※これは現代からヒロインがやってきたというトリップ作品です。苦手な方はご注意下さい。
「あいつならこんなヘマはやらねえ」
やり直しだとばさりと放り返される書物の束が、の膝を遠慮なく叩いた。
瞬間――痛い、と思ったが、決してぶつけられたそれが痛かったわけではない。どれほど遠慮なく叩き付けられても所詮は紙の束だ。石を投げつけられたり拳で殴りつけられるよりもずっとずっと痛みはない。それでも、は痛いと思った。
それは彼の言葉が、だ。
「あいつ」
と誰かと比べる彼の言葉が、には痛くて堪らない。
それが、自分と同じ容姿をした、同じ名前の人物であるからこそ余計には痛いと思う。
比べられる事が、ではない。比べて、自分など同じ容姿をした自分に劣っていると言われるのが堪らなく辛かった。
自分が、ここにいる価値がないと言われているようで。
雪村がタイムスリップなどという摩訶不思議な現象に巻き込まれたのは数ヶ月前の事。
家に帰る途中で、突然自転車にぶつかられて丘をころころと転がり落ち、一体何事かと身体を起こしたら200年も昔の世界に飛ばされていたのである。
それと時を同じくして、この世界にいた一人が忽然と姿を消した。
まるで入れ替わるように、同じタイミングで。
――そう、彼女と同じ顔をした、もう一人の『』だ。
は思う。きっと彼女があちらの世界……つまり未来に飛ばされたのだろうと。何がどうしてそうなったのかは分からないが漠然と感じる。
だからがあちらに戻れば、あちらの『』はこちらへと戻ってくるだろう……というのは彼女だけではなく、彼女の話を聞いた新選組の面々も考えた事だろう。だからこそ、彼らはあまりを快く思ってはいない。当然の事だ。自分たちの仲間をあちらの世界へと飛ばしてしまった張本人なのだから。
その中でも一際……彼のへの風当たりはきつかった。ずっと傍にいたからと、教えられた。
ずっと傍にいて、支えていたのは彼女だったからと。
そんな彼女を自分が奪ってしまったと思えば申し訳なくて、はその代わりになれればと努めた。無論、この世界の事をよく分からない彼女には到底代役など務まるわけもない。文字も読めないし、書けない。真剣も握れず、町だって一人で歩く事もままならないのだ。代役どころか、逆に脚を引っ張る事が多かっただろう。それでも、何かの役に立てれば。
そうして空回る度に、突きつけられる。
「あいつならこんなヘマはやらねえ」
彼女の存在の大きさ。
自分の存在のちっぽけさ。
「あいつだったら」
分かっている。自分などでは代わりにならない事なんて。百も承知だ。
それでも、言葉を聞く度に胸の奥が痛んだ。
机の上には山のように書物が積み上げられている。
今回戦うべき相手は、それだ。何十冊とある本を、要約して紙に書き写すのが今回の役目。そして期日は明日の朝。だというのに手を着けたのはまだ1冊。目の前の紙はほんの数枚書かれただけ。因みに残りの時間は……あと半日という所だろうか。勿論これは睡眠時間や休憩時間を入れないで、という話で。
つまり何が言いたいかと言うと、とてもとても間に合わないと言う事だ。
は溜息を吐いた。今日何度吐いたか分からない。溜息を吐くたびに手と思考が止まり、それは為にならないと分かっていても止まってしまった思考を動かせるには暫し時が必要だった。
決して大量な仕事の量に疲れているわけではない。無論疲れているのは確かだが、出来ないと匙を投げるつもりはなかった。むしろ終わるか終わらないか、そんな仕事を任せて貰って嬉しい限りですらある。しかし、それが三度も突き返されていなければ、の話だ。
のやる気がここまで落ちているのには残り時間が少ない事よりも、三度も突き返された事にあった。それだけ自分の仕事が出来ていないという事なら落ち込むよりも先に気を引き締めるべきだと分かっている。それでも、の気持ちは浮上しない。浮上しないどころかどんどん沈んでいく一方だ。気持ちがそこまで落ち込んでしまえば山のような仕事も片付くわけもない。分かっていても、どうにも出来なかった。
「はぁ」
盛大な溜息を零しながらちらりと突き返された紙の束を見遣る。二日寝ないで仕上げた今までで一番の出来のつもりだった。自画自賛とは分かっていたが、これなら彼だって満足してくれるに違いないと手応えを感じていた。それだけに、突き返されたあの落胆といったら……言葉に表す事など出来ない。とにかく落ち込んだ。
彼が駄目だと言うのだからまだまだ自分の理解が足りないのは分かっている。でも、に出来る精一杯をしたつもりだった。逆にこれ以上はどうすればいいのかと訊ねてやりたい気持ちだったが、それは彼女の負けず嫌いの気質故か「分かりました」と答えて戻ってくる事しか出来なかった。
意地を張っていても仕方ない。期日は明日。間に合わなければ彼らに迷惑を掛ける。分かっていてもこの意地っ張りの性格が邪魔をする。そのくせに部屋に帰って落ち込んで仕事にならない、なんて更に情けなくなってくるというもの。
こんな時『彼女』ならどうするのだろう?
