『

  余裕のない声が私を呼ぶ。
  先生でも、雪村でもなく、名前で。
  求めるように何度も呼んで、その腕にしっかりと抱きしめる。
  布越しに感じる逞しい胸板に、どうしようもない男らしさを感じて、縋り付いた。
  広い背中に爪を立てて、甘ったるく啼いて、与えられる熱と快楽に酔いしれた。

  『もっと、呼んでッ』

  と呼んで欲しかった。
  呼んで、求めて欲しかった。
  誰でもない彼に。
  求めて欲しかった。

  『っ、‥‥』

  私の望み通り、彼は呼んでくれる。
  甘く、必死に。
  何度も。
  私を呼んで、私を抱きしめてくれる。

  ああ、この腕の中は心地良い。
  私は思った。
  不安も恐れも、その腕の中ならば感じない。
  意地や去勢を張る必要もないのだと。
  ありのままを、認めて、包み込んでくれる気がした。
  私は初めて、
  男の人の、腕の中でイッた。
  演技でも、なんでもなく、本気で気持ちいいと、心が思った。


  そんな事を思い出すのは何故?
  今まで頑なに思い出そうとしなかったくせに、どうして思い出すの?
  手に入らないと分かったから?
  決して手に入らないと気付いてしまったから?

  こうなることは、最初から分かっていたくせに。

  私は、教師で。
  彼は、生徒だ。

  分かっていたくせに、どうして傷つく必要があるのだろう?
  どうして、
  手に入らないと分かった瞬間、

  ――人というのは欲しくなってしまうのだろう?



  お酒には弱くない。
  だけど、気心の知れた人間以外と飲むのはあまり好きじゃなかった。
  だから、学校の飲み会といってもほとんど酒は飲まずに大人しくしていた。
  事ある毎に飲みましょうと言う教師の誘いも断り続けた。
  大抵私を誘ってくるのは小野寺先生で‥‥前に、女性教師にこう言われた事がある。
  「狙われているから気を付けて」
  って。
  だけど、

  「今日は飲みたい気分だから。」

  私は飲みたい気分だった。
  どうしても、飲みたくて、でも、相手が見つからなくて。
  だって近藤さんは下戸だし、他の先生方は今日に限って予定が入っていた。
  誰か空いてないかと聞いたら即座に小野寺先生が手を上げて名乗り出てくれたから、私はそれじゃいこうとその手を掴ん
  で居酒屋に向かった。
  今日は騒ぎたかった。
  とりあえず、飲みまくりたかった。

  「もういっぱい!!」

  だん、と机にグラスを叩きつけるように置くと、次を注文する。
  自分でも無茶な飲み方をしているなと言う自覚はあった。
  食べ物も頼まず、空きっ腹にお酒を飲み続けた。
  絶対回るな、と思いながら気付くとピッチも上がっていた。
  いつも飲んでるお酒がこの日に限って弱く感じて、私は更に強いお酒を注文した。
  酔わないけど、ただ喉を焼くアルコールの熱だけは感じた。

  「雪村先生、どうかしたんですか?」
  その横で小野寺先生は何故か嬉しそうに声を掛けてくる。
  私はぐいと口元を拭いながらなにがですか?と訊ね返した。
  多分、目は完全に据わってたと思う。
 小野寺先生がぎくっと肩を震わせたのが見えたから。
  「いえ、その‥‥荒れているような気がしたんですが‥‥」
  何かあったのかなぁ?と聞かれて、私は睨み付けた。
  聞くな、と言いたかった。
  これは後で聞いた話なんだけど、私の眼力は威力がなかったらしい。
  まあ酔っぱらって赤ら顔の人間に睨まれた所で怖くないだろうな‥‥

  「おっちゃん!もういっぱい!!」

  私は高らかに次を注文して、アルコールのせいで熱くなった身体を冷やすべく上着を脱いだ。
  小野寺先生が生唾を飲むのが聞こえた。
  お勘定の心配なら無用だと思う。
  払うのは、私だ。


  酔いたかった。
  酔って、
  忘れたかった。
  色んな事を。
  無かった事にしたかった。

  ハロウィンの事も。
  彼が片想いをしている事も。
  それから、
  彼自身の事も。

  全部忘れてしまいたかった。


  「だいったいねぇ‥‥なんれ、すきな女の子がいるのに、あんなことを、するかってことよっ」

  私はいつもより回らなくなった舌を必死に回しながら言葉を紡いだ。
  ふらふらと身体が揺れているのは気のせいか。
  おや、手元が揺れている。
  酔ってるかな、と自覚した。
  自覚したが、酒は止まらなかった。
  どれだけ飲んだか分からないけれど、隣にはまだ小野寺先生がいた。
  彼がお酒を飲んでいるか飲んでないかはもう知らない。
  私にはそんなことどうだっていい。

