気付けば吹き込む風が徐々に冷たくなっていた。
外が見えないので分からないが、恐らく陽が落ちようとしているのだろう。陽射しが無ければ冬の寒さというのは堪えるもの。すきま風が遠慮無く吹き込む廃屋では更に厳しい。暖を取るものはなにもないのだから。
「こいつはまずいな」
先程まで泣いていた百合恵が今度はがたがたと寒さで震えている。なるべく風に当たる面を少なくしようと身体が勝手に縮こまり、隅っこで蹲っていた。土方も身体がすっかり冷えてしまっていた。このまま夜を明かせば、明日には冷たくなっている事だろう。まずいぞと彼は呟きながら拉げた襖がどうにか開かないかと試してみた。
ぎ、と嫌な音がする。でもそれだけ。動かない。何かがつっかえているようだ。
「くそっ」
蹴りつけてみたが、やはり動かない。
吐き出した呼気が白かった。相当寒いという事だ。
「……私たち、ここで死ぬんですね」
なんとか脱出方法を考えようとするその後ろで、絶望的な響きの声が聞こえる。
百合恵は虚空を見つめ、その瞳からすっかり光を消してしまっていた。
ここから出られない。その絶望感もさることながら、彼女はもう一つ大事な物を失ってしまった。それが諦めに拍車を掛ける。
「気をしっかり持て。諦めるにはまだ早えだろう」
「でも、誰も助けに来ない」
生気のない声で言い、百合恵は顎を乗せた。
誰も助けに来ない。誰一人として。
きっと皆ここに自分たちがいると知らないんだ。誰にも知られず、見付けて貰えずに死ぬんだ。それは酷く寂しい死に方……でも悪くない。彼と共に死ねるのならば。
「……死ぬんですね」
ふと口元に笑みが浮かんだ。気味の悪い笑みに土方は思わず顔を顰めた。
出来る事ならば、彼女のそんな醜い顔は見たくなかった。
「死なねえよ」
くるりと背を向け、土方は言った。それにまた死ぬと百合恵は絶望した声で言うが、彼女に言ったわけではない。
「死んでたまるか」
自分自身に言い聞かせているのだ。
死なない。こんな所で。
死なない。まだ。
だって彼女と約束した。置いていかないと。彼女を一人残して逝ったりしないと。
こんな所で死んだらきっと彼女は壊れてしまう。泣いて泣いて、心が千切れてしまうほどに悲しませてしまう。そんな事させてたまるか。
どんどんと襖を叩き、或いは蹴り、身体ごとぶつかる。
その度にぎしっと嫌な音を立て、埃が舞い、その向こうでぱらぱらと何かがこぼれ落ちる音が聞こえた。
「きっと、出られる」
出るんだ。絶対に。
ここから出て、彼女を抱きしめてやるのだ。
今頃心配して走り回っているだろう彼女を、めいっぱい抱きしめて、もう心配ないと安心させてやるのだ。
だから、
「おーいっ!!」
その時不意に、声が聞こえた。
耳を澄まさなければ聞こえない程遠くだが、確かに声が聞こえた。
あれは、
「新八!?」
彼の声だ。
「土方さん! 何処ですか!?」
斎藤の声も聞こえる。
無論、彼らだけではない。彼らだけのはずがない。
「どこですか、歳三さん!」
「……」
彼女が、が、自分を捜しに来ないはずがない。何があっても、どんな事があっても、彼女だけは。
それだけで助かると確信出来る。
「くそっ!」
悴んでいた指先に力を込め、思いっきり襖を揺らす。
がたがたと音を立てて、此処にいると彼らに存在を示すように。
「ここだ!!」
そうしてだんだんと襖を叩いた。鈍い音が反響する。声が外に届いているのかは分からない。だが、土方は止めなかった。
「ここにいる!!」
襖を叩き、肩でぶつかり、ぱらぱらと埃を舞い立てながら大声を上げ続けた。
その横顔は希望に満ちている。絶対に出られるという希望にきらきらと輝いている。それが、あの女が来たからだなんて思うと百合恵は憎くて仕方がない。
「無駄です!」
さっきまで蹲るしか出来なかった身体を起こし、百合恵は彼の手を止めた。
見つかって欲しくなかった。あんな女に見付けて欲しくはない。助けられたくない。否、彼の希望が彼女だけだなんて、認めない。認めたくなんかない。だって彼女は、あんなにも簡単に彼の事を諦められるのだ。
「どうせ見付けられません!」
見付けられるわけがない。声が聞こえるわけがない。
声は遠くから聞こえたのだ。届くわけがない。
