「――何処へ、行くつもりだ?」

 低い、声が、聞こえた。
 今ここで聞こえるべきではないその人の声。普段馬鹿をやった時に怒鳴りつけるのとは違う。拳骨を落としたり、刀を抜いたりはしないけれど、だけどその静かな声は何よりも怒っている声だ。
 身体が一瞬凍り付き、そしてはしまったと顔を歪める。
 目が見えない事がこんな時に災いするだなんて。目が見えないからこそ注意深く気配を探る必要があったのに。今更悔いても仕方がないが、もっとこうしていればと思わずにはいられない。
 何故なら彼に見付かった時点で、彼女の目的を果たす事は難しくなるのだから。
 悔しさに唇を噛みしめる。そんな彼女を見て、土方はついと双眸を細めた。その表情は酷く冷たい。が瞳の奥は激しい怒りで燃えさかっている。ともすれば腹の奥に溜まった物を全て吐き出してしまいたい程、彼は激怒していた。
「俺は隊士を呼んでくるから、部屋で待ってろと言ったはずだ」
 逃げ延びる支度をしておけと彼女に伝えたはずである。それに彼女ははいと頷いた。それなのに何故こんな所で、そんな恰好でいるのか。
「待ちきれなくて出てきたって風じゃねえよな?」
 なんせ彼女は寝間着のままだ。まあ目が見えないのだから見えなくて当然なのかもしれない。だが、草履さえ履いていないのはおかしい。目が見えなくても足の感覚はあるだろう。
 そのくせ、しっかりと愛刀だけは手にしている。魂とも言えるものだから思わず手にしていたとしても不思議ではない。
 だが、彼女は違う。そうじゃない。女だからと馬鹿にするつもりではなく、彼女が刀を手にする時は人を斬りに行く時なのだ。
「もう一度だけ聞くぞ」
「……」
「何処に――行くつもりだ」
 強い声には誤魔化しや嘘など通用しない。真実を答えねば許さないという響きがある。
 そして彼は問いかけながら、の答えを知っているのだ。本当に、酷い男である。
「此処に残って、戦います」
 彼女がそう答える事など百も承知だった。それでも淀みなく告げられた言葉に、奥歯をぎりりと噛みしめてしまう。
 強く噛みしめ、やがて溜息と共に言葉を吐き出す。
「目が見えねえって状態でどうやって戦うつもりだ?」
「音で、聞き分けます」
「馬鹿が。戦場でどれだけの音が入り乱れてると思ってるんだ」
「聞こえてくる音全てを斬ればいい」
「味方も斬るつもりか」
「味方を斬る事はありません」
 何故と問いかける。その答えも分かっていて、それでも何故と彼女の口から答えを求めた。
 はやはり躊躇わなかった。
「此処に残るのは――私一人です」
 だから、聞こえるのは全て敵の音だ。
 隊士にも戻らせないし、土方だって五稜郭に戻って貰う。此処に残るのは自分一人で十分だ。でなければは全ての音を生み出すものを殺し尽くしてしまう。もしかしたら罪もない人間を殺してしまうかも知れない。その時は、地獄で八つ裂きになってやるさと嗤った。
「死ぬ気、か」
 そんな事、聞かなくても分かっているじゃないか。
 彼女はここで、死ぬつもりだという事は。
 置いていってくれと言ったのは決して退く為ではない。彼女は此処に残って、迫り来る敵を出来る限り殺し尽くして、彼らと共に死ぬつもりなのだ。
 自分を、ほんの少しの時間でも生きながらえさせる為に。
 そんな事、させられるわけがないじゃないか。
「土方さん、腕を」
 大きな手に手首を掴まれた。離してと言えば、彼は嫌だと頭を振った。だけどそれでは視力を失った彼女には見えない。だから嫌だとはっきりと意志を言葉にした。
「離さねえ」
「……土方さん。これが一番なんです」
「だとしても、断る」
 決して離してなるものかと強く、だけど優しく掴んでくれる彼の手の温もりが、感触が、を酷く苦しめる。そんな風に引き留められたら、迷ってしまう。これしか方法がないのに。
「離して」
「いやだ」
