「七夕の短冊、なんか書いていったら?」
  と、腐れ縁の悪友に少しだけ不機嫌そうに言われた。
  着飾って出掛ける理由が「あの男」だというのが気に入らないらしい。
  自分だって彼女いるくせにと、は心の中で呟きながら、えいと押しつけられた短冊を前に、少し、首を捻る。

  『大学に行けますように』
  これじゃあまりにつまらない。
  『無病息災』
  大事な事だけど、なんだかお年寄りみたいだ。
  『世界平和』
  ‥‥これはもうネタだな。
  とはあれこれ考えて、
  それからふと、ある事が頭に浮かんだ。

  「‥‥らしくないっちゃらしくないけど」

  この短冊を悪友に見られたら不機嫌さは倍増、もしくは死ぬまでからかわれるかもしれないが、
  それでも今夜くらい。
  一年に一度、夜空で恋人同士が出会える今夜くらい。
  こういう願いを書いたっていいのかもしれない。
  「うん」
  は頷くと、ピンクの短冊にさらさらと文字を書いていった。



  7月7日。
  世間では七夕というこの日の夜。
  天で出会う恋人達を囃し立てるのか、それとも邪魔をしたいのか‥‥
  とある場所では花火大会が行われることとなった。



  「お待たせしました」

  からころとなんだか軽やかな音を立てて走ってくる姿に、土方の目が丸くなる。

  茜色から闇の色に染まりつつある夏の空。
  蒸し暑いじめついた空気にうんざりしながら彼は待ち合わせの場所に先に来ていた。
  待ち合わせによく使われる駅前は、人でごった返している。
  目的地が同じ人間が多いらしい。
  見れば浴衣に身を包んだ人ばかりだ。
  有名な花火大会、となれば当然なのかもしれない。

  因みに土方はその花火大会に参加するのは初めてだ。

  いつもは自室のベランダからのんびりと空に上がる花火を見ている。
  わざわざ人でごった返す花火会場に行かなくても、とその日までは思っていた。
  今日だけは、別、だ。

  「土方さん!」

  からころ、となんだか軽やかで楽しげな音が聞こえてきた。
  時計を見れば、待ち合わせの1分前。
  彼女にしては珍しくゆっくりだ。
  と思いながら声の聞こえた方へと視線をやり、

  「‥‥」

  彼の目は驚きに丸く見開かれた。

  人混みをかき分けてきた少女は、からころと楽しげな音をさせながら近付いてくる。
  着慣れないそれに身を包んでいるせいで、途中、一度転びそうになり、慌てて持ち直して‥‥
  から、
  と最後に小さな音を立て、彼の傍に立つ。

  「お待たせしました」

  にこりと笑う彼女は、毎日学校で顔を合わせる生徒の一人。
  名を、と言う。
  数ヶ月前までは、小憎たらしい生徒だと思っていたのだが、今ではその小憎たらしさに愛しささえ感じる関係になっている。
  つまり、
  彼女は土方の恋人だったりする。

  勿論、
  教師と生徒、である以上、彼らは付き合っているという事を隠している。
  大抵は学校で、放課後ちょこっと話をするくらいで、外で会うという事は滅多にない。
  もし万が一誰かに見咎められた時、お互い‥‥というよりは、土方の方に多大な迷惑を掛けるとは知っているからだ。

  しかし、今回だけは、別、だ。

  イベント事に疎いが「花火」にだけは興味を示したからだ。
  そして、その花火大会が開催されると聞いて、
  「行ってみたいなぁ」
  と口にしたのがきっかけ、である。

  滅多に言わない我が儘を言ってのけた、可愛い恋人は‥‥
  今日は随分と出で立ちが違っていた。

  そりゃ、制服と私服では違うのは当然だ。
  が、それどころじゃない。

  「‥‥どうしました?」
  ひょこと首を捻る彼女が身に纏っていたのは‥‥
  祭の日に相応しい、
  涼しげな青の浴衣。

  「‥‥珍しいな」

  最初に漏れたのがその一言で、男は自分を呪う。
  違う、その言葉が彼女は欲しかったわけじゃないだろう。

  おとなしめな花を咲かせる浴衣も、それに合わせて髪をいつもと違う風に纏めているのも。
  多分彼に褒めて欲しいからそうしたに違いないのに。

  は気にした様子はなく、これですか?と己の格好を見て、笑った。

  「千鶴ちゃんのお母さんが着させてくれました。」
  せっかくの祭だから、って。
  と笑った口元は、薄いピンクのグロスで艶めいて見える。
  その折角の祭を彼のために着飾ってくれているというのに、自分は出遅れたらしい。
  まったくと一人ごちて、がしがしと首の後ろを掻いた。

  「行くか‥‥」
  促すと彼女ははいと返事をしてついてきた。
  花火会場へと向かう人が同じように移動し始める。
  人混みで彼女の装いが崩れてしまう前に、一言、

  「
  「はい?」
  振り返った男は、その姿をもう一度見て、照れたように笑う。

  「似合ってる」

  漸く、言えた。



  この街のどこにこれほどの人がいたというのだろう。
  ‥‥というほど、人で溢れかえっている。
  祭の為に道路を封鎖し、その道路も歩道にしているというのに、あまりの人の多さに、途中で流れは止まってしまった。
  因みに花火会場まではまだ、遠い。
  「‥‥すごい人ですね」
  「流石、この街の目玉イベントだな」
  暇人共が、と土方はごった返す人を見て零した。
  自分たちもその「暇人」の一員だということを見事に無視して。

