4
井戸で汗を流して来るという沖田と別れ、は一人廊下を歩いていた。
まだ皆眠っているだろう。朝餉の支度をするにしても、随分と早い。
起こさないようにと気をつけて歩いていると、ぐおおという豪快な鼾が聞こえてきた。腹の底から響くような音だ。びりびりと触れている床板が震えているような気がする。
それは広間の方から聞こえてきた。
薄く開いたふすまの隙間から覗くと、いつもの三人が畳の上で寝転がっているのが見える。どうやら昨夜は酒盛りをしていたようである。
丸めた座布団を抱き抱えて眠る藤堂の上、大の字になって眠っている永倉が鼾を掻いていた。
「……んー、もう飲めねえ」
むにゃむにゃと寝言まで言っている。はくすりと笑ってしまった。幸せそうでなによりだ。
もう少ししたら斎藤や山崎が目を覚ますだろう。彼らに見つかれば小言の一つでも言われるのだろうが、あんなに幸せそうに眠っているのを起こすのは忍びない。
はそっとふすまを閉めると、再び廊下を歩きだした。
広間の奥には幹部それぞれに宛われた部屋が存在する。
こちらもまだ、起きている者はいないようだ。動く気配はない。
彼らもまた起こさないようにと足音を立てず、その奥にある自分の部屋を通り過ぎて、
ぴたり、
はとある部屋の前で足を止めた。
薄暗い部屋の中、ぼんやりと灯りがともっている。
「か?」
声を掛けるよりも前に、中から寝起きの声ではないしっかりとしたそれが飛んでくる。
ほらやっぱりとは内心で呟き、小さく「入ります」と告げるとふすまをそっと開いた。
部屋の中はぼんやりと控えめな蝋燭の明かりで照らされている。
その人は文机に向かっていた。
布団を敷いた形跡は、ない。
待たずに眠っていれば良かったのにと呆れて言いたくもなるが、それを言えば自惚れるなと一蹴されるのだろう。例えばそれが事実だったとしても。そう言う男だ。
「土方さん」
彼という人は。
「片付いたか?」
呼びかけに顔も上げず、眉間に皺を寄せたまま書状と睨めっこをしている男は短く問うた。
はこくりと頷く。
「浪士を含む7人。確かに息の根を止めておきました」
微塵も血腥い様子も感じさせず、彼女はさらりと言い放つ。人の命を奪ったと。
それが少し恐ろしいものであった。
「で、死体は?」
「山奥に。すぐには発見される事もないと思います」
「誰にも見られてねえな」
「ぬかりはありません」
淡々といくつかの確認を終え、やがてそうかと土方が溜息を零して目を瞑る。
ふっと溜息を吐けば漸く、彼の周りの空気が柔らかくなった気がした。
それから、疲れた顔でこちらを見ると苦笑を浮かべた。
「ご苦労だったな」
釣られても苦笑を漏らす。苦笑のまま、こんなものと頭を振って見せるのだ。
土方は一度手にしていた筆を離すと強張った筋肉を解すかのように肩と首とをぐるりと回す。いつから文机に向かっていたのかは思い出せない。多分彼女が出ていった位からだろう。
何度か首と肩とを解した所で彼女にもう一つ声を掛けた。
「もう休んで良いぞ」
待ちに待ったお許しだ。これで漸く眠れる。
というのには頷くのではなく真っ直ぐにこちらを見つめてきた。見つめる、というよりはどこか咎めるような眼差しで。
「まだ、仕事はあるんじゃないんですか?」
彼がまた筆を手にしたのがその証拠。
決まり悪そうな顔で、土方は彼女を見返した。
「おまえは察しが良すぎやしねぇか」
「それは嫌味ですか? 褒めてんですか?」
「どっちでもねえ」
「あっそ。で……仕事は?」
あるのか、と言うよりもあるんだろうと決めつけるような物言いに土方は呻く。
確かに猫の手も借りたい程忙しいが、ここ数日彼女にはあれこれと押しつけてしまっている。昨夜のように直接手を下すような役目は久しいが、それでも何日も間者として潜り込ませて昼夜を問わず情報収集に走らせているのだ。
