※こちらはオフ本『勿忘草』の続きとなっております。単品でも読める作品となっております。



 庭先の桜が満開だったのは、もう半年以上も前の事。はらはらと一枚一枚地面に寂しげに落ちては茶色く変色し、やがて朽ちていくそれを見て、妻が寂しそうにしていたのを夫は覚えている。だから葉桜になったばかりだというのに、早く来年にならないだろうかと気の早い事を考えたものだ。
 桜の時期には毎日のように縁側で花を見上げていたというのに、今ではすっかり見向きもしない。それが不満なのか、それともただ構って欲しいのか、風に吹かれて枝が揺れれば枯葉がかさかさとなんとも寂しげにさざめいた。
 その音で、男ははっと我に返る。
 随分と集中していたらしい。気付けばふすまの隙間から差し込む光が橙色に変わっていた。まだ明るいと思っていたのにもう夕方である。あまりに静かだったせいで時間が流れている感覚がなかったらしい、机に向かってからゆうに二刻以上も過ぎていた。
「っつ」
 そんな事を考えていると今更のように身体がずんと重たくなり、目が痛くなってくるのだから現金なものである。
 目元を一つ押さえ、次いで固まってしまった肩と首の筋肉を解すように大きく伸びをする。と、さらりと背後で音を立てて何かが落ちた。振り返ればそれは彼の羽織であった。いつの間にそんな物を引っ張り出してきたのだろうかと思ったが、それは自分ではない。彼女だ。
 これまたいつの間にと驚きながら、彼女が入室した事にも気付かなかった自分に少々気恥ずかしさを覚え、男は緩慢な動きで立ち上がった。
「おい、
 軋む廊下を歩き、向かうは勝手場である。夕餉の時刻ともなれば妻はそこで忙しくしているだろう。と思ったのだが、
?」
 彼女はそこにいなかった。
 おや、当たりが外れたらしい。ではどこにと広間の方へと向かったが、そこにもいない。庭の方にも人の気配はなかった。いないと思うが念のため寝室も覗くがこれも空振りだ。
 もしやと思い踵を返したその瞬間、カララと玄関先から控えめな引き戸の音が聞こえてきた。
 ただいまと小さく聞こえた帰宅を告げる声に、やっぱりと顰め面になって土方は声のした方へと大股で急ぐ。
「あ、ただいま戻りました」
 玄関先へと向かえば、丁度草履を脱いだ所らしいがこちらに気付いて声を掛けてくる。にこりと笑顔を浮かべている彼女には悪びれた様子はない。何故か無性に腹が立った。
「何処に行ってたんだ?」
 ついと低く不機嫌そうになる声。ついでに眉根に皺を寄せ、睨み付けるように双眸を細めれば、がきょとんと目を丸くする。彼が不機嫌なのが意外なようであった。
「え、と、買い物に」
「そんなもん、見りゃわかる」
 彼女の両手には満載の荷物があるのだ。町に買い物に出た事くらい馬鹿でも分かる。土方は更に不機嫌そうに眉を寄せながら問うた。
「なんで、一人で行ったか俺は聞いてんだ」
 いや、そんな質問はしていないだろう。
 思わず心の中でだけは答える。口にしなかったのは決して彼が悪意から言っているのではないと分かっているから。
「あまりに集中していたみたいだから、邪魔しない方が良いかなと思って」
「……」
「ごめんなさい」
 更に眇められる紫紺の奥に自分を案じてくれる彼の気持ちを見付ければ、その言葉しか出てこない。
 心配掛けてごめんなさいと謝ると一度だけ彼の表情は更に険しくなったが、それはすぐに解けた。素直に謝られてこれ以上責め立てる事は無意味だ。謝るくらいならばするなと思うけれどももう過ぎてしまった事なのである。何より、彼女は無事だったのだから。
「ったく。次からは俺に声を掛けろ」
 苦笑でそれだけを言いながらひょいと妻の手から重たい荷物を奪う。二つとも奪われて妻は慌てて自分も持つと言ったが、聞いてやらない。それよりも前にその冷えた身体を湯で温めてこいと言いたくもなる。
「……それにしても、随分と遅かったじゃねえか」
 火が落ちているせいで勝手場は随分とひんやりしている。台の上に荷物を適当に下ろすと、は礼を言っててきぱきと動き始めた。大急ぎで準備に取りかからなければ、いつもの夕餉の時間には間に合わないだろう。土方も手伝うと袖を纏めれば、は一瞬罰が悪そうな顔をしたが拒まなかった。彼の手を煩わせる事よりも、彼を待たせる方が悪いと思ったのだろう。どちらも悪いと思う必要などないのだけれど。
「あ、はい。ちょっと手間取っちゃって」
「手間取った?」
 鸚鵡返しに訊ねる声が低くなったのは、その言葉に別の意味が隠されているのではないかと勘ぐったからだ。
 という女は人目を惹く容姿をしている。容姿が良いと言うのもそうだがそれだけではなく彼女は独特な雰囲気を持っていて、それが人の目を集めるのだ。多分、魂の美しさというものが姿に現れるのだろう。それが故に男からは言い寄られ、女からはやっかみを買いと揉めは尽きない。一人で町に降りれば、必ずと言って良い程厄介事に巻き込まれるのだ。
 もしやと低く呟けば彼女は慌てた。そうじゃないと頭を振りながら口を開く。
「欲しかった野菜がお店になくて、探すのに時間が掛かっただけですって」
「……なるほど」
 そう言う事か。土方はほっと溜息を漏らした。揉め事が起きたわけではなくて良かった。だがしかし、探すのに時間が掛かる程市が品薄というのは困った状況である。
「そろそろ雪も降り始める頃だしな」
 市に食料が並びにくいのは頷ける。蝦夷は京や江戸と違って雪深い所なのだ。一度雪が降れば道は相当積もる。雪が積もれば道は塞がれるし、漁にも出掛けられない。そうなれば食料調達するのも一苦労というやつである。
「……でも、前に今年は蓄えがあるとか言ってた気がするんだが」
 そんな事を呟きながら前に馴染みの店の主が言っていたのを思い出した。豊作だからとあの時は色々野菜をおまけしてもらった位だというのにと、土方には引っ掛かる。
「もしかしたら、蔵でも襲われたんじゃないですか?」
 は手早く野菜を洗いながらほら、前にもあったじゃないですかと言う。
 そういえば前に蔵を襲撃した不届き物がいたとかいう話を聞いた事がある。あれは確か警備隊と言われている役人の仕業だった。政府に遣えているとかなんとか言っていたが、結局は碌でもない連中だった。好き勝手やった挙げ句、金に困って蔵を襲撃とは良いご身分である。
 そうだ。確かあの男も同じ警備隊とか言っていたな。なんだっただろう。思い出そうとしたが、記憶の彼方に消えてしまっている。
「それが本当だとしたら、斎藤の奴も大変だな」
「ですね」
 はくすくすと笑った。
 蔵を襲撃した警備隊とは別に会津から派遣された警官隊である斎藤は、今頃犯人探しに追われている事だろう。生真面目な男故どんな些細な事件でも徹底的に調査し、犯人を挙げてくれるだろう。
 洗い終えた野菜を籠に乗せ、は戻ってくる。その籠の上にある野菜はどれも歪な形をしていた。どうやら売れ残りしか変えなかったらしい。土方は苦笑した。
「まあとりあえずは、俺たちが飢え死にする前に斎藤には犯人を捕らえてもらわねえと……だな」
 悪戯っぽい口調で言えばはくすくすと笑った。そうですねと楽しそうに笑い、それが止むと何故か一つ、溜息を零す。
?」
 どこか疲れたような溜息だった。いや、溜息だけではなくその横顔も疲れて見える。
「大丈夫か?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫です」
 声を掛けると返ってくるのはお決まりの返事だ。平気と明るい声で言うけれどそれはどうしても無理矢理に見えた。いや、見えたのではなく実際に無理に笑ったのだろう。
 未だに彼女はそういう所がある。辛いのに平気だと嘘を吐く事が。それは男を心配させまいとしているのだろうけれど、それが逆に男には不満で堪らない。思わず夫の眉間に深い皺が刻まれる程。