  「なかなか進まねえな」
  時折、一歩ずつ人は動く。
  ただ5分に一歩ずつ、なのでゴールまでどれほど掛かるかは考えたくはなかった。
  確か、花火は川の真ん中から上げるはずで、会場はその河原だ。
  だだっぴろいはずなのだがどうして止まるのだろう?
  また何かバカをやってる人間がいないといいのだけど‥‥

  「花火8時からですよね?」
  「ああ、そうだな」
  土方はひょいと腕を持ち上げた。
  銀色の洒落たアナログ時計はただ今6時半を少し過ぎた頃だと告げている。
  あと一時間半‥‥果たして会場に着くことはできるだろうか?
  「失礼」
  が爪先立って彼の時計を覗く。
  その瞬間、真っ白な項が目に飛び込んできて、ちょっと、目の毒だった。
  おまけにシャンプーの香りだろうか、甘いいい香りがして困る。
  周りは汗のにおいで充満しているというのに‥‥

  「‥‥わー、これほんとに着くのかなぁ」
  は苦笑で踵を地面に着けた。
  「さあな」
  土方は苦笑で応え、ふわりと甘い香りが離れていくのにほっとしつつ、ちょっと残念だと思った。

  「下手をしたらここで見ることになりかねねえな」
  「ですよね‥‥」
  飲み物でも買ってくるんだったなとは呟く。
  確かにこのまま一時間半も待ってるのはツライ。
  そうですねと呟けば、後ろからどんとだれかにぶつかられた。
  はよろっとよろけ、一歩前につんのめる。
  そうすればすかさず土方の手が伸び、引き寄せられた。
  それから、自分の腕で守るように、彼女の肩に手が乗せられる。
  じんわりと肩が暖かくなるのを感じた。
  「少しくらい抜けても変わらないだろうから、自販機でも‥‥」
  探すかときょろきょろすれば、何故か、はくすっと笑った。
  「どうした?」
  突然笑ったりして、と彼はひょいと片眉を跳ね上げる。
  「あ、ごめんなさい‥‥」
  はくすくすと笑いながら謝る。
  別に咎めたわけじゃない。
  それから、彼女は目元を眇めた。
  以前までは憎たらしい笑みばかりを浮かべていた少女は、驚くほど柔らかな笑みを浮かべて、

  「なんか‥‥こういうの恋人っぽい」

  と囁く。

  からかいを含んだ声は、
  だけど、
  ひどく嬉しそうだった。
  実際嬉しいのだろう。

  彼女と土方は確かに恋人同士だが、恋人らしい事は一切していない。
  教師と生徒という立場から一緒に出掛けることは叶わない。
  放課後の短い時間、一緒にいられるだけで満足だと彼女は言うが‥‥それだけ。
  抱きしめることも、キスをすることも、
  手を繋ぐことだって、今まではできなかった。

  ただ、肩に触れている。
  男の大きな手に守られている。
  それだけで、はひどく満たされたようだった。

  「‥‥」
  土方はそんな彼女に、きゅうとなんだか胸をわしづかみにされた気がした。
  なんだか、無性に愛おしくなった。
  人目がなければいっそ抱き潰してやりたいくらいだ。
  それをどうにか堪え、彼は苦笑で「ばぁか」と呟いた。
  突然馬鹿と言われたはなんでですかと唇を尖らせる。
  尖らせるが、
  するりとその大きな手が滑って、

  「‥‥あ」

  は続く抗議の言葉を飲み込まざるを得なかった。

  土方の手が、
  自分の手を包み込んでいたから。
  開いた手に、指を絡ませ、
  彼はゆったりと感触を確かめるように握りしめた。

  「土方さ‥‥」
  「んなことしなくても、俺たちは恋人‥‥だろ?」

  驚きに目を見開く彼女に、少し、気障だなと思いながらそんな言葉を告げる。
  呆気に取られた彼女は、次の瞬間、頬を赤く染め、

  「‥‥はい」

  次には、こちらが蕩けてしまいそうな、甘い、甘い笑顔を浮かべた。
  そうして、確かめるようには彼の手を握りしめた。

  その瞬間だった。

  「土方先生?」

  『先生』
  という単語を聞いた瞬間、まるで反射のように土方の手が離れた。
  それはまるでふりほどくといった感じだった。
  「!」
  温もりが突然離れ‥‥
  は思わず彼の顔を見上げた。
  しかし、彼はこちらではなく背後を見ていた。
  何故かものすごく‥‥
  胸が痛かった。

  土方は振り返った。
  少し離れた所に、見知らぬ男女ペア。
  背格好からすれば、と同じ高校生、だ。
  きっと彼女と同じ学校の生徒。

  まずいと彼は僅かに焦りの滲む舌打ちを一つ。
  それをは、確かに聞いた。

  次の瞬間、まるで謀ったかのように、ぞろと人が動き始めた。
  そしてその時、はまるでその流れに分断するように列から出ていこうとする。
  「っ‥‥」
  名を呼びかけ、止める。
  なんせ彼女は有名人だ。
  ここで名を呼べば完全にバレる。
  「待て」
  と腕を伸ばしたが、その手をするりとすり抜けられた。

  2メートルも離れていない所なのに、人の波のせいで、近寄れない。
  は振り返った。

  「大丈夫だから」

  と声を上げて、笑った。

  二人の関係がバレたら大変な事になる。
  だから彼は手を離した。
  は離れた。
  それは分かっていた。

  でも、

  「だいじょうぶ」

  と言って笑う彼女の笑顔が、少しだけ悲しそうな気がして‥‥

  「おい!!」

  次の瞬間、波にのまれた。
  もう、見えない。


七夕