がこの世界にやってきて、半月。初めての冬を迎えようとしている。
冬と言えば寒さのあまりに布団から出たくないもの。だが、この世界では布団の中にいる事さえも寒くて、は毎日早起きという健康的な生活を送っていた。早く起きるもので必然、毎日食事当番だ。まあ火の近くにいられるので暖かいから良しとする。
「ヒーター欲しいって思うよね」
こんなに寒いと現代で愛用していた暖房器具が恋しくなってしまう。言っても分からないだろうについ零せば案の定となりを歩く千鶴は首を捻って「ひいたあ?」と聞いてきた。その辿々しい言い方が可愛らしくて思わず笑みが漏れた。
「うん、私の世界にあったんだけど……空気が暖かくなる道具なんだよ」
「空気が暖かくなるというのは、火を起こす何かという事ですか?」
火鉢みたいな、と言われては頭を振った。
「火はつけないけど……まあ、火みたいに熱する事で空気を暖めるのは確かかな」
「火はつけなくても暖まるものなんですか?」
すごい、と目を丸くする千鶴にそれだけじゃないよとは続けた。
「火もつけずに、暖かい空気を部屋の中に送り続ける道具もあるんだ」
「えっ!?」
「因みに熱を発するお布団もあるんだよ」
「えぇえ!?」
そんなものがと千鶴は目をまん丸くして驚いてくれる。きっと現代に彼女がタイムスリップしたらありとあらゆるものに驚いて感動してくれる事だろう。目をキラキラと輝かせてこれは何に使うんですかと聞いてくるに違いない。もし叶うならば現代に連れて行ってあげたいものだ。驚かせたいという以前に、あの世界の方が安全だから、ということで。だって千鶴は自分よりも年下なのに、いつ死ぬか分からない危ない世界で暮らさなければならないのだから。
そんな事は出来ないと分かっているからせめて、明るい話題で彼女を楽しませてあげたい。
「それでね、それでね」
「――それじゃあ後は斎藤に任せる」
上機嫌で話し続けるの言葉が、向こうから聞こえてくる足音と声によってぴたりと止まった。
足音は複数。それは決して足音が慌ただしかったからではない。普通に廊下を歩いている音だ。
向こうはこちらに気付いていないようである。何やら会話をしながらこちらへと近付いてくる。近付くに連れて会話の内容も声も鮮明になるのは当然で、突然、
「ごめん。千鶴ちゃん、私ちょっと忘れ物してきたから部屋に取ってくるから先に広間に行ってて」
「え、さん?」
は早口に言うとくるりと踵を返して返事も待たずに駆けだしてしまった。
あの、と声を掛けた時にはその姿は廊下の角を曲がって消えてしまっている。そしてそれと同時に反対側の角から曲がって男が二人姿を現した。
「なんだ千鶴。こんな所で何してる」
「あ、土方さん、斎藤さん。おはようございます!」
声を掛けられ、慌てて千鶴が頭を下げる。
頭を下げて何故が突然走って行ってしまったかの理由に気付いた。逃げ出してしまったのだ。理由は分からないけれど、恐らくその人から。
「向こうを見ていたようだが、何かあったのか?」
ここは誤魔化そうと思っていたのに目敏い二人には気付かれてしまっていたらしい。ええと、と口籠もる。
まさかそのままずばりを言うわけにはいかない。だって『彼』から逃げてしまったなんてそんな事。彼の事だから嫌われるのは慣れてると言うだろうけれど、やっぱり傷つくに違いないのだから。でも……嘘も嫌いだ。
何と言えば良いのか迷っていると土方が追い立てるように「千鶴」と呼んだ。それは拒む事が出来ない命令。千鶴は困ったような顔になったかと思うと、意を決したように拳を握りしめて一気に捲し立てるように言った。
「さんが、先程までいらっしゃったんですけど、突然忘れ物をしたと戻っていってしまっただけなんです!」
ただそれだけ。
彼女は忘れ物をしただけなのだ。決して逃げ出したんじゃない。彼から逃げてしまったわけじゃないんだ。そう、あくまで忘れ物を……とそれを主張したいが為に妙に力を篭めた言葉になってしまった事こそが、物語っていた。
彼を傷つけまいとして、だったのに。
「……俺から逃げた、か」
ぽつりと千鶴が隠そうとした事実に気付いたのは、が避けているその人――土方本人だった。