もう良いじゃないか。ここで二人朽ちてしまっても。
諦めてしまっても良いじゃないか。
助かると信じて絶望するよりも、楽な死を選んだ方がきっと幸せだ。
「見付けられっこない!」
だからもう足掻くのは止めて、彼女を信じるのは止めて、共に逝こう。最期くらい我が儘を聞いてくれても良いじゃないか。
百合恵は叫んだ。
でも、それよりも大きな声で男はこう叫んだのだ。
「あいつが、俺を見付けられないわけがねえ!!」
――ガツン
何かが派手にぶつかる音が聞こえた。
一度ではなく、二度、三度と立て続けに。
何事かと目を向ければ音が聞こえる度に拉げた襖が揺れていた。向こうで何かがぶつかってきているようだ。
一体何が、
「歳三さん!!」
襖を隔てた向こうから聞こえたのは、幻聴などではない。
他の誰でもない。
良く通る凛としたその声は、彼が一番愛しいと思うその人のもの。
「っ」
「歳三さん、中にいるんですね?」
思わず込み上げてくるものがあり、声が震えた。
それをぐっと噛みしめ、土方はああと応える。
「閉じ込められてる。中からじゃ開かねえんだ!」
そちらから開けてくれと言えば声は分かりましたと答えた。
そしてまたがたんと音が聞こえてくる。恐らく体当たりをしているのだろう。あの小さな身体で。
「馬鹿、おまえの力じゃ無理だ!」
「あんたは下がっていろ」
無茶だと土方が言うよりも先に、別の声が聞こえてきた。よく知る男たちの声だ。
「新八! 斎藤!」
「土方さん、無事ですか?」
「ああ。傷一つねえよ」
「そいつは良かった。待ってろよ、今すぐこの俺様が柱を退かしてやるからな!」
多分そこにいるのは三人だけなのだろう。だが、これほど心強い事はない。たった三人だけだけど、彼らなら必ずここから出してくれるのだから。
がたがたと派手な物音だけが聞こえてくる。どうなっているのかは分からないが、徐々に出口を塞いでいる瓦礫が退かされているのは確かなのだろう。隙間風が強く吹き付けてくるのだから。
「新八、これで最後だ」
「お、らよっ!!」
最後の一つを放り投げればがららんと遠くで何かが倒れる音が聞こえる。
「っ」
襖は、開かない。相当歪んでしまっているらしい。
「そっちから押してくれ!」
「分かった!」
永倉が応えるよりも先に、どんっと襖が強く叩かれた。
二度、三度、と強く襖が叩かれて軋み、やがて、弾け飛ぶように襖が真っ二つに折れてこちら側に倒れ込んでくる。
ぽっかりと出口に穴が空いた。外は、思ったよりも暗い。もう陽は落ちているようだ。だから出口があるのか、それとも未だその先は壁なのか、一瞬土方は分からずに立ち尽くした。
しかし次の瞬間、
「歳三さん!」
その暗い穴の向こうに柔らかな飴色を見た時、眩しいと思った。
ああ、これが光だ。希望の光というやつなのだ。お天道様よりもずっと強く、優しく、彼の先を照らし、導いてくれる光なのだと。
「歳三さん!」
その光は彼を見付けると迷わずに飛び込んでくる。出っ張った木の破片が邪魔をして、その綺麗な肌を傷つけたとしても迷わずに。
「っ」
そうして彼の腕の中に飛びついた。
受け止めて分かった。彼女の身体が震えている事に。
きっと不安で不安で堪らなかったのだろう。自分がいなくなってしまって、どれほど怖かっただろう。それでも諦めずに探し続けた。きっと見つかると信じて、あちこちをかけずり回って、そして……見付けてくれた。
「おまえなら、必ず見付けてくれると思ってた」
他の誰も見付けられなかったとしても、だけは見付けてくれる。気付いてくれる。そう信じていた。
は応えず、ただぎゅっと着物を強く掴んでくる。まるで、当たり前だとでも言うみたいだとそう思った。
「えーっと……感動の再会ってのは分かるんだけどよお」
噛みしめるようにお互いの存在を抱きしめ合う二人に、気まずそうな声が掛けられる。
振り返ればぽっかり空いたそこから永倉と斎藤が呆れたような、困ったような顔で見ていて、
「そういうのはとりあえず、外に出てからにしちゃくれねえか?」
「そ、そうでした!」
言葉には慌ててぱっと離れてしまう。甘い抱擁はそれでおしまいらしい。なんとも残念だ。
「と、とにかく外へ出ましょう」
恥ずかしさを誤魔化すように態と明るい声で腕を引っ張るは、この時漸く彼女の存在に気付く。
