2
甲府から江戸まで戻るのに、来たときの倍以上の時間が掛かってしまった。
理由は、千鶴の体調が崩れたせいだ。
変若水を飲まされた彼女の身体は羅刹へと変わり始めていた。
そのせいで、昼に起きているのが辛く、かすかな血の臭いでも神経に障った。
でも、血が欲しいわけではなかった。
ただ思うように動かない身体に、千鶴は自分に対して苛立ちを募らせていった。
そんな彼女を沖田は責めなかった。
「大丈夫?」
「無理しないで?」
と彼に言われる度に千鶴は嬉しくなり、同時に心苦しかった。
彼は今すぐにでも近藤と合流したいはずだった。
けれど、沖田は千鶴を見捨てなかった。
一緒に江戸まで戻ってくれた。
彼は‥‥やはり優しい人だと千鶴は思った。
彼らが江戸へと戻ったのは、土方達が江戸を経った数日後だった。
二人が戻ってきたのを聞きつけ、松本がすっ飛んできた。
二人の事を案じていたらしい彼は、無事な様子を見ると心底ほっとしたようにため息を漏らした。
その隣に、
意外な人物がいた。
「千鶴ちゃん!
良かった!無事で‥‥」
そう言って飛びついてきたのは、千鶴のよく知る人間だった。
「お千ちゃん!?」
彼女の来訪に千鶴は驚きの表情を浮かべる。
てっきり彼女は京にいるとばかり思っていた。
いや、それよりも、
「どうして松本先生と一緒に?」
何故彼女が松本と一緒に行動しているのだろうかと訊ねれば、後ろに控えていた君菊が口を開いた。
「姫様は、あなたの身を案じていたのです。」
千鶴の事を新選組に預けると約束した日から、接触は無かった。
それでも彼女が無事かどうかは、いつも気にしてくれていたらしい。
新選組は争いの渦中にある。
そしてそこに千鶴はいるのだから。
しかし、江戸に入ってからというもの千鶴の足取りはつかめなくなった。
当然だ。千鶴は新選組とは離れ、沖田と共に行動していたのだから。
千姫は彼女の無事を確かめるため、新選組と関係のあった人間に当たっていき‥‥やがて松本にたどり着いたらしい。
彼を信用に足る人間だと判断し、事情を説明してここに連れて来てもらったと君菊は教えてくれた。
「本当に、無事で良かった。」
千姫は瞳を潤ませて言う。
出会って、まだ数えるほどしか話したこともないのに、そこまで親身になってくれるその気持ちが千鶴には嬉しかった。
同じ種族だからとかそういう事だけじゃなく‥‥彼女は純粋に千鶴を友として、心配してくれているのだから。
「心配かけて‥‥ごめんね。」
つられて千鶴は涙ぐみながら、でも、と笑ってみせる。
「私のことは皆が‥‥
沖田さんが守ってくれたから。」
大丈夫と、絶対の自信を持って言えば、沖田は苦笑で少し擽ったような顔をしてみせた。
そんな二人の様子に、千姫は一瞬驚きの表情を浮かべ、
「思ってたより元気そうで良かった。」
すぐに嬉しそうに笑った。
でも、と彼女はまた表情を一変させ、
「ちょっと、真面目な話‥‥しちゃうね。」
真剣になる眼差しに、千鶴も表情を硬くした。
「綱道さんについて、少しわかったことがあるの。」
そう言葉をはじめて、千姫は君菊に目配せをした。
「新選組を用いて変若水の実験を行うよう、綱道さんは徳川幕府から強制されていました。」
綱道は雪村の分家筋にあたる鬼だ。
特に雪村血筋の鬼は、幕府に見逃されている立場だからその命令には逆らえなかったという。
「変若水は西洋から渡来した薬品でした。」
その薬は、人の精神を破壊して狂わせる劇薬だが、綱道はその毒性を薄める事に成功している。
完璧に‥‥とは言い難いが、それでも最初を思えば随分とましになったものだと沖田は思う。
「どのような手段を用いたのかまでは私たちにもつかめておりませんが‥‥」
その言葉の続きを千姫が紡いだ。
「変若水の効果を薄める事ができたなら、消すこともできるかもしれないじゃない?」
強い、期待の色を込めて彼女は言った。
変若水の効果を消す‥‥
それはつまり、
「羅刹を、人に戻すって‥‥こと?」
それが出来たらどれほどいいだろう。
どこか夢見心地で呟けば、沖田が隣で楽しげに笑った。
「なんだか夢みたいな話だね。
まあ、羅刹自体、嘘みたいな存在だけど。」
他人事のように彼はいい、でもさ、と続ける。
「変若水を薄める方法は‥‥結局分かってないんでしょ?」
やっぱり夢みたいな話だよねと言われ、千姫は、