に避けられている。
それは土方当人も気付いていた。千鶴がなんと誤魔化そうと、ずっと前から気付いていたのだ。
だってもう半月以上顔を合わせていない。確かに、ここ最近土方自身が忙しくて屯所を空ける日が多かった。でも、それでも以前は屯所に戻ればすぐに「何かやる事はないか」と彼女は部屋にやって来た。忙しいからと追い払っても何か仕事を寄越せと、そりゃもうしつこいくらいに。でも、今はそれもない。それどころか、今は呼びつけても顔を見せようとしないのだ。曰く「手を離せない用事がある」とかで誰かに言伝を頼んで来もしない。
久しぶりに土方が広間で食事をとろうとした時だって彼女は「具合が悪いから」という事で部屋から出てこなかった。話し声や気配がしたかと思ったらどこぞに逃げたり隠れたり、という事もしばしば、だ。
明らかに、避けられている。しかも、徹底的に。
最初こそいい加減にしろと躍起になって彼女を追いかけ回したものだが、ここまで徹底的に逃げ回る理由が自分にあるのだろうと気付いて、それも止めた。
沖田が言っていた言葉を思い出す。
「、泣いてましたよ」
彼女を泣かせる程、自分は酷い事をした。言ったのだ。そう思うと、これ以上彼女を追いかけるのは悪い気がした。
いやそうじゃない。これ以上彼女に避けられるのが――耐えられなかった。
だから、止めたのだ。追いかけるのを。
「土方さんがいじける資格はないと思うけどなぁ」
部屋で忙しく文と睨めっこをしていると、また、いつものように開けはなったふすまの向こうから暢気な声が聞こえてくる。
いつの間に、と考えるのも馬鹿馬鹿しい。またかと呆れ顔で、しかし聞き捨てならない一言に眉間に皺を寄せながらどういう事だと彼を睨み付けた。
「だってそうでしょ? 最初に酷い事を言って傷つけたのは土方さんの方じゃないですか」
沖田はしれっとした様子で続ける。
「勝手にの影を重ねて、彼女と違うと分かったら八つ当たりして、本人がどうしようもない事を言って」
「……」
つらつらと続く言葉に土方の眉間には深い皺が刻まれる。
不愉快であった。彼にそんな事を言われるのは。
だって、言われなくても分かっているから。自分が彼女に酷い事を言ってしまったと。
だがそれを沖田に言われるのは癪なのだ。正論だとしても彼に言い負かされるのは、絶対に嫌だ。
「そんな下らねえ事を言いに来たんなら、出ていけ」
俺は忙しい。
まだ続く言葉を遮り、土方は机に向き直る。
それが気に入らなくて、ぴくっと沖田の片眉が跳ね上がった。
特に、その言葉。
「下らない?」
下らないと彼は言ったのである。
彼女をあれだけ苦しめておきながら、下らないの言葉で一蹴するとはどういうことか。
思わず手元にある硯をひっくり返して、彼が苦労して書いた文を滅茶苦茶にしてやりたい程、腹の立つ台詞だ。しかし、今は駄目だ。そんな事をしたって何もならない。ただ土方の怒りが自分に向けられるだけ。沖田がしたいのはそんな事じゃない。沖田がしたいのは……
溜息を吐いて、沸々とわき上がる怒りを吐息の塊に変えて吐き出す。
そうして気持ちを落ち着かせると、土方の横顔を冷たく睨み据えながらこう切り出した。
「土方さんは、新選組副長……ですよね?」
「あ?」
いきなりの問いかけに思わず怪訝な声が上がる。
今更何をと眉根を寄せれば、沖田は変わらずいつもの様子で続けた。
「もっともっと有名になるようにするのが副長の役目ですよね?」
「そりゃ、まあ……」
「その為に、新選組はもっと一致団結する必要がある」
「あ、ああ、そうだな」
「でも例えばそれを乱す人がいたとしたら、それを正すのは副長の仕事ですよね?」
「確かにそれは俺の役目かもしれねえが……総司、おまえ一体何が、」
「実は――」
土方の言葉を、沖田の強い声が遮った。
「最近、ある人にみんなが迷惑してるんです」
ある人?
鸚鵡返しに土方が問うと、彼はこくりと頷いた。
「その人は仕事も手伝わず、ずっと部屋に閉じこもってばっかりなんです」
「……」
「しかも、部屋に食事を届けさせたりとかしてるんですよ」
それはもしや嫌味ではあるまいな?
