日光に向かう途中の森の中。

宇都宮まではあと少しという所で、事件は起こった。

 

「まさか、宇都宮を官軍に押さえられてしまうとは‥‥予想外だったな。」

 

陣の中で合議の最中だった、大鳥が渋い顔で呟いた。

深刻そうな顔をしている彼だが、対して土方はどこか飄々とした態度で受け流す。

 

「押さえられたっていっても、単に官軍にびびって恭順した口だろ。」

なに、と彼は不敵に笑う。

「奴ら以上の力を見せつけてやりゃ、すぐこっちに尻尾振ってくるさ。

‥‥節操のねえ連中だからな。」

馬鹿にしたように呟いて、顔を上げた大鳥を艶然とした笑みを浮かべて見つめる。

「新政府軍に寝返った奴らの城なんざ、落としちまって構わねえだろ?

歩兵奉行さんよ。」

その言葉に、大鳥はキッと眼差しを鋭くし、負けじと言葉を返した。

「僕は別に戦うことに反対しているわけじゃない。」

ただ、と彼は続ける。

「小山で戦っていた中軍、後軍はまだ合流しきれていない。

彼らが追いつくまで待ってくれと言ってるんだ。」

城を落とすというのは戦略的には愚の愚とされていると続ける彼を、ため息が遮った。

「そりゃ、どこのありがてえ操典の孫引きだ?

お得意の西洋砲術か?」

土方の刺々しい物言いが癪に障ったらしく、大鳥は眉を顰め、珍しく語調を強くした。

「これは西洋だけの常識ではない。

孫子の兵法にだって同じ事が書かれている。」

確か、とは山南が見せてくれた古びた本を思い出した。

 

『故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城』

 

原文はこうあったが、彼が読んでくれた言葉は、

 

『上兵は謀を伐ち、其の次は交を伐ち、其の次は兵を伐ち、其の下は城を攻む』

 

「最上の戦い方は、攻略により敵を屈服させることです。

これに次ぐのが、敵の同盟関係を断ち切り孤立させること。

そして、次が戦火を交えること。

城を攻めるのなどは最も愚かな事なんですよ。」

とおっとりとした彼の口調を思い出した。

確かに、昔から城を攻めるのには三倍以上の兵力が必要と聞く。

戦う場所も限られるし、彼らは強固な砦で守られている。また、不意をつくにも内部を知っている人間であれば簡単だ。

大鳥の言いたいことはよく分かった。

「愚を犯すのであれば、せめて自軍を最良の状態にして、確実な勝利を目指さなくては‥‥」

そうでなければ無駄死にだ。

すると、土方は彼の言葉を遮るように切り返した。

「兵は拙速を聞くも、未だこれを巧みにして久しくするを見ざなり。」

その言葉も聞き覚えのある言葉だった。

多分それも、

「戦争ってのは時間をかけて上手くやるより、多少下手でも素早くやれってことだ。

これも孫子の兵法に書かれてる言葉だぜ。」

そう、孫子の兵法。

いかにも彼にぴったりだと思う。

 

ああいえばこういう‥‥と感心して聞いていると、大鳥は疲れたようなため息を漏らした。

「中軍、後軍が我々に追いつくのに何十日も掛かるわけじゃない。

あと少しだけ待ってくれと‥‥」

これもまた土方は遮り、今度は強い口調で言った。

「のんびり後続部隊を待ってるうちに、敵の援軍が来ちまったらどうするんだ?」

「‥‥」

それは一理ある。

故に大鳥は黙り込んだ。

「あの射程の長い化け物銃を持った薩長の連中がやって来ちまったら、勝てる見込みはなくなっちまうぜ。」

「それは‥‥」

今度こそ、大鳥は口ごもった。

それを好機と見て、更に彼は言いつのる。

「機を逃すくらいなら、俺が先鋒軍だけで城を落としてやるぜ。」

「それは‥‥」

大鳥はぎょっとした顔で一瞬言葉に詰まり、慌てて口を開く。

「そんなのは戦争ではない、ただの自滅だ!」

「自滅?

