3
暗い空を、琥珀の瞳は静かに見上げていた。
今宵の月明かりは随分と頼りない。それもそのはず、今夜は三日月だ。
それは誰かが空につけた傷跡のようにも見えた。誰かの爪痕。見つめていると徐々にその傷跡が小さくなっていくような気がする。見る間に傷跡が塞がるだなんて、まるで彼らのよう。
の考えを遮るつもりなのか、夜風に乗った雲が月を覆い隠してしまう。
途端に世界は闇に飲まれるように真っ黒に塗り潰された。
のんびりと夜空を見上げている場合ではなかったのだ。
「行くか」
は一人ごちてトン、と、合図でもするように腰に差した刀を叩いた。
飾りの一つもない無骨な鞘に収められたそれは『久遠』という。
誰が打ったのかは誰も知らないが、とても見事な美しい刀である。無論見た目だけではなく、切れ味も最高。若干持ち主に似て、奔放なのが玉に瑕という所か。
そして久遠は、全てを失ったが唯一持っていたものだ。恐らくの失った記憶の全てを知っている。
いわば半身とも言えるそれをあやすようにすっと撫で、は目を町に向けた。
町の一角から光が、消える。
その隙を逃さず、は疾走った。
闇の中を迷うことなく。
「は?」
広間に集まった顔触れを見て藤堂が開口一番に訊ねた。
その人がいない事が決して珍しい事ではない。むしろ幹部が勢揃いする事の方が珍しいのだが、沖田と斎藤の間がぽんと一人分空いていたのが気になってしまったのだ。
「先程、出た」
きょろきょろと辺りを見回す藤堂に短く答えたのは斎藤だった。
「もしかして、仕事?」
どっかと藤堂が腰を下ろせば、今度は沖田がこくりと頷く。
「らしいよ。土方さんから呼び出されて、その後すぐに出掛けちゃったみたいだし」
どことなく不機嫌なのはお預けを食らっているからか、それとも悪友をあの男に取り上げられたからか。まあ、恐らくは後者だろう。今夜は久々に酒の相手をしてもらえると思ったのにと、彼は心の中でだけ呟く。
「一人で?」
「が誰かと一緒に出かける事の方が少ないと思うけど」
「マジかよ! あいつもよくやるよなぁ。」
簡単の声を上げる藤堂に、沖田はやれやれと溜息を漏らすのだった。
さら、と筆を走らせていた手を止める。
一人自室で書き物をしていた土方は難しい顔をして顔を上げた。
遠くから賑やかな声が聞こえる。間違いなく広間からだろう。
今日も賑やかな食事が始まったらしい。確かめなくとも永倉と藤堂がおかずの奪い合いなどという子供じみた争いをしているのが分かる。それが激化してまたふすまを破いたり食器を壊したりしなければ良いのだが……などと土方は考え、眉間に刻まれている皺に気付いて頭を振った。
こんな事に頭を悩ませている場合ではない。仕事が山積みだったのだ。
「……」
しかし仕事に集中しようと手元に視線を落とした瞬間、手元を照らす灯りが消えた。開いたふすまの隙間から吹き込む風が消してしまったようである。
灯りが消えると室内は暗くなった。この時になって漸く彼は気付く。
今夜は随分と暗い夜だったのだと。
頼りなげな月は分厚い雲に覆われ、光は差さない。
闇に紛れるには都合のいい夜だ。
今頃、この闇にも紛れているのだろうか?
「それにしても」
横からのびる箸から自分の飯を死守しつつ永倉が呟く。自分はちゃっかり藤堂の皿から強奪した焼き魚を咀嚼しながら。
「は仕事熱心だよな」
「普段は不真面目なのにね」
彼の言葉を沖田が茶化す。そうすれば横で永倉らのやりとりを眺めていた原田が苦笑になり、
「不真面目ってのは総司にだけは言われたくねえだろ」
などと言うので、沖田はからからと笑った。違いない、と彼は認めている。
「まあ、普段は総司と一緒にふざけちゃいるけどよ。実際仕事となりゃ真面目な方だろ」
それには誰もが頷くばかり。
普段沖田と共にふざけているというのに、こと仕事となると斎藤に次いで真面目さを発揮するのは不思議というもの。
今夜のように食事に有り付けない事も多々あるというのに、文句の一つも言わないのは只管感心する。
しかもその仕事の内容といったら……
――ざん――
唐突に世界は闇に染められる。
突然落ちた闇に戸惑いのなんだなんだと声が上がった。
それから灯りを消されたのだと気付いたようだが、その時には既に刃が迫っており、
「っ……」
短い断末魔の声さえ上げず、ごとり、と大地にそれは転がった。
首だった。
びしゃりと濡れる感触が床に広がる。そして、噎せ返る程の血のにおい。