「でも、綱道さんならわかるでしょう?」
と言ってみせる。
確かに、研究をしていた綱道ならば分かるだろう。
分かるだろうけど、
「父様は‥‥行方不明だし‥‥」
彼の居場所が分からないのではどうにもならない。
肩を落とす彼女に千姫はにっこりと笑った。
「綱道さんの居場所が分かったの。」
「父様の!?」
千姫の話によれば、綱道は雪村本家の土地にいるということだ。
それはつまり、
「私の‥‥」
いや、と千鶴は首を振った。
彼女だけではない、薫や、そして、の、
「私たちの‥‥生まれ故郷に?」
目をまん丸くする彼女に千姫はこくりと頷き、大体の場所は知ってるからと、微笑んだ。
雪村の土地は、東北の‥‥山の中だ。
そこで綱道はまだ羅刹の研究を繰り返しているという。
羅刹を生み出すことは恐ろしい事だとは思うが、それでも彼の知恵を借りればもしかすると‥‥
「‥‥どうしたい?」
知らず視線を沖田に向けていて、彼は優しく彼女の答えを聞いてきた。
出来れば、と千鶴は心の中で答えた。
彼を‥‥羅刹から人間へと戻してあげたい。
あの苦しみから解放させてあげたい。
だから綱道と話をしたい‥‥
でも、
そうすると、沖田とは離ればなれになる。
彼は新選組、近藤を追いかけるつもりだから。
彼と離ればなれになるのは‥‥
「‥‥」
千鶴が答えに躊躇っていると、こほんと松本が咳払いをし、漸く口を開いた。
「今後の事を決める前に、私の話も聞いてくれるか?」
「あ、はい!もちろんです!」
慌てて頷き、彼女はいったん考えるのをやめた。
それは正直ありがたい助け船だった。
しかし、
彼が語り出した事柄は、決して生やさしいものではなかった。
「近藤さんが、新政府軍に投降した。」
その言葉は‥‥まるで現実味がなかった。
思考が、まったくついていかなかった。
それは、沖田も同じ事だった。
「どうして近藤さんが‥‥」
うわごとのように呟いた後、彼は激昂した。
「土方さんは何をしてるんです!?」
つかみかからんばかりの勢いに、松本は慌てる。
「おい、沖田君。
少し落ち着いてくれ。」
飄々とした彼は、あまり声を荒げることもない。
そんな彼が声を上げ、そして顔を怒りの表情に変えているのだ。
今にも目の前の人間を斬り殺してしまいそうなほどの‥‥怒りの表情に。
そんな彼に、松本が驚くのも当然だ。
「‥‥無理です‥‥落ち着けない。」
沖田はぎりと奥歯を噛みしめ、感情をもてあましているようだった。
「ことの経緯は‥‥私にもよくわからん。」
松本は一つため息を零し、
「だが、近藤さんが投降したのは間違いない。
これは幕府のお偉いさんから聞いた話だからな。」
と呟く。
そんな言葉に沖田の顔色は青ざめた。
近藤が投降した‥‥新政府軍に、新選組の局長が‥‥
その先を考えれば、悪い事ばかりが浮かんでしまう。
「そんな‥‥」
と小さく呟く彼に、松本は続けて言葉を投げかけた。
「土方君は新選組を率いながら、北に向けて転戦を続けているらしい。」
局長が投降してもなお、新選組は戦い続けているのだと。
その状況に、千鶴はますます分からないと頭を悩ませた。
そしてその話を聞いた沖田は、冷たい軽蔑の色を瞳に浮かべた。
「土方さんは‥‥近藤さんを裏切ったんだ。」
絞り出すように、彼は告げた。
「まだ、決まった訳じゃないでしょ?」
ともすれば今すぐにでも飛び出しかねない彼を落ち着かせようと千姫が口を開いた。
その言葉に更に、沖田は激昂した。
「新選組が滅んでないのに、なんで局長だけ投降するのさ!?」
鋭い眼差しにさすがの千姫も怯む。
それに構わず、沖田は続けた。
「土方さんが近藤さんを引き渡したんだ!」
そうに違いないと彼は叫んだ。
土方を軽蔑しながら、それでも、その瞳は悲しげに揺れた。
「あの人なら、何とでも出来たはずなのに!!」
信じていたのに‥‥
そう、彼が叫んだ気がした。
彼の‥‥本当の思いがそこに見えた気が。
「沖田さん‥‥真実を聞きに行きましょう。」
千鶴の口から凛とした声が漏れた。
言葉に、一瞬、一同が静まりかえる。
千鶴は驚きに目を見開く沖田を見上げ、言葉を選んで告げた。
「今、ここで沖田さんが怒っても何も分からないままです。」
近藤が投降した理由も、土方が戦い続けている理由も。
そこには何か理由があったはずだ。