 低く呻くような声で彼が怒っているのだと分かる。の瞳が左右に揺れ、やがてごめんなさいという言葉と共に申し訳なさそうに伏せられる。そんな顔をされたら、怒れない。土方ははぁっと溜息を漏らし、濡れた手をごし着物で拭うとそのまま伸ばして妻を引き寄せた。
「隠すなって言っただろうが」
 腕の中に閉じ込め、咎める行為とは裏腹に優しく背を撫でる。
「もう、遠慮はするなと言っただろう」
 二人の間に遠慮はしない。隠し事はしない。思ったままに思った事を互いにうち明けよう。そう、二人で決めた。
 もしそれで喧嘩になってしまったとしても、相手を傷つけてしまったとしても、あるがままを受け入れようとお互いに誓ったのだ。
 だって、二人は夫婦なのだから。
 たった一人の家族なのだから。
 だからもう遠慮はしないと、そう、決めたのだ。
「忘れちまったのか?」
 訊ねれば、がふるふると腕の中で頭を振った。
 忘れるわけがない。彼にそう言ってもらえた事がすごく嬉しくて、泣いてしまうくらいに嬉しくて堪らなかったのに忘れられるわけがない。昨日の事のように鮮明に覚えている。そう口にした彼の表情も、仕草も、声も、全部全部。
「ちゃんと覚えてる」
 大事な記憶をそっと胸の奥に仕舞い込みながら、はそっとその手を夫の背へと回す。おずおずと回せばもっとしがみつけとばかりに背中を抱きしめられ、一瞬だけ躊躇するように離れた指はやがてしっかりと着物を握りしめてくる。そうして胸にすりと顔を擦り寄せ、甘えてくる。愛おしくてつい、夫の目元が緩んだ。
「でも、私……甘やかされすぎじゃないでしょうか?」
 それで良いと背を撫でる手が優しい。優しく触れられるのは嬉しいけど、どうにも申し訳なくてついそう零してしまうと夫は苦笑を漏らした。
「おまえが甘やかされすぎってんなら……俺なんてどうなるんだよ?」
 もはや比ではない。男の方がずっとずっと彼女に甘やかされている。自分の方が年上だというのに年下の彼女に甘えてばかりというのはなんとも情けない話だが、何故かという女には甘えたくなるのだ。年上だとか男だとか、そういうものを全て忘れて甘えてしまいたくなる。彼女にすっかり心を許してしまっている所があるのだろう。夫婦なのだから当然と言われればそうかもしれないが、自分ばかり甘えているというのも癪というのが本音だ。彼女にもっと甘えて欲しい。
「でも、私、もっと歳三さんに甘えて欲しい」
「……」
 そんな可愛い事をすりすりと甘えるように頭を擦りつけながら言われて、夫は一瞬固まってしまう。タチの悪い女である。それを計算ではなく言ってのけるのだから。これが天然の恐ろしい所という奴か……百戦錬磨の色男も彼女相手では形無しだ。
 見られているわけでもないのに面食らった自分を取り繕うように男は一つ咳払いをする。
「なら……早速甘えさせてもらいてえんだが、」
「いやらしい事は駄目ですよ」
 抱きしめる夫の手がゆっくりと下へと這っていくのに気付いて妻は先手を打った。うぐと頭上で呻くような声が漏れる。どうやら図星のようだ。
「なんで駄目なんだよ」
「そっちこそ、なんでそういう事にすぐ頭がいっちゃうんですか」
 不満げに呟く彼にも唇を尖らせて反論する。寄せていた身体を離して見上げれば、見下ろす紫紺が不服そうな色を湛えていた。仕方ないだろうとでも言いたげな表情だ。
「男が女に甘えてえのは、そういう意味なんだよ」
 なんだその言い分は。
 は呆れたような顔で夫を見上げた。
 生憎と女であるには男である彼の気持ちは分からない。勿論そういった甘え方がしたい時もあるが、それは稀な事だ。ただ抱きしめられているだけでにとっては十分甘えている事になるから。
「だめ」
 そんな事を考えているとさわと大きな手が尻を撫でてきた。ぺちんと慣れた手つきで叩くとは夫の腕から逃れる。なんだよと残念そうな声を上げながら彼は一歩を踏み出してきたが、はつんとそっぽを向いてしまう。
「ご飯の支度の途中です」
「そんなの後でだって」
「だ・め」
 強い声とトンと聞こえたのは俎板を包丁が叩く音。いつの間にか手に刃物を持った妻は、
「夕飯が先」
 にっこりと満面の笑顔で言った。
 これを押し通せば待っているのは数日間に及ぶ無視という無言の制裁が待っている。それがどれほど精神的に辛いものか……男は知っている。ずっと詰られるよりもなんの反応も返してもらえない方がずっとずっと堪えるものなのだ。
「……わぁったよ」
 渋々といった様子で頷きながら、内心では文句を垂れ続ける。良いじゃないか。好きだから触れたいと言っているのだから……などと勝手な事を。
 そんな彼の内心でも見透かしたのか、妻は背を向けたままでこう告げる。