考えた瞬間、胸の奥が泣きたくなるくらいに痛くなって、やめた。溜息でその痛みを誤魔化すみたいに深く吐き出して。
「さん」
このままぼんやりしていても始まらない。どうにか気持ちを奮い立たせてよしと筆を持ち上げた時、ふいにふすまの外から声が掛けられた。
薄く開いた隙間から聞こえてきたのは、この屯所にもう一人居候という名の軟禁をされている少女の声。
「千鶴ちゃん?」
どうぞ入ってと声を返せば、失礼しますと声が返ってきてふすまが開いた。
彼女は中の様子を見ると驚いたように目を見開き、これはどうしたんですかと訊ねてくる。
「土方さんからお仕事もらったんだけど……」
はひょいと肩を竦め、古びた書物を開いては溜息混じりに閉じた。
「もー全然駄目」
何が書いてあるのかさっぱりと苦笑混じりに言う彼女に千鶴は足下に落ちている一冊を拾い上げて、また軽く驚いたように目を開く。
「……これを、土方さんが?」
「うん、要点だけ纏めろって」
それは無謀だ、と千鶴は思う。
何故ならそれは千鶴にとっては馴染みのあるものだが、にとっては馴染みがないものだから。いや、そもそも普通の人は馴染みがないだろう。そして、理解出来ない。決して彼女の頭が悪いと言うのではない。だってこれは誰もが目にするものではなくその道に精通した人間だけが読むものだ。そして千鶴はその道に精通しているわけではないが、彼の父がその道を歩んでいるので多少目にした事がある。古びたその書物は医学書だったのだ。
とりあえず専門的な言葉が羅列されているので普通の人間には理解出来ない。しかも何故か医学を志す人間の文字というのは癖があって読みにくいものが多く、まるで自分だけが理解出来れば良いとでも言いたいのだろうか、どの本も普通の人間には読み解く事さえ難しい文章が並んでいる。
ただでさえ分かりにくい専門書を、しかもこの時代にやって来て間もない彼女に解読させる……という行為は愚かしいとさえ感じる。千鶴は何故、と首を捻りたくなった。この仕事を任せるならばもっと適任の人間がいるじゃないか。医療班の山崎や、自分だ。それなのに何故彼女に。千鶴には分からなかった。
これがもし沖田であればすぐに「への嫌がらせ」だと結論付ける事が出来ただろうが、千鶴にはそんな考えは浮かばない。
無論嫌がらせなのか、そうでないのかは土方の心の内、なのだが。
「ほんと、嫌になっちゃうよ」
はーあとは溜息を吐いて、畳の上にごろんと両手を放り出して寝転がってしまった。
嫌になるともう一度呟く彼女の顔は笑っているが、目の奥には悔しそうな色が浮かんでいる。それは決して何度も突き返してくるあの男が憎くて、ではない。
「私ってほんとに役立たず」
自分に対して。自分の力の無さに対して。は悔しがっていた。
その気持ちを千鶴も分かる。今でこそ色々と仕事をさせてもらえるようになったが、何もさせてもらえず部屋に閉じ込められていた昔はやはり彼女と同じように己の無力さを痛感していた。非力故に、彼らとの溝を埋められない事を。だから彼女の気持ちが痛い程に分かる。でも、決しては無力ではない。少なくとも千鶴よりも頭も良いし、戦う力も持っている。馴染むのに一年という月日を費やした千鶴から見れば、ほんの数ヶ月で幹部隊士と仲良くなれている彼女は凄いとさえ思うのだ。だから役立たずなんかじゃない、と。
「ねえ、千鶴ちゃん」
ぼんやりと天井を見たままが口を開いた。なんでしょうと声を返すと、一瞬だけ迷うように彼女は口籠もって、それから諦めたみたいな顔で続きを紡ぐ。
「ここにいた『さん』って、どんな人だったの?」
「え?」
千鶴は驚いた。何故ならその話題は、あまり彼女が好かないものだったから。