「私は、足手まといにしかならない。あなたの枷にしかならない」
 そんなものには絶対なりたくない。
 きっと彼は自分が危ない目にあったら迷わず飛び出してくれる。が迷わず彼を庇ったように。その身体全部でを守ろうとしてくれる。そんなの嫌だ。彼が自分のせいで死んでしまうなんてそんな事、絶対に。
「枷になんか、ならねえ。おまえなんか軽いもんだ」
 だけど彼はそう言って笑うのだ。人の命なんて何よりも重たい枷のはずなのに。それがどうした、それごと守ってやると彼は笑い飛ばしてみせるのだ。
 その言葉を信じたい。彼を信じ抜きたい。でも、現実は違う。新政府軍とこちらでは圧倒的な力の差があるのだ。彼が例え羅刹の力を使ったとしても無駄だ。そんなものでどうにも出来ない程、戦力の差は歴然なのである。
「お願い……私を置いていって」
 悲痛な響きを湛えてが零す。
 何故そんな事を乞われなければならないのか。死なせてくれと願われなければならないのか。何よりも愛しい女に、自分を守って果てさせてくれだなんて切望されなければならないのか。
「いやだ」
「土方さん!」
「行かせねえ」
「お願いだからっ!」
「頭を下げたって駄目だ」
「どうして!?」
「なんでおまえこそ、死にたがる!?」
 非難めいたの声にぶちりと何かが切れた。それは今まで押し留めていた怒りだ。あっさりと受け入れてしまえた彼女に対して、何よりあんなものの為に彼女を傷つけた自分に対しての。腹の奥にどろどろと溜まったものを土方は感情のままに吐き出していた。
「なんでおまえはそんなに死にたがる!? 命を捨てたがる!?」
「それはっ」
「俺の為だと言うんだろう? ああ知ってるさ。分かってるさ。だが俺がそんな事をおまえに言ったか? 俺を守って死ねと一度だっておまえに命令したか!?」
 そんな事言った覚えはない。言うつもりもない。彼女に死ねだなんて口が裂けても言わない。寧ろ生きてくれと願っている。自分の為になんぞ死なずに、自分なんぞを忘れて生きてくれと。幸せになってくれと。それなのにこの勝手な女はこれこそが正しいのだと決めつける。彼女が死んで土方が生き残る道が一番なのだと。それが彼女の想いなのだろう。惚れた男にずっと生きていて欲しいという願い。だけどそんなの願い下げだ。そんな事を彼女が願い、勝手に死ににいこうというのなら、彼ももう止めてやらない。
「おまえが此処で死ぬってんなら、俺は何が何でもおまえを連れて行く」
「だ、めっ、」
「おまえの意見なんざ聞いちゃいねえ。おまえが勝手に決めたように俺もしたいようにする。どうせ俺たちが思う事はどこまでいっても平行線だ。どっちかが折れなきゃ共倒れなんだよ」
 だったら、と男は唸った。低く獰猛に。
「俺はおまえの願いをねじ曲げてでもおまえを連れて行く」
「土方さん、分かってよ!」
「わからねえよ!!」
 どう、感情を抑えたらいいのか分からない。自分の感情をどう表現したら良いのかも分からない。ただ何故彼女は分かってくれないのかという苛立ちが男に声を荒げさせるのは確かだ。何故、どうしてと、聞き分けのいい振りをする彼女を詰った。
「俺に、また大事なものを見捨てろっていうのかよ!?」
 あの時、近藤を見捨てた時と同じように。あの時のように惨めで、辛い思いを彼女は自分に強いるのだろうか。自分の為に大切な誰かが犠牲になるあの苦しみを。悲しみを。
「俺はもう二度と御免だ!」
「いっ」
 ぐいと力任せに引っ張られ手首がみしりと音を立てて軋む。痛いと言っても彼は離そうとしない。その顔を憤怒で染めて、を引っ張った。
「おまえを連れて帰る。何があっても」
「ひじか、」
「俺の為に死にたいだなんて、そんな勝手な事、認めるわけにはいかねえよ!!」
 ――そう怒鳴りつけられた瞬間、ぶちりと胸の内が張り裂けるような音を聞いた気がした。それはの心を雁字搦めにしていた鎖が、引きちぎれた音だった。

