『あんたたちは一体どういう関係なんだい?』

  不躾なその問いかけに、私は応える術を持たない。
  私こそが聞きたい。
  どういう関係なのかと。

  強いて言うなれば、

  彼は人間で、
  私は、鬼。

  それだけ。





  左之さんの帰りが遅い。
  茜色の空が段々と闇のそれへと浸食されていくのを見ながら、私は茶碗をそっと机の上に並べる。
  決してとんでもなく遅い時間‥‥ではないんだけど、いつもならこの時間にはもう戻ってきてくれていた。
  日本とは違う外国の地、ということで私の知り合いは極端に少ない。それは彼も同じなんだけど、それを気遣って、彼は
  あまり私を一人にしないようにしてくれている。
  一人だと退屈だろうというのと、あと、一人だと危ないから。
  元副長助勤だというのを彼は忘れているんじゃないか‥‥というくらい、こちらに移ってからは過保護になったと思う。
  ああでも、元々、彼は過保護だったかもしれない。

  「‥‥何かあったのかな?」

  そんな事は考えたくない。
  だけど、帰りが遅いと不安になってしまって、私はそっと腰を上げた。
  襷を外して、手早く外に出ても恥ずかしくないように着衣と髪とを整えると、草履を引っかけて外に出た。
  門を潜った所でで、

  「あ‥‥」

  通りの向こうに彼の姿を見つけた。
  無事な様子にほっと安堵の溜息を漏らしたものの、彼の横には女性が立っていて、

  「‥‥ぁ‥‥」

  とんでもなく不安に駆られた。

  彼の横に立っているのは、可愛らしい女の人だった。
  見覚えのあるその顔は‥‥確か、通りを二つほど向こうに住んでいる妙さんという人だ。
  大和撫子という言葉が良く当てはまる、奥ゆかしい女性。

  彼女は鈴が鳴るような愛らしい声で笑いながら、彼の横を並んで歩いていた。

  その瞳が、私を見つけて、僅かに驚いたように開かれて、止まる。
  並んで歩いていた彼は、それに気付いて歩みを止めて、視線をこちらへと向けて、

  「

  私を呼ぶ。
  この時になって、なんだか呼吸が苦しい事に気付いて、私はお腹の奥に溜まった重たいものを吐き出すように溜息を零し
  て、すぐに、笑みを浮かべて応えた。

  「お帰りなさい。左之さん。」

  出迎えの言葉を受けて、彼は大股で近付いてくると、悪かったなと眉根を寄せて後ろ頭をかりかりと掻く。
  「ちっと遅くなっちまった。
  変わりはなかったか?」
  「はい、大丈夫です。
  ‥‥仕事、忙しかったんですか?」
  訊ねると彼はまあな、と曖昧に笑って、それから、見ろよ、と手に持っていた包みを掲げてみせる。
  風呂敷の中には綺麗な大根と南瓜が包まれていた。
  「妙さんがくれたんだよ。」
  一定の距離を保ったまま近付いてこない彼女を振り返った。
  妙さんを。

  「たくさん、採れたのでよろしければ召し上がってください。」
  「悪いな。」
  「いいえ。私でお役に立てれば嬉しいです。」
  「そう言ってもらえると助かるぜ。」

  そっと目元を細めて左之さんが笑う。
  彼みたいに顔の整った色男が笑うと、大抵の女の人は見惚れてしまう。
  それは勿論私も同じで、彼女、妙さんも同じだ。
  ぽっと頬を薄桃色に染めて、恥じらうように「いえ」と視線を落としてしまった彼女は、なんだがとっても可愛らしくて
  私は羨ましいなぁと思った。
  羨ましいのはその可愛さだけじゃない。
  羨ましいと思う。

  彼女は‥‥彼と同じ、人間だから。



  『あんたたちは一体どういう関係なんだい?』

  彼、左之さんを慕う女性からあからさまな敵意の眼差しでそう訊ねられた事がある。
  私と左之さんはどういう関係なのかと。
  一つ屋根の下に住んでいる、というのに、私たちは赤の他人という関係だ。
  夫婦ではない。勿論兄妹でもない。
  敢えて言うならば仲間だろうかと思ったけれど、それも今では違う気がする。