思わず鼻の頭に皺を寄せて睨んでしまう。
気付いているのかいないのか、いや、気付いていてしれっとした顔を沖田はしているのだろう。本当に食えない男だ。
だが決して土方は仕事をしていないのではない。寧ろ彼は率先して仕事をしていて、だからこそ心配した斎藤や山崎が部屋に食事を届けてくれるのだ。彼らには申し訳ないと思うが、沖田にどうこう言われる筋合いはない。
「それに最近じゃ辛気くさい溜息ばかりで、皆の間にもぎすぎすした嫌な雰囲気が漂っている」
反論に開いた言葉は、途切れずに紡がれた言葉によって遮られた。
これもまた……嫌味なのだろうか。
辛気くさい溜息を吐いた覚えはない。がしかし、沖田の事だから自分を悪く言う為にそう捉える事もあるだろう。それに溜息の数も増えたのは確かだ。仕事の事でもそうだし、別の事でも。
ただまあ自分が原因で皆がぎすぎすしているというのは聞き捨てならない。
鬼の副長として恐れられているというのは分かっているし、自らが憎まれ役を買っているのは確かだが、皆が皆ぎすぎすするような態度は取っていないはずなのだ。それなのに、
ここで沖田が、何故かにこりと、満面の笑みを浮かべた。
それはそれは清々しい笑みであった。
「みんな、のせいで困ってるんですよね」
清々しい笑みで、彼は言う。
彼女のせいで困っていると。
人を酷い言葉を浴びせたと詰りながら、彼も又同じような酷い言葉を吐いた。
「彼女のせいで、みんな迷惑してる」
否、違う。
彼女のせい、のせい、と言いながらも怒りの矛先は別にあった。
そう、それは……彼女にそんな態度を取らせる張本人への。
つまりは、
土方本人への。
「なんとか――してくれますよね? 鬼の副長さん」
新選組の雰囲気をが悪くしている。
それをどうにかするには彼女が抱えている問題を解決せねばならない。
つまり、それは――
して、やられた。
土方は心の中で一つ、呟くのであった。
ふすまの前で、一つ静かに息を吸い込む。
別に幕府のお偉方と顔を合わせるわけでもない。というのに彼は妙に緊張していた。たかが小娘一人と話をするだけなのに、だ。
そう、彼は結局来てしまった。
沖田などにしてやられてたまるか……そう思ったものの彼の言う事は事実。
隊内の不和はどこかに歪みとなって現れてしまう。無論彼女は隊士ではないが、それでも新選組にいる以上は見過ごすわけにもいかない。
それに――このままずるずると避けているわけにもいかないのだ。
は、ともう一度溜息を零す。
それからゆっくりと口を開いた。
「おい、いるか?」
返事は……無かった。
いない、という事だ。
しかし、気配は、ある。
中に彼女がいるのは確かという事だ。
それでも返事をしない。返事をせずに部屋の中で気配を殺そうとしている。
会いたくない。それがの答えと言う事だ。
「開けるぞ」
でも、今日ばかりはそういうわけにはいかない。
土方は断りを入れるとふすまを開いた。
部屋の中に彼女の姿はない。
常人ならばそれで納得してふすまを閉めた事だろうが、彼は違う。
無言で入室すると後ろ手にふすまを閉めた。
部屋の中には文机と、箪笥が一棹。それ以外には何もない。とても女の部屋とは思えない殺風景ぶりである。
そして奥にはふすまがもう一つ。押入へと続くそれだ。
部屋の中に彼女の姿はないが、気配は感じる。確かにこの部屋に彼女はいる。となれば……
ずかずかと進んで一気に押入のふすまを開いた。
「……?」
正確には開こうとした。
だがどういうわけか、ふすまは開かない。ガタと動いて微かに開くだけだ。
どうしたことだろう? まさか何かが引っ掛かっているのだろうか。
「っ」
そう思ってガタガタと動かしてみたが、やはり開く気配はなく、
「っく!!」
その時ふすまの向こうから何やら声が聞こえてきて土方は漸く気付いた。
「てめ、そっちで押さえてやがるな!」
何かが引っ掛かっているのかと思いきや、ふすまの向こう。つまり押入の中に入っている彼女が開かないように手で押さえていたのである。
やはりこの中に隠れていた……というのは正しいが、彼女がふすまを開けられないように押さえているのは予想外だ。
「手を離してここを開けろ!」
どうにかして開けてやろうと引き手を引っ張るが、その向こうでそれに負けじとは抵抗する。
「い、いやです!」
ついでに嫌だという拒否の言葉もだ。
カチンとしてしまうのは、はっきり自分を拒まれた気分になるからだろうか。