「夕飯が済んだら……甘えても、良いです」

 耳まで真っ赤にしながら言う妻の可愛さに、男は思わず破顔するのだった。



 その翌日は、清々しいほどの快晴であった。
 雲一つない澄み切った冬の空から、眩しい陽射しが降り注いでいる。空気が冷え切っているせいなのだろうか、陽射しの強さを鮮明に感じる。この暖かさだと一昨日に降った雪も溶けるかも知れない。
 そんな事を考えながら山道を二人で歩く。昨日は置いてけぼりを食らったが、今日は共に買い出しだ。
 は一人で十分だと言うけれどそうはいかない。土方も欲しい物があるのだ。筆が悪くなってきたし、紙もそろそろ無くなりそうだ。他にも欲しい物がちらほらあるし、何より彼女に内緒で畑を作ってやろうなどと企てているのである。家で野菜が採れれば彼女がわざわざ町に降りる必要もなくなる。市が品薄になった所で食料の確保に慌てる必要もなくなるのだ。
 というのは建前で、本当は一緒にいたいから……なのだが果たして妻が分かっているかどうかは謎だ。
「大丈夫か?」
 土方は少し進んだ所で立ち止まる。振り返れば妻が少し遅れていた。声を掛ければその可愛い顔が歪む。
「大丈夫です!」
 具合が悪いわけではない。ただ身体が少し重たいのだ。足腰も少し、怠い。
 熱でもあるのかと夫は聞く。分かっていて聞くのだから意地が悪い。誰のせいだと睨み付けてやった。
「俺のせいか?」
「そうです!」
 は強く言った。瞬間、喉がちりりと痛むのは声を上げすぎたせいだろう。
 どこもかしこも不調である。そのくせ、心は酷く満たされるのだから質が悪い。
 やはり言わなければ良かった。
 甘えてくれなんて。
 そう、は溜息を零すのだ。

 夕食の後片付けをしている所で襲われた。襲われたというのは些か野蛮な表現かも知れないが、は襲われたと思っている。だって突然背後から羽交い締めにされ、気付けば寝所の床に転がされて着物をはぎ取られたのだ。
「ま、待って!」
 まだ片付けの途中だ。食器がまだ洗い桶につけたままだ。先に洗ってしまわないと汚れが落ちなくなってしまう。それに洗濯物だってまだ畳んでいない。あのまま放置していたら皺になってしまう。なによりまだ風呂に入っていない。今日は町まで買い物に出たのだから汗だくだ。せめて綺麗に身体を洗ってから。
「いやだ」
「歳三さんっ!」
 いやだとまるで駄々っ子のように言った夫が、子供が甘えるのとは到底呼べない妖しげな手つきで裾の隙間から手を差し込んでくる。熱い手のひらが太股を撫でた。態とこちらの欲を煽る、いやらしい手つきで。理性がとろけてしまいそうになる。が、駄目だ。やはりこのままで彼に抱かれるのは、いけない。せめて風呂に。
「もう、待てねえ」
 そう訴えたかったのに。もう少し、ほんの少しだけ待って欲しいと思ったのに。こちらを見つめる夫が余裕のない表情で言うから。酷く切なげな表情で自分を見て、求めてくれるから。こんな自分を欲しいと言ってくれるから。
「……っ」
 は押しのけようとしていた手を伸ばし、男の縋り付くしか出来ない。欲しいと望んでくれる唇に食らいつき、その背を必死に抱く。そんな風に求めてくれる彼を、自分だって求めていると。彼の事が好きで好きで、堪らないと。
 そうすれば夫は嬉しそうに笑って、更に甘い声で好きだと囁いてくれる。愛していると教えてくれる。言葉で、その身体で。どれほどに自分が妻に溺れているのかを教えてくれる。
 それが嬉しくて、はもっとと甘えた。もっと見せてくれと願った。何度も何度も愛を囁いて、触れて欲しいと乞うた。

 ――今思えばあれは彼の策だったのではないかと思う。
 ともかく彼に流されて、彼に散々いやらしい事をされてしまった。お陰で寝坊したし、身体の節々は痛むし、腰は怠いし、喉は……文句はいくつもある。も望んでいた事とはいえ、些かやりすぎなのだ。彼は、いつも。
「もうちょっと手加減とか、そういうのしてくれても」
「加減してほしけりゃ、煽るなってんだよ」
 ぼそぼそと小さく訴えたのに地獄耳の夫には拾い上げられてしまう。しかもこちらが悪いとされては不満の声を上げた。
 どう考えても自分は悪くない。いや、愛する人に触れるのに悪いなどと言う事はないのだけど、とにもかくにも土方のせいだ。
「随分と冷てえもんだな。今日は」
 つんとそっぽ向いてしまう妻にからかい混じりに言う。
 昨夜はあんなに甘えてくれたし、甘やかしてくれたのに、という夫の意地悪い本音に気付けば妻の顔が見る見るうちに真っ赤になって、
「知らない! 歳三さんなんか知りません!!」
 ぎこちない歩き方をするも、ずんずんと大股で歩き出してしまう。
 その後ろ姿を見ながら夫はまたくつくつと笑い声を漏らし、やがて青空を見上げて心底……思うのだ。