  だから分からないと答えれば頬を張られた。
  避けたら、よく分からない言葉で怒鳴られた。

  彼女らは不安で仕方ないんだろう。

  でも、安心して欲しい。

  私が彼の妻になることはない。
  彼はただ、私をここに連れてきてしまった事に責任を感じて、一緒に暮らしてくれているだけだ。
  私が彼の妻になることは絶対に、ない。

  だって、
  彼が望む夢に、私は入っていないのだから。

  私は、

  鬼だから。


  「御免下さい!」
  夜分、随分と遅くに玄関の戸が叩かれた。
  灯りをすっかり消してしまっていた為、あたりは真っ暗だった。
  夜目に慣れている私が布団から飛び起きて、はいと声を返しながら部屋から出る。
  「
  廊下を急ごうとしたら向かいの襖が開いて、左之さんが私の手を取った。
  なんだろうかと顔を向ければ、彼は険しい顔で頭を振った。
  「危ねえだろうが。」
  何が?と首を捻ると、彼は一層眉間に皺を寄せて、
  「こんな時間に、女が外に出るな。」
  と言った。
  女、という言葉に呆気に取られつつ、どきりとしている瞬間に先を越され、彼は大股で廊下を渡りきると、草履を履いて
  玄関へと降りる。
  鍵を開けて扉を開くと、そこに、
  「妙さん?」
  彼女が立っていた。
  どういうわけか、彼女はひどく切羽詰まったような顔で出迎えた左之さんを見上げて、
  「左之助さんっ」
  彼の逞しい胸に飛び込んだ。
  それを難なく受け止めた彼は「おい」と戸惑ったような声を上げている。しかし、妙さんは彼の胸にしがみついて、今度
  は泣きだしてしまった。
  「‥‥なんだよ、どうしたんだ?」
  左之さんは、困ったような声で、だけど、優しく泣いている彼女の背を撫でて落ち着かせようとしていた。
  そうすればそうするだけ妙さんの涙は止まらなくなり、縋り付く手に力と想いが込められる。

  私は、
  なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて部屋にすっこんだ。

  お腹の奥が気持ち悪かった。
  どろどろとした醜い感情が渦巻いている気がして、ああ、これが嫉妬というものなんだと分かった瞬間、私は自分を嗤い
  たくなった。
  だって、嫉妬する資格などないのに。
  私はただの同居人。
  それ以上でもそれ以下でもない。
  だって、鬼だから。
  だから一緒になどなれるはずがない。

  そう‥‥分かっているのに、未だにここを出ていけない自分が、おかしくて、嫌いだ。



  妙さんは無理矢理嫁がされるらしいということを翌日聞いた。
  どうやら近くに住む男が彼女を見初めて、嫁に欲しいと言ってきたのだそうだ。
  そして両親は快く承諾し、彼女を嫁にやろうという事になったのだが、それが嫌で飛び出してきたらしい。
  理由は、聞かなくても分かる。
  妙さんには想い人がいる。そしてその相手は、彼、左之さんだ。

  「‥‥とりあえず、俺が話をつけてくる。」

  どうしても帰りたくない、という妙さんの代わりに、左之さんが家で預かっていると言うことと、彼女がこの縁談を嫌が
  っていると言うことを伝えるべく彼女の家へと出向くことになった。
  残された私は、妙さんとふたりきりになる。
  二人で、黙って、お茶を飲みながら彼の帰りを待った。
  なんだか、妙に空気が重たかった。
  かといってお客さんを残したまま用事を済ませるわけにもいかなくて‥‥どうしたもんかと悩んでいると、ぽつりと彼女
  が口を開いた。

  「不躾な事をお聞きしてもよろしいですか?」
  「‥‥なんでしょう?」

  不躾だと分かっていながら訊ねる、というのはある意味強者だなぁと思いながら聞き返すと、涙で真っ赤になった目をち
  ろりと上げて、彼女は問いかけた。

  「あなた方は、一体どういう関係なのでしょうか?」

  もう、何度も聞いたことがある質問。
  だけど、一度としてまともに返事が返せた事がない質問。
  聞かれるとは分かっていても、答えを用意していなくて、私は困ったように笑う。
  「‥‥なんなんでしょうねぇ‥‥」
  まるっきり他人事のように呟いたそれに、妙さんがむっとしたのが分かった。別に彼女をからかっているわけじゃない。
  「では‥‥質問を変えます。」
  「はい?」
  「あなたは、左之助さんをどう想っていらっしゃるんですか?」
  彼を、どう想うか?