土方の後ろで、隠れるように立っていた彼女の存在に。
「百合恵さん」
「……」
二人の視線ががちりと絡み合う。百合恵は敵意の眼差しで、は……読めない色をしていた。
ただ彼女を見て驚かなかったのは分かっていたという証拠だろう。彼女は知っていたのだ。彼が百合恵と共にいると。
「、これは」
言い訳がましいとは分かっていても何も言わずにはいられない。
しかし彼が何かを言うのを遮り、は言った。
「早く、出ましょう」
夫の背中を押して、振り返る。
「百合恵さん。あなたも」
彼女に助けられるのは癪だった。でも、このまま此処で死ぬのも癪だ。
「分かってます」
百合恵は冷たい声で言うと強い足取りで出口へと向かうのだった。
「いやぁしかし、派手にやったもんだなぁ」
崩れた長屋を眺めながら他人事のように永倉が言う。
立てかけてあった板は全てが倒れ、長屋の二つを押し潰している。
本当に運が良かったなと目の当たりにして改めて思った。下手をすれば、潰されて死んでいた所だったのだ。
しかしどういう事なのだろう。無傷だったはずの反対側の長屋の戸口が壊れているのは。
「ひでえもんだな。ちゃんと立てかけてなかったからこういう事になるんだ」
「新八、あんたのせいでもあるだろう」
斎藤に冷たい眼差しを向けられ、うぐと彼は言葉に詰まる。
どうやら土方らを救出する際に壊してしまったらしい。
相変わらずのようである。
相変わらず、と言えば、
「本当に、大丈夫ですか?」
彼女の方もそうだ。
怪我はないと言っているのに、心配そうに何度も声を掛けてきた。
相変わらず心配性な女である。
「俺よりも、おまえの方が怪我してんだろうが」
頬に赤い筋が一つ。さっきどこかで切ったのだろう。
彼女は鬼だからすぐに傷は塞がるが、それでも傷を付けたのは許せない。よりりもよって綺麗な顔に、なんて。
「私は、良いんです」
「良くねえ」
「傷なんてすぐに消えるもん」
「それでも良くねえって前に言っただろうが。俺のもんに勝手に、」
「うわぁあああ! 分かりました! 分かったからもうそれ以上は言わないで!」
大声で遮る妻は顔を真っ赤にしてあたふたとしている。が土方のもの、というのは周知の事実だ。恥ずかしがる事もないだろう。それでも赤面して恥ずかしそうに「お願いします」なんて言う彼女が可愛くて、思わずだらしなく目尻が下がる。鬼副長と恐れられた男も、惚れた女にはとことんまで甘いようだ。
「ったく、相変わらず仲が良いようで何よりだなあ……っと」
「新八。邪魔をしてやるな」
不満げに呟く永倉の横で、斎藤が苦笑で諫める。
きっと二人の存在などすっかり忘れているのだろう。仲が良いのは良い事だが、見せつけるのは止めて欲しいものだ。
「まあ喧嘩してるよか良いんだけどな」
「ああ」
斎藤は頷き、だが、と視線を彼女へと向ける。
「……」
じっと二人を見つめているもう一人の存在。百合恵へと。
彼女は睨み付けるように二人を見つめている。
二人を、いや、をだ。
静かな怒りを湛えた瞳でじっと見つめ、やがて意を決したように唇を噛みしめ、彼女はすたすたと歩き出した。
「あ、おい、百合恵さん」
待ったと永倉が引き留めようとしたが止まらない。
ずかずかと二人の傍まで近付いて、
「さん」
土方ではなく、彼女を呼んだ。
振り向いたをまた真っ直ぐに強い眼差しで睨み付け、百合恵はこう告げる。
「私は、土方さんが好きです」
唐突な告白に一同がぎょっとしたのは当然の事だ。また修羅場が始まるのだろうかとひやりとする。
だが、は動じない。驚きもしなかった。
ただ百合恵の真意を探るようにじっと見つめていた。
その気持ちがどれほどのものかを見極めるように。
「土方さんが、好きです」
「……」
「あなたに負けないくらいに、彼の事を愛しています」
彼女は続けた。
彼が心底好きだと、愛していると。この気持ちは本物だと。
「彼の事を、本気で愛しています」
まるで自分の気持ちの方が彼女に勝っているとでも言いたげに。
きっぱりと言い切り、百合恵は文句があるかとを睨み付ける。
は真っ向からその瞳を受け止め、やがて静かに言い放った。
「私も、彼が好きです」
ただそれだけを告げた。