それを知らないまま、ただ怒りに任せて言葉を吐き出しても、何も変わらない。
それに、
怒りのままにはき出す言葉が‥‥彼自身を傷つけているように見えて‥‥
彼にはこれ以上、傷ついて欲しくなかった。
「私たちは真実を知る必要があります。」
いつもの彼に戻って欲しくて、千鶴は静かに続ける。
「‥‥」
押し黙っていた沖田は、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
やがて、
「ありがとう。」
視線を彼女から外して、喘ぐように言葉を紡いだ。
「それから、ごめん。」
と。
その彼からはとげとげしい雰囲気が消えていた。
その声も表情も穏やかなそれになり、千鶴はほっとため息を零す。
「私こそすみません。
生意気なことばかり言って‥‥」
彼女が謝れば、視線はもう一度こちらに寄越され、小さく彼は笑った。
大丈夫だよと言うように。
そして、改めて松本へと向き直った。
「近藤さんの居場所は、わかりますか?」
まっすぐな眼差しに、松本は真意を確かめるように目を眇める。
「それを知って、どうするんだ?」
まさか、という言葉に、彼は迷わず頷いた。
「乗り込んで‥‥助け出します。」
無謀な事を言ってのけるその声音は、真剣そのものだった。
その答えを予想していた松本は渋い顔のまま首を緩く振った。
「助け出すのは‥‥無理だ。」
「やってみなければわかりません。」
沖田の主張に対して、無理だともう一度松本が言う。
「これは、沖田君一人じゃ無理だ。」
近藤は、新選組の局長だ。
彼を助けたがる人間は大勢いると。
土方もその一人で、彼が嘆願書を何度も書いてはあちこちを走り回っている、とも聞いた。
勿論、その訴えは聞き入れられていない。
彼らだけではなく、方々でその動きがあると。
「だからこそ、近藤さんの居場所は厳しい警備がしかれているはずだ。」
そして、彼の居場所は伏せられている。
何度となく幕府のお偉方に探りを入れてはみたが、分からないと何度も言われた。
「それに、新選組の羅刹対策として、銀の銃弾も用意されているだろう。」
理路整然と語られる現実は、とても厳しいものだった。
「新政府軍から近藤さんを取り返すのは、例え新選組全員でかかっても不可能だ。」
と。
「‥‥」
松本も助命嘆願をしてみると呟くが、沖田は奥歯を噛みしめて彼から視線を外した。
その後の言葉はもう彼の耳には入っていないようだ。
ただ、苦しさをたった一人で耐えているような姿に、千鶴は胸が痛んだ。
「沖田さん‥‥どうしますか?」
今度は千鶴が訊ねる番だ。
短い沈黙の後、沖田は瞳に強い色を湛えて、口を開いた。
「土方さんに‥‥会う。」
「‥‥」
「会って、話を聞く。」
その後は、
と彼は視線を遠くへと投げた。
「まだ、分からない。」
本当にまだ、わからないようで、迷いのある瞳を見て、千鶴は分かりました、と告げた。
「私も一緒に行きます。
‥‥いいですか?」
まっすぐに彼を見つめて言えば、彼の瞳が見開かれた。
「でも、君は故郷に‥‥」
故郷に行くんじゃなかったのと続く言葉を千鶴は頭を振って遮る。
確かに、羅刹について詳しく知りたいと思っているし、父親にも会いたいと思っている。
でも、
「沖田さんと一緒に行きます。」
それ以上に、彼をひとりにしたくはなかった。
いや、
千鶴自身が離れたくなかったのかもしれない。
彼の傍に、いたかったのかも。
「‥‥わかったよ。」
千鶴の瞳に少しの迷いもないのを見て、沖田は諦めのため息を漏らした。
その表情は何故か、嬉しそうだったのを千鶴以外の皆が気付いて、互いに笑みを漏らすのだ。
闇に紛れるように、彼らは隠れ家を出る。
新政府軍の目から隠れるように、闇の中を走った。
一刻も早く、土方に追いつくために。
そんな彼らが江戸の外れにさしかかったとき、
「‥‥」
沖田の足がふいに止まった。
「?」
顔を上げれば、彼はそっと小声で囁いた。
「僕の後ろに。」
「はい。」
広い彼の背中に隠れ、通りの向こうを見る。
じゃりと砂を踏む音が聞こえ、彼らは姿を現した。
「まさか‥‥君たちが江戸にいるとは‥‥」
静かな感情の見えない瞳の鬼の姿に、千鶴は息を飲んだ。
「天霧さん‥‥」
沖田は構えを取った。
対面する鬼の強さは嫌と言うほど知っていたからだ。
「江戸で、何をしているのです?