誰だって他人と比べられるのは辛い。しかも同じ名前、同じ顔、同じ考えのまるでもう一人の自分とでも言う相手と比べられるのは辛いだろう。相手が自分よりも良く言われているならば尚更。
ここにやって来た当初、ほとんど全員から「はもっとこうだった」とか「彼女の方がもっと良かった」などと言われて彼女がどう思ったか。想像するに易い。傷ついた……その一言だ。だからはその話題が上がると自然と席を外すようになったし、自らがその話題を振る事など以ての外だった。それほど彼女が気にしていた事だった。それなのに突然その話題を振られて千鶴は驚く。小渡どいて何と言って良いのか分からずに視線を泳がせた。
一言で言えば『素晴らしい人』だった。
人というのはいなくなった人を美化して見る事が多いが、それを差し引いたところで評価はさして変わらない。頭も良くて、腕っ節も強くて。暖かくて優しくて、とても頼りになる存在だった。
戻ってきて欲しいと思う程に。
でも、そんな事を言えばまた、彼女を傷つけてしまう。だから千鶴は言えない。言えずに視線を彷徨わせれば、は察したのだろう。苦笑で「ごめん」と謝られてしまった。千鶴は慌てて首を振って、彼女は悪くないと言おうとしたが笑顔に遮られてしまう。もう何も言うなと言う眼差しは、あの『』とよく似ていた。いや――そればかりか、
「さて」
は一つ明るく呟くと、よいしょと反動をつけて身体を起こした。
「とりあえず今夜中に纏めないと」
「こ、これを、全部ですか!?」
呟いてまた筆を動かし始めようとするに、千鶴は驚きの声を上げた。
これを全部今夜中に纏める。そんなの無理だ。決めつけてしまうのは悪いと分かっているけれど、どう見たって無理。
も客観的に見てそうだと思うが、だからといって簡単に諦めてしまうわけにはいかない。どうにかしてみせる。
「で、でも、これを纏めようと思ったら寝る時間が、」
「うん、だから寝ないでやる」
さも当然と言わんばかりに返されて、千鶴は慌てて駄目だと首を振った。
確かは昨夜も寝ていない。前述したが二日寝ないで仕上げたのだ。そして今日も眠らなければ三日、寝ていない事になる。それでは身体を壊してしまうだろう。医者の娘としてそれは容認出来ない。
「私もお手伝いしますから、少し休んでください!」
彼女の申し出は非常に有り難く、そして助かる。医術を囓っている人間ならば何が大事かよく分かっているだろう。きっと彼女に手伝って貰えれば土方も納得してくれるに違いない。でも、だからこそ、は彼女に手を借りるわけにはいかなかった。
「だって、土方さんが私に任せてくれた仕事だから」
医術に精通している山崎でも千鶴でもなく、何も知らない自分に任せてくれた事なのだ。
それはもしかしたら二人が忙しくて手が回らなかったからかもしれない。単に暇をしているからに任せてみただけなのかもしれない。それでも、彼は人の能力を見極める目を確かに持っている。出来ない人間に出来ない事はさせない。ここに来てまだほんの数ヶ月だが、彼を見ていた分かった事だ。だから、彼はに出来ると思ったからその仕事を託してくれたに違いない。その気持ちに応えなければ、きっと彼は自分に失望してしまうだろう。そんなのは嫌だし、彼の気持ちに精一杯応えたいと思う。
そう考えると萎んでいた気持ちが見る見るうちに膨らんでいくのが分かった。何をくよくよ悩んでいたのか。悩んでいる場合ではなかった。腐っている場合ではなかった。今ここにいない『彼女』の代わりに自分はいる。その『彼女』の代わりに出来る事がある。そして彼はそれを託してくれた。ならば出来る事を精一杯やる。それがのやるべき事だ。
「そんじゃ、続きに取りかかりますか」
腕まくりをして筆を走らせ始める。
千鶴は邪魔になってはいけないと慌てて立ち上がると、すみませんでしたと声を掛けて部屋を出ようとした。