  「すきなこいたならその子にしろっていうのよ!」

  がんがん、とグラスの底でテーブルを叩く。
  お客さん、とおっちゃんが声を掛けた気がした。聞こえなかった振りをした。
  いや、聞こえてても私は止めなかっただろう。

  「けっきょく、私、あそばれただけってことでしょー」
  悪戯で済ませる気はないっていったくせに、本命がいてあんなコトされたんじゃ、同じようなものじゃないか。
  いやでも、普通私の方が遊びになるよな。
  千鶴ちゃんと、私、じゃ。
  だってほら、私8歳も上のおばさんだしー?
  って自分で言うとむかつく。
  でも、やっぱり同い年くらいの子が一番いいはずだ。
  年上、年下っていうと色々面倒くさいしさ!

  「まったく、なんらっていうのさ‥‥あのばか‥‥」

  彼が何をしたいのか、何をしたかったのか。分からないまま終わった。
  逃げ続けたのは自分なんだから自業自得だけど、今は全部彼のせいにしてしまいたかった。
  そうすれば気持ちがすっきりするような気がした。

  それになにより、

  「せーせーした!!」

  私は喚くように大声を上げた。
  恐らくきっと、彼らは上手くいく。
  千鶴ちゃんは原田君の事を心配して追いかけてきたんだし、原田君はそんな千鶴ちゃんが大好きなんだし。
  きっと想いを伝えればあの二人はハッピーエンドめでたしめでたし、だ。
  うわ、私一人で悩んで馬鹿を見たってことなんだけどね。
  まあいいよ!別に。

  「これで私は、晴れて自由の身ー」

  いえーっと両手を挙げて万歳する。

  これでもう、彼の事で悩む必要はなくなった。
  自由になったんじゃないか。
  清々したよ。


  ――本当に――?


  頭の片隅で声が聞こえた。
  自分の声だった。

  声はまるで私を苛むように、本当に?ともう一度問いかけた。

  ――彼のせいにして、喚いて、それですっきりするの?
  それで彼を忘れられる?

  問いかけにぎくりと肩が独りでに強ばった。

  胸の奥にはぐるぐると、屋上での出来事の後から黒い気持ちが渦巻いている。
  いや、その前、ハロウィンのあの日から、よく分からない何かが胸の奥にひっそりと息づいている。
  それの正体が何か、はっきり見極めないままで終われるのだろうか?
  これを無かった事に出来るのだろうか?

  だけどでも、と私は思う。
  それを認めてしまうのは怖いのだ。
  何が怖いのか分からない。
  でも、怖かった。
  その気持ちをはっきりと認識してしまったら何かが変わってしまうと直感していた。

  何が、と聞かれたら、彼への気持ちだ。
  だってそれは彼と関わって生まれた気持ちだから。

  彼への気持ちが変わる?
  それは、
  嫌いって事?
  あんな酷い事をした彼を嫌いになったって事だろうか?

  ジクリと胸が痛む。
  またあの痛みだと思って、胸を押さえて顔を上げた瞬間、不思議な事にあたりが薄暗くなっている事に気付いて、

  「え?やっ!?」

  赤ら顔の小野寺先生の顔が迫っていた。
  驚くほど近い距離に、酔っていても咄嗟に自己防衛本能が働く。
  慌てて押しのけようとしたけど、自分も酔っ払いで相手も酔っ払いだ。
  腕を掴まれて引き寄せられれば女の私に抗う術はない。

  「雪村先生っ‥‥ぼ、僕はずっと前からあなたのことをっ」

  鼻息荒く、興奮した面持ちで言う彼はなおも顔を近づけてくる。
  嫌悪感に身体が震えた。
  いや、とらしくもなく悲鳴みたいな声が漏れた。
  『あの時』にはそんな声出なかった癖に、拒絶の声が口から出た。

  助けてと口から声が零れた。

  酔っ払いの行動に助け船を出す人間などいないだろう。
  それでも私は助けてと声を上げた。

  腰を攫われ、ぐっと距離が近付く。
  キスをするつもりだというのが突き出された唇で分かった。
  別にキスの一つや二つ、奪われたって大した事はない。
  ファーストキスじゃない。
  でも、それでも嫌だった。
  彼に触れられるのは。
  いや、
  『彼以外』に触れられるのは。

  それは無意識だった。

  「助けて、原田君っ!!」

  叫べば、彼が駆けつけてくれる気がした。

  そんな事、あるはずがないのに。