結構じゃねえか‥‥」

にやりと、血のにおいのする獰猛な笑みを土方は浮かべる。

それを見た途端、大鳥はぞくりと背筋を寒いものが走っていくのが分かった。

本能的に‥‥この男は危険だと悟った。

 

「命懸けで刃向かってくる敵はどうにかなるが、命を捨てて刃向かってくる敵ってのは、倒すのに骨が折れるもんだ。」

 

どこか自暴自棄になっているその目で総大将を好戦的に睨み付け、やがてはくるりと背を向ける。

 

「ま、黙って見てろよ。

明日日が暮れるまでには宇都宮城を落としてやるさ。」

は黙って、その後に従った。

 

 

そして、四月十九日。

宇都宮城は激しい戦火にさらされた。

宇都宮城攻撃軍は約二千人。

迎え撃つ宇都宮城の守備兵は約七百人。

特に激戦となった下川原門は、幕軍約千人に対し、守備兵は約四百人。

二倍以上の兵力で攻め込む事とはなったが、敵は城という盾に守られ、戦況は降着状態に陥っていた。

 

戦場には弾丸が飛び交い、あちこちで兵士の悲鳴が上がった。

土方は自軍の兵士二百名ほどを振り返り、指示を出す。

「このままじゃキリがねえな。

そろそろ、敵陣に突っ込んでもいい頃か。」

「敵陣に!?」

彼の指示に兵士が驚きの声を上げた。

「何を言ってるんですか!向こうは銃を持ってるんですよ!?」

その反論に土方は眉一つ動かさずに答える。

「奴らが持ってるのは薩長が使ってる新型の銃とは違う。

百間も離れりゃ当たらねえし、命中精度も低い。」

それにと彼は続けた。

「弾の一発や二発当たった所ですぐ死ぬ訳じゃねえさ。」

はその言葉に確かにと頷いた。

一発二発かするのは、戦場では当然だ。

刀同士のやりあいだって、拳同士のやりあいだって、怪我をしないという事は稀なのである。

だが、それくらいじゃ人は死なない。

当たり所が悪くない限りは。

「そ、そんな無茶な‥‥」

旧幕兵たちはその無茶な命令に騒然となる。

すると、土方は冷めた目で兵士達を見下ろしながら、

「おまえら‥‥ここに何しに来たんだ。

戦争しに来たんだろ?」

同じように冷えた低い声が彼の口から発される。

「だったら死ぬ覚悟くらい持ち合わせるはずじゃねえか。」

「っ」

ごく、と誰かが喉を鳴らした。

じろりと一同を見回し、

「合図をしたらそこの奴から前に進め!」

無造作に彼が指さす先には、銃弾が雨のように降り注いでいる。

その中をくぐり抜けられる人間はいない‥‥と、は思った。

幕兵たちは青ざめ、足を震わせながらお互いに顔を見合わせている。

やがて、恐怖が限界に達したのか――

「お、俺は‥‥俺は嫌だぁあ!!

こんな所で死にたくねえ!」

最前列にいた兵の一人が背を向け脱兎のごとく逃げ出そうとする。

その矢先――

 

ざん

 

と風が唸る音を立て、土方の抜いた刃が逃げだそうとした幕兵の背中を斬った。

 

「ぐ‥‥がはっ‥‥」

刀で切り伏せられた兵士は、絶命し、地面へと倒れ込む。

それを見守っていた誰もが言葉を失い、あたりは唐突に静まりかえった。

そして、思い出したようにざわめきが起こる。

「お、おい!

味方を斬りやがったぜ!」

「どういうことだ‥‥頭がいかれてやがるのか‥‥」

恐怖と、それから動揺の入り交じった声があちこちから聞こえた。

土方は刃を振り、血を払い落とすと冷ややかな表情で兵士達を見回して、言う。

「他にも敵前逃亡してえ奴はいるか?

怖かったら逃げてもいいんだぜ。」

ただし、

「逃げようとした奴は片っ端から、この刀で斬り捨ててやる。」

男の言葉に、また、声は聞こえなくなった。

「俺に斬り殺されるか、

それとも弾丸の雨ん中突っ切って行くか――好きな方を選べ。」

言葉に込められた本気に‥‥誰から呆然と、こう告げた。

 

「鬼だ‥‥

あの人は、鬼だよ‥‥」

 

懐かしい鬼という呼び方に、土方は鬼さながら、にやりと血のにおいのする悪い笑みを浮かべて見せた。

 

 

 

その後、最前線に飛び込んだ土方はまるで鬼神のごとき動きで次々と敵兵を屠っていった。

血で真っ赤に愛刀を染めながら、彼は進む。

まるで彼は恐怖を感じていないようだった。

「くそっ!」

敵兵が物陰から躍り出る。

刀を振りかぶり「死ね」と叫んだ。

その瞬間、

 

――

 

無言の、振り返り様の一刀が男の身体を深々と薙いだ。

 

その剣捌きは、見惚れるほど美しく、鮮やかであった。

 

ぱん!