「だったら、私にどうやって生きろって言うんですか!?」

 心が張り裂けてしまいそうな、悲痛な叫び声に頬を張られた気がした。
「私は、私はもう、何も見えないんですよ!? 何も見る事が出来ないんですよ!? 光も、何も感じない! ただ見えるのは闇だけなんです!」
 苦しそうに顔を歪めては胸の内を吐き出した。吐き出す事も辛いのか、時折喉を震わせて、ひっと嗚咽を漏らして。だけど止められずに彼女は留める事が出来ない想いを吐き出す。
 振り切れた感情を吐き出す彼女の苦しみを、彼は分かっていると言ってやる事は出来ない。ただすまないと、悪かったと謝ることしかできない。彼女から光を奪ったのは自分だから。だから彼女が絶望し、この世から消えて無くなってやりたいという気持ちを軽々しく分かるとも言えないし、そんな事を言うなと叱りつける事も出来ない。それでも死んでくれるなと、絶望しても死んでくれるなと願うのは男の勝手なのだ。
「そんな世界でどうやって生きていけって言うの?!」
「……すまない」
「私にどうやって生きろっていうの!?」
「すまなかった」
「ねえ、私はどうやって生きていけばいいの!?」
「俺の、せいだっ」
 喉が震えた。悲痛な彼女の叫びに目頭が熱くなる。だけど、泣いてはならない。彼には泣く資格などないのだ。
 何故なら彼女にそれほどの苦しみを与えたのは他の誰でもない彼なのだから。
「俺がっ、俺がっ、あんなちっぽけなもんに縋ったりしなけりゃ」
 思い出なんてものに執着しなければ。
 はこんな苦しい思いをすることはなかった。
 全部全部、自分のせいなのだ。
「俺を、恨んでくれ」
「っ」
「おまえから全部奪った俺を、恨んで」
「わたし、はっ」
 そんな事を言わせたいんじゃない。そんな事言って欲しくない。何度も言ったじゃないか。彼のせいじゃないと。彼は悪くないと。自分を責めて欲しいんじゃない。自分の存在がを苦しめているだなんて思って欲しくない。ただ分かって欲しいのだ。この苦しさを、辛さを。そうして楽にしてくれれば良いのだ。でなければもう、
「やだ、よっ…」
 ずるとは膝から崩れ落ちた。膝に触れたのは濡れた草の感触だった。
 ふわりと花の甘い香りがしたけれど、にはその花がどんな色をしているのか分からない。赤だと言われても黄色だと言われても、それが本当なのかは分からない。もう二度と見る事が出来ないのだから。見えるのは闇だけなのだから。
「私……こんな世界、やだよぉ」
 ほとりと、どうしようもない弱音が零れてしまった。
 同時に涙が溢れ、白い布をまた濡らす。
 こんな世界、いやだ。
「こんな真っ暗で、何もない世界、いやだっ」
…」
「誰もいないの、誰もここにいない。私一人しか存在しないの!」
 他の誰もここにはいない。声は聞こえても、その姿を探す事が出来ない。
 闇の中で必死に捜しているのに。
 こんなに、近くにいるはずなのに。

「あなたが何処にも――いない…っ」

 それが辛くて堪らないのだと、は泣いて訴えるのだ。

 泣いたところで、喚いたところで、何も変わらない。自分の目はもう二度と、何も映す事が出来ない。光さえも。ただ闇の中に閉ざされたまま。嘆いたところで何も変わらない。残酷だがそれが事実だ。受け入れなければならない。
 だから受け入れた。何も言わずに。
 だけど、受け入れたとしても、それがどうしようもない事だと分かっていても、の心には一つの感情が浮かんで消えなかったのだ。
 それは――恐怖だ。
 光を失った事へのではない。彼を、感じられぬ事への恐怖だった。
 この目で一生、彼の姿を見る事は叶わない。見る事が出来るのはただの闇だけ。彼が今どんな表情をしているのか、には見る事が出来ない。その声でしか、彼を感じられないのだ。
 もしその声が聞こえなくなったら? もし今聞こえているものが幻だったら?
 あの時本当は土方は死んでしまっていて、自分一人が取り残されているのかも知れない。それを確かめる術は彼女にはもう無いのだ。この先一生なくなるのだ。この目で何を見る事も出来ないのだから。闇に閉ざされてしまったのだから。
「だったら、もう、殺してっ」
 いっそもう、ここで死なせて欲しい。
 彼を感じられなくなるというのならば、ここで死んでしまいたい。そうすれば不安に思う事もない。
「こんな世界、嫌だ…」
 たった一人きり、愛しい人の姿だって存在しない孤独な世界。自分さえも曖昧な世界。
 黒く深い闇はとても冷たい。温もりなんて何も感じない。寂しくて、苦しくて、堪らないのだ。
「こんな場所に、一人でっ」
 置いていかないでくれ――は心の底から願った。
 もし、彼がを置いて戦いに赴くというのならばはこの世界に一人、取り残される事となる。一生。その闇に閉じ込められて。ならばいっそ、死なせて欲しい。ここに彼が感じられる内に、この命を散らせて欲しい。