  一言で言うならば「好き」だ。
  多分彼女の言う好きと同じ。
  仲間でも兄でもなく、男として愛している。
  それは嘘偽り無い気持ちだ。
  でも、

  「‥‥彼は、同居人です。」

  私はその気持ちを外に出すわけにはいかない。
  彼女にも、それから、彼自身にも、伝えるわけにはいかない。
  だって、私は『鬼』だから。

  この気持ちを知れば、彼との関係は崩れる。
  ただの同居人にはなれないし、だからといって夫婦にもなれない。
  だから、私はこの気持ちを隠し続けなければいけない。
  誰にも。

  「っそれじゃ‥‥」

  妙さんは私の答えに不満だったのか、彼女らしくもなくきつい眼差しを向けて言葉に詰まった。
  感情が高ぶりすぎて言葉にならずに、ひくりと嗚咽を漏らして、ぼろっと涙を零した。
  私を見る目には憎しみの色と怒りの色。それはそうだろう。
  愛する男を独占している私が、彼に同居人以上の感情を抱いていないと知れば、怒るのは当然だ。

  彼女は言った。

  「彼が、不憫です。」

  全くその通りだと心の中で応えた。
  私は、
  彼を縛り付けている。
  この居心地の良さに、彼の優しさに、甘えて、縛り付けているに過ぎない。
  もう既に出ている答えを、未来を、選びたくなくて先延ばしにしているに過ぎない。

  「‥‥私に‥‥」

  妙さんは涙しながら訴えた。

  「私に、左之助さんをください。」

  お願いしますと泣きながら言う彼女に、私は、小さく、こう、告げていた。

  「彼を、お願いします。」

  頭を畳に擦りつけんばかりに下げて、彼女は懇願した。
  そうまでして、彼を欲しいのだと、私に教えた。
  そんな彼女を前にして、
  私が嫌だと言えるわけがなかった。

  ――答えを、選ぶ日がきたんだ。



  その日の夜。
  私は彼が寝静まったのを確認するとむくりと起き出した。
  そうして、枕元に置いてあった着物に手を伸ばした。
  置いてあったのは昔、そう、まだ私たちが新選組に与していた頃、身につけていたものだ。
  男として偽って、彼らと友に戦っていた時の。
  懐かしいなと思いながら袖を通す。もう、男に戻る事などないと思っていたのにと。
  彼が女としてここに置いてくれていたから。
  だけど、女として何一つしなかった。
  最後の最後まで、私は‥‥

  「‥‥」

  帯をしかと締め、久遠を腰に差す。
  そ、と襖を開いて、廊下を覗く。
  人の気配は‥‥ない。
  襖を閉めると、今度は庭に面した障子戸を開いた。
  濡れ縁に腰を下ろして予め用意しておいた草履を履きながら、もう一度だけ振り返る。

  「ごめんね。」

  私は謝ることしかできなかった。
  今までいっぱいいっぱい、彼には迷惑を掛けた。
  鬼として生きる事を嫌った私を戦場から連れ出し、守って、そして私が苦しまなくて済むように鬼とは関わりのない所ま
  で連れて来てくれた。
  何一つ恩を返せていないっていうのに、それだけじゃなく、私は逃げるようにしてここを出ていく。
  直接「さよなら」も「ありがとう」も言えない自分のなんと情けないことか。
  それでも顔を見て言う勇気はなかった。
  ごめんなさい。
  ごめんなさい。

  私は心の中で何度も告げる。
  そして、最後に一言だけ、

  「大好き。」

  彼に伝えたかった想いを口にして、走り出した。

  これからどうしよう‥‥という事は考えない。
  とにかく走って走って、もう二度と戻れない所まで走ろうと思った。
  それだけだ。
  その先は、まだ――


  「どこに、行くつもりだ?」


 くるりと庭を走り、門を飛び出した。
  人通りのない通りを走り抜けようとした瞬間、横合いから掛けられた声に、私はぎくりと肩を震わせた。

  この、声、は‥‥

  「どこに行くつもりだ?」

  怒りさえ孕んだ声がもう一度私の耳に届く。

  足がまるで縫い止められたように固まってしまって、私は逃げ出すことが出来ず、振り返るしかなかった。
  差し込む月明かりに照らされた門塀に、その人は長身を寄りかからせて立っていた。
  両腕を組み、ひどく怒ったような顔で、こちらを見ている。

  榛色のそれが私をじっと見つめていた。