4
どこかで鳥の声が聞こえる。
千鶴は慣れた様子で濡れていない地面を探し、腰を下ろした。
白んだ空にはうっすらと月が見える。
もう明け方に近い。
そんな時間になってようやく眠気がやってきた。
思わず零れそうになる欠伸を噛み殺しながら、今日こそは、と千鶴は沖田へと視線を向けて言い放つ。
「沖田さん、今日は私が火の番をします。」
そう言うと、火の傍でのんびりと空けていく空を見上げていた彼は驚いたように目を丸くする。
それから、
「いいよ、君は先に寝て?」
沖田は苦笑でそう返した。
江戸を出てから何日が経っただろう。
そのやりとりは、何度交わされただろう。
そして、何度彼に言いくるめられただろう。
千鶴は今日こそは頑として譲らない気持ちで首を振った。
「駄目です。
寝てください。」
ぺしぺしと自分が今し方見つけた寝床を叩く。
まるで子供を寝かしつけるみたいに‥‥だが、その顔は怒ったようなそれで沖田は笑った。
「そんな怖い顔で寝てって言われてもねえ‥‥」
「‥‥」
「大丈夫だってば。
ほんとにまだ眠くない。」
真剣な眼差しを向けられても、沖田は大丈夫と言って首を振ってしまう。
「駄目です!」
千鶴は少しだけ強い口調になった。
「沖田さんが眠ってくださるまで、私も寝ません!」
今日は何があっても彼を先に寝かしつけなければと思った。
ここ最近‥‥沖田は満足に眠っていない。
休むときは交代で眠る事にしており、大抵、千鶴が先に休む事になるのだが、彼は時間になっても千鶴を起こす事は
なかった。
彼女が自分から目を覚ますまで待つのだ。
気持ちよさそうに眠ってたから起こすのは可哀想だと思って、と笑う彼が眠れる時間は短く。
あっという間に夕方になり、彼はまともに眠る事が出来ずに歩き始める。
彼に申し訳なく思って、頑張って起きてみようと思うのだけどなかなか身体は思うように目覚めてくれない。
ならば先に彼を寝かしつけ、彼にしっかりと睡眠を取って貰ってから、自分が後で休めばいい。
毎日しっかりと休息を取っている千鶴は多少眠らなくても大丈夫な気がした。
それは本人だけだ。
「千鶴ちゃん‥‥君の方が体力はないんだしさ。」
沖田は苦笑を漏らす。
ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。
山道を警備していた新政府軍とばったり出会ってしまい、戦ったり逃げたりの繰り返しを続けながら、新選組の後を
追いかけているのだ。
のんびりと旅しているのではない。
思ったよりも彼女の身体には負担が掛かっているはずだった。
「僕の方が体力はあるんから。」
彼は新選組の幹部だ。
昔から身体を鍛え、戦場を何度も駆けた。
体力には自信がある。
と言えば、彼女は「う」と小さく呻いて、でも、と慌てて言いくるめられまいと口を開く。
「でも沖田さんは‥‥」
言いかけ、すぐに口ごもった。
きっと肺の病の事を気にしているのだろう。
羅刹になっても、その死病は癒える事はないと彼女は知ってしまったから。
労咳は‥‥栄養をしっかりと取り、綺麗な空気の場所で、安静にしていないと治らない病気だ。
そんな彼に無理は禁物だ。
千鶴は労咳という言葉を突きつけたくはなくて、唇を噛みしめ、代わりに恨めしそうな顔で沖田を見て、言う。
「今は、私の方が元気です。」
苦しい言葉に沖田はぷっと噴き出す。
くすくすと笑えば、千鶴は更に顔を顰め、睨み付けてくる。
千鶴はこう言うとき頑固だ。
これは何があっても先に休まないと許してくれないと悟り、仕方ないなぁと眉を寄せて、
「それじゃ、少しだけ‥‥ね。」
そう言って、彼女が見つけてくれた寝床へと近付いて‥‥ころんとその大きな身体を横たえた。
彼が横になってくれたのを見て、千鶴はほっと胸をなで下ろし、自分が手にしていた外套をその身体へと掛けた。
「寒くない?」
沖田はちらとこちらへ視線を向けて訊ねる。
いつもとは違う、自分が見上げられる立場に、新鮮な感じがした。
「大丈夫です。」
着込んでますからと、千鶴は笑顔で答えた。
とはいえ、朝靄の残る森の中は少し冷える。
今は冬場ではないとはいえ、屋根も壁もない所で眠るのはやはり寒かった。
遠慮無く吹き付けてくる風に千鶴は僅かに身を竦ませながら、それを悟られまいと膝の上の拳に力を入れた。
「君は意地っ張りだなぁ‥‥」
それを見て、沖田は聞こえないように呟いた。
それからよいしょと上体を起こした彼は、
ふわり、
と寒さで強ばる肩に、外套を掛けてやる。
それは今し方自分が沖田に掛けてやったもので、
「私、平気です。」
彼女は慌てて外套を取り、彼へと突き返した。
「沖田さんが着てください。」
「大丈夫だよ。
僕、ちょっと熱いくらいなんだよね。」
突き返せばそんな事を言われ、千鶴は嘘と思わず反論した。
「今日は冷えます!