新選組は既に北上したと聞きましたが‥‥」
眉を顰めて問う天霧に、沖田は肩を竦めて見せた。
「僕たちがどこで何をしていようと、話してあげる義理は無いよね。」
その言葉に、天霧は嘆息する。
「一理あるな。」
呟き、彼はじゃりと砂を踏みしめる。
その大きな身体に見合うだけの威圧感が彼にはあった。
広い通りだというのに、何故だかその人が立っているだけで、行く手を全て塞がれているような気がした。
そういえばと沖田は彼が一人なのに気付いて、訊ねる。
「あの、風間って鬼はどうしたの?」
それこそ彼らに関係のないことだ。
と一蹴されるかと思いきや、天霧は丁寧に答えてくれる。
「風間なら‥‥新選組を追っています。」
言葉にへえと沖田は口を歪めて笑った。
「千鶴ちゃんの事は諦めてくれたのかな?
それとも‥‥別の目的でも見つけた?」
残念だけど、新選組には彼が好みそうなものはないと思うけれどと沖田は呟いた。
しかし、
「あ‥‥」
千鶴は思い当たる節に声を上げた。
「さん‥‥」
「え?」
彼女の呟きに沖田は怪訝そうな声を上げた。
「どうしてが出てくるの?」
ちらりと振り返りながら訊ねれば、彼女は思わず口を噤んで、困ったような顔をした。
彼女の出生の事を話していいものかと迷っていると、天霧が代わりに口を開いた。
「ご存じなかったようですね。彼女の事を‥‥」
「なに?」
その言い方にはちょっとかちんときた。
だって、は小さい頃から一緒にいる。
彼らよりもずっと長い間一緒にいるのに、ぱっと出てきた赤の他人に知ったような事を言われるのは癪だった。
そんな彼に構うこともなく、天霧は口をゆっくりと開き、真実を告げた。
「という女性は‥‥そこにいる雪村千鶴と同じ血筋の者。」
「‥‥え?」
沖田は思わず声を漏らした。
そして、千鶴を振り返り、また、天霧を見る。
千鶴と同じ血筋の者。
それはつまり‥‥
「鬼‥‥?」
彼女は、人ではなく、
鬼であるということ。
しかも、と天霧は続けた。
「彼女は稀に見る、強い鬼の血を受け継いだ、真の鬼姫です。」
千年もの昔‥‥
まだ人と鬼とが交わる事の無かった、あの頃と同じ、純粋な鬼の血を受け継いだ一人だと。
「‥‥本当?」
本当なの?と沖田は千鶴をちらりと見た。
彼女は一瞬だけ躊躇った後、こくりと肯定を示した。
「さんは、私と同じ雪村の‥‥」
「‥‥」
「鬼の一族です。」
千鶴の言葉に、何故かがんと頭を殴られた気がする。
それは驚きと、怒りだった。
彼女が鬼の一族であった事への驚き。
そして、
それを一人だけ知らされなかった事への怒り。
「‥‥の馬鹿。」
ぎり、と沖田は奥歯を噛みしめた。
多分、千鶴が知っていると言う事は土方も知っている。
自分だけ‥‥なんて、仲間はずれみたいで気にくわない。
「沖田さん?」
明らかに気分を害した様子の彼に、千鶴は恐る恐る声を掛けた。
沖田は返事をせず、相手を睨め付けたままだ。
その手は柄へと乗せられている。
「‥‥それで?
