あれはいつの記憶だっただろう。
そうだ、確かあれはまだ試衛館にいた頃だ。唯一の友と二人、きらきらと輝く星空を見ながら夢を語り合っていたあの時の。
「なんだこいつは?」
突然、トシ手を出してみろと満面の笑みで彼が言った。なんだと聞き返したが、いいからと笑顔のままで催促するので、仕方なく彼の言うとおりに手を出してみた。その手のひらの真ん中にころんと、それを乗せられたのだ。
それは鮮やかな青をした丸い玉であった。
「びいどろか?」
つるんとした表面をしたそれは、摘まんでも形を変えない。恐らく歯を当ててもまず砕くことは難しいだろう。硝子なのだから当然だ。
「綺麗だろう?」
「ああ……だが、こいつをどうしたんだ?」
「周斎先生から戴いたんだ」
親指ほどしか無い硝子玉は、誰ぞが酔狂で作った何の役にも立たないものである。本来ならば屑として捨てる所だが、その色合いがあまりにも見事だったので、このまま残しておく事にしたらしい。まあ皿にも器にもならないが、子供が遊ぶ程度には役に立つだろうと。
「へえ。それで、あんたにって事か?」
子供という言葉に思わず苦笑が零れた。齢20も越えた立派な男を子供扱い、というのはやはりあの人は大物だ。それをこうして喜んで受け取る近藤も同じく。
「まあ、魔除けって事で役に立つんじゃねえか」
「だろう。と思って、だな」
ころりと手のひらで一度転がし、持ち主へと戻そうとする。そうすると何故か手で制されてしまった。
「なんだ、いらねえのかよ?」
「そいつはトシに持っていて貰いたいんだ」
「俺に?」
目を丸くすると、近藤は大きく一つ頷いてみせた。
「トシは、薬の行商に行くだろう? だから、その旅の守りだ」
にかっと白い歯を見せて笑う友が、実は自分の事を酷く案じている事を今更気付いた。彼は何も言わないけれど、土方が行商に出て数日戻らない事は少なく無い。行商人を襲う賊は多いのだ。彼に限って賊に遅れを取るとは思わない。だがそれでも無事でいるのかと心配になるのは当然のこと。それは土方とて同じ事なのである。
「……そう、だな」
彼の気持ちを思えば、無碍に断るわけにはいかない。土方はびいどろを手のひらの中でしっかりと握りしめる。彼の気持ちをしっかりと受け止めるように。
「そんじゃあ、有り難く受け取っておく」
「おう、そうしてくれ」
嬉しそうに友が笑った。その顔を、土方はきっと忘れないだろう。
その青は、今でも彼の懐に大事にしまわれている。
慶応四年、四月。新政府軍がいよいよ蝦夷に上陸してきた。
ここが最後の決戦地。彼らにはもう逃げ場はない。そんな彼らを完膚無きまでに叩き潰そうとでもするのか、新政府軍はありったけの戦力を持って攻撃をしかけてきた。人の数も武器の性能もまるで違う。彼らが劣勢に追いやられるのは、時間の問題であった。そして、陥落するのも――
「退け! ここはもう落ちる!!」
激しい砲弾と、怒号。血と火薬のにおいが飛び交う中、土方は退避の号令を掛けた。彼の号令を掻き消すようにまた、轟音が響く。悲鳴が上がったかと思うと地面が大きくえぐれた。数名の隊士がそれに巻き込まれ、四肢を引きちぎられた無惨な形で絶命していた。
「早く徹底しろ!」
その彼らを弔ってやる事は出来ない。申し訳ないと思うが、土方はただ目を瞑って良く戦ってくれたと心の中でだけ告げると、走り出した。
「土方さん!」
撤退する隊士達のしんがりにつく彼の後ろで、声が聞こえる。振り返れば彼女がいた。戦いの最中、姿が見えないと思っていたので心配していたが、どうやら無事だったようである。
「。撤退だ」
「……分かりました」
一瞬だけが悔しそうに眉を寄せたのが分かった。その昔は能面のように顔色一つ変えなかった助勤殿が、随分と人間らしくなったものである。それを、今は素直に喜べないのが哀しいところだ。
「俺は、隊士が逃げるための時間を稼ぐ」
ゲベール銃の調子を一度確かめ、残りの弾を数える。まあ、せいぜい数人足止めする程度だろうか。後は、刀を使えばなんとかなる。