異常を察した一人が悲鳴を上げて背を向けた。逃げだそうとしたけれど闇の中では録に身動きも取れず、何かに躓いて転んでしまう。それが人の頭だと気付いて情けない悲鳴が上がり、動揺が部屋を満たしていく。視界を奪われるというのはとても恐ろしいもののようだ。見えないと恐怖心が目の前に在りもしない存在を生み出すとでも言うのか……彼らは皆、巨大な化け物が自分たちに襲いかかるのではないかと怯えている。
しかし、実際目の前に立っていたのは小さな影だ。
ただその影は躊躇いもせずに走ると、恐怖に目を見開いた一人の腹を薙いでいた。
「ぎゃ……」
声が上がり、重たい音が続いた。
その時、ばたばたと廊下の方から複数の足音が聞こえてくる。漸く、事態に気付いたらしい。
闇の中で、琥珀の瞳をすいと細めた。
「何事ですか!」
現れたのは刀を差した3人の浪士。恐らくは彼らが雇われた用心棒。
それなりの腕前ではあるようだ。だけど、所詮は『それなり』――
「がっ――」
次の瞬間、男達は刃を抜き去ることもなく地に伏せ、
「この!」
一人が慌てて引き抜いた刃は、ざ、との右頬を掠めただけだった。
ちり。
と僅かに走る熱を気にする事もなく、は返す刀でがら空きの腹を薙いだ。
声にならない声を上げて、また一人、黄泉路へと旅立つ。
あとは、
静寂と、
噎せ返る臭いだけ。
極秘裏に人を屠ること。
つまり、
暗殺。
それが――の仕事だった。
「まったく、土方さんは人使いが荒いんだから。」
当人がいないのを良い事に沖田は文句を垂れた。否、当人がいれば逆に嫌味ったらしく言うのだろう。
呟きに斎藤が「総司」と窘めるように彼の名を呼んだが、その他の者は苦笑で否定を口にはしない。実際彼の命令でが駆り出される事が多いのは確かなのだ。土方自身が仕事に追われているせいでもあるだろう。
だからは立て続けに『出る』事になっても文句は言わない。ただ素直に頭を縦に振って闇夜に紛れるだけだ。
彼が言う任務の重要性を知っているからこそ。
「……ですが」
それまで大人しく食事をしていた総長、山南敬助が顔を曇らせた。
「本当には一人で大丈夫でしょうか?」
柔和な笑顔のまま冷徹な判断をしてみせる彼でさえも、気がかりな様子だ。
「出来れば、俺達が手伝ってやれれば良いんだが」
困ったような顔で、原田も彼の言葉に同意を示した。
実際手を貸す事は可能だ。彼らもと同じ幹部隊士なのだから助っ人としては申し分ない。共に戦ってくれれば心強いだろう。
だがの任務は堂々と討ち入るのではなく暗殺なのだ。人が多ければ見つかる可能性が高くなる。そうなると厄介だ。
そういうわけで、は一人で行動する事が多い。
どれほどに難しい仕事であっても、相手が複数であっても、一人で。
それを見事に片付けてくるあたりは流石だと誰もが思う。
すごいとは思うのだけど――
藤堂はポツンと呟いた。
「……女の子なのになぁ……」
そう、という人間は彼らとは違う生き物なのである。
その性別を男と偽って過ごしてはいるが、彼女は自分たちよりも華奢で弱い――女なのである。
言葉にして改めて、彼らはという生き物が自分たちと違う存在なのだと思い知らされた。
「でも、副長助勤だ」
しかし、その事実を忘れさせる程、その腕前は誰もが認めるものであったのだ。
まだ辺りは暗く、静まりかえっていた。
この刻限に出歩く人というのは少ないようで、辺りに人の気配はしなかった。彼女以外は。否、彼女の気配さえもない。
だからもしこの場に人がいたら驚いて飛び上がった事だろう。まるで幽霊か妖のように足音も気配もさせずに通りを歩いているのだから。通りに立ちこめる朝靄も、彼女が現の物ではないように見せるのだ。
「あ、ふ……」
静寂の中、小さく欠伸の声が漏れる。が漏らしたものであった。
ついでじゃりと砂を踏む音。どうやら彼女の集中力も限界が近いらしい。
早く屯所に戻って、今日は少し休みを取らなければ。
「あれ?」
そんな事を考えながら屯所の門を潜れば、戸口に見知った姿を見付けた。
「総司」
悪友の姿だ。
彼は腕組みをして柱に寄りかかって立っている。浅黄色の羽織を身につけている所を見ると、巡察の帰りだろう。
凭れていた背中を離すと、にこりと笑って沖田はこちらへと向き直った。
「おかえり。随分と遅かったね?」
子の刻には戻るんじゃなかったのか、という問いかけには苦笑を漏らす。確かにその位に戻ってくる予定だったのだが。
「死体の始末に手間が掛かったの」
実際彼らを殺す事自体は四半刻で終わった。その始末が厄介だったのである。
特に用心棒として雇っていた一人が巨漢で、あれを山まで引きずって走るのは些か骨が折れた。途中で多少軽くしなければ、もう少し遅くなっていただろう。