その前に、一言だけ言っておきたくて彼女は声を掛けた。
「私は、いなくなったさんが好きでした」
とても優しくて、暖かい人だったから。何の役にも立たない自分にも、他の仲間と同じように接してくれたから。
そんな言葉にの手は一度だけ止まる。
分かっているよと言おうとしたけれど、口元が歪んだだけで言葉は出なかった。彼女にも『』の方が良いと言われてしまうのは、やはり辛くて。
つい俯いてしまうと、でも、と千鶴の優しい声が続いた。
「私、今、ここにいてくれるさんも好きです」
ここにいてくれる……それはつまり、自分の事を。千鶴は好きだと言ってくれる。
彼女も好きだけど、自分の事だって好きだと。
だってと千鶴は思うのだ。
「さんは優しくて、暖かくて、とっても素敵な人だから」
どちらのが良いかなんて、そんなのない。何故なら二人は同じ名前と容姿と性格をしていて、同じように優しくて暖かいけれど、二人は全く違う人なのだから。そんな全く違う人を同じ物として比べるのは可笑しい。それぞれが違っていて、それで良いのだ。
その言葉に、強く、優しく、背中を押された気分だった。
単純かも知れないけれど、まだ、頑張れる――そう思えた。
「……」
翌朝、は書類を手に彼の元を訪れていた。
彼は差し出された紙の束をじっと見つめている。その顔は真剣そのものだ。
はその彼の前に正座をして、彼の答えを待っている。三日も寝ていないというのにその顔は妙にきらきらと輝いている。なんせ力作を越える力作が出来たのだ。昨日これが精一杯だと思っていたのが嘘のようだった。これで駄目なはずがない。いや、間違いはあるかもしれないが、彼に満足して貰えるものが出来上がったに違いない。
「……」
やがて黙って文字を追いかけていた土方が顔を上げる。
は膝の上で握った拳をぎゅっと握りしめた。緊張で鼓動が早くなる。思わず「どうでしたか?」と急いて訊ねたくなるのを堪えて言葉を待てば、たっぷりの間を空けてその薄い唇が開いてこんな言葉を吐いた。
「駄目だ」
短く、
「使い物になりゃしねえ」
この数日間のの努力を乱暴に突き返して、彼は言うのだ。
使い物にならないと。
褒められるとは思っていないが、きっと納得はして貰える。そう信じていただけにの落胆は激しかった。
その衝撃のせいか思考が働かない。やり直してくるといつものように食い下がれない。何が悪かったのかと反省点を聞く事も出来ず、ただぼんやりと突き返された紙を見つめる事しか出来ない。
そんな彼女を冷たく睨め付けながら、土方は溜息混じりに続けた。
「丸々四日もくれてやったってのに、おまえはこんなものも碌に纏められねえのか」
本当なら二日だぞと、彼は言う。二日でこれは仕上げられるべきだと。それを倍の日数が掛かった上に、出来ないとはどういう事か。
お陰で山崎の手を煩わせる事になるし、この書物を貸してくれている医者にはもう一度頭を下げなければならない。やれやれ面倒な事だと土方はわざとらしく溜息を零して見せた。
が、はやはり顔を上げない。ここまで言われたら「もう一度だけ機会を」と食い下がってくるかと思ったが、これまた見込み違いだったようで白けてしまう。いや、白けたと言うよりは苛立ちが募った。
少なくとも『』なら食い下がってくる。食い下がって「もう一度」と何度でも挑んでくる。でも、彼女はそれもない。それも出来ない。やはり『』とは……違うのだ。同じ顔をしている癖に、と男は思った。
「やっぱり、おまえじゃ駄目だな」
容赦なく叩き付けられるのは呆れたような声。
自分では駄目だという、厳しい一言。
「おまえじゃ全然駄目だ」
「……」
「あいつじゃなきゃ――」
駄目。