昨日は偶々休みを貰えたが、次にいつ与えてやれるか分からない。それなのにそのいつ貰えるか分からない休みを返上して、仕事を寄越せと彼女は言うのだ。
「総司みてえに、少しは怠けてもいいんだぞ」
沖田が聞いたら気分を害するだろう言葉。
だがそれは彼女を労る言葉でもある。
分かっているからこそ、はきっぱりと言った。
「仕事です」
まっすぐに彼を見つめて。
それが自分のやるべき事なのだと言い切った。
「……」
そんな瞳を向けられては、土方が折れるしかない。
「おまえには危険な仕事をさせてばかりだ」
「私が望んだ事です」
溜息混じりの自分への責め苦も、きっぱりとはね除けられてしまった。
彼は悪いと何度も思ってくれる。彼女に汚く、危ない仕事をさせてすまないと。
でもこれはが自分で望んだ事だ。
だって、これは、
「あの人の為です」
は迷いのない瞳を土方に向けて、告げた。
子供のように純粋な瞳を前にして、また男は申し訳なく思うのだ。
東の空がいつの間にか明るくなっている。
もう、朝だ。
直に皆が起き出してくるだろう。
はその前に、と一度大きく伸びて胸一杯に朝の冷たい空気を吸いこんだ。
眠ってしまいそうな身体を内側から強引にたたき起こすように。
「さて」
吸い込んだ息を一気に吐き出し、はやるぞと自分を奮い起こす。
もう一踏ん張りだ。
土方からもぎ取った仕事をすべくは歩き出そうとした。
「」
その背に、声が掛かる。
振り返らなくても誰のものか分かっていた。
声を聞くだけで自然と目元が緩んでいく。
振り返れば、廊下の先に人影。彼もこちらを見て、笑っていた。
「近藤さん」
彼を呼ぶの声は、ひどく優しかった。他の仲間に向けるのとは違う特別優しい声だ。
惜しみない愛情が篭もった。
「こんな朝早くに、トシの部屋か?」
その笑顔を受け、にこにこと愛嬌のある笑みを浮かべて近付いてくるのは――新選組局長、近藤勇である。
彼は言ってから、しまったという顔で慌てた。自分で言葉にして、それが意味深なものだと分かったのだろう。真っ赤な顔で違うと慌て、それから彼女が彼とそういう仲であったらと考えたのだろう。複雑そうな顔で黙り込んでしまう。
はぷっと噴き出してしまった。
「大丈夫ですよ。土方さんとはそんなじゃありません」
「そ……そうだったよな」
すまん、と邪推してしまった事を恥じて彼は謝る。
気に病ませてしまいたくはないので、は自分から「仕事です」と答えた。
そうすると今度は難しい顔になってしまう。
近藤はが何をしているのか、知らない。が言わないでくれと土方に頼んだからだ。きっと話せば彼は止めるだろうし、汚い仕事をさせた事で自分を責めるのだろう。あの男と同じように。だから言わないでくれと頼んだ。
ただ色町に潜入する為に彼の口添えが必要だったので、監察方のような仕事をしているとは伝えてある。花魁として潜入する事も彼は渋ったが、こればかりは女である自分にしか出来ぬ事と納得して貰った。
納得はしたものの間者というものがどれほどに危険で、過酷かというのを知っている。録に食事も睡眠も出来ないと。
色町に潜入するのも同じかどうかは分からないが、それでも目の前の少女は青い顔をしているのは確か。きちんと休息を取れていない証拠だ。
「……大丈夫か?」
そっと無骨な手が頬に触れる。
触れると思ったよりも冷たくて、近藤はその大きな手のひらで包み込んだ。己の温もりを分け与えるように。
それはあの日と同じと同じだった。
あの日、真っ白に消えていく世界の中でが初めて知った温もりと同じ。
泣きたくなる程に優しい温もり。
は、そっと豆だらけの手を自分の両手で包んだ。