「俺は、しあわせもんだ」

 惚気るなとでも言うように、冷たい風が一つ吹き抜けるのであった。



 町のあちこちに茶色く汚れた固まりが積み上げられていた。
 数日前までは真っ白だったそれは雪の固まりである。陽射しによって溶かされては、夜の冷たさに凍り、徐々に小さくなりながらも影にひっそりと残っていた。まるでしぶとく生き続ける誰ぞのようだ……土方はそんな事を思って少し笑った。
「歳三さん?」
 突然あらぬ所を見て笑い出すものだから妻に変に思われてしまったらしい。怪訝そうな彼女に声を掛けられ、慌てて頭を振る。そうして視線を店の方へと向けて今度は苦笑を浮かべた。
「なんだ、結構賑わってんじゃねえか」
 彼女が昨日探し回ったと言っていたからどれだけ閑散としているのかと思えば、店先にはそれなりに品が並んでいた。まあ季節柄多少小振りなものが多いけれど、それでも数は揃っている。これなら飢える事はなさそうだ。
「そう、ですね」
 なんだと笑う夫の横で妻は小さく同意を示す。
 彼女も拍子抜けしているのだろうか。笑いながらそちらを向けば、彼女も笑っていて、
「それじゃ、私買い物してきます」
 と言って駆けだしてしまう。
 そんな慌てる必要はなかろうに。土方は自分も一緒に行くと言うのだが彼女は緩く頭を振った。
「今日は歳三さんも買いたいものがあったんでしょ?」
「まあ、そうだが」
「だったら別行動した方が早いです」
「でも、別にばらばらに動かなくたって良いだろう」
「誰かさんのせいで、あんまりのんびり買い物できないんです」
 一緒に行こうと言うけれど、妻はぴしゃりと言い切ってしまう。
 それは、と言い返そうとしたけれど……事実だ。男には何も言い返せない。うぐと言葉に詰まればは睨むような瞳を解いて、ふんわりと穏やかに笑った。
「半刻後にここに集合、ね」
 眩しい笑顔で言われては嫌だなんて言えない。
 こんな風に待ち合わせをする事が少なからず嬉しいという妻の気持ちも分からないでもないのだ。今までは、こんな事出来もしなかったのだから。
 仕方ない。土方は肩を竦めて頷いた。
「気を付けて行って来いよ」
 手を上げれば元気にはいと声が返ってくる。
 心配かそうではないかと聞かれれば心配でしかないが、これがの望む事なのだ。妻に甘い夫は仕方ないと繰り返し、何度もの後ろ姿を確かめながらやがては自分の足で歩き出すのであった。

 筆に紙、それから身の回りの諸々を買い付ければすぐに土方の用事は終わってしまう。元より、彼が欲しいものはそう多くはない。今日彼女についてきたのは彼女の手助けをする為だったのだから。
 とは言っても待ち合わせの刻限まではまだ時間もあるし、早く終わったからと言ってを見付けて合流するというのは、恐らく彼女をがっかりさせてしまうのだろう。ならば適当にとぷらぷらと店を見回っていると目に飛び込んできたのは萌葱色の着物であった。
 見たところ古着を扱っているようだが、それは古着とは思えぬ程に綺麗な状態だ。誰ぞが仕立てて、着る事もなく売りに出されたのだろうか。
「こいつは」
 手にとってよく見てみる。
 良い色合いであった。裾の染め抜きも良い。
 手触りも悪くない。なにより、
「あいつに似合いそうだな」
 柔らかい色合いが彼女にぴったりだ。
 土方は少しの間悩む。
 彼者の妻は非常に遠慮深い。着物などは破れても継ぎを当てれば着られると言って、もうずっと新しいものを新調していない。何度か新しい物をと勧めてみたが、彼女は固持してきた。自分などは襤褸でも良いから、土方の物を新しくしてくれと言って聞かないのだ。
 買えばきっと喜んでくれるだろう。だが同時に彼女は絶対に申し訳ないと思うに決まっている。折角喜ばせようとして気に病ませるのはどうだろう。
 土方は暫し店先で険しい顔で立ち尽くしていた。店の主人が商売の邪魔だと追い立てに来たが……あまりの恐ろしさに止めた程だ。
 やがて心が決まったらしい、
「よし」
 一つ頷くと顔を上げて店の主人を呼びつけた。
「悪いが、こいつを貰えるか」
 何故か萎縮してしまっている主人は飛び上がるようにして着物を包むので、土方は不思議そうな顔をするしかなかった。

