き抜かれた大太刀は、ぎらりと不気味な光を湛えている。
その白銀に輝くそれを見た瞬間、
「っ」
はぞくりと背筋が震えるのを感じた。
嫌な感じがした。
刀身は光を反射するのではなく、それ自身が発光しているように見える。
なんというか、その刃に不思議な力が込められているような――
「おまえを殺せばあの時の屈辱を果たすことが出来る。」
抜き身の刃を手に、風間は薄らと笑った。
「京以来、散々俺たちの邪魔をしてきた意趣返しをさせてもらおう。」
「やれやれ‥‥
腕の一本でも切り落とされなきゃわかんねえみたいだな。」
土方の姿が羅刹のそれへと変わる。
そして、
「はぁあああ――!!」
一気に床を蹴り、風間へと猛然と斬りかかる。
「ふっ‥‥」
それを風間は悠然とした調子で受け止めた。
刃同士がぎりぎりとしばらく噛み合い、鍔迫り合いとなったが、
きぃん!!
風間の力に押し負ける形で土方は後方へと飛び退く。
退いた所を風間は追いかけ、続けざまに一刀を振るう。
「くっ!!」
着地の瞬間を狙われ、土方は苦しげな声を漏らし、その一撃を辛うじて受け止めた。
「この間に比べ、動きに精彩がないな。
人間相手で疲れたのか?」
風間は余裕の表情で、
「まがいものとはいえ、鬼のおまえが‥‥」
土方を嘲笑う。
対して彼の方は余裕がない。
彼の言うとおりだ。
陽の下をかけずり回り、休み無く敵を斬りまくったせいで、身体はほぼ限界に近い。
かたかたと刃の先が震えていた。
「ああなるほど‥‥日没までには間があるからな。
まがい物が動き回るには、辛い時間か‥‥」
風間の表情に高慢な笑みが浮かんでいる。
土方を圧倒できるのが嬉しくて仕方がないようだ。
「っ」
は歯がゆい思いで唇を噛む。
できる事なら彼女が変わって風間と戦ってやりたい気分だった。
この身体では無理ならば鬼になってでも‥‥
「くそったれ!」
やがてこのままでは押し負けると思ったらしい土方が刃をはじいて再度後ろに飛んだ。
そして風間もそれを追いかけて走り――
手にした刃を振り上げる。
その瞬間、
ぎらりと刀身が今一度強く輝き、
「だめっ!!」
は本能的に叫んでいた。
「ぐっ!?」
刃は土方の胸を大きく切り裂いた。
赤黒い血をまき散らし、彼はその場に膝を着く。
「くっ、はぁ‥‥はっ‥‥」
洋服の胸の部分を大きく切り裂かれ畳の上に血の滴がしたたり落ちた。
生身の人間であればその傷は致命傷だが、彼は羅刹だ。
こんな傷すぐに治る‥‥と土方はにやりと笑った。
だが、
「‥‥?」
おかしなことに、彼の胸に刻まれた傷から溢れる血は、いつまで経っても止まることはなかった。
「ど‥‥どうなってやがる?」
ぼたぼたと流れ続けるそれを見て、土方は驚きの声を漏らした。
まさか‥‥
とは口の中で呟いた。
は鈍く光る、風間の刀を見て‥‥恐れた。
いや、正確には彼女ではない。
彼女ではなく、彼女の中にある‥‥鬼の姫が恐れたのだ。
「鬼斬り――」
の唇から聞き慣れない言葉がこぼれ落ちた。
自分でも無意識のうちに零れた言葉だ。
それを聞き、風間は愉快そうに笑った。
「やはり貴様は知っていたか。」
そう、と風間は頷く。
「これは『童子切安綱』‥‥」
その昔、かの源頼光が酒呑童子という鬼の首を落としたとされる刀。
「我が風間家に代々伝わる品だが‥‥本当に鬼を斬る事ができるのかを確かめた者はおらぬのでな。」
美しく反り返った刀身がぎらりと獰猛な光を放つ。
「丁度いい機会と思い持ってきたまでだ。
すくなくともまがい物の鬼を退治することはできるようだな。」
土方の様子を見て、くつくつと笑った。
の身体には強い鬼の血が流れている。
それ故に、その刃の恐ろしさを知っていた。
むろん、安綱に斬られればまがい物ではなくとも‥‥鬼でさえも、傷を癒すことは出来ない。
斬られた場所から何か異様な力が入り込み、その命を奪う。
あれはそういう力を持っているのだ。
だから酒呑童子も伐たれた。
ふつふつと首筋に冷や汗が浮かぶ。
突きつけられているのは自分ではないのに、恐ろしかった。
刃を突きつけられるのは慣れっこだし、死ぬ事も怖くない。
怖がっているのは‥‥静姫だ。
『死にたくない』
らしくもないか細い声が聞こえた気がした。
それほどまで恐ろしい刀と言う事か。
はぎりと奥歯を噛みしめる。
見守る中、傷口を押さえて愕然としていた土方がゆらりと立ち上がる。
「まがい物の鬼相手にずいぶん大層なもの持ち出してくるじゃねえか‥‥
よっぽど必死なんだな。」
傷が塞がらないというのに、彼はせせら笑う。
挑発する言葉に風間は顔色一つ変えず、
「俺に生涯最大の屈辱を与えた貴様を地獄へ送ることができるならばどんな手でも使う。」
再び刃を構えた。
「この刀で負わせた傷は、塞がらんぞ。」
「元々、傷口ってのはそう簡単に塞がらねえもんだろ。」
土方は軽口で答え、緩慢な動きで刃を構える。
そんな言葉に風間はくつくつと嫌な笑みを喉の奥で弾けさせ、
「俺に勝つ為に羅刹になった――
あの時の貴様の行動が全て無に帰したというわけだ。」
その瞳に狂気を浮かべる。
「要するに斬られなきゃいいだけだろ?