そうして一度、甘えるように頬を寄せてから、ゆっくりと離す。これ以上甘えるわけにはいかなかった。
「私は、大丈夫です」
は笑った。
優しい彼を安心させてあげたくて、とびきりの笑顔を浮かべて、
「これは……私が選んだことだから」
静かにそう告げた。
幼いがあの時選んだのは――
近藤の隣で何も知らない子供で居続けることではなかった。
彼の側にいて、ただ大事にされ、守られるだけの子供で居続ける事なんて。
例えばそれを選んだところで、は責められる事も無かっただろう。
何故なら彼女は幼かったから。子供だったから。守られても当然の弱い存在だったから。
でも、は選ばなかった。
優しいだけの時間なんて選ぶ気にはなれなかった。
だってそうしなければ、大事な物をは失うと分かっていたから。
――あれは、春の夜だ。
彼女が道場に来て、半年ほど経ったある日の事だった。
その夜、土方と近藤、そしての三人は遠くの道場に出稽古に出掛けていた。遠くまで呼びつけられた癖に大した金にはならなかった。でも、これで皆に美味しい物を振る舞ってやれると近藤はご機嫌だった。
彼があんまり嬉しそうだったので土方も、それからも、嬉しかった。だから、少し隙があったのかもしれない。
通り慣れた人気のない裏通り。ただでさえ暗い通りなのに、この日は月が出ていなかった。分厚い雲の向こうに隠されてしまっていた。
提灯の灯りが無ければ足下も見えないその通りは、避けた方が良かったのだ。
気付いた時には数名の男に取り囲まれていた。
まだ新選組として結成されていない彼らだったが、荒くれ者である彼らの敵は少なくはなかった。おまけにこの一月程まえから流行りだした病のせいで、皆飢えていた。飢えて、病んでいたのだ。
刀を持った数名の男は、武士の端くれだろう。しかしとても侍とは思えない曇った眼差しで、彼らは闇に紛れて斬り掛かってきた。
近藤らは応戦した。数では負けてはいたが、腕は劣っている連中だった。
こんな相手に負けるはずもない。
けれど、
どこにだって隙が生まれるときは生まれる。
「近藤さん!!」
暗い通りだった。本当に、目を凝らして見なければ一寸前も見えない闇の中だった。
だから物陰に人が隠れていても気付かない。気付いて飛び出して来て、漸くそこに人がいたのだと気付くくらい。
やせ細った男だった。刀なんてもう持てそうにもない、細い腕をしていた。なのに、その目には生きる事への執着で妖しく輝いていた。目の前の男を殺し、自分が生き抜こうとする生在る者の純粋な願望。
ただ些か人よりは獣に近しいのは、彼に余裕が無かったからなのだろう。
がああ、とその唇から獣じみた咆哮をあげ、男は走った。
「っ!」
斬り結んでいた近藤にはどうしたって、その刃を避ける事は出来ない。
斬られる。
土方は今でも覚えている。背筋が冷え、目の前が真っ暗になったのを。それを……絶望と言う。
彼の世界は近藤を喪い、闇に閉ざされ、落ちる。
しかし、
――ザァア――
彼者の世界は黒ではなく、赤に塗り潰された。
突然の雨だった。
前触れもなく、顔に激しく小さな粒の雨が降ってきた。
こんな時に雨なんて心底ついていない。土方がそう思って袖で顔を拭った瞬間、衣が不思議な色に染まっている事に気付いた。
雨に色などはない。
いや、そもそも雨がこんなにべとつくはずもないし、嫌な臭いがするはずもない。
そうだ、これは……雨などではない。
「……血……」
なま暖かく、ぬるついたそれは、真っ赤な血。降り注ぐのは血の雨だ。
どこからか勢いよく噴き出した血が降り注いでいるのだ。
「近藤さっ、」
青ざめてそちらを向けば彼の大きな背中が見えた。背中では分からないが、彼が血を流しているわけではないのは分かる。彼もまた、血の雨を受けて立ち尽くしていたから。
では誰が?