 

と今度は破裂音がして、足下に弾丸がめり込んだ。

狙撃手は頭を狙ったつもりだが、外れたらしい。

 

一息さえ吐く暇もないなと内心で零し土方は目を眇め、相手を探った。

それよりも先に、

「‥‥」

いつの間にか追いついてきたがからんと音を立てて刀を拾い上げる。

何をするのかと見守っていると、彼女は敵の脇差しの重さを掌で慣れさせるように何度か弄び、

 

きら、と光ったそれを見つけるや否や、

 

「っ――

 

ぶん、

とそれを投げた。

 

すさまじい勢いで飛んでいった刃は、陽光を受けてキラキラと輝き‥‥やがて、

 

「がっ!?」

 

ぱん、と固い音と悲鳴が上がり、どさりと上から人が落ちてきた。

その頭に深々と彼女が投げた脇差しが刺さっていた。

 

ほとんど反則だ、と誰かが心の中で呟いた。

 

「‥‥行くぞ」

 

小さな言葉にははいと答えて再び歩き出した。

彼らが進めば進むほど、あたりには敵の死体が増えていった。

 

相変わらず銃弾の雨は降り続いている。

しかし、旧式の銃ということもあり、思うように狙いが定まらないようだ。

それでも銃を持った敵に向かっていくのは尋常でない恐怖がある。

「‥‥」

しかし、土方は臆した様子もなく、刃を振るい続けた。

羅刹になっているため、そう簡単に死ぬ事はない。

しかし、そうでなくとも、土方なら敵陣に乗り込んでいくのだろうとは知っていた。

例え‥‥たった一人でも。

 

は、その彼に続くだけだ――

 

 

「す、すげぇ‥‥」

 

そんな勇猛な戦いぶりを目の当たりにし、幕兵達は呆然と呟いた。

「あの人は本当に人間なのか?

地獄から這い上がってきた鬼なんじゃねえのか?」

食い入るように戦いぶりを見つめていた兵あちの間にどよめきが走る。

硝煙と土煙の中、自らの命を顧みず戦うその姿は、幕兵たちが今まで見てきたどんな武士にも似ていなかったに違い

ない。

赤黒い血を全身に浴びながら、それでも目だけをぎらつかせ――

 

「おい、おまえたち!

そろそろ敵兵の弾も尽き始めたようだぜ!」

 

気合いを入れ直せよと味方の陣に檄を飛ばし、土方はまたも戦いのまっただ中へと舞い戻る。

そんな彼を見つめる瞳は‥‥きらきらと輝いていたのをは確かに見た。

 

 

 

その戦いは、大門が開かれた事で終わった。

敵がその場所を明け渡した証拠だった。

あちこちへと命令を飛ばす彼が一息を吐いた時、

 

「土方さん!素晴らしい戦いぶりでした!

まさに源義経が蘇ったかのようで‥‥さすが新選組の副長です!」

突然、兵士達が駆け寄ってきて、彼の周りを取り囲んだ。

なにごとかと眉根を寄せれば、彼らは鼻息荒くこう続ける。

「我々はあなた方を誤解していました!

申し訳ございません!」

「離脱しようとしていた兵士を斬ったのは、我々を勝利に導くため‥‥これ以上の脱退者を出さないためだったのです

ね!」

「あなたの下で戦えることを誇りに思います!

あなた方こそ、本物の武士だ!」

口々に彼らは土方を褒め称える。

向けられる眼差しは合流当初の‥‥好奇心と恐怖が含まれた視線とは明らかに違っていた。

「こ、これは‥‥

一体どういう事なんでしょう?」

島田はわけがわからないといった顔で土方を見た。

土方は黙り込んで僅かに目元を細めて彼らを見ている。

「土方さん?」

どこか懐かしむような眼差しで、そっとは声を掛けた。

「あ、ああ、悪い。」

何でもないと彼は頭を振り、一つため息を吐き次の瞬間には厳しい顔になる。

顔色が青かった。

陽の下であれほど暴れ回ったのだ‥‥体力の方も限界が来ているだろう。

おまけに返り血をたくさん浴びて、いつ吸血衝動が起きるか分からない。

それを土方は気力だけで身体を懸命に支えている。

「大丈夫ですか?」

土方さん、と小さく訊ねれば、彼は青い顔を少し歪ませて笑った。

「大丈夫に決まってんだろ‥‥

城を落とすまでは死ねねえさ。」

脂汗と血を、手の甲で拭い、彼は細めた瞳に力を込めて兵士を顧みた。

 

「先鋒軍は俺に続け!

日暮れ前には城に攻め入るぞ!」