折角話をしに来てやったのに嫌だとは何事か……と些か傲慢にさえなってしまう。
「いや、じゃねえよ! あ・け・ろ!」
「いーやーだー!」
むきになって引き手を引っ張れば向こうもむきになって押さえようとする。
必死になって押入をこじ開けようとするその構図は、なんとも滑稽であった。
「ふざけてねえで、ここを今すぐに開けろ!」
「真剣です! 開けません!」
「副長命令だぞ!」
「誰が何と言っても開けません!」
当人らは、真剣だ。
因みにもう片方から開ければ簡単に開く……というところまで考えが至らない。どうやら土方もも、熱くなりすぎているようである。
「話があるんだよ! 開けろ!」
引き手を掴みながらドンドンとふすまを叩いて彼は言った。
「わ、私にはありません!」
そうするとは即座にそう切り返してきて、思わずひきりと口元が引き攣る。
完全なる拒絶だ。これには流石の土方も涼しい顔でいられない。
「てめっ、わざわざ人が話に来てやったのに、その態度はなんだ!」
「それ、話に来た人の台詞じゃない! 喧嘩売る人の台詞です!!」
「てめえがかわいげのねえ事を言うからだ!」
「私のせいなんですか!?」
「じゃあ俺のせいだってのかよ!?」
もう一度言おう。
彼らの姿は滑稽だ。
顔を真っ赤にして、目を釣り上げて、ふすまを前に二人でぎゃんぎゃんと怒鳴り合う。
滑稽を通り越して哀れにすら思えるものである。
「とにかく、ここを開けろ!」
「い・や・で・す!」
「開けろ!! 本気で怒るぞ!!」
開けて出てこいと怒鳴れば、その気迫に押し負けたのか押入の中でが一瞬息を飲む。
好機だと思い引き手を一気に押し開こうとすれば、向こうから力のない声がこう、言った。
「なんで、構うんですか」
酷く罪悪感を煽る、悲痛な声だった。
「私は……『』じゃないんですよ」
惨い言葉だ。
である彼女が口にするにはあまりに惨くて、悲しい言葉。
言わせたのは……彼だ。
「……」
今更のように痛感する。自分はなんて酷い言葉を浴びせ続けたのかと。
後悔した所でもう遅いかもしれない。彼女の心は、そんな台詞を吐く程に傷ついていた。どれほどに言葉を取り繕った所で、その傷を癒す事は容易い事ではない。
だからといっても、このままでいわれるわけはなかった。傷つけたのは自分なのだから。
「わる、かった」
それしか言葉に出来なかった。
「俺が、悪かった」
ずるりと引き手から指が滑り落ちる。
同時に足下に視線を落とし、畳を睨み付けて彼は奥歯を噛みしめた。
腹が立った。彼女にではなく、自分にだ。
なんてみっともない真似をしたのかと、自分の事が腹立たしくて仕方がなかった。
「俺はただ……目を背けていただけだ」
目の前にある現実からただただ目を背け続けていただけ。目を背け、目の前にある事実を受け入れたくないと癇癪を起こしていた餓鬼だったのだ。
「どうしようもねえ事だったのに」
どうにも出来ない事だった。
「おまえは、何も悪くねえのに」
彼女にはどうにも出来ない事だったのに。むしろ、被害者は彼女だった。
「それなのに……おまえに当たり散らしちまった」
当たり散らして傷つけて、追いつめた。
言葉にして、改めて分かる。なんと酷い事をしてしまったのだろうかと。考えても、彼女の心の痛みなど分からない。計り知る事が出来ない。だが恐らく、自分が同じような事をされたら悲しいと思う。苦しいと思う。自分は自分だと声を上げて叫んでやりたいだろう。相手に分からせてやりたいだろう。そうしてそれが叶わなかったら……多分、壊れてしまう。自分という存在が。
「悪かった」
本当に悪かった。
心の底から申し訳ないという気持ちが込み上げ、土方は僅かに頭を下げた。矜持の高い男にとっては、それが最大限の気持ちの表れだ。
それから顔をもう一度上げて、ふすまを見つめて彼は続ける。
「おまえは、良くやってる」
ずっともっと前に、言ってあげられた言葉だ。
彼女はよくやってくれていた。右も左も分からない世界にやってきて、ただ一人よく分からない事に巻き込まれて不安だったにも関わらず、自分たちの為に一生懸命働いてくれている。
「仕事の覚えは早いし、頭の回転も良い。目の付け所も悪くねえし、何より根性がある。……普通なら、あんだけ酷え事を言われたら二度と顔も合わせたくねえと思うだろうが、おまえは違った」
自分で言って、なんだか可笑しくなった。つい笑いが込み上げて、小さな笑い声が零れる。