自分こそが勝っているとか、彼に愛されているのは自分だとか、そんな事は言わない。ただ、自分の正直な想いを、何も飾らずに言葉にした。
それだけなのに何故か――負けた気持ちになる。
彼女には何も敵わない気持ちになる。
この想いは負けるはずがないのに。本当に好きなのに。なのに何故か、には到底及ばない。いや、この自分の純粋な想いでさえ、何故か不浄のものに思えた。
それはきっと、の瞳があまりに澄んでいたから。
あの、男のように。
それが癪で、
「っ!」
気付けばその手で綺麗な頬を叩いていた。
パシン、と乾いた音が乾いた空気に響く。
あ、と誰かが声を上げた。誰が上げたのかは分からない。恐らく上げた当人でさえ。
ただ驚いてしまって、まじまじと二人を見つめてしまった。
「どう、して」
百合恵は声を震わせた。
込み上げる怒りを、悲しみを、苦しみを、必死に押し留めるが為に声と身体を震わせ、を睨み付けながら言葉を紡いだ。
「ならばどうして、あの時身を引いたのですか」
それほどに好きなら、愛しているのならば、何故、身を引こうとしたのか。
「何故あの時、彼の元を離れようとしたのですか」
それほどに好きなのに、何故、離れようとしたのか。
結局出来なかった癖に。出来るはずもない癖に。
好きで好きで堪らなくて、離れたくなかったくせに、何故――
「何故、諦めようとしたのですか!」
まるで悲鳴のような声を上げて、百合恵は気付いた。
そうだ、それが許せなかったのだ。
彼女はたった一時でも、彼の事を諦めた。諦めようとした。彼を想う事を諦めたのだ。でも、自分は違う。彼をずっと想い続けた。離れていたこの半年の間も彼を想っていた。一途に。それでも彼が選んだのは百合恵ではない。だ。それが、許せなかった。
ほんの一瞬でも諦めた癖に。それなのに彼に選ばれた彼女が許せなかった。
どうしても許せなかった。
それは本当に百合恵が土方を愛しているが故に、感じた素直な気持ちだったのだろう。
そして――
「私は、一度は諦めた」
は静かに認めた。
彼をほんの一瞬でも諦めてしまったと。
認めた。彼への想いを一瞬、止めてしまったと。
「彼を……苦しめたくなかったから」
そしての想いもまた、土方を愛するが故のもの。
愛する人に幸せになって貰いたいから。だから、身を引いた。この気持ちを止めてしまえば自分が狂ってしまうと分かっていても。壊れてしまうと分かっていても。それが彼の為となるのならばは厭わない。自分などどうでも良いのだ。彼さえ、幸せなら。
でも、とは言った。
「もう、そんな事しない」
きっぱりとした口調で。決然とした眼差しを向けて。
「私は歳三さんを――諦めたりしない」
二度とこの手を離さない。誰にだって譲るものか。
例え鬼と言われようと、それが罪になるとしても、は二度と彼を離さないと決めた。
ずっと愛し続けると。
「だから、」
は静かに頭を下げた。
土方がしたのと同じように。
彼が彼女の為に頭を下げたのと同じように。
「歳三さんを、奪わないでください」
はそう言った。
自分から奪っていかないでくれと、自分なんぞに頭を下げて願った。
只管、頭を下げ続けた。
何という愚かな女だ。百合恵は言葉も出なかった。こんな愚かな女は見た事がない。
奪うも奪わないも、彼女にはどうしようもないというのに。
「……」
黙って見守っていたその人が、やがて静かにその大きな手で華奢な肩を引き寄せた。抱くようにと言うよりは守るように。その腕に抱きしめ、百合恵を見る。
その目には今自分は映っていても、本当には映っていない。彼が見ているのはただ一人。だけ。
奪いたくても奪えるわけがないのだ。彼が選んだのはの方なのだから。
馬鹿にしていると百合恵は憤慨した。この女はとことんまで自分を馬鹿にしているのだと。
でも、
百合恵は静かに瞳を閉じた。
「……」
そして開くと同時に踵をすっと返す。
栗色の瞳には既に彼の姿は映っていない。
「百合恵、さん?」
後ろで間抜けな声が聞こえたが、聞こえない振りをした。
だってもう、あの馬鹿には何をしても勝てそうにないと分かったから。
どんな言葉も、想いも、彼女には敵わない。それが嫌と言う程に分かった。そしてどんな言葉も想いも、彼に伝わらない。
だからもう……良いのだ。
きっととうの昔からこうなると分かっていた。彼と出会ってしまった頃から。