「この――大馬鹿野郎、がっ」
 温もりが、自分を包み込んだ。
 それは忘れるはずもない、愛しい人の温もり。すっぽりと身体を覆われていた。顔を押しつけるとふわりと男のにおいがする。耳を押しつける彼の心音を感じた。確かにある彼の存在に縋っては泣いた。土方さんと名前を呼ぶと耳元でくそと苦しげな声が聞こえた。
「なんでおまえはいつも、最後までてめえの言いたい事を我慢するんだよ」
「ひじ、かたさっ」
「辛いって。苦しいって。なんで言ってくれなかったんだよっ」
 そうしたらもっと早くに手を差し出せたのに。怖くないと、傍にいると、その手を取って上げられた。彼女が捜すよりも先に、自分から迎えにいってやれたのに。
「それなのになんで、おまえはいつだってっ」
 全部自分の中に閉じ込めてしまう。土方を想って全てを自分の中で殺してしまう。そんな事をさせたくはないのに。
 きっと声と同じで苦しげに顔を歪ませている事だろう。彼を困らせるつもりなんて、苦しめるつもりなんてなかったのに。それでもどうしても堪えられなかった。自分の弱さを許して欲しい。
「ごめん、なさいっ」
「謝るな」
「ごめ、なさ……」
「謝るなって言ってんだろうが」
 もう何も言うなと言うみたいに、ぐと女の頭を己の胸に押しつける。
 は腕の中で泣いた。泣いて泣いて、泣き倒した。
 彼への罪悪感、自分の弱さに対する嫌悪感、光を失った事への恐怖、これからの不安。それから、一人では無いという安心感。それらが一気に押し寄せ、に涙を零させた。
 彼女の不安や、恐怖を分かってやる事は出来ない。代わってやる事は出来ない。
 でも、と男はその背をしっかりと抱きながら教えてやった。
「俺は、此処にいる」
 彼女の傍にずっといるのだと。


「いいか、よく覚えていろよ」
 引き裂かれるような痛みが、狂ってしまいそうな快楽が、の身体を襲う。
 視覚を奪われている分身体は貪欲になるというのか、与えられる全てが強烈で、は涙を零しながら必死に置いて行かれまいと縋り付いた。
 女の爪が背中に食い込み、じりと浅く皮膚を裂く。土方はその痛みも忘れるまいと自分の中に刻みつけた。痛みも、快楽も、彼女の温もりも、感触も、声も、涙も、全部全部。なに一つ零すまいと。
 そして彼女の身体にも忘れさせまいと刻みつける。強く、激しく。
 この狂おしいまでの想いを、全て。
「その五感全部で俺をしっかりと覚えておけ」
 これが土方歳三という男の全てだ。何も偽らない、飾らない、在るがままの男の全て。
「土方、さっ…」
「これが、おまえの愛した男の全部だ」
 忘れるな。

 そう傲慢に命じた男が、にやりと口元を歪めて笑うのが……ぼんやりと見えた気がした。



 それから土方達が五稜郭に戻ったのは、二日後の事であった。
 二人の帰還に、大鳥は涙を流して喜んでいたらしい。それを土方は仕方のない上官だと苦笑を零していた。
 そしてそれから二日後、は再び五稜郭に訪れた医者によってその目の様子を見て貰う事になったのだが、

「一過性の……失明?」
 問いかけに大柄な医者はふむと頷いてみせる。
「恐らくは、頭を強く打った後遺症というやつでしょうな」
 脳が強い衝撃を受けた事で、一時的に視神経がやられていたのだろう。脳と目は直結しているから、と医者は笑った。
「それは、つまり」
「ああ。君の目はもう大丈夫」
 安心しなさいと優しく笑う茶色い瞳を見て、は複雑な顔をするしかなかった。