ぐるりと視線を辺りに向ける。
と、闇の中に小さな影を見付けた。
離れた所にぽつんと佇む影は、その飛沫の中心にいるようだった。
まさか。男の背中を冷や汗が流れ落ちる。
この血はあの少女の流したものなのかと。そう思うと一瞬世界は暗くなった気がして、次の瞬間には真っ赤に塗り潰された。
この世界を塗り潰す鮮やかな赤と同じ色に。
「てめえらっ!」
怒りに任せ、土方は斬り結んでいた相手を押しのけ、走った。
今更少女の元に走った所で何が変わるのかは分からない。それでも走った。
誰も彼を追いかけようとしないし、彼に斬り掛かろうともしない。ただ、立ち尽くしていただけ。
「!」
降り注ぐ雨の勢いが弱くなっている。もう、血を出し尽くしてしまったのだろう。後はゆっくりと終わるだけ。この世界を。
「おい、!」
小さな肩を掴み、土方はぐいとこちらを向かせる。
「――っ!?」
そうして顔を覗き込んで、彼は息を飲んだ。
分厚い雲が、ほんの僅かに途切れる。
闇に閉ざされた世界に、一筋。青白い月明かりは一条の光となって大地に降り注いだ。
それはとても幻想的な光景だった。だってまるで、彼女を照らし出すかのようだったから。
「……?」
まるで血の池にでも飛び込んだかのように、彼女は真っ赤に染め上げられていた。
髪も、着物も、それから顔も。全てが血に濡れていた。
その手にはいつの間に手にしたのか、鈍色に輝く刃を握りしめていた。
刃も血で濡れていた。きっと雨に打たれたせいだ。
その少女の横で、男が一人倒れていた。
やせ細った男だった。近藤を斬ろうとしていた男だ。
仰向けに倒れた男は、呆気に取られた表情をしていた。
きっと己の身に何が起きたのか分からなかったのだろう。
喉に大穴を空けられた事も、その自分の血が辺り一面を真っ赤に染めた事も、そのまま息絶えている事さえ気付かなかったのだろう。
そして、その風穴を空けたのがその人である事も。
緩やかに少女は振り返った。
血に濡れた髪がやけに重たげに揺れた。ぺたりと嫌な音を立てて白い頬に張り付いてくる。
そんな事どうでも良かった。
やけに着物が重たい事も、辺りがしんと静まっている事も、彼らの、自分を見る目が恐怖で歪んでいる事も、どうでも良かった。
ただ、視線をそちらに向けて相手をしかと認めると、同じようにゆっくりとした動作で右手に持っていた刃を持ち上げた。
脇差しとは言ってもその細腕には重たいであろう。それは人の命を奪うものなのだから。
でも、その切っ先はほんの少しも迷うことなく、ぴたりと止まっていた。
彼の――彼らの敵に向けて。
子供が刃を向けたところで恐ろしくもなんともないはずだ。なのに何故だろう。刃を向けられた彼らの奥歯はがちがちと鳴っている。身体も恐怖に震え、先程までの威勢はどこへ行ったのか男達は引け腰で戦意はほとんど失われていた。
刃の先がまともに相手を捉える事が出来ない。
がたがたと揺れる刃先を、硝子玉のような感情を持たない瞳がじっと見つめ、
一度静かに、閉ざされた。
そして再び開かれた瞳は、ただ美しいだけの硝子玉では無くなっていた。
ただ在るがままを捉えていた無感情な瞳が、今は強い意志を湛えてきらきらと輝いている。真っ直ぐな瞳は迷いも、恐れも知らぬようであった。強い眼差しは前だけを見据えている。前にある敵の姿をしかと捉え、は静かに小さな唇を開いた。
「この人を……」
高く透き通った声だった。
少女の声は彼らが思っていたよりもずっと高く、そして凛々しい声。
まるで鈴の音のようである。聞き入ってしまいそうな美しい、透明な音。
その美しい声で、は静かに言い放った。
「この人を傷つけるヤツは許さない――」
決然とした響きを湛えた音を刻み、少女は再び刃を振るったのだ。
はこの時、道を選んだ。
子供である事を棄て、彼の為に戦う道を。
彼は、何もない自分にたくさんのものを与えてくれた人だから。
暖かな温もりを。穏やかな時間を。大切な場所を。
が愛しいと想うものを全て、くれた人だから。
だから何があっても、この人を守ろうと思った。
例えこの手を血で汚しても、例えこの身が犠牲になろうとも。
彼を、彼らを守ろうと。
彼らを傷つける者があるならば守る盾になろう。彼らの道が閉ざされたなら切り開く剣になろう。
立ちはだかるものが在れば全て斬り捨てる。何人も、彼らの道を邪魔する者は許さない。
そう。
は決めた。
あの日幼い少女は選んだのだ。
剣を取り、彼の為に戦い抜く事を。
その手を、血で染め上げる事を。
――すべては白い世界からはじまった。
差し伸べられた暖かい手が、のすべてになったあの日から。
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