でも認めたくなかった。認めるのが怖かった。それだけ。だから、もう。
「おい、」
家に戻るまで、何となく気まずくて無言のままだった。
は何も言わないし、何も聞かない。でも、何か言いたい事があるのは確かだろう。だって自分は百合恵に会いに行っていたのだから。彼女に黙って。
でも何も言わないのは信じているから。土方を。
それに甘えて何も言わないわけにはいかない。彼には説明する義務がある。それにこの着物の事を謝らなくてはならないのだ。
家に戻ると風呂を入れてくると言って彼女はすっ飛んでいった。身体が随分と冷えていたからだろう。
そんな事よりも話がしたいのだが止める間もなく彼女は行ってしまった。
仕方ないので風呂場まで追いかけて、声を掛ける。
「、話を、」
言い掛ければ遮るようにが言った。
「歳三さん、早く着物脱いじゃってください」
「いや、そんな事より話を、だな」
「話は後です」
さあ早くと言いながら彼女は人の帯に手を掛けてきた。彼女にしては大胆な行動だ。それがいつもならば大胆だなとからかってやるのに、おい、なんて声を上げて狼狽えてしまうのは、後ろ暗い事があるからだ。
「待てって、。俺は話があるんだよ」
「それはお風呂に入った後に聞きます」
「だから、風呂の前に、」
「お風呂が先」
その手を慌てて掴んで制止を訴えても振り解かれた。
土方は面くらいながら、もしかしてと思う。
「おまえ、怒ってんのか?」
彼女は怒っているのだろうか。自分が彼女と一緒にいた事。
黙って彼女に会いに行った事に腹を立てているのだろうか。
まあ確かに彼女が腹を立てる気持ちは分かる。だからそれの説明をさせて欲しいのだ。
「、俺があそこにいたのは、」
決して疚しい気持ちがあるわけじゃないのだ。ただ、彼女に止めてくれと言いに行っただけ。
を苦しめるのは止めてくれと言いたかっただけ。を守りたかっただけ。
そう口にして、彼女を落ち着かせようと、抱きしめてやろうと手を伸ばした時だった。
ふわりとその瞬間、彼の着物から香ったのはの知らない甘いにおい。
彼のものでものものでもない香りが彼から漂った。
あの人の、においが、彼から、
瞬間、
「あの人のにおいなんて今すぐ落としてっ!!」
「っ――!?」
鋭い声がの口から迸った。
到底彼女の口から発せられたとは思えない尖った声。その瞬間に向けられた瞳は、激しい怒りに塗り潰されている。
琥珀のそれは、まるで羅刹のそれのように赤かった。いや、実際は深い琥珀のそれなのだが土方には赤く見えた。激しく燃えさかる炎の赤に。それで睨め付けるように土方を見ている。彼に激しい怒りを向けているのだ。
土方は驚きのあまり声も出せなかった。
ただ、別人のような妻の姿をまじまじと凝視する事しか出来ない。
「ぁっ」
困惑した眼差しにはっと、は我に返る。途端、怒りで燃えさかっていた炎が揺らめき、水でもぶちまけられたかのように小さく今にも消えそうになっていく。
だが完全には消えない。小さくなってもその奥で燻っている。何かの弾みで火が点けばまた激しく燃え上がるのだ。また、今し方自分がしたように、彼にその怒りをぶつけるのだろう。
「ご、ごめんなさいっ」
はひどく怯えたような声で謝って、駆けだした。そのまま男の横を通り過ぎて、飛び出してしまおうとする。
「!」
「い、いやっ!」
その手を掴んで引き留めると、が悲鳴を上げた。
いやだと。声を上げて暴れて逃げ出そうとする。
「、落ち着け」
「いや、離してっ!」
「!!」
「っ!?」
怒鳴りつけるみたいな強さに一瞬の身体が竦む。
と同時に骨でも折れてしまいそうな強さで抱きしめ、絶対に離さないと示すように腕を彼女の身体に巻き付けた。
その強さに一瞬息が止まり、再び唇から塊を吐き出した時にはもうどうしたって逃げられない程、きつく抱きしめられていた。
「」
耳元で夫の声が聞こえる。全ての罪を受け入れ、許すかのような優しい声には顔をくしゃりと歪め、俯いた。
「悪い、乱暴にしちまったな」
そんな妻を見て、夫は謝りながら腕の拘束を緩めてくれる。
抱きしめるというよりはその腕で守るような、そんな優しさと力強さに更には自分の不甲斐なさを呪わずにはいられない。
「やめて」
「?」