「危険です」
がきっぱりと言い切った。そんなことは彼女に言われなくても分かっている。
「だが、このまま背を向けたところで連中に狙い撃ちされるだけだろう。向こうの銃のが精度が高いんだ」
背中を向けているのでは後ろは見えないし、そこを狙われたらひとたまりもないだろう。こちらの被害が増えてしまう。
「だから俺が残って、逃げる時間を稼ぐ」
「危険です」
またはそう告げる。そうだ。危険だ。普通ならば……死ぬ。でも、彼は普通では無い。
「俺は羅刹だ。弾の一つや二つ食らったところで死にゃしねえよ」
「土方さん、」
「大丈夫だ」
苦しげな表情になる彼女の頭を、ぽんと一つ撫でた。
「絶対に死なねえ」
にやりと不敵に笑う紫紺は、いつか見た自暴自棄な色など浮かんではいない。彼は死ぬ気ではない。この場を死に場所と決めたわけではない。だから必ず戻ってくる。生きて帰ってくる。
「……わかり、ました」
ならばは信じるしかない。彼が戻ってくると言うのだから。
先程よりもずっとはっきりとしない返事をして、が不承不承と言う感じではあるが頷く。
よし、と笑いかけ、土方は木陰から飛び出した。
それを追いかけるようにぱぱぱぱと軽い破裂音を立てて、一斉に銃弾が撃ち込まれる。足下を銃弾が跳ねていく。流石に良い武器を使っているものだ。感心しながらひやりとする。そのまま林の中へと飛び込むと、息を整える間もなく木々の間から敵兵を狙った。
ぱんと軽い音と火薬のにおい。そして人の悲鳴。命を奪う程の傷は与えられないが、これで一人戦力を減らす事が出来ただろう。だが狙った事で彼の居場所も相手には知られてしまい、何十という銃弾が飛んできた。壁となった木は銃弾の餌食になり、幹を滅茶苦茶にえぐり取られる。直に折れて役に立たなくなるだろう。
土方は再び腰を落として走る。茂みの中に飛び込み、再び敵兵を狙う。ぎゃと悲鳴が上がり、どさりと遠くで倒れる音が聞こえた。続けざまにもう一発。
狙おうとした時に、ぎょっとした。敵の大砲がこちらに向けられていたのだ。
「撃てぇ!」
爆音が空気を裂き、大きな塊がこちらへ目掛けて飛んでくる。このままでは直撃だ。土方は慌てて茂みから飛び出し、
「っぐぁ!」
木々をなぎ倒しながら着弾し、爆ぜる。その爆風に吹き飛ばされ、男は林の中をごろごろと転がった。身体中を痛みが走る。だがそのまま倒れている場合ではない。早く逃げなければ。
身体を起こし、土方は走り出した瞬間、その服の胸元からぽろりと何かがこぼれ落ちた。
鮮やかな青――
それは、あの日、大切な友に贈られた大事なお守りであった。
「くそっ!」
ぼろぼろになった巾着からこぼれ落ち、それはころころと地面を転がって逃げていく。
そんなものに構っている場合ではないのは分かっている。今逃げなければ大砲の餌食になるだけだと。だが、どうしてもそれを諦められなかった。土方にとってはそれが、唯一形として残っているものだから。だから失うわけにはいかなかった。
なぎ倒された木々の間、こちらへと戻ってくる彼は恰好の餌食だったであろう。
人なんていとも簡単に壊してしまう、凶暴なそれの口が彼をしっかりと捉えていた。火薬のにおいが、した。
「っ!?」
「撃てぇええええっ!!」
突然、どんと、強く身体を突き飛ばされる。
迫り来る大砲の弾よりも前に強く身体をはじき飛ばされ、そうしてすぐに爆音と爆風に襲われ、更に吹き飛ばされた。ごろごろと地面の上を転がり、そのまま木の幹にぶつかって止まる。激しい風の塊を身体にぶつけられたような感覚。腹の中身を全てぶちまけてやりたくなる不快感が襲った。
「……なん、だ」
声を漏らしたが、何も聞こえなかった。恐らく爆音で耳をやられた。
そのせいで平衡感覚も失われている。くそ、と舌打ちをしてよろよろと立ち上がった。倒れている場合ではない。すぐに敵が。
でもだけど、近藤がくれたお守りが。
「……?」
