それは弥生の終わりのこと。
五分咲きの桜を横目に、は一人廊下を歩いていた。
寝起きとはいえ、すっかり覚醒した頭で、土方に伝える内容を纏める。
とりあえず命じられた仕事は問題なく終わると。
ひら。
ひら。
風に揺られて、枝が揺れている。
淡い桃色の桜の花びらが、まるで誘うように。
ふと、は立ち止まった。
桜の花に誘われたからではない。
桜を見ている内に、他の仲間たちがそろそろ花見だなんだと馬鹿騒ぎをしでかすだろうなと思い、気づいたのだ。
「あれ?」
あたりが‥‥やけにしんとしていること。
いつもなら聞こえる永倉や原田の笑い声やら、元気な藤堂のわめき声、それをはやし立てる沖田の声や、勿論‥‥
怒鳴り散らす副長の声さえ。
音が聞こえない。
が戻ってきたのが今朝だったので、朝から顔を合わせてはいない。
巡察に出た‥‥といっても、全員がここをあけるはずもないのだが。
「‥‥まさか。」
とは呟いて、手近な襖を開けた。
そこは藤堂の部屋だ。
返事はなく、室内に主の姿はない。
隣の部屋を見た。
隣は永倉だ。
勿論こちらももぬけの殻。
原田も、そして沖田、斎藤も、だ。
あれ?
どうして誰もいないというのだろう。
まさか、本当に皆出払っているのだろうか?
ぱたぱたと小走りになり、は目的地へと急いだ。
土方の部屋だ。
「土方さん!」
す。
と襖を開ける。
勝手に開けるなと常ならば怒鳴られる。
でも‥‥やっぱり声はなかった。
彼も、部屋にいなかったのだ。
どくんと、鼓動が一つ跳ねた。
そこから鼓動は速くなっていく。
「っ!」
彼女は襖を閉めるのも忘れて走った。
その奥。
あまり自分が立ち寄ることのない部屋。
そこには‥‥そこにだけはいる気がした。
いや、
いてほしい。
願望だった。
「近藤さん!!」
は半ば叫ぶように呼ぶ。
穏やかな笑顔で「どうした?」と迎えてくれるはずの近藤。
その人は‥‥
「っ‥‥」
どこにもいなかった。
ばたばたとは走る。
珍しく彼女は顔色を真っ青にしていた。
どくどくと、鼓動が速くなる。
誰か、誰かいないの?
は声を上げそうになる。
不安で胸が押しつぶされそうになった。
「助勤?」
ばたばたと道場の方へと走れば、隊士達の姿を見かける。
しかし、呼びかけも耳を通り抜けていく。
今の彼女には、彼らは見えなかった。
「っ‥‥」
邸の中を駆け回って、は彼らを探した。
永倉を、原田を、藤堂を。
「どこ‥‥」
斎藤を、沖田を。
「どこにいるの?」
土方を、
近藤を。
は必死に探した。
まるで、世界に一人になった気がした。
これほどに人が溢れているのに‥‥一人になってしまった気がした。
一人世界に取り残された、そんな風に。
昔、感じたことがあった。
一人だけ残される、あの孤独、恐怖、絶望。
じわりとは世界が黒く塗りつぶされる感覚がした。
誰かお願い。
――私から世界を奪わないで――
は心の中で叫び声を上げた。
「おめでとう!!」
襖を開けるや否や、賑やかな声で迎えられる。
あちこち駆けずり回り、重たい足取りで戻ってきたは、広間の襖を開けたまま、固まった。
「おめでとう!」
とそんな言葉を掛けて迎えたのは‥‥自分がずっと探していた人たちだ。
そこには、
井上、山南、永倉、原田、藤堂、沖田、斎藤、近藤。
彼らの姿がある。
彼らは何故か笑顔だった。
「‥‥え‥‥?」
目の前の人たちは‥‥幻覚だろうか。
は目をまん丸く見開いた。
そうすれば、藤堂が勝ち誇ったように笑った。
「やった!驚いてる!」
「隠れて計画した甲斐があったな。」
永倉が隣で手を叩いた。
どうやら、は彼らに嵌められたらしい。
「いやな、平助が西洋の祝い事の話を持ってきてくれてさ。」
まだ呆然とする彼女に、原田は種明かしとばかりに教えてくれる。
「西洋じゃ生まれた日に生まれた事を祝うらしいが‥‥」
ここ日本では、新しい年になれば皆揃って年を取る。
生まれた日というのは大したものではないが、西洋は違うらしい。
いや、でも、
「君が生まれた日というのは誰も分かりませんからね。」
山南が言った。
そう、は拾われた子だ。
気分の記憶を無くしているので、自分の生まれた日も‥‥自分の年も分からない。
だから、と斎藤が口を開く。 「皆がここに揃った日‥‥それをおまえの生まれた日にしようという事にして、祝うことにした。」
皆がここに揃った日。
それは確か、弥生の終わりだった。
「それで、今日がその日って事。」
沖田が笑う。
ゆったりと近藤が近付いてくる。
その手には酒を持っていた。
「、おめでとう。」
その顔に、満面の笑みを湛えて、彼は笑ってくれた。
そのかけ声に、
「おめでとう!」
彼らも追いかけるように口々に言う。
おめでとうと。
揃って笑顔で‥‥
おめでとうと。
言われた。
「っていうか、。さっきからだんまりなんだけど。」
「もしかして怒ってるとか?」
「いや、驚いてるだけだろ!」
「すまないな、驚かせてしまって。」
「君でも驚くことがあるんですね。」
「あはは、そろそろ‥‥」
「っ‥‥」
彼らは口々に言い、しかし次の瞬間固まった。
は両手で顔を覆っていた。
その肩が小刻みに震えている。
ぎょっとした。
まさか。
まさか。
「泣かしたぁああ!?」
藤堂が驚きに声を上げる。
そうすれば一同も慌てた。
どうして泣くんだとか、もしかしたら怒らせたんじゃないかとか、驚かせすぎたのかとか。
顔を合わせてあわあわと彼らは右往左往する。
それから、申し訳ないと皆が揃って彼女に謝りながら近付いていった。
「ごめんな、。」
「まさか泣かれるとは‥‥」
幼い頃から涙一つ見せた事がない彼女が泣く‥‥なんて、誰も予想だにしなかった。
は顔を覆ったままだ。
困惑と罪悪感に彼らは揃って困った顔をして、なんとか宥めるべくの頭を撫でたり、優しい声を掛けたりした。
「‥‥ほんと、」
ごめん。
と藤堂が顔を覗き込む。
そこで漸く、は顔を覆っていた手を離して‥‥
「ばぁか。」
にんまり、と意地の悪い笑みを浮かべて笑った。
ぎょっとした藤堂が反応するよりも早く、
「この私がやられっぱなしなわけないだろ!」
彼の首をぐいと締め上げて笑う。
「うぎゃっ!」
「お、おい嘘泣きかよ!」
傍まで寄っていた原田は顔を顰めて、手を離す。
「これくらいで私が泣くわけないじゃない。」
は笑って答えた。
「そうだよねぇ‥‥」
そんな彼女に沖田はひょいと肩を竦める。
「そんな女らしい‥‥じゃないし。」
「尤もだ。」
「あ、こら一まで失礼な事言うな。」
隣でこくりと頷く彼をは咎める。
その間もぎりぎりと首を絞められているので藤堂は「くるしいー」と声を上げた。
それを見ていた近藤は、呆気にとられた後、く、と笑みを一つ浮かべて、
「それじゃあ、宴といこうか!」
盃を高々と掲げるのに、永倉が待ってましたと声を上げた。

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