だから‥‥」
と外套を彼の手に戻すのに彼は受け取ってくれない。
そして苦笑を意地の悪いそれへと変えて、
「千鶴ちゃんは嘘吐きだよね。」
しかも、下手な嘘吐きだと沖田は笑った。
何もかも見透かされている事に千鶴は悔しく思う。
その瞬間、千鶴の動きが止まり、その間に沖田は外套をもぎ取ると、
ふわり、
と再びその肩に掛け、今度はぐるっとその小さな身体を包むように巻き付けてしまう。
そして、
「心配してくれて、ありがとう。」
にこりと、微笑みかける。
それがあんまり優しくて‥‥千鶴はそれ以上反論できなかった。
ただ、しょんぼりと肩を落とすしか。
また‥‥
自分は彼の役に立てなかったと――
「ごめんなさい。」
そう思うと言葉が口からついて出た。
「‥‥突然、どうしたの?」
再び横になろうとした所、謝罪の言葉に沖田は首を捻る。
謝られる何かをされただろうか?と。
そうすると、千鶴は彼の方は見ずに、口を開いて呟いた。
「私、沖田さんの足手まといになってばかり。」
どうして自分は彼にばかり無理をさせてしまうのだろう。
彼に心配を掛けずに、いられないのだろうかと。
今だって、
今までだって、
どうしてこう、彼の負担になることばかり‥‥
「また、一人で何を悩んでいるかと思えば‥‥」
沖田は苦笑した。
横になろうとした身体を再度戻し、胡座を掻いて彼女を見れば、だってと悔しそうに口を開く。
「私がついていくって決めたのに‥‥沖田さんの負担になってばかり。」
身体を休めなければいけないのは彼の方なのに、満足な睡眠も取る事さえ出来ない。
それに、
「足を引っ張ってばかりです。」
急ぎの旅なのに、思うように進まないのも自分の、せい。
彼一人ならばもうとっくのとうに新選組と合流できていただろう。
彼女を新政府軍から庇い、逃げながら北に進んでいるせいで、だいぶ遠回りになっているはずだ。
「私に合わせてくれているせいで、新選組の皆さんに追いつくのが遅くなってしまって‥‥」
甲府での戦いだって、千鶴がいなければもっと早くたどり着けたかもしれない。
精一杯足手まといにならないようにと思ったけど、結局‥‥彼を近藤に会わせてあげる事は出来なかった。
「でも、あれは僕が羅刹だったせいだよ?」
君のせいじゃないと沖田は言う。
自分が羅刹で、昼日中に動けなかったせいだと。
それに、と彼は口を開く。
「君を羅刹にしてしまったのも僕のせい。」
足手まとい、というのならば自分の方かも知れない。
と沖田は思う。
少なくとも沖田が迷わずに薫を殺していれば、千鶴を羅刹にする事はなかった。
彼女に自分と同じ業を背負わせる事はなかったのだ。
「それはっ‥‥」
違いますと千鶴は首を振ったが、沖田は僕のせいだよと笑って聞き入れてくれない。
千鶴はでも、と更に言い募った。
「私が羅刹になって‥‥沖田さんの足を引っ張ってるのは事実で‥‥」
江戸に戻るのに時間が掛かったのも、今、こうして休んでいるのも、千鶴の体力がもたないからだ。
羅刹になってまだ間がない。
千鶴は陽の光にことのほか弱くなり、体力も落ちた。
まだ鬼の血が羅刹のそれに抵抗しているせいかもしれない。
――置いていかれるのは嫌だった。
でも、
彼の負担になっているかと思うと‥‥辛い。
「‥‥」
悔しげに唇を噛みしめる少女の姿に、沖田は自然と笑みを浮かべた。
彼女が、自分の事を心配してくれていると思うと‥‥不謹慎かも知れないがすごく嬉しいと思う。
千鶴に悲しい顔をさせたくはないが、気に掛けてくれるのが嬉しかった。
「千鶴ちゃん、君が気に病む事なんて何もないんだよ。」
「でも‥‥」
「僕は、自分がしたいことをしてるだけだから。」
沖田はこともなげに言ってのける。
「それに‥‥」
と言葉を続けようとした瞬間、
ぞくりと背筋を震えが走った。
「っ!?」
慣れた感覚にそれが来たのだとすぐに察知する。
しかし、慣れたはずの感覚でも、彼を襲うのは慣れない痛みとひどい乾きで、