僕たちの前にやってきたって事は、僕を斬りに来たって事?」
それとも、と沖田はからかうように言った。
「が駄目だった時の為に千鶴ちゃんを連れていくつもり?」
そんな事はさせないけどねと彼は好戦的な目で鬼を睨め付ける。
このまま抜刀し、鬼へと斬りつけかねない雰囲気に千鶴は息を飲む。
相手は刀を持ってはいないとはいえ‥‥鬼で‥‥しかも強い。
沖田が弱いとは言わないが、それでも刃を交わらせればどうなるかは分からない。
息を潜め、事の成り行きを見守っていると、
「私は‥‥あなたと争うために来たのではない。」
首を緩く振って、天霧は道を空けた。
「‥‥僕たちを見逃してくれるってこと?」
言葉にひょいと片眉を跳ね上げ、沖田は天霧を見つめる。
彼の真意を探るように。
そうすると彼はまた一つ頷いて、
「我々鬼は‥‥もう必要ない。」
争いは集結へと向かっていると彼は言った。
彼が必要とされる大きな争いはない。
その言葉は、旧幕府軍には終わりに近付いていると言う意味だ。
「‥‥」
沖田は不機嫌そうに彼を睨み付けた。
まだ戦っている人間がいるなか、負けたと言われて腹が立った。
確かに、近藤が囚われているのに新選組が戦い続ける意味は分からなかったけれど、それでも、他人に言われるのは
癪だった。
無言で沖田は刀の柄から手を離し、
「行こう、千鶴ちゃん。」
彼女を促し歩き出す。
警戒をしつつ進むが、天霧はやはり彼らに手を出す事はなかった。
腕を組み、通り過ぎる彼らを見送った。
しかし、
「その身体で、どこまで走るつもりですか?」
行き過ぎ様に、そんな言葉を投げかけてきた。
その身体。
羅刹の事だろうか。
千鶴は振り返りそれはと口を開いたが、天霧は違う事を口にした。
「死病を抱えたままで、どこまで走るつもりですか?」
「‥‥え?」
天霧の問いかけに、千鶴は声を上げた。
言葉に、沖田は一瞬瞳から色を無くした。
振り返った彼は冷たい眼差しをしていた。
まさか‥‥という思いで千鶴は彼を呼んだ。
「労咳‥‥治ってないんですか?」
沖田は何も応えてくれなかった。
代わりに、天霧がため息を吐き、教えてくれる。
「変若水は肉体的な強靱さを与えてくれるが、巣食う病魔を癒すものではない。」
その言葉が真実ならば、
「沖田‥‥さん‥‥」
彼の身体はまだ、死病に蝕まれていると言うこと。
それを隠して、彼は走り続けてきたと言う事か。
千鶴を、守って。
そして、今もその身体を蝕まれているということ。
「‥‥沖田さん‥‥」
「鬼っておしゃべりなんだね。」
沖田は嘲るように笑い、やっぱり斬っておこうかと刀の柄へ手を伸ばした。
「話しすぎましたね。」
そろそろ私は消えましょう、と彼は肩を竦め、くるりと背を向けた。
それから本当に、
闇に飲まれて、消えた。
「‥‥」
彼の気配が完全に無くなるまでじっとその背中を睨み付けていた沖田は、やがて、一つ息を漏らす。
それから、じっと先ほどからこちらを見つめている千鶴に笑みを向けた。
「良かったね、千鶴ちゃん。
君を悩ませるものが一つへって。」
これで鬼が‥‥風間や天霧が彼女を狙う事はなくなった。
強大な敵だけに不安は大きかったが、それ以上に、千鶴の不安は大きく膨らんだ。
「‥‥沖田さん‥‥」
彼の、病の事だ。
労咳の事を問いただそうとした時、沖田は千鶴を促した。
「急いで江戸を出よう。
新政府軍に見つかると厄介だからね。」
「え、あのっ‥‥」
でもと口を開くが、その手を取って彼は走り出してしまう。
肺を患っているとは思えないその様子に、千鶴はさっきの彼の言葉は夢であればいいのに‥‥と思った。

|