2
何も持たない自分は、
一番に『名前』をもらった。
という名前。
自分の名も、思い出も、帰る場所さえない自分に、最初に与えられたのは名前だった。
それから、次にもらったのは。
暖かな――
「てめえらは何度言ったら分かるんだ!」
屯所内に土方の声が鳴り響く。びりびりと壁まで震えるような怒鳴り声だ。
あんまりに煩いので耳を塞ぎたくなるが、そうすれば間違いなく拳骨が一発お見舞いされるだろう。それは勘弁願いたい。
でも、と二人は黙っていられずに口々に言葉を零した。
「だってさー、総司が」
「が遊んで欲しそうだったから」
「どっちもどっちだ!」
無論その言い訳とも呼べない言い訳は、更に苛立った一喝によって切り捨てられる。
ここに隊士がいたならばその一喝で気を失う者も出たかも知れない。だが先程まで人でごった返していたそこに、人の姿はない。皆、彼を恐れてそそくさと逃げ出してしまっていた。彼の怒りがこちらへと向く事を恐れて。いや、彼自身に恐れてと言う方が正しいだろうか。
鬼の副長と呼ばれる、土方その人を。
しかし、誰もが恐れる鬼を前に沖田とは萎縮した様子もなく、むしろ楽しげにへらへらと笑っていた。
「ただ稽古してただけじゃないですか」
悪びれずににこにこ笑いながら言う沖田に、低く土方は呻くように告げた。
「稽古を真剣でやる馬鹿がどこにいる?」
「はい、ここに」
「、引っかき回すな」
斬られたいのかと本気で斬り殺しそうな鋭い眼光を向けられる。
がやはり、二人は堪えた素振りはない。
彼が本気でそんな事をしないのは分かっている、というか、斬りかかられたら応戦すればいいだけと思っているし、何より――二人はもう慣れてしまっている。
そう、慣れてしまっているのだ。
手合わせしようとどちらかが持ちかけて、それが今日のように真剣での斬り合いになったのは初めてではない。
もう両手じゃ足りないほど二人は稽古と称して真剣で斬り合っていて、その度に周りに被害を及ぼしていた。白熱するあまり周りが見えなくなってしまうのだ。巻き添えで斬られはしていないものの、蹴り飛ばされたり殴られたりした隊士は何人もいる。だから最初は近づいて見ていた隊士達もそれが何度かあってから遠巻きに、戸口からそっと見守る……という方法を取るようにした。それでも、被害は出る。
人とは別に、例えば、壁、床、等々。
「毎回毎回色んな物を壊しやがって……どっから修理費が出てると思ってやがる」
「土方さんの懐から」
「阿呆抜かせ、誰がてめえらの尻ぬぐいなんぞするか」
「それじゃあ八木さんのご厚意かな?」
「てめぇらの給金からさっ引くに決まってるだろう」
「えー、横暴ですよ、土方さん」
「自業自得だ、阿呆!」
怒鳴りつければ、沖田は子供のように唇を尖らせた。それから「まあいいけど」と肩を竦めて呟く様子はまるで堪えていない。
それでは土方のこめかみにぴきっと青筋が浮かぶのは仕方のない事。手が出ないだけまだ堪えている方なのだ。
「どうどう、落ち着いて。あんまり苛々すると身体に悪いですよ。いつもの事なんですから」
「てめえが言うんじゃねえっ!!」
そんな彼に暢気にが言うものだから、とうとう我慢出来ずに怒りの鉄槌を下してしまった。拳骨という名の。
ごちん、と良い音が二つ。続いて「あた」と声が二つ。それを見て呆れた声が後ろから飛んでくるのだ。
「だぁから、やめとけって言ったのに」
原田は困ったような顔をして呟いた。
「ったく、あの二人は子供だなー」
藤堂が悪戯っぽく零した。
「あいつらは死んでも治らねぇだろうな」
永倉が豪快に笑う。
その3人の会話が聞こえたのか、土方はくるっと首だけを振り返り、
「おまえらもおまえらだ。何暢気に見てんだ、この馬鹿二人を止めろ」
些か八つ当たりではないかと思う言葉を投げつけた。
三人は揃って顔を顰めて、互いの顔を見合わせる。
「いやいや、こいつら止めるのは俺たち3人がかりでもちょっと……」
「そうだぜー、命がいくらあっても足りねぇよ!」
「俺たち巻き込まれたくねぇし」
口々に言い、それに、と土方を見て笑った。
「この二人を止められるのは土方さんだけだって」
「俺はこいつらの母親じゃねぇんだよ」
はぁ、と心底嫌そうな土方の声に、ええーと抗議の声が上がる。
「土方さんが母親なんて僕は絶対嫌だな」
「同感。こんな顰めっ面の母親はちょっと……」
叱られているという状況も忘れて論点のずれた抗議の声を上げたるのは当然、沖田とだ。
こっちだって願い下げだと睨み付け、それよりも反省しろともう一発怒鳴ってやろうとすれば、隣でそれまで静観していた斎藤が口を開いた。
「副長、時間の無駄かと」
この二人に説教するのは無駄。それが正論だ。土方は一度だけ思い切り眉を寄せて、それからはぁと溜息で脱力した。
「とにかく、次やったら本気で外に放り出すからな」
覚悟しておけと何度目かの最後通達を受け、とりあえず二人は「はーい」と返事だけをしっかりしておいた。