「ど、どうしよう!!」
 一人部屋に残されたは頭を抱えていた。部屋の外からは慌ただしく走り回る音が聞こえている。皆戦の準備に追われているのだ。本来で在ればもそれを手伝わなければならない。だけれども、彼女は部屋の中でどうしようと頭を抱えているのだ。
 そんな自分の姿が硝子に映っている。なんて滑稽な姿を……と思えるのもその目が見えるようになったから。これは喜ばしい事であった。無論も喜んでいるのだ。あのことがなければ。
「私、合わせる顔がないぃいい!」
 がばりと頭を抱えたまま長椅子には突っ伏した。
 三日前、自分は一体どんな醜態を曝した?
 目が見えないと泣いて、喚いて、情けない弱音を吐いて、彼を困らせて、縋り付いて。挙げ句の果てには彼の優しさに甘えて、ここまで戻ってきたのだ。あの場で死ぬと決めた癖に、生きながらえてしまったのだ。
 ああもうなんて早合点をしてしまったのだ。見えなかったのはあの時だけだったのに。もう少し大人しくしていればあんな醜態を曝す事もなかったのに。泣き喚いて、みっともない弱音を吐いて彼を困らせる事だって。
君?」
「っ!?」
 頭を抱えて恥ずかしさに悶えていると突然、扉をコンコンと叩かれた。ぎくんと肩を震わせてそちらを見る。
「お、大鳥さん!?」
「ああ、すまない。ちょっと良いかな?」
「え、あ、そのっ」
 返事も待たずにがちゃりと扉が開かれてしまった。
 彼が一緒にいたらまずい、と慌てて逃げ出そうとしたが、どうやらやって来たのは大鳥一人、らしい。
「あ。本当に先生の仰ったとおり、目が見えるようになったんだね」
 良かったと大鳥は満面の笑みで喜んでくれる。そんな彼にも申し訳なくて、その、とは俯いた。
「お騒がせしまして」
「良かった良かった。島田君たちも泣いて喜んでいたよ」
「ほんっとうに、お騒がせしました!」
「そういえば土方君はここに来なかったかな?」
 ひくっとの口元が引き攣る。
 いや、来なかった。寧ろ来ないで欲しい。今はまだ、顔を合わせられない。
「……こっちに来るって?」
 引き攣った顔のままが問うと、大鳥はうんとあっさりと頷いてくれる。
「先生から話を聞いて、すぐにこっちに向かうと言っていたよ。もし来たらよろしく伝えて置いてくれ」
「え? あ、大鳥さん!?」
 それだけ言うと手を上げて、邪魔者は退散とばかりに部屋を出て行ってしまう。
 待ってくれとは思った。今彼と二人きりにされるのは困る。
「どどどどうしよう」
 どうしようどうしようと部屋の中でぐるぐるとは一人頭を抱えて歩き続ける。どうすれば彼と顔を合わさずにやり過ごせるか。居留守を使うか。いや、彼ならば断りも入れずに入ってくるに違いない。ならば具合が悪い振りをして寝たふりを。いや、それでは心配を掛けてしまうのでまずい。ああもうどうしたってやり過ごせない。
「……どうしよ……って、あ!」
 その時窓の外の平和な景色に気付く。今日も快晴で、気持ちがいい。これは絶好の脱走日和ではないか。
 彼の来訪を止める事が出来ない。ならばここは一つ。
「逃げる!!」
 がっと勢いよく窓に飛びつくと、豪快に窓を開け放ちそこから自由な外へ……
「――よお」
「っ!?」
 飛び出した瞬間、横合いから声を掛けられ、は文字通り飛び上がった。
 まるで予測もしていなかった。まさか彼がそんなところで待っていたなんて。
「ひ、ひ、ひっ」
 こちらを見る彼女は鬼にでも会ったみたいな顔で固まっている。
 そんな目で惚れた男を見るやつがあるか、と言いたいところだが、今日は止めておこう。それよりも琥珀がしっかりと自分を捉えている事が嬉しくて堪らないのだから。
「な、なんで、ここっ」
「あ? おまえの事だから逃げ出すんじゃねえかと思ってな」
 動揺のあまり、まだ上手く舌が回らない。短い単語しか紡げずに問いにならない問いを投げかければ、彼は全てを察して答えてくれた。因みに意地悪くにやりと笑うのも忘れない。
「すっかり脱走癖がついちまったみてえだしな」
 あの時も、それから今日も。目を離すとすぐにこうだ。
「しかも裏に回ったお陰で、大鳥さんに先越されちまったじゃねえか。どうしてくれるんだ?」
「え、そ、そんなことっ」
 腕組みして不満げな顔で詰め寄られる。はあわあわと慌てた様子でそのまま後ろに下がり、すぐ後ろの壁に追いつめられてしまった。窓は開いている。逃げようと思えば、中に逃げ込めるのだけど。