よろりと立ち上がり、未だ戻ろうとするのか、土方が後ろを振り返ったその時だった。
ぱらぱらと舞い落ちる木の破片や、砂埃の隙間に、小さな影を見付けた。
一瞬、それが何なのか分からなかった。何故ならそれは本来ならばそこにいるべきものではなかったから。
「…………?」
小さな影は、その人の姿。
四肢を投げ出し、彼女は吹き飛ばされた木々と共に倒れている。身体からおびただしい血を流しながら。
「! !!」
ざぁあと血の気が引く音を確かに聞いた。土方は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こした。
辛うじて四肢は繋がっている。が、あちこち裂けた服の隙間から見える肌は、血で真っ赤に染まっていた。頭からも出血しているらしい。それでも、彼女は息をしていた。鼓動を、温もりを感じた。だが、それはひどく弱い。
「! おまえ、なんでっ……!」
先に行けと言ったのに。どうして戻ってきたのか。
その時ころりと、彼女の手から何かが落ちた。
それは――鮮やかな青――
深い闇が広がっていた。境目など見えない、ただ黒一色が目の前に。
自分の姿だって濃い闇に飲み込まれるのか、見えない。
恐らく、夢の中だ。
は何度も見覚えのある闇の中でぼんやりと思った。
以前ならばこの闇はすぐに晴れて、炎と悲鳴で塗り潰される。幾度と無く繰り返された悪夢――否、あれは自分が犯した罪だ。それを突きつけられた。暗い闇から始まる夢はいつもそう。
だが今はもうほとんどあの夢は見ない。あの日、あの男がその罪を許してくれた日から、徐々に薄れて、見なくなった。
ただ今は、暗い闇の中をぼんやりと過ごすだけ。目が覚めるまで。
――。
闇の中で声が木霊した。
彼の声だった。呼ばれている。
は即座に立ち上がった。そうして己にとっと目覚めよと命じるのだ。夢から醒めて、彼に応えよと。
その命に緩やかに意識が覚醒をしていく。
曖昧な感覚が徐々にはっきりとしていき、身体の節々に痛みが走っていった。そういえば、と思い出す。確か自分は爆撃を受けたのだった。その痛みが身体を襲っているらしい。これは相当酷くやられたようである。
目覚めたらきっと彼に怒鳴りつけられる事だろう。なんて無茶をしたと怒られるに違いない。
彼は無事だっただろうか。怪我などしなかっただろうか。
早く、早く、彼の無事な姿が見たい。
は早くと声を上げて、闇の中から這い出た。
だけど、何故か闇は晴れてくれなかった。
「目が覚めたか?」
緩やかに瞼が持ち上がり、が意識を取り戻した。
ただまだぼんやりとしているらしい。それもそのはずだろう。彼女は生死を彷徨う程の大怪我をしたのだから。それでも鬼の血のお陰で一命を取り留めた。
良かったとほっと安堵の溜息を吐くと共に、込み上げてくるのは激しい怒りだ。
「この馬鹿野郎! なんて無茶をしやがった!!」
「ひ、土方君! 相手は怪我人だよ!」
大声で怒鳴りつける彼を大鳥が諫める。
心配故に彼が怒りたくなる気持ちは分かるが、それはせめてもう少し怪我が治ってからで良いではないか。彼女は生きているのだから。これから先いくらだって時間はある。
「……土方さん?」
ぱちぱち、と瞬きをしたが自分を呼んでいる。
ああそうだ、と彼は頷いた。
「怪我は」
「目覚めてすぐ確認するのがそれかよ」
全くと呆れ顔になって、彼はご覧の通りだと手を広げて見せた。
「おまえのお陰で、傷一つねえよ」
砲弾を受けたというのに、出来たのは転がった時に出来た打ち身だけ。それも今では微かな痣を残しただけで、癒えつつある。
それよりも、彼女だ。
爆撃により身体のあちこちには裂傷が出来、飛び散った火薬によって酷い火傷が出来ていた。そうして吹き飛ばされた時に強く頭を打ったらしい。なかなか血が止まらず、一時はひやりとしたものだった。
「傷は塞がったようだけれど、どうだい? 身体の具合は」
どこか痛む所はないか、と聞かれては緩く頭を振った。
「嘘を吐け。まだ痛むんだろうが」