その言葉は突きつけられなかったが、きっとそう続いただろう。
彼女でなければ駄目。
彼女でなければいけない。
自分など要らない。
彼女でなければ必要ない。
その通り。役に立たないので在れば必要がない。此処にいる意味がない。
分かっている。分かっていた。その通りだ。
でも、だけど、
『きっと他の皆さんも同じだと思います』
その言葉を信じていただけに、彼の言葉が痛かった。
その言葉を信じてやってきただけに、苦しかった。
事実を受け入れられないくらいに。苦しくて、辛くて。
「――っ!」
は何も言わずに部屋を飛び出していた。
おい、と声が聞こえたが振り返らない。止まれない。
仕事だって置いてきてしまったけれど戻る事も出来ない。大体そんな事を考える余裕だって無かった。ただ、その場所にいることが出来なくて飛び出した。
飛び出して廊下を曲がろうとした瞬間、
「っと」
そこに立っていた誰かにぶつかりそうになる。
向こうが咄嗟に避けてくれたので正面衝突は免れた。避けられたのはひとえに彼の反射神経が良かったお陰だ。ぶつからなかった代わりに、意地悪な軽口が降ってきたけれど。
「ちょっと、子供じゃないんだから廊下は走らないでくれる?」
沖田らしい意地悪な挨拶だ。だが、怒っているのではないのは笑いを含んだ声音で分かる。ちょっとからかうだけの言葉だ。いつもならばもそれに「子供じゃないけど私は猪だから」と答えて笑った事だろう。でも、そんな余裕も勿論ない。謝る事さえも。
「――」
それは沖田も同じ事だった。
はっと上げられたの顔を見て、続けようとした言葉が喉の奥に引っ掛かった。
翡翠の瞳が丸く見開かれている。そしてそこに映り混んだ自分の顔は……
「てめぇ、!」
その時背後で土方の怒声が聞こえた。瞬間、はびくっと怯えたように飛び上がり、その弾みで「それ」はこぼれ落ちた。
気付かないでくれ、とは願う。
でも、その透明な軌跡を、沖田の瞳がじっと追いかけるのを見てしまった。
ならばどうか……忘れてくれと願うばかり。
「ったく、あいつは余計な仕事を増やしやがって」
散らばった紙を拾い集めながらぶつくさと男は一人文句を垂れる。
床に散乱するのはが置いていった紙の束だ。纏めていたそれが勢いよく立ち上がって飛び出した弾みで、ばらまかれてしまったのだ。ただでさえ忙しいというのに仕事を増やしてくれて腹が立った。しかも、自分の仕事を放り出すとは何事か。無責任な奴だと文句の一つだって言いたくなるというもの。
「随分と楽しそうな事してますね?」
ただでさえ苛ついているというのに暢気な声でそう言われて、思わずきっと顔を上げて睨み付けてしまう。
いつの間にか開けはなったふすまの向こうに沖田が立っていた。彼はこちらを見下ろして口元に笑みを浮かべている。
「紙をばらまいて、拾い集めるなんてどんな遊びですか?」
「遊んでんじゃねえよ」
そんな遊び聞いた事がない。一体それの何が楽しいと言うのか。
だいいちぶちまけたのは自分ではなくで、自分はそれの後始末をしているのである。
「ああ、なるほど。がやったんですか」
「ったく、あの野郎。突然仕事をほっぽり出して逃げやがった」
「今までねちねち苛めたから嫌になっちゃったんじゃないですか?」
「誰も苛めたりなんぞしてねえだろうが」
「そうですか?」
沖田はにこりと笑いながら問いかけてきた。
「土方さんがに期待しているのは分かりますけど、ちょっと厳しすぎるんじゃないですか?」
「そんなこと、」
「――僕たちが知っているあのだって、完璧じゃないんですよ」
言い掛けるのを止めたのは彼の静かな正論だった。