羅刹になる前は当たり前にそうしてたもんだ。」
「どこまでも減らず口をたたくか‥‥」
まあいい、と風間は言い、
「行くぞ」
短く宣告し、地を蹴った。
構えた土方であったが、その次の瞬間、
「っ!?」
彼の口から戸惑いの声が漏れた。
駆け出したその残像は確かに見えた。
だが、
今彼がどう動いているのか分からない。
速すぎるのだ。
目で追いかけても、辛うじてその場に彼がいた‥‥という痕跡を捕らえる事しか出来ない。
「くそ!!」
顔を顰め、土方が一刀を振り下ろす。
しかしそれは見事に空を切って終わる。
振り下ろした再度構えようと刃先を起こした瞬間、
――ざん!
「ぐぁ!?」
がら空きだった横っ腹を薙がれる。
「土方さん!」
布が裂け、血が溢れ、そのまま太股までを濡らす。
よろめいたものの土方は辛うじて踏ん張り、奥歯を噛みしめて再び彼を捕らえようと鋭い眼光を向けた。
「いいぞ‥‥その顔、どうすれば俺を殺せるか必死に考えている表情だな。」
姿は見えないのに、声だけが聞こえた。
「だが、俺が見たいのはその顔ではない。」
続いて次の一撃がの肩を斬る。
「ぐっ!!」
頽れそうになるのを、また、次が‥‥
「どうやっても俺を殺せない。
そのことを悟った時の、絶望の表情を見せろ。」
鮮血が何度と無く宙を舞う。
その合間できらりと刃の煌めきが見えた。
瞬間、
「くそがぁあ!」
土方は渾身の力で迫り来る刃を受け止めた。
ぎん!!
と甲高い音を立て、刃が合わさった。
「っ!」
だが傷と出血のせいで、すぐに押し負け、彼は大きく後ろによろめいた。
それだけはなく、
「な、何っ!?」
羅刹となっていたはずの彼の髪が、普段の、黒髪へと戻ってしまう。
「ふはははははは!
そろそろ限界が近づいてきたか!」
哄笑が大広間に響き渡る。
「羅刹から人間の姿に戻っているぞ!
虫けら以下の脆弱で哀れな生き物の姿になっ!」
今にも崩れ落ちそうな土方を見下ろし、風間は狂ったように笑い続けた。
「さあ、泣け、わめけ!
未練がましく命乞いをしてみせろ!!」
まるで子供をあしらうように、風間は刃を力なく振り回す。
しかし、それにさえ今の土方には対抗する力はなく、刀を何度も弾かれ、小さな傷を増やしていく。
意識が朦朧としているらしく、その目には力がない。
風間をきちんととらえられているかさえ危うかった。
「京にいた頃から我らの邪魔をし続けたいまいましい『新選組』の名もろとも貴様を葬り去ってやる!」
狂気を孕ませて高らかと告げた言葉に、ぴくりと土方の肩が揺れた。
「新選組を‥‥葬り去るだと?」
小さく彼は反芻した。
そして同じように小さな声で彼はぶつぶつと呟く。
「近藤さんと会えなくなっちまってから、俺一人で抱えるにゃ重くて重くて仕方なかった荷物だけどよ‥‥」
疲れたような呟きは、やがて、
「てめえごときに葬り去られちまうと思うと、虫酸が走るよな!!」
その口から血と共に、強い言葉が吐き出され、
瞳に再度炎を灯すと、再び刃を強く握りしめ、
男は、
再度羅刹へと姿を変えた。
無茶だと思った。
そういえば、彼と共にいて無茶だと思わなかった事はないと、今更のように思い出す。
それでも今回は無茶だ。
ざん、とまた傷が増えた男はよろめいて壁に強く身体を叩きつけられた。
それでも彼はまだ‥‥戦う事を止めはしない。
「やめてください!もうこれ以上はっ‥‥」
思わずは叫んでいた。
「これ以上戦ったら‥‥」
死んでしまう!!
の悲痛な叫びに、土方はうるせえと小さく返した。
「てめえの命がどれだけ削られようと、どうでもいいさ。」
ぜえぜえと荒く息を吐きながら、目だけは風間を見据えて光を放っている。
「ここでこいつに殺されてやる訳にゃいかねえんだよ。」
土方は言って、随分と重たいと感じる刀を握り直す。
切っ先を迷わず風間に向け、
「今まで命かけて作り上げてきたもんを‥‥こんな奴に、
こんな刀ごときにぶち壊されてたまるもんかよ!!」
まるで叫ぶみたいに声を上げ、また、走った。
向かってくる土方に風間は薄い笑みを浮かべる。
だめ――
鬼を斬る刃は再び、土方の胸を大きく切り裂き、
「っがぁっ!」
今度こそ、どさりとその場に倒れ込む。
いつの間にか畳は赤く染まっていた。
おびただしい出血量に‥‥このままでは確実に、彼は死ぬとは悟る。
「ぐっ‥‥」
倒れ込んだ土方は刀をつきたて、どうにか身を起こそうとしている。
が、
「ぐぁ!?」
だんっとその背中を思い切り風間に踏みつけられ、再び沈んだ。
彼は無様に倒れ込む男を虫けらのように踏みにじりながら、では、と口元に心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「これで終わりだ。」
そして、刃を大きく振り上げ‥‥
男を、
殺す為に、
刃を振り下ろす――
『や め ろ』
その刃が振り下ろされれば間違いなく、世界は終わる。
――の世界が――

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