 さて欲しいものは買えたし、彼女への贈り物も買えた。
 そろそろ待ち合わせの場所へと向かうかと足を向けた所で「土方さん」と声を掛けられた。
「斎藤?」
 振り返ればそこに見知った男の姿がある。
 彼が声を掛けてくるのは珍しい。警備隊として町の警護にあたっているが故に、極力接触を避けていたのだ。土方が仲間に見咎められれば大変な事になると分かっていたから。
 そこまで彼に気を遣わせるのは申し訳ないし、何より土方歳三という男は皆死んだと思いこんでいるのだ。きっと誰も気付くはずがない。もしかしたら既に忘れられているかもしれないというのに。
「ご無沙汰しています」
 斎藤は言いながらぺこりと頭を下げた。その生真面目さに思わず土方は破顔する。
「おいおい、斎藤。俺はもう局長でも副長でもねえんだぜ。そんなに畏まる必要はねえんだよ」
 指摘に斎藤は表情を和らげて笑った。
「俺にとっては、土方さんは今でも尊敬すべき人です」
 きっぱりと彼は言いきってしまう。
 もうこの世に、新選組は存在しない。もう必要とされてもいない。時代の流れに埋もれ、忘れ去られていく存在だ。それでも、と斎藤は思う。どれほどに年月が流れ、世界が変わっても、彼らがいたという事実は変わらない。そして彼らのお陰で、斎藤は武士として行き続けられたという事実も。
 そんな事を面と向かって言われてしまうもので、土方の方が恥ずかしくなってしまう。
「ったく、おまえは変わらねえな」
 相変わらず生真面目で、だが、あの時よりもずっともっと、自分の感情を表に出すようになった。これはとても良い変化だと土方は思う。だからそう口にしつつも顔には笑みが浮かんだ。
 そしてそれを見た斎藤もまた、思うのだ。変わったなと。こんな風に柔らかく笑えるようになったのだなと。
 時代は移り変わるものだ。変わらないものをずっと信じている斎藤にとっては受け入れがたい事もあるだろう。だが、変わる事は悪くはないと素直に思えるようになった。彼らを見ていると、心の底から。
「ああそうだ。ついでだからあいつにも顔見せてやってくれよ」
 釣られたように柔らかい表情で笑う斎藤に提案する。
 仕事中かもしれないが、顔をちょっと見せるくらいは良いだろう。折角会えたのに顔も見ずに行ってしまったなんて聞いたら、きっとは寂しがる。
「今別なんだが、もう少しで待ち合わせの刻限だ」
 ほんのちょっとでも顔を見せてやってはくれまいか。
 そう提案すれば何故か斎藤の表情が険しくなった。
「どうした?」
 土方の表情も自然と引き締まる。何かあったのかと訊ねると、彼は一瞬迷うような素振りを見せて、口を開いた。
「最近、の様子に変わったところはありませんか?」
「変わったところ?」
 鸚鵡返しに訊ねる男の眉間に、深い皺が刻まれた。
 変わったところなど無いはずだ。自分が知る限り。
 そうきっぱりと心の中では答えつつも口から出てこないのは、彼女が隠し事が得意で、嘘吐きだから。
 彼女が隠し事をしているなどと疑いたくはないけれど、そう簡単に性格を変えられるものではないのだろう。は未だに小さな嘘を重ねては土方を騙そうとするのだから。勿論、悪意ではなく彼女の優しさ故だとは分かっている。だから強くは言わない。言わないけれどやはり寂しいという気持ちを彼女はもっと分かって欲しい。
「そういや……」
 土方はふと思い当たる事がある、と小さな呟きを漏らした。
 確か、昨日の彼女はちょっと様子がおかしかった。なんとなく疲れた様子だった。それを彼女は誤魔化そうとして、男は問いつめて……
(ああくそ)
 思い出して彼は苦い顔になる。
 結局あれも誤魔化されてしまったのだ。何故きちんと聞かなかったのだろうと今更ながらに悔やまれてならない。
 いや、そんな事よりも。
が、何だってんだ?」
 斎藤が何か知っているのだ。こちらを聞く方が先である。
 彼はどう切り出すものかと迷った。言いにくい事、らしい。土方は構わないと頭を振った。言葉を選んで曖昧な情報を伝えられるよりもありのままを伝えられた方が良い。
 分かったと視線を一度落とした彼は、その双眸に真剣な色を湛えてこう切り出した。
「最近、彼女の悪い噂が流れているようです」
「どんな噂だ」
が……盗人だと言う噂です」
 言葉にしながら斎藤の瞳が嫌悪に歪む。そんな事を口にするのも汚らわしいとでも言いたげな、そんな様子であった。

 彼がその噂を聞いたのは五日程前の事だった。
 彼の部下達が世間話に花を咲かせていた時、耳に飛び込んできたのである。
 時々町に降りてくる女が店の物を盗んで行く……という噂話。
 それがであると分かったのは彼らが「飴色の髪の綺麗な女」と言っていたからだ。名前を上げずとも、飴色の髪を持つ噂になる程の美貌の持ち主と言えば彼女しかいない。
 所詮噂話は作り物ばかりだ。そう分かってはいるものの、それが『泥棒』である事と『彼女』が関わっているのでは聞き流すわけにはいかない。どういう事かと彼らに問い質せば今、町では噂になっているのだと教えてくれた。
 高価な簪を取られた。貴重な薬を取られた。だから皆、気を付けろ。
 誰が言いだしたのかは分からないが、そんな話がまことしやかに囁かれる内に、すっかりは泥棒猫と警戒されてしまったらしい。
 警備隊の方にも報告が上がってきて、盗人として捕らえるかどうかという話まで持ち上がっているのだ。
「そんな事、あいつがするわけねえだろうが!」
 妻を悪し様に言われるのを最後まで聞いていられるわけがない。土方は怒りの形相で斎藤の言葉を遮り、吐き捨てた。
「簪を盗んでくるような女が、あんな襤褸を着ているわけがねえじゃねえか!!」
「無論、信じてなどいません」
 高ぶる感情のままに壁をがつんと殴りつける彼に、斎藤は淡々とした口調で言う。落ち着いてくださいと彼は言ったが、その瞳には怒りの炎が静かに燃え上がっていた。
 彼とて分かっている。同じ気持ちだ。
 が盗みなど働かすはずがない。己の欲望の為に誰かを悲しませるはずがない。贈り物でさえも申し訳なさそうに受け取るような欲のない女なのだ。自分よりも他者を慈しむ事が出来る優しい女なのだ。自分の身を切ってでも、誰かの為にと思うような女なのだ。
 それを知らずに盗人などと好き放題言う輩がいるだなんて、斎藤には到底許せなかった。
 だから部下を黙らせ、噂の真意を確かめるべくこうしてやってきた。
「……悪かったな」
 つい、かっとなって怒鳴りつけてしまった事に気付き、土方は罰が悪そうな顔で謝る。がりがりと首の後ろを掻きながら、すまないと言う彼の姿に暖かな気持ちにはなれど責める気持ちにはなれない。
 いえと頭を振って先程の無礼を流してくれる彼に悪いともう一度言い、それからふっと昨夜の彼女の言葉を思い出して呟く。
「もしかして……そいつが原因でのやつ」
「やはり、何か?」
 土方は頷いた。
「直接の原因かはわからねえが、昨日が言ってたんだよ。品薄で買い物が大変だったってな」
 きっと季節柄だとか、また賊が入ったとか、それらしい事で片付けてしまったが、もしかしたらそれが原因だったのかもしれない。
「噂を聞いた店の者がに嫌がらせをしている、と?」
「……かも、しれねえな」
 冷たくあしらわれたかもしれない。
 盗人には売れないと、誰かが彼女を罵ったかもしれない。
 白い目で見られ、酷い言葉を浴びせられ、それでも男の為に走り回って、頭を下げて食料を買ってきたのだろう。
 昨日まで笑って話をしてくれた店主に冷たく帰れと言われて、彼女はどう思っただろう。想像しただけで胸が痛んだ。
「そうだ、今も」
 それは昨日だけの話ではない。噂が真実ではないと明らかになっていないのならば今だってその疑いの目は向けられていると言う事だ。そして今、彼女は町に降りて彼らの店を回っている。
 無実の罪で、悪意を向けられているのだ。
 こうしてはいられない。
「待ってください」
 弾丸のように飛び出していこうとする彼を止める声がある。斎藤だった。
「なんだ!」
 邪魔をするなと噛みつくように土方は言った。こうしている間にも彼女は辛い目に遭っているかも知れぬというのに何故止めるのかと。
 斎藤とて分かっている。が、彼女を庇った所で変わらない。
「その噂の出所を確かめるのが先かと」
「っ!!」
 一瞬かっと頭に血が上った。
 図星を突かれた人間というのは皆がそうだ。一瞬逆上したかのように血が上り、だが徐々に冷えていく。彼もそうだった。
 上った血は一気に冷えていき、そうすれば頭も冷静になっていく。冷静になればまともな思考が働くようになり、その双眸に凛と揺るがない強い色が浮かぶ。
 在りし日の鬼副長の姿だ。彼はいつだってその迷いない眼差しで物事を見極め、決断してきた。
「そうだな」
 静かな声とピンと伸びる背中に知らず、斎藤の表情もあの頃と同じに戻る。彼の命令を待つ忠臣の姿へと。
「噂の出所は、何処だ」
 澱みもなく自分の意図を汲み取った男に、斎藤は尊敬の眼差しを向けて言い放った。