そう……『』は完璧な人間ではない。大事な所で間違えたりはしない――いや或いは大事な所で間違えた所で機転を利かせて丸く収めているのだろう――だが、それ以外はどこか抜けている所もある人間だった。優秀ではあるが、所詮人は完璧にはなれない。いやそれ故に人が好ましいと思うものなのだ。完璧な人間には魅力など何もない。ほんの少し、隙や粗があるから好ましいと思えるのだ。間違いの一つもしなければ、きっと面白みがないと誰もが嫌煙するのだろう。
分かっているが、なんだか分かっていると答えるのが癪で堪らない。恐らく分かり切った事を彼に諭されている気分になるからだ。
思わず悔しくて睨み付けながら、だが、と反論に口を開いた。口を開いたものの、言葉が出てこない。ここで詰まれば彼に言い負かされたようで気に入らなくて、あれこれと言葉を探して無理矢理くっつけてみる。
「あいつならもっと、出来た」
「かもしれないですね」
沖田はさらりとその負け惜しみじみた言葉を認めてやる。それがまた癪で、土方は眉間の皺を増やして睨め付けた。
そんなの知った事かと、沖田は足下に散らばった紙を一枚拾い上げてみる。どうやら薬の製法が記されているようだ。沖田は見た事のない単語が並んでいて、ちょっと読んだくらいでは分からない。ただ分からないが、どのような作り方をするのかは理解出来る。その程度には纏まっているということだ。だが、それでも完璧ではない。誰が見ても分かるように纏めて貰わなければならないのだ。もし万が一山崎に何かあったり、もし千鶴が屯所を出るような事になったら他の誰にも対処が出来ない。それではいけないから。その土方の気持ちも分かる。でも、
「これ以上美化するのは……酷ですよ」
沖田は言った。
どちらに酷か、と言われたらどちらにも酷だ。
だってはいつまで経っても土方に認めてもらえないし、『』はどこまでも美しい嘘で塗り固められてしまう。どちらにも限界があって、どちらだって間違える。それが当たり前の事だともうそろそろ気付いて欲しい。
「だいたい、よくやってくれてるじゃないですか」
沖田は苦笑混じりに言う。
あんな膨大な量を、無謀とも言える短期間でなんとか形に出来るくらいに仕上げてくるのだ。良くやってくれていると沖田は思う。しかも土方の八つ当たりめいた罵倒と、嫌がらせを受けてもめげずに何度もやりなおしてより良い形になるように努力している。とても数日前までは文字が読み書き出来なかったとは思えぬほどの優秀さではないか、と沖田は言った。
それに、
「あの子に八つ当たりしたからって『』は帰ってきませんよ」
「それは、」
分かってる。そんなもの意味はないと。
でも、一方では八つ当たりをしている自分に気付かされて、なんとも言えない複雑な気持ちになる。
ただ八つ当たりとは言っても決して無駄に突き返しているわけではない。彼女はもっと出来ると思うから突き返すわけで。
「ああ、はいはい。僕なんかよりもずっと傍にいる分、土方さんの方がの事は分かってますよね」
明らかに馬鹿にしたような口振りで言い、沖田は分かってますよと手を叩いてみせる。
「僕にとっては充分優秀に見えるけど、土方さんはもっと優秀だって知ってるんですよね」
「……てめえ」
「でも、知ってます? 土方さん」
馬鹿にしたような口調を、突然沖田は変えた。
その瞳に静かな怒りと蔑みを湛えて、静かに言葉を続けるのだ。
「、泣いてましたよ」
どうしても同じで在れば比べてしまうのは仕方のない事だ。似ていればどうしたって比べてしまいたくなるというもの。
でもだから要らないと。彼女でなければ必要ないと言われて、苦しんで、苦しんで、涙を零していたのだと言えば、誰より近くにいて彼女を知るはずの男は驚いて、言葉を失った。

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