そこで漸く説教は終わり、それぞれが解散する。
永倉達は巡察に。斎藤も用事があるのか早々に道場を後にする。
「ったく、おまえも総司の挑発に乗るな」
も何か仕事を探してこようかとのんびりとした足取りで廊下へと向かえば、その隣にずんずんとやって来た土方に窘められた。
まだ説教は続くのだろうか。はやれやれと肩を竦めて、だってと口を開く。
「いやほら、総司が遊んでーって言うから。そりゃ友として乗ってやらないと可哀想でしょ?」
「そういう割には楽しんでたように見えたが?」
「だってほら、やるからには楽しまないと」
「やっぱり同罪じゃねえか」
少しは副長助勤としての自覚を持て、と土方は苦い顔で言った。
副長助勤――というのは、局長・副長に次いでの権限を持つ役職である。
本来であれば、沖田達と同じ一小隊の隊長となるのだが、彼女は違う。彼女は隊を持たないかわりにそれよりも重要な役割を持っていた。例えば両名が不在の時は、副長助勤であるが新選組を纏める……という役割を担うのだ。
つまり、幹部の中でも格が上。
本来表立った仕事をすることはなく、また、他の幹部とも任務上の接点がない為に忘れがちだが、事が起こった場合は総長である山南にさえも命令を下すことを許されるほど重要な役割を持っているのだとそろそろ自覚を持って貰いたいものだ。
ぴしゃりと叱られては半眼になって土方を見やった。
「副長助勤としてもっと強くならないといけないと思って稽古してんですよ。どこぞの副長さんが稽古をつけてくれないから、手近な強い人と手合わせするしかないっしょ?」
そんな文句に、
「ほぅ……」
土方はひょいと、形のいい眉を跳ね上げた。
一瞬にやりと笑うそれは色っぽくも見えたが、違う。
「それじゃあ期待通りたっぷりと扱いてやる」
まるで怪談に出てくる化け物みたいなおぞましいそれに、はいやいやと頭を振ってみせた。
「あ、すいません、生意気言いました。なのでその殺人鬼みたいな凶悪な顔でこっち見るの止めてください」
「誰が殺人鬼だ、誰が」
「土方さんに決まってるでしょ。折角の色男が台無しですよ。ほら笑顔笑顔」
「……」
「あ、総司―、あのさー」
土方が一際低い声になったのでそろそろ冗談を言ってる場合じゃないなと悟り、は逃げるように沖田の元へと駆けていった。
その背中に、
「」
もう一度名を呼ぶ。
呼び止められて振り返ると不機嫌とは違う真面目な顔で、
「後で、部屋に来い」
こちらの返答さえ聞かずに一方的に言って背中を向けてしまった。
そうして足音が静かに遠ざかっていく。
にはそれだけで、何を示しているのか分かった。
「……出掛けるの?」
廊下で待っていたらしい沖田が、とん、と壁から離れてと並んで歩き出した。
今のやりとりを見ていたのだろう。別に隠すような事でもないのではうんと頷いた。
「うん、多分」
土方の用件といえばそうだろうと答えると、妙に盛大な溜息を吐かれてしまう。沖田は不満げな様子だ。
「土方さん、人使い荒いなぁ。昨日も出てたよね」
「いや、私以上にあの人働いてるから仕方ないっしょ」
「良いんだよ。土方さんは好きで働いてるんだし」
放っておけばと言われては苦笑を浮かべるしかない。
本当に彼は沖田に好かれているものだ。当人に言えば全力であれは嫌われているんだと言われる事だろうが、これも一種の愛情表現だと知っている。じゃれあっているようなものなのだ。
じゃれ合う……自分でそう表現しては思わず噴きだした。大の男、しかも土方と沖田がじゃれ合うなんて微笑ましいどころか、ちょっと不気味だ。隣で怪訝そうに沖田が首を傾げたが、答えるわけにはいかない。曖昧にちょっとと言うとふわりと頬を撫でる柔らかな風に目を細めた。
春風に乗って、遠くから隊士達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。
じきに永倉あたりの大きな声が響いて、慌ただしい足音に変わるのだろう。
――平穏。
人が言うそれとはずっとかけ離れてはいるが、にとってはそれが当たり前の毎日。
ある意味ではこれが平穏な毎日だ。今日も、変わらない。
「ねえ、」
不意に、沖田が顔を覗き込んできた。端正な顔立ちに意地悪な笑みを浮かべて、
「また、やろうね」
彼は楽しそうに言うのだ。
昔から変わらない。
隣には悪戯をする悪友がいて、
一緒に馬鹿をやってくれる仲間がいて、呆れたように見守る仲間がいて、
そして、
口うるさい兄のような人と、
豪快に笑う……暖かな父代わりの人が、いる。
穏やかとはほど遠い毎日だが、に与えられたそんな毎日は酷く優しい時間を与えてくれる。
笑い合って、怒られて。
悪ふざけをして、怒鳴り付けられて。
だけどそれが、に与えられた暖かい場所。
そして、
それを守る為に――はここにいる。
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