「市橋という名に、心当たりは――」



 賑わう通りから少し離れた静かな場所に、店を構えていた。
 立派な造りの大店だ。入口はどことなく上品な雰囲気を醸し出していて、一瞬、京のそれを思わせる。
 がしかし出てきた女の口から零れたのははんなりとした京言葉ではない。
「どうも、ありがとうございました」
 折り目正しく頭を下げればさらりと柔らかな髪が流れる。
 女は客の姿が見えなくなるまで頭を上げず、やがて下ろした時と同じ優雅な所作で姿勢を戻し、そこで漸くこちらをじっと見ている人物に気付いた。
 別れた時と変わらない愛らしい栗色の瞳が、自分を見て大きく見開かれる。
 一方的な別れを告げ、二度と会うまいと思っていた。まさか、こんな形で再会するとは男も思わない。いや、するつもりはなかった。する必要もなかったのだ。
「百合恵さん」
 だって――を悲しませる事になるから。
 ほんの一瞬。
 それが別人に重ねたものだったとしても、心を移してしまった女なのだから。
 そんな相手と、今、こうして隠れて会っている。それを知れば、また彼女は悲しむのだろう。
 でも、必要な事なのだ。どうしても。
「少し、話が出来ねえか」
「……はい」
 土方の言葉に、市橋百合恵は静かに視線を伏せた。
 まるで、自らの罪を受け入れたかのように。


「あの噂の出所は、あんたなのか?」
 別の所で話をしたい。
 そう土方が切り出せば、百合恵は店の反対側へと歩き出した。
 店からちょっと離れた裏路地のその奥に長屋が建ち並んでいる。それらは百合恵の店に勤める丁稚らの住まいなのだが、先日の大雪で屋根が落ちたと言う事で今は誰もいないようだ。開けはなった戸から中を覗き込むと確かに天井が空いていた。
 大きな板が立てかけられている所を見ると、修繕の途中なのだろう。
 横目でちらりとそれらを見遣り、やがて百合恵が立ち止まったのを確かめると土方は口を開いた。
 傷つけるのは承知で、単刀直入に。
「あの噂の出所は、あんたなのか?」
「……」
 百合恵はすぐには答えなかった。
 ただ黙ってじっと地面を見つめていただけだ。しかし、その表情からそれが事実なのだろうと窺い知る事が出来た。
 彼女は、とても悲しそうな顔をしていたからだ。
 拳を握りしめ、その唇を噛みしめ、柳眉を寄せて悲しそうな顔をしていたから。
 そして何より……彼女が沈黙を守った事こそが、証拠であった。百合恵は否定しなかった。
 何故。と問うのは簡単である。がしかし、彼女が愚かな行動に出た理由も分からなくはない。
 ただ辛かった。苦しかった。悲しかった。腹が立った。それを誰かにぶつけたくて仕方がなかった。でもぶつける先が見つからなくて、きっと何かの拍子での事を考えてしまったか、それとも運悪くを町で見かけてしまったか。何がきっかけなのかは分からないが怒りの矛先が彼女に向いてしまった。それだけだ。
「俺を、恨む気持ちは分からなくもねえ」
 酷い仕打ちと言うのならばお互い様である。
 土方は溜息混じりに呟いた。
 その気にさせておいて、一方的に別れを告げて百合恵を傷つけたのは他ならぬ彼なのだ。だから、酷いと詰る資格はない。
 ただ、
「その矛先を、あいつに向けるのは止めてくれ」
 彼女は何も悪くない。
 今だって、あの時だって。何も悪い事をしていないのだ。
 むしろは被害者なのだ。二人の。
 それでも彼女は何も言わない。きっと、嫌がらせをされていると気付いている。昨日はぐらかしたのだってそのせいだろう。そして嫌がらせの原因が何かというのも薄々感じているに違いない。人の感情に敏感な女だから。でも、全てを知っていても、は何も言わないのだ。土方に助けも求めず、百合恵に抗議しに行くのでもなく。ただ、黙って受け入れている。
 自分が我慢すれば丸く収まる。
 そう、本気であの愚かな女は思っているのだろう。
「あいつを、これ以上苦しめるのは止めてくれ」
 悲しげに瞳を揺らしながら、彼は頭を下げた。
 頼むと言って、矜持の高い土方が。
 百合恵は信じられないと言うように目を見張り、自分などに頭を下げる男を凝視している。
 自分でも愚かな事をしているとは分かっていた。きっと彼に知られれば軽蔑されるに決まっていると思っていた。だが違った。彼は頭を下げたのだ。頼むと言って、自分に。それが信じられなくて、同時にそうまでして彼女を守ろうとするその姿に、胸が痛む。
 彼を恨む気持ちは、もうない。でも、に対しては違う。恨むつもりはないが、狡いと、妬ましいとは思うのだ。
「何故、そこまでして……」
 愚問だとは分かっていたが、それでも百合恵は聞かずにはいられない。聞いた所で悔しさと虚しさが募ると分かっていた。その矛先をまた彼女に向け、自分が醜い人間になってしまうと分かっていても。それでも、を憎まずにはいられなかった。
 だって彼女は、