妻はか細く声を漏らした。
「優しく、しないで」
そんな風に、彼に優しくされる資格など自分にはないのだから。
自分勝手な感情を彼にぶつけたのだ。醜くて浅ましい感情を、一方的に。
そんな自分が嫌で嫌で堪らないのに、優しくされたら辛い。
出来れば今すぐにでも彼に詰って欲しい位だ。もしくは、自分で自分を叩いてやりたい。
それなのに、夫ときたらくつくつと喉を震わせて笑ったかと思えば髪に優しく口付けなんぞをしながらこう言うのである。
「惚れた女に優しくして、何が悪いってんだよ」
「っ」
だからそうやって甘やかすなと言うのだ。
は夫を振り返って言ってやろうと思ったのだけど、それよりも早く開いた唇を塞がれてしまって出来なくなってしまう。
「んっ」
言い返すどころかこんなに優しく啄まれたら、どうでも良くなってしまうというもの。
と優しく名前を呼ばれて口付けられたら、もっとと甘えてしまいたくなるというもの。
だからつい唇を離された瞬間に、不満げな眼差しを向けてしまった。ついさっき、彼の前から消えて無くなりたいと思っていたのに。
そんな妻の額に優しく口付けを落とし、その口付け以上に優しい眼差しで顔を覗き込む。
「嫉妬してくれたんだろう?」
彼にそう言われて、言葉に詰まってしまった。
そうだ。確かにその通り。
は嫉妬した。否、嫉妬したというよりは独占したいと思ってしまったのだ。
彼を自分だけのものにしてやりたいなんて、身勝手な事を。
彼が好きだ。愛している。だからこそ彼には幸せになってもらいたい。そう思う一方で彼を縛り付けたい、彼の全てを独占したい。誰の目からも隠して、閉じ込めて、他の何も見えないように、感じないように、彼の自由を全て奪って、自分だけのものに――そう思ってしまった。願ってしまった。
なんて醜いのだろうとは今更のように思う。
彼が他の女に触れるのも、彼が他の女と話すのも、その名を呼ぶのも、見つめるのも、嫌だ。嫌だなんて言う資格はない。それは彼の自由だから。でも、嫌だ。どうしようもないくらいに辛いのだ。
止めて欲しいと願うばかりか、させまいとまで考える自分の恐ろしさに、吐き気がする。
こんな醜い気持ちが自分の中にあっただなんて知りたくなかった。知られたくなかった。
彼を自分だけのものになんて、傲慢で、自分勝手で……きっと、彼に嫌われてしまうに違いないのに。
それなのに、
「嫉妬、してくれたんだな」
なんて嬉しそうに笑って言う彼は何なのだろう?
ここは普通呆れたりする場所のはずなのに、何故彼はにこにこと笑っているのだろう?
は不思議でならなかった。
「……怒らないんですか?」
「なんで怒る必要があるんだよ」
「だって、独り占めしたいなんてそんなの」
身勝手だと怒る所じゃないのかと問えば、今度は何故か声を上げて笑われてしまった。
どうしてそんな風に思うのかと土方の方が不思議でならない。だが笑いながら、そういえばという女はこういう女だったと今更のように思い出した。どうしようもないくらいに可愛い女だったと。
そんな事を本気で言ってしまう程に、可愛い女だったと。
「そいつは、俺を独り占めしてえくらいに好きで堪らないって事だろう?」
傲慢な、恥ずかしい台詞をさらりと口にされては驚いたように目を見張り、すぐに恥ずかしそうに視線を落としてしまう。確かに彼の事は好きで好きで堪らないが、そんな綺麗な言葉で済まされらるものじゃない。
違いますと思わず反論すれば、夫はにやにやと今度は意地の悪い笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
「違わねえよ。俺が好きって事だ」
「わ、私は、あなたを閉じ込めたいだなんて酷い事を、」
「だからそうしてやりたいくらい、俺が好きだって事だろ」
「ち、ちがいます」
「そうなんだよ」
認めろ、と些か強引に言って抱きすくめる腕の力を強くする。強い力と優しい声に、はもうそれ以上を言えない。到底納得出来ない事だけど、彼が認めろと言うのならばそうするしかないのだ。そんな風に、嬉しそうに笑いながら言うのだから。
「それにしても……おまえでも嫉妬なんてするんだな?」
心底意外そうな声に妻は些か不満げに唇を尖らせる。
「しますよ。誰かさんは大層女の子に人気があるから」