 ふっと眉間の皺を解き、彼が優しい顔で笑ったから逃げられなかった。
「目、見えるようになったんだってな?」
「……はい」
 こう切り出せば彼女は困った顔で俯いてしまった。何故かなんて分かっている。土方はくつくつと喉を震わせて笑った。
「なんだよ。喜ばしい事じゃねえか」
 彼女の目が見えるようになったのだ。それは何よりの朗報ではないか。そう土方は思うけれど、は違うらしい。
「だって私、土方さんにあんな泣き言言って困らせた」
「そいつはそもそも俺に責任があるだろうが。おまえが俺を責めるのは当然の事だ」
「責めたつもりは……」
「寧ろ、俺は責めて欲しかった」
 責めて詰って欲しかった。その方が自分の愚かさを痛感する事が出来たから。でも、もう良い。悔やんだ所でもう済んでしまった事だ。それに今彼女は目が見えている。それで十分だ。
「でも、私」
 だがの方はまだ何か言いたいのか。もごもごと口籠もった。何やら言い出しにくい事らしい。
 なるほど、あの夜の事を言いたいらしい。それこそ彼女が申し訳ないと思う必要はない。なんせ、
「構わねえよ。いずれおまえを抱くつもりだった」
 彼女を抱く事は決まっていたのだ。この戦が終われば夫婦になるつもりだった。そうすれば彼女とはこうなる予定だったのだ。多少時期が早まっただけ。
「寧ろ、俺は丁度良かったんじゃねえかと思う」
 肌を触れ合わせた事で、深く繋がった事で彼女の事をより知る事が出来た。彼女がどれほどに自分を愛してくれているのかを。置いていかないでくれと必死で縋り付いてくれる彼女を見て、そう簡単に死ぬ事は出来まいと気付かされたのだから。
「……」
 そんな事をあっけらかんと言われ、は真っ赤な顔のまま俯いた。
 あの夜の事はもしっかりと覚えている。暗い闇の中手探りで彼を何度も捜した。怖くて何度も泣いた。その度に彼は手を取って、此処にいると言ってくれた。優しく抱きしめて、惜しみない愛情を注いでくれた。何度でもが不安でなくなるまでずっと。思いの丈をその身体全てで教えてくれた。
 見えなくて良かった、とは思う。視力を奪われていた分、他の五感が逃すまいとするのかしっかりとこの身に焼き付いている。彼が与えてくれた熱を、痛みを、快楽を、身体が全部覚えている。触れられていなくても、彼の熱や感触を思い出す事が出来る。目を閉じれば全て思い出す事が出来る。それくらいに強く、この身体に刻みつけられた。
「それともおまえは、あの夜の事は過ちだったと言いたいのか?」
「そんなことない!!」
 頭上から降ってきた言葉には噛みつくように反論した。
 勢いに任せて顔を上げ、それから気付く。彼が意地悪な笑みを湛えてこちらを見ていた事。脱走を見抜かれたように、の答えもお見通しだったわけだ。
「やっと、顔を上げてくれたな」
 酷い、と詰ってやりたいのに、彼が嬉しそうに笑うから。酷く嬉しそうに笑うから。は詰る事も、視線を落とす事も出来ない。ただ愛おしくて堪らなくて、は一歩を踏み出し、彼の胸に顔を埋めた。
「なんだよ。顔を見せてくれんじゃねえのか?」
「からかった罰」
「やりすぎたか」
 くつくつと楽しげに笑いながら、背に回ってくる手は酷く優しい。あの夜、夢中でかき抱いた腕とは違う。でも、その優しさも好きだ。堪らなく。
「やっぱり私、土方さんと離れたくないなあ」
「なんだ。またどっかに行くつもりだったのか?」
 の呟きに、一度背を抱く手に力が込められたのを見逃さない。まるで逃がすまいとするみたいで、はくすくすと笑いながら彼の手にしっかりと手を回してみせる。逃げないと。そう彼に伝えるように。
「行かない。何処にも。私の場所土方さんの傍だもん」
「そうだな」
「だから、土方さんも何処にも行かないでね」
 分かってるよと、甘やかな答えが唇に落ちて、重なった。
 こんな所で、とは一瞬ひやりとしたけれど、もう構わない。それよりも愛おしさの方が勝って、は背伸びをして自分からも唇を押しつけた。その想いを彼に伝える為に。
 優しい春風が二人を囃し立てるようにくるりくるりと舞う。空には白い綿雲が流れていた。明日には戦になるかも知れないが、今日も平和だ。そして自分は幸せ者だと、二人揃って思う。

 そんな二人の間で、まるで仕方がないなと笑うみたいに、鮮やかな青が――楽しげに揺れた。


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望月