「ただの八つ当たりだってのに、おまえはその度にきちんと指摘箇所を直してきた。大したもんだと正直思ったぜ」
ふすまの中からは物音一つ、しない。
土方は笑いを収めると、一つ息を吸い込んだ。
「アイツじゃなきゃ駄目だと前に言ったが、そいつは訂正させてもらう」
確かに、彼女は大事な仲間だ。かけがえのない仲間だ。
なんとしてでも取り戻したい。そう今でも願っているけれど、こう思うのも確かだ。
「おまえは、あいつに負けないくらい……優秀だ」
これからも傍にいて、自分の仕事を手伝って貰いたい。そう男が本心から思う程。
「だから、」
続く言葉はちょっと照れくさい。まるで青臭い餓鬼のような台詞。だから、勢いに任せて一気に言ってやろうと思って顔を上げれば、突然頑なに閉ざされていたふすまが開かれ、中から何かが飛び出してきて――
恰好が悪い事をした。
彼女を八つ当たりで傷つけて、泣かせて。
挙げ句押入の前で押し問答。
まるでふすまに呼びかけている自分も滑稽な事この上ない。
加えて、今の状況も恰好が悪いの一言に尽きる。
「い、たた」
「いてぇ」
二人して、額を押さえて痛みに呻いていた。
一瞬、目の前に星が飛んだ。それ程の威力のある頭突きだった。それはある種の報復かと思う程、遠慮無い一撃だ。
「この、石頭」
ぼそりと呻く声が聞こえたらしい。彼女は涙目のままこちらを見て、
「ひ、土方さんだって、石頭じゃないですか」
と反論してくる。
それはただ頭自体が固いというよりは、頑固と言われた気分になって思わずムッとしてしまう。その通りだが、彼女だって頑固だ。人の事を言えないじゃないか。
「ったく、いきなり飛び出してくるんじゃねえよ。危ねえだろうが」
「な、なんですかその一言! 出てこいって言ったのそっちのくせに!」
「飛び出して来いとは言ってねえ」
「飛び出してなんかないもん! 滑っただけだもん!!」
滑ったという言葉を裏付けるように布団がふすまから滑り落ちている。成る程、あれを踏んだせいで飛び出してしまったのか。
だからといって咄嗟に受け止めた自分に頭突きをかますあたりに、彼女のささやかな報復の意図を感じる。まああの仕打ちの報復が頭突きの一つならば安いものだろう。本来ならば一生避けられたままでも文句が言えまい。
つい先程までは顔も見せてはくれなかった。話などない、会いたくもないと、ぴっちりと扉を閉めて、自分を拒んでいた。今は涙目でこちらを睨み付けているが、顔を見せてくれている。
いくら中身は違うとは言っても、自分が信頼している彼女に似た人に嫌われるのは辛い。
それに、中身が違う彼女も男は嫌いではないのだ。寧ろ好意的にすら感じる。先にも述べたように頭も良いし、根性もあるし、なにより、その目が好ましい。真っ直ぐで曇りのない瞳。まるで汚れを知らない子供のような純粋無垢な琥珀。
「なんですか。何か文句でもあるんですか」
睨まれているとでも思ったのか、は少々警戒した様子でこちらを睨み返してきた。
土方は、いや、と頭を振り、苦笑を浮かべる。
「文句はねえよ」
ただ、と意地悪く彼は言う。
もう自分を拒む事のない瞳を見て、意地悪く笑いながら。
「俺の上はそんなに居心地が良いのかとは思ってる」
「へ……うぉっ!?」
意地の悪い指摘では下を見下ろし、素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。
咄嗟に受け止めた彼を下敷きにしていたのだと今更のように気付く。それはともすれば彼を押し倒しているようにも見えるだろう。この色男を押し倒すなどと恐れ多い。青ざめると同時に今まで自分が彼の上に乗っかっていたという事実に恥ずかしくなっては赤くなったり青くなったりを繰り返しながらまた、頭を下げた。
「す、すいませんすいませんすいません!!」
その慌てようが尋常ではなくて、土方はつい噴き出してしまう。
「お、おまえ……すげぇ顔……」
「え!? 顔!? ええ!?」
何、何が変なのかと両手で自分の顔をぺたぺたと触るその様も可笑しくて、とうとう堪えきれずに笑い出した。
「ふ、はっ! おまえ、可笑しいだろ!」
「え!? なんで私が可笑しいの!?」
「ははっ、あ、はは!」
腹まで抱えて笑い転げる彼にはおろおろとするばかり。
それからなんだなんだと幹部連中が集まってくるまで、土方の笑いが止まる事はなかったそうな。

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