「でも、今まで一度もそんな素振り見せなかったじゃねえか」
「それは、その……今までは、仕方ない事だって思ってたから。歳三さんは私だけの物じゃないし」
「でも、今は自分のものだと思ってくれてんだな?」
「……」
は黙った。図星のようだ。
それが嬉しくて堪らなくて、思わず頬が緩む。さぞだらしのない顔をしているのだろう。でも構わなかった。最愛の人にそう思われて嬉しくない男などいるわけもないのだ。
だからこそ、嬉しいからこそ、土方には彼女に話をする義務があった。
「黙ってあいつの所に行ったのは悪かった」
あいつと言った瞬間に妻の肩がぴくんと震える。
「でも、疚しい気持ちは何もねえ」
それをあやすように身体をさすってやり、顔を後ろから覗き込みながら穏やかな声音で続けた。
「ただおまえに嫌がらせをするのは止めてくれって言いたかっただけなんだが、おまえは俺があいつと会うなんて言ったら嫌な気持ちになるだろう?」
「……」
は答えず、しかし静かにこくりと頷いた。はっきりと言葉で拒絶を示す事は出来ないが、それでもやはり嫌なのだと彼女は気持ちを教えてくれる。百合恵がどうこうというのではない。彼が、彼を好いている女と一緒にいるのが嫌で堪らないのだ。
愛しさが込み上げてきた。こんなにも自分を想ってくれる妻に、言葉に出来ない想いが込み上げてくる。
「だから、黙ってカタをつけようとしたんだよ」
彼女が知らない内に、全てを終わらせてしまおうとした。
それに、を不安にさせない以上に……惨めな気持ちになると思ったのだ。自分が町の皆から盗人だと疑われ、白い目を向けられ冷たくされているなんて事が自分に知られるのは。きっと惨めで、辛いと思うのだ。が黙っていたのは確信が持てなかったからであり、土方に心配を掛けたくなかったからであり、同時に、そんな惨めな自分を見られたくなかったからではないか。
「悪かったな。不安にさせちまって」
彼女を想って自分は行動した。が、結果的にを不安にさせてしまった。
百合恵とは何でもない。でも、がここまで取り乱してしまう程、不安にさせてしまったのは事実だ。
悪かったと謝ると、腕の中でふるふると飴色が揺れた。
「歳三さんは、悪くない」
「、」
「私、歳三さんを信じてるもん」
きっと自分を傷つける事なんて何もしないと。二度と傷つけないと言った彼が、約束を違えるはずがない。きっと彼は死ぬまで一生、その約束を守ってくれるに違いない。そう信じているし、そうだと分かっている。
それでもね、とは甘えたような声で言って男の手を振り解くとこちらを振り返った。
琥珀の色には拗ねた色を浮かべている。聞き分けの良いはずの妻でもそんな顔をするのかと、驚いてしまった。
妻は、唇を尖らせて言った。
「私以外の人があなたの時間を独占するのは、許せないの」
なんとも可愛らしい我が儘に思わず面食らった夫は、すぐに困ったような、心底幸せそうな顔で笑った。
「やっぱり俺は、しあわせもんだな」
こんなにも、惚れた女に愛されているのだから。
「だから、俺一人で良いって言ってんだろ」
「そういうわけにはいきません!」
呆れ顔で振り返る夫に、は唇を尖らせてぱたぱたと駆けてくる。
今日も二人で町へと降りてきていた。
とは言っても、本当ならば土方一人で町に行くつもりだった。
百合恵の流した噂のせいで、が手癖の悪い盗人と誤解されているのだ。無論、妻は無実だ。出来るならばその噂は偽りであると片っ端から訂正をしてやりたいところだが、一度広まってしまった噂というのはなかなか消すことができない。
だから出来るならには留守を……と思ったのだが、彼女は土方一人に働かせられないとでも言いたげに後ろをくっついてきたのだ。
人に白い目で見られるよりも、夫に無理をさせたくないというのだ。全く健気な妻である。
「しかし、毎度毎度町に降りてくってのも面倒だな」
特に冬場となると、と土方は独りごちる。
まだ雪が積もっていない今日なんかは良いが、雪が降ってしまうと家の外に出るのもままならない。
彼らが住んでいるのは山の奥深くなのだから。
かといって、冬場は熊のように冬眠するというわけにもいかず、食べ物がなければ買い物に町に降りなければならない。
「いっそ、畑でも作るか」