 ――がら――

 どこかで聞いた覚えがあった。
 その不吉な音は以前にもどこかで。
 今ある全てを壊すようなその嫌な音は。
 そうだ、それは確か半年前の、
「――っ!!」
 はっと顔を上げれば板が倒れかかってくるのが見える。
 迫り来るそれが何かと重なり、一瞬思考が停止した。
 あの時と同じ。
 記憶を失う前の、あの時と同じだ。
 あの時もこうして、百合恵と共に巻き込まれたのだ。
 彼女を庇って頭を打って、そして、大切な人を忘れてしまった。
 また、あんな悲しい出来事が起こるというのか。また、を悲しませてしまうというのか。
 もう二度と悲しませない。守ってみせると誓ったのに。

 ――いや、違う。

 もう二度と、悲しませない。
 悲しませてたまるものか。

「こっちだ!」
 力一杯百合恵を引き寄せ、開けはなった戸から中へと飛び込む。
 ばりばりと嫌な音を立てて倒れかかった板が入口を破壊しながら迫ってきた。それを更に避けるように奥へと走る。だが元々天井が空いた長屋の強度は強くはない。あっという間に土間を破壊し、さらなる崩壊を求めて天井や壁をへし折りながら、最後にぐしゃりと嫌な物音を一つ立てた。
「……」
 もうもうと砂埃が舞い上がる中、ゆっくりと顔を上げる。
 確か天井が空いていた長屋の中は薄暗い。見上げれば天井は板と崩れた屋根で完全に塞がれていた。そして目の前には拉げた襖がある。どうやらついていたらしい。瓦礫が二人を飲み込む前に、崩壊は止まったようだ。
「怪我は、ねえな」
 ほっと溜息を吐きつつ、いつの間にか頭を抱き抱えるようにして庇っていた百合恵へと声を掛ける。彼女はしっかりと土方にしがみついていて、声を掛けられて漸くはっと我に返る。
「は、はい。大丈夫です」
「そいつは何より、だ」
 多少着物は汚れてしまったが、二人とも無傷だ。
 土方は苦笑を浮かべ、それからすぐに辺りを見回して立ち上がる。
 四畳程の畳の間は、その半分を瓦礫に占領されていた。左右後ろは、壁である。出口は一つなのだが拉げた襖の向こうは、恐らく倒れかかってきた板と瓦礫で埋め尽くされているのだろう。念のため開けられるかと確かめたみたが、ぴくりともしない。力任せにすれば破壊も可能かもしれないが、外の状況がどうなっているのか分からない。下手にこじ開けるのは拙かろう。
「閉じ込められた、か」
 運が良い。そう思った矢先にこれかと土方は呻く。
 まあ死んだり、記憶を無くしたりというのは無かったのだから良しとすべきだろう。
 誰かが通りかかってくれればどうにかなるのだから。
「そういや、修繕してる途中なんだよな?」
 いつ人が来るのかと百合恵に訊ねてみると、緩く頭を振られた。
「分かりません」
「そう、か」
 もう一つ、土方の口から溜息が零れる。
 こうなったらと斎藤が通りかかってくれるのを待つしかない。
 まあきっと大丈夫だ。斎藤には何処へ行くか伝えてあるし、の事も頼むと話しておいた。きっと心配性の彼女の事だから追いかけようと言うに違いないしそうすればすぐに見付けてもらえるだろう。
「……随分と、落ち着いていらっしゃるのですね?」
 どこか楽観したような顔でどさりと腰を下ろす男に、百合恵は訊ねる。
 彼女は青い顔だ。このまま誰も発見してくれなかったらどうしようと不安で堪らない。
「焦っても仕方ねえからな」
 どうしようもない状況であれば足掻くだけ無駄だ。足掻いた分だけ体力は消耗するし、ここぞという時に声も上げられないのではそれこそ意味がない。
「その内誰かが来るだろ」
「でも、来なかったら?」
「いや、来る」
 絶対にとでも言いたげな言葉だ。百合恵は横顔をじっと見て、それ以上何かを言うのを止めた。彼が何を言いかけたのか分かったから。
 二人して黙れば、ひゅうひゅうと風が吹き込む音が聞こえてくる。すきま風が入ってくるのだろう。頬を冷たい風が撫でていった。
「っ」
 その風を受けて、百合恵がぶるりと小さく震えた。
 そういえば彼女は店から出てきたそのままだった。羽織も着ていないのでは寒かろう。
 だからといって土方とて着込んでいるわけではない。
 何か寒さを凌げるものはないかと辺りを見回せば、男の傍に萌葱色の衣が落ちていたのが見えた。それは土方が買ったものだ。どうやら瓦礫に飲み込まれずに済んだらしい。
 拾い上げて埃を払う。
 鮮やかな色合いのそれは、の為に買ったもの。彼女に似合うと、彼女に喜んで貰いたいと思って。
「……ほら」
 だけどきっと、目の前に震えている人間がいるならば彼女は差し出してやれと言うのだ。
「これを羽織ってろ」
 それが例えば、自分を苦しめ、貶めようとしている相手であっても。
「ありがとう、ございます」
 その優しさが、百合恵は泣いてしまいたい程嬉しかった。
 彼に一方的に別れを告げられ、半年が経っていた。最初こそは酷いと詰ったものだった。彼を恨んだものだった。あんな男忘れてやると心にも誓った。でも、誰と何をしていてもその人の事を考えてしまうのだ。もう半年も経っているというのに、今でも彼の事を夢に見る。夢の中でだけは幸せだった。彼を独り占め出来たから。だから朝になって目が覚める度に、百合恵は虚しくなった。悲しくなった。毎夜のように虚しい夢を見続ける事が辛くて堪らなくて、気付けばあんな愚かな事をしでかしていた。彼を苦しめるだろうと分かっていたけれど、止められなかった。
 それ程までに、彼を愛していた。今、この瞬間も。
「……」
 ちらりと盗み見れば、彼は少し離れた所で壁に凭れ掛かっている。
 じっと襖の方を見つめていた。何を考えているのかは百合恵には分からない。ただ、その強い眼差しはきっとその先に出られる事だけを考えているに違いない。自分のように諦めや絶望や恐れの色なんて微塵もない。相変わらず真っ直ぐで、とても澄んだ眼差し。
 その目に、自分を映して欲しい。自分だけを。そう、何度も願ったものだ。
「あれから、」
 声を掛ければ彼の視線が襖の方からこちらへと向けられる。
 紫紺に自分の姿が映っている。百合恵が望んだ通りに今は、自分だけが。
「お変わりは?」
 訊ねれば彼はひょいと肩を竦めた。
「相変わらずだ」
「そう、ですか」
 会話が終わってしまえばまた視線は自分から外されてしまうのだろうか。そんなのは嫌だ。何か話さなければ、そう思うのになかなか言葉が出てこない。半年も顔を合わせなかったのだから仕方ない。この半年間の彼を何も知らないのだ。いや、百合恵が知っているのはたった半月の彼の事だけ。何も知らないに等しいのだ。とは違って何も。
「っ」
 彼女の事を考えただけで腸が煮えくりかえるかのような怒りが込み上げてくる。
 今すぐにその人をどうにかしてやりたい、そんな凶悪な感情までもが生まれて、でも百合恵は衝動を抑えるかのように拳を握りしめた。獣のような姿を彼に見られたくはなかったのだ。
「俺を、憎んでいるか?」
 不意に、土方がそう問いかけてきた。
 はっと顔を上げれば彼は真剣な面もちで見つめていて、
「言うまでもねえよな」
 苦笑で歪む。
 ふっと息が抜けたように笑い、緩く頭を振りながら「忘れてくれ」と言いながら視線をまた襖の方へと向けてしまう。百合恵は慌てて口を開いた。
「恨んだ事など!」
 強い口調で言えば再び視線がこちらへと向けられる。
 驚いたように開かれた瞳に、自分だけが映っていた。そのまま終わってしまえば良いのに、百合恵は思った。このまま全てが止まってしまえば、そうすれば彼を独り占めする事が出来るのに。
「私は……土方さんをお慕いしていました」
 だから恨むはずがない。恨んだとしても、彼を憎めるはずがない。好きだから、愛しているから。
 あの時伝えられなかった想いを言葉に込め、眼差しに込め、百合恵は訴える。
「土方さんだけを、お慕いしていました」
「……」
 膝でいざって近付いていく。彼は変わらずにじっとこちらを見つめていた。
「あなたが、好きだった」
 ううんと百合恵は頭を振る。過去の話になど出来るわけがなかった。
「今でも」
 近しい距離で見つめれば大きく、彼の目に自分が映る。彼の視界を全て占領して。
「今でも」
 想いが込み上げてくる。
 何故あの時に伝えていなかったのか。好きだと伝えて、愛して欲しいと願っていればまた違ったかも知れない。あんな女に奪われる事が無かったかも知れない。彼の隣にいたのは自分だったかも。
 いや、もしかしたら今でも遅くないかも知れない。
 百合恵は思うのだ。
 彼がこうしてやって来たのはの為だけではないのではないかと。自分に会いたかったから。だからこうして戻ってきたのではないかと。
 だって彼は優しくしてくれる。あの時と同じように。
 自分を見つめてくれるのだ。
「好き、なんです」
 百合恵はそっと手を伸ばした。
 あの時は触れる事も出来なかった。女の方から触れるなんてはしたない事だと思ったのだ。でも今は恥ずかしいよりも触れて欲しいと願う。彼が望むのならばこのままこの場所で彼に奪われても良いと思う。
 否――奪いたい。
 憎きあの女から。
 そして、自分だけのものに……