まあそれでも予定よりも随分と遅くなってしまった。心配性の上役は寝ずに待っているのだろう。もしやすると遅れた理由を聞かれるかも知れない。正直に話せば……今度からは二人で、と言われるのだろうか。それは困る。
「なんだ、へましたんじゃないんだ?」
「してたら此処にいないって」
楽しげに言う沖田に、は苦笑を漏らす。
彼女の仕事は暗殺なのだ。へまをすれば……まあまず彼女の命がない。だというのに何が楽しいんだか。
「なに? 私にへましてほしかった?」
「いや、まさか」
半眼で睨むと彼は頭を振った。
彼女にへまなどして欲しくないし、それ以上にへまなどしないと分かっている。自分の悪友はあんな三下にやられるような人間ではない。もし殺されたとしても絶対に認めてやらない。地獄からでも引きずり戻してやる。だって、と沖田は思う。
「を倒すのは僕だし」
楽しげに笑って言う彼には溜息を漏らした。
「私とおまえは一応味方だと思ってたんだけど――違った?」
「そういえばそうだったね。でもを倒すのは僕だ」
「私は、総司とやりあいたくないなあ」
本気になったらどれだけの被害が出るか。
は考えて、ふるりと頭を振る。悲惨な状況になることしか想像出来なかった。
「ふあ……」
小さく欠伸が聞こえた。
ちらと横を見れば、並んで歩く彼女が欠伸をしている。女性ならば普通は手で隠すだろうが、彼女はしない。ふああと眠たそうな顔で大あくびをしている。それを見て沖田は思わずと苦笑を漏らしてしまった。折角の美人が台無しだ。
「もう部屋に戻ったら?」
今日は疲れただろう、と声を掛ければ彼女は眠たそうな顔を横に振る。
確かに今すぐ部屋に戻って布団に飛び込みたいところだが、それは出来ない。まだ仕事は終わっていないのだ。大事な仕事が。
「土方さんに報告しないと」
「待たせれば良いんじゃない?」
「良くない。土方さん寝ずに待ってるに決まってるんだから」
だろうなと沖田も思う。彼はきっと起きての帰りを待っている。仕事も山積みでとても休める状況でないだろうが、もしそうでなくてもあの男なら待っているのだろう。が戻ってくるまでずっと。
「徹夜なんて慣れっこなんだし。人に夜通し走らせたんだからそれ位良いと思うけど」
むしろ、待たせて当然。 そう言わんばかりの満面の笑みに、刹那ははあと吐息の塊を吐き出した。
こんな捻くれた天邪鬼に好かれている土方には、本当に同情をする。
これが好意かと皆疑うだろうが、歴とした沖田の土方への好意なのだ。そう言えば当人は怒って否定するだろうが、端から見ればただ構ってほしいが故に悪戯をしているようにしか見えない。子供が親の興味を惹きたいのと同じだ。
ただそれがどう見ても嫌がらせにしか見えず、正直が土方の立場ならば謹んでお断りしたい好意ではある。
「とにかく、先に報告だけ行ってくる」
「そう」
きっぱりと言い切られ、沖田はひょいと肩を竦めた。
言うだけ無駄だとは分かってはいたが、やはり彼女はくそ真面目に報告に向かうらしい。
それじゃあ早く行ってきなと促そうとして、不意に、
「あれ?」
沖田が声を上げた。
険しい声音に何事かと顔を向ければ、彼の眉間には僅かな皺が寄っていた。
彼にしては珍しい。あからさまに不機嫌そうな顔。
「どうしたの、それ」
どれ、と問い返すよりも先に右頬に手が伸びる。
には見えないが、その頬には赤い一筋の線が引かれていた。
まるで、白いその肌を一直線に切り裂くように。
「誰? 誰にやられたの?」
沖田の瞳がついと冷たく細められる。
彼は静かに怒っているようだ。どうやら彼女が傷つけられたのが気に入らないらしい。
それが愛故にというのであれば美しいがそうではなく、自分のものが他人に傷つけられるのが気に入らないのだ。
もし、誰ぞにやられたと名を上げれば今すぐに飛び出して、殺してくるのだろう。無論誰にも傷つけられてもいないし、もし傷つけられたとしてもその相手は死んでいるのだろうけれど。
「きっと返り血だよ」
「本当に?」
それじゃあ確かめてみても良いんだね、と言う彼は答えも待たずに赤い線を指でなぞる。
強く。
もし傷つけられていたら痛いだろうと言う程に強く。
それは彼の捻くれた情愛の印なのか、それとも雑魚に遅れを取った自分への罰のつもりなのか。
頬に傷が残っていたらきっとこれでもかと文句を言われる事だろう。
だが、
「ね?」
の白い肌には、傷一つ残されていなかった。
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