「畑……って、誰が作るんですか?」
「誰って、俺に決まってんだろ」
彼の言葉には目をまん丸くしている。
それから畑を耕している夫の姿を想像して――彼女は吹き出した。
かつて鬼の副長と恐れられていた彼が、畑仕事、というのはあまりにおかしな気がしたのだ。
「笑うことはねえだろうが」
「だ、だって……歳三さんが鍬とか持ってるところ想像したら、おかしくて」
「俺だって畑の一つや二つ、耕せんだよ」
「わかってるけど、でもっ」
似合わない――と言われるのは良い事なのか、悪い事なのか。
やれやれと溜め息を吐きつつ歩みを進めれば、賑わう通りが見えてくる。
その時、の笑いが不自然に止まった。
振り返ると、妻は困惑気味にこちらを見詰めている。
ここまでついてきたものの、やはり夫に疑いの目で見られる所を見られたくはないようだ。そんなみっともない所を、大好きな男に見られて嬉しい女などいるわけがない。
「……、やっぱりここで待ってるか?」
優しい声音で問えば、は哀しそうな表情になり、申し訳なさそうに俯いた。
やはり、ここは彼に任せて待っていた方が良い。
でなければ彼も、同じく白い目で見られてしまう。
「……」
彼にばかり負担を掛けたくはないけれど、そうした方が良いような気がして、は一つこくりと頷いて、それじゃあと口を開いた。
その時――
「おーい!」
彼女の言葉を遮り、大きな声が飛んでくる。
二人がそちらを見れば、頭に鉢巻きを巻いた男が手を振りながらこちらへと駆けてくるのが見えた。
「喜平さん?」
喜平と言うのは、が良く買い物をしていた八百屋の親父である。
一人町に買い物に来るに、あれこれとおまけをしてくれていたのだが、彼もまた、噂が広まって以来、声をかけるどころか顔を合わせてもくれなかったのだが……
彼はばたばたと駆けてくると、の前で突然手を合わせるのだ。
「嬢ちゃん、すまねえ!」
「……え?」
突然の謝罪の言葉に、は目を瞬かせた。一体何故、謝られるのか分からなかった。
「ここ数日、あんたにひでえ態度を取っちまっただろう?」
喜平は申し訳なさそうに顔を歪めて言う。
「その……嬢ちゃんが、盗人とかなんとかって……変な噂が広まっててよ」
「……それは」
はちらりと夫へと視線を向けた。
例えば彼が知っているとは言え、聞かれたくない話だった。
無論、夫もそんな事を言われて黙っていられるわけもなく、それは無実だと口を開こうとしたが、
「それはとんでもねえ出任せだって、市橋のお嬢さんが俺たちの所に言いに来てくれたんだよ」
「――!?」
その言葉に二人して顔を見合わせた。
ここいらで『市橋』と言えば、あの家しかない。
つまりそこのお嬢さんと言えば……
「百合恵さん、が?」
ああ、と喜平は頷く。
「根も葉もない噂だ。それはただおまえさんを妬んだ子供の嫌がらせだって。だから、これ以上噂になんて振り回されるなって。ちゃんと自分の目でみた物を信じてくれって」
そこまで言ってから、彼は決まり悪そうに首の後ろを掻いた。
「いや、自分よりも一回りも下のお嬢さんに言われて、目が覚めたよ。俺たちゃとんでもねえ恥ずかしいことをしてたんだって、な」
噂に振り回され、目の前にあるものが見えていなかった。
彼らとて知っていたのだ。という女が、そんな真似をするはずがないと。
「……すまなかったな」
呆然とするに喜平はもう一度言い、すぐにその表情を明るくした。
「その詫び、じゃないけど、寄ってってくれよ。良いのが入ってんだ。安くするぜ」
いつものように人の良い笑顔を浮かべ、彼女の腕を引っ張っていく。
「あ、え、ちょっと!?」
見れば立ち並ぶ店先に、同じように皆が出てきていた。
その誰もが笑顔を浮かべて、を見ている。
もう冷たい視線などではない。彼女を盗人と蔑むそれではない。
いつもの、暖かい笑顔だ。
「……っ」
それを見て、は夫を振り返る。
と、彼もまた優しく暖かな表情を浮かべていた。
そうしてこくりと一つ頷いてくれた。
「……やっぱり、おまえは大した女だよ」
暖かく迎えられる妻を見ながら、ぽつりと土方は呟く、その後を静かに追いかけるのであった。
勿忘草の名残
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