しかしお見通しとばかりに土方にこう言われてしまう。
確かにまだ、あちこち痛む。特に頭はずきずきと痛んで仕方がないし、手足の感覚もまだ鈍い。背中だってひりひりして、出来れば俯せになりたいくらいだ。
でも、
「おい、まだ起きあがるんじゃねえよ」
土方の制止も聞かず、はゆっくりと身体を起こした。
痛みのせいで上手く起きあがれないらしい。震える腕で支えようとして頽れそうになる。思わず男は手を伸ばし、顰め面のままで背中を支えて起こしてくれた。不機嫌そうな声で「無理するんじゃねえよ」と言われたが、そういうわけにもいかない。
やがて、いつもよりも随分と時間を掛けて布団の上に座った。
「起きあがれる位には回復したようで、良かった」
これが回復した、と言えるのかは分からないが、とにかく大鳥はほっとしたよと溜息を零す。
怪我人の彼女を動かすわけにはいかないが、ここに長くは留まっていられない。早く五稜郭まで退いて、体勢を立て直さなければならないのだ。
「ここは、箱館じゃないんですか?」
「ああ。大野の、榎本さんとこの別宅だ」
二股口で砲弾を受けた彼女をここまで背負って逃げてきたのである。すぐにでも五稜郭に戻るべきだったのだが、あまりに彼女の出血が酷く、早く手当てしなければ手遅れになると思ったため、ここで一時が回復するまで待とうという事になったのだ。他の隊士たちは既に五稜郭まで撤退している。後は自分たちが戻るだけだ。
「。五稜郭まで踏ん張れそうか?」
「はい」
彼女はしっかりと頷いた。
そうかと安堵の溜息と、同時に彼女に無理を強いてしまう事への罪悪感が募る。それでも戻らなければならない。ここに長く留まれば、新政府軍に追いつかれてしまう。
「それじゃあ、僕は用意をしてくるよ」
「ああ。俺も出立の用意を、」
「ねえ――土方さん」
立ち上がり掛けた彼に、は声を掛けた。
振り返れば、彼女はぼんやりと虚空を見つめたままだった。
どうしたことだろう。その目は何処も捕らえていなかった。
「?」
不思議に思って問いかければ、彼女はぽつりとこう訊ねてきた。
「今は、夜なんですか?」
「え――?」
彼女が何を言ったのか、分からなかった。
今が、夜だって。そんなの見れば分かるじゃないか。ふすまを閉めていても感じるあの光を見れば。
「何も、見えないんです」
まるで夜の闇のように、には何も感じられない。
光なんて何処にも。
「彼女の目は、もう何も見えんかもしれん」
散々走り回って探した医者は、の目を見てただ短くそう告げた。
頭を強く打ったせいなのか、それとも砲弾の欠片が彼女の目でも傷つけたのか。は最早、光にすら反応を示さない程、その視力を失っていた。
もう、は何も見る事は出来ない。一生、暗闇の中で生き続けるしかない。
残念だと告げる医者に、土方は怒鳴り散らしていた。
あんたは医者だろうと。それを治すのが仕事だろうと。
だけど、人は神ではない。どうにも出来ぬ事というものが存在する。
そんな事分かっていたけれど、それでも吐き出さずにはいられなかった。
彼女が光を失ってしまっただなんて、そんな事、認めたくなかったのだ。
す、とふすまが開く音がした。
「土方さん?」
とが自分をいつものように呼ぶ。
一瞬、その目が回復したのかと思ったが。違う。彼女は音に聞いて来訪者に気付いた。そしてその来訪者が自分であると知っていただけだ。彼女の目は戻ってはいない。それを証拠に、その目元にはサラシが巻かれてある。治る見込みは限りなく零に等しいが、それでも何もやらぬよりはましだろうと、医者が治療を施してくれたのだ。目に良く効くと言われている薬を浸した布が、そこに宛われている。
「お医者様は?」
「帰った」
短く応えて、ふすまを閉める。
何も見えないはその足音をしっかりと探した。すたすたと三歩、四歩、近付いて、そこでとすっと腰を下ろす音が聞こえる。多分手を伸ばせば触れられる位に近くにいてくれている。