「やめろ」
 強い声だった。
 後もう少し、ほんの少しで触れただろう唇から男の強い声が発せられた。
 押しのけられたのでもはじき飛ばされたのでもない。でも、百合恵はそれ以上動く事が出来なかった。あと、ほんのちょっとで触れられるというのに、奪えるというのに。
 だが、触れてしまえば全てが終わっただろう事も分かっていた。
 強い声には明らかな拒絶が。
 真っ直ぐに見つめてくれる彼の瞳には恋情の欠片も見あたらない。
 触れればきっと、その瞳に宿るのは軽蔑の色だ。そして、彼は二度と自分を見なくなってしまうのだろう。
「っ」
 百合恵は唇を噛みしめ、くしゃりと顔を歪ませた。その瞳にはあの日見せた涙まで浮かべている。
「ひどい、です」
 彼女は涙声で詰った。
「拒むのならば……何故、すぐに拒んでくださらなかったんですか」
 何故中途半端に優しくしたのか、その気にさせたのか。
 好きにならせるだけならせて、その気にさせるだけさせて、何故、そのぎりぎりで止めるのか。
 報われないというのならば何故もっと早くに止めてくれなかったのか。この気持ちにもっと早くトドメをさしてくれなかったのか。そうすればこんなに好きになる事なんて無かったのに。誰かを憎む事だってしなくて良かったのに。
「……悪かった」
 百合恵はとうとう堪えきれなくなってわっと泣き出した。
 両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
 彼が彼女を拒めなかったのは、彼女に昔の愛しい人の面影を重ねてしまったから。それは、彼の罪だ。だから、百合恵を責める事は出来ない。
 ただもう、泣いている彼女に手を差し伸べてやる事も出来ない。
 泣き続ける女をじっと見つめながら、土方は頭を下げ続けるしかなかった。


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