「うぁっ!!」
唇から苦しげな声が漏れた。
「沖田さん!」
千鶴は咄嗟に手を伸ばし胸を掻きむしり身体を折り曲げる男を支えた。
見る見るうちに髪の毛は白く色を無くしていき、瞳の色も変わってしまった。
羅刹の発作だ。
「っは‥‥っぅ‥‥」
唇から零れる熱く、苦しげな声に千鶴はすぐに自分の懐を探り、薬包を取りだした。
「沖田さん。」
お薬ですと差し出せば、沖田は苦しげな呼吸の元、
「ありがとう‥‥」
と言って薬に手を伸ばす。
震える指先でそれを摘んで口にさらさらと白い粉を流し込んだ。
「‥‥っ」
喉を薬が嚥下しても、すぐには効果は出ない。
これから暫く、沖田は一人で苦しみに耐え抜かなければいけないのだ。
「‥‥」
千鶴は唇を噛みしめた。
その顔はひどく苦しげで‥‥
「どうして僕よりも君の方が苦しそうなのかなぁ。」
沖田は苦笑を漏らす。
問いかけに千鶴は更に眉根を寄せて唇を噛みしめる。
聞かなくても理由など分かった。
何も出来ずただ見守るだけの自分の無力さに、もどかしい思いなのだろう。
何も出来ないわけじゃない。
ちゃんと薬だって作ってくれた。
自分が血に狂わないのは彼女のお陰だというのに。
それでもきっと、彼女は自分を責め続けるだろう。
きっと、
自分が彼の苦しみを代わってあげられればとかそんな事を思ってるに違いない。
――君にこんな思いをさせられるわけないじゃない。
どこまでも優しくて、真っ直ぐな少女だと沖田は笑い、今にも泣き出しそうな少女に手を伸ばした。
「沖田‥‥さん?」
そうして腕の中に閉じこめると、ころんと大地の上に横たわる。
「あの‥‥」
と戸惑ったような声が腕の中から聞こえ、沖田は荒い息をつきながら、こう答える。
「ちょっと‥‥休ませて。」
「え、でも‥‥」
休んで貰うのは大いに結構なのだが、どうして自分は抱きしめられているのだろう?
千鶴は沖田の広い胸にしっかりと抱きしめられ、どきどきと胸が高鳴って仕方がない。
だけど身動ぎしようにも逞しい腕に邪魔をされて‥‥
「‥‥動かないの。」
沖田は言い、少女の首筋に顔を埋めた。
「っ」
千鶴は思わず声を漏らしそうになった。
埋めた少女の首筋から、ふわりと春の花を思わせる甘い香りがした。
目を眇めて見つめれば、すぐ傍に白く‥‥柔らかそうな肌がある。
その下に流れる血は、どんな味がするだろうか。
羅刹である狂った部分がそんな事を考える。
しかし、沖田はそれを押さえつけ、代わりに鼻先をそこに押しつけて、優しい少女の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
すると不思議な事に、
心が落ち着いた。
ざわりとざわついていた身体の奥が鎮まっていくのが分かる。
痛みはまだ身体を責め続けるけれど、血を吸いたい衝動は消えた。
「‥‥あ、あのっ‥‥」
安堵する男とは相反して、千鶴は落ち着かなくて仕方がない。
なんせ、男に抱きしめられるのは‥‥これで二度目だ。
しかも相手はどちらも沖田で、こんな時どんな反応をすればいいのか初な少女には分からない。
今更ながら彼の逞しさを感じ、近付く事で強くなる沖田の香りが自分を包み、理由もなく恥ずかしいと思ってしまう。
千鶴は耳まで真っ赤にして、身体をがちがちに強ばらせてしまう。
そんな彼女に沖田は苦笑を漏らし、
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。」
少し掠れた声で、安心させるように囁く。
「何もしないから‥‥」
そう言って、強ばった背中を優しく撫でた。
なんだか子供扱いされている気もしないでもない。
だが、
「‥‥」
不思議とその手に、強ばっていた身体から力が抜けていった。
それが優しかったからだろうか。
千鶴は自分と、彼との間に差し込んでいた手を外す。
そうすると、沖田は更に強く抱きしめてきて、胸と胸が合わさった。
恥ずかしい、とか、苦しい、とか。
そんな事は不思議と思わなかった。
ただ、その腕の中はひどく居心地が良くて‥‥
「‥‥あったかい‥‥」
千鶴は嬉しそうに目を細めて小さく囁くと、その瞼をゆったりと下ろしていった。
やがて、
腕の中で穏やかな寝息が聞こえ始める。
「‥‥眠っちゃったみたいだね。」
くすくすと彼は笑い、寝顔を覗き込んだ。
その時には髪の色も目の色も常のそれへと戻っていた。
沖田は穏やかな、なんだか子供っぽい寝顔を優しげに見つめた。
『私、沖田さんの足手まといになってばかり。』
不意に、彼女が先ほど漏らした言葉を思い出す。
そんなの気にする事無いのにと、沖田は本気で思った。
足手まといなんて‥‥昔の自分なら思ったかも知れないが、今の自分は思うはずがない。
そればかりか、
「ついてきてくれて‥‥嬉しいのは僕の方だ。」
本当の事を言うと、
彼女が雪村の地へ‥‥自分とは別行動を取ると言ったら、
沖田は肯けたかどうか分からない。
どうしたって沖田は土方に会って、彼の真意を聞かなければいけなかった。
それは千鶴も同じで、彼女は父親に会わなければいけなかった。
でも、
沖田は彼女と別れたくなかった。
甲府まで、新選組を追いかけた時だって、そう。
江戸に置いておけば、彼女は薫に変若水を飲まされる事はなかった。
戦場に彼女を連れていくのがどれほど危険な事か分かっている。
でも、
離れたくなかったのだ。
彼女こそ、自分の我が儘に付き合ってくれている。
女の身では辛い旅路だ。
それでも、彼女は文句一つ言わずについてきてくれる。
だからせめて‥‥
自分が出来る事を彼女にしてあげるべきだと沖田は思う。
いや、
してあげたいと。
『意地悪してばっかだと、いつか愛想を尽かされるぞ。』
不意に蘇った彼女の言葉。
いつも隣を駆けていた大切な友の声。
今は傍にいない、の、声。
それはいつの事だっただろうか。
ああ、そう。
あれは‥‥自分の感情を持てあましていた、時の事。
突然現れた少女に、
荒れた感情をぶつけていた頃の事。
『意地悪してばっかだと、いつか愛想を尽かされるぞ。』
どこか咎めるような言葉に、沖田は憮然として答える。
『おまえの愛情表現はただでさえ分かりにくいんだから。』
『なにそれ、どういう意味?』
『意地悪な事ばっかり言ってると、本気で嫌われても知らないぞって事。』
ツン、と鼻の頭を突かれ、どこか上からの目線で言われる。
ちょっとむっとした。
『別に、千鶴ちゃんになんと思われてもいいよ。』
半分嫌われてるようなもんだと沖田は言い捨てる。
すると、はへえと目を細めて意地の悪い顔を見せ、
『私、別に千鶴ちゃんの事なんて言ってないけど?』
『‥‥』
やられた、と沖田は思う。
彼女の事を考えていたから、思わず口をついて出た。
いつもの自分ならそんなのにも引っかからないのに。
『まあ、そんだけ追いつめられてるって事だな。』
はくすっと笑い、少し丸くなった背中をぽん、と叩いた。
それから一人すたすたと歩き掛け、
『総司―』
振り返りもせずに声を掛ける。
なにさ、と沖田は不機嫌そうに返事をした。
はそっと庭先へと視線を向けて、こう、穏やかな声で言った。
『優しくしてあげなよ。』
そうしたら、
とは目を細めて笑った。
『きっと‥‥応えてくれる。』
「‥‥本当に」
沖田は誰にともなく呟いた。
もう遅いのではないか‥‥そう思ってしまう。
今まで散々彼女を突き放して、傷つけた。
今更優しくした所で‥‥彼女は応えてくれるだろうか。
応えて欲しいから優しくしているわけではない。
今はただ、彼自身が優しくしたかった。
‥‥今まで与えてもらえた優しさを返せるくらい。
優しく、ありたい。
でも、
そうしたら彼女は本当に応えてくれる?
この、
泣きたくなるような気持ちに‥‥

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