彼は無言だった。無言だと彼を感じられないので不安になってしまう。今のには見て確かめる事が出来ないのだから。
「大鳥さんは?」
「先に、五稜郭に戻ってもらった」
「大人しく、帰りました?」
「餓鬼みてえに駄々こねてやがったよ。だからケツを蹴飛ばして、追い出してやった」
「一応上官ですよ」
くすくすとは笑い声を漏らした。
彼の事だから本当に蹴り飛ばしかねない。まあでもこれでも一応大鳥の事を認めているのだ。そんな事はしないだろう。それよりも大鳥の方が戻ってこないかが心配だ。
「なあに、一緒に戻した隊士に引きずってでも五稜郭に連れて行けと命じておいた」
頼まれた隊士が引きずって連行などは出来ないとは思うが、彼らも必死で止めるに違いない。これで大鳥が戻ってくる事はないだろう。
ああ、だからだろうか。こんなに静かなのは。彼と自分しか、ここにはいないから。
「……お医者さんは、なんて?」
「……」
笑いを収めたが静かに問うてくる。言葉が、出てこなかった。その声があまりにも落ち着いていたから。どんな辛い現実も目を逸らさずに受け止めるというのが伝わってきたから。だから言い出せなかった。言い出しにくかった。彼女に突きつけたくはなかった。それでも、彼には彼女に伝える義務があった。
「……もう、何も見えねえかもしれないと」
そんな短い言葉しか、彼には口に出来なかった。
何が原因でそうなったのかなんて話した所でどうにもならない。彼女が視力を失った。そしてそれは一生失われたものかもしれない。それが事実で、それ以外に言葉なんて出来ようはずがなかった。
きっと治るだなんて気休めを口にしてやる事も出来ない。だって残酷だ。それがもし叶わなかったら。彼女は希望を持った分だけ突き落とされる事になる。
医者は言っていたのだ。一生見えない可能性の方が高いと。目を覆っているそれだってただの気休め。そんなもの何の役にも立たない。それでも何かしてやりたいと思うのは、ただの自己満足だ。それで彼女に何かしてやっている気分に、自分たちがなりたかっただけ。
「悪い。俺のせいだ」
紛れもなく、自分のせいなのである。
彼が落としたお守りを追いかけたりしなければ、が戻ってくる事はなかった。近藤からもらったものだからと、必死になったりしなければ、彼女が砲撃を受ける事はなかったのだ。あんなちっぽけなもののために、から視力を奪った。思い出に縋るあまりに、彼女から光を奪ってしまったのだ。
「すまない…ッ」
ぎりっと奥歯を噛みしめ、土方は頭を下げる。どれほど謝罪の言葉を並べても足りなかった。足りるはずもなかった。
「あんな、あんなものの為に俺は……おまえから光さえも奪っちまった!」
どうして、自分はこうも彼女を不幸にしてしまうのだろう。
大切な仲間も、親も、自分が捨てさせてしまった。彼女に自分を選ばせてしまった。だからせめて幸せになって欲しくて手放したら、その人並みの幸せさせ捨てて、彼女は追いかけてきた。そうして自分に与えてくれた。人を愛する喜びを、その惜しみない愛情を、与えてくれた。そんな彼女から今度は、光を奪った。次は何を奪うというのか。彼女の自由な手足か、楽しそうに笑う声を奪うか、それとも……
「そんな風に言わないで」
情けない自分の声を、凛とした声が遮る。
彼女は見えない目をこちらに向けていた。きっと目が見えたならば、あの揺るがない強い眼差しでこちらを見つめていた事だろう。土方が大好きな、美しい琥珀の瞳で。
「私は、何かを無くしたなんて思った事はない」
きっぱりと彼女は言い放つ。
仲間も、親も、人並みの幸せだってにはもうないかもしれない。目だって見えなくなった。でも、彼に奪われただなんて微塵も思わない。寧ろ与えて貰っているのだ。彼に。自分の生きる意味を。
「私は、あなたがいるからこそ、生きていられる」
土方という男がいるからこそ、はここに在る事が出来る。何の意味も持たない自分を、彼が此処にいる事を許してくれるから。彼が此処にいろと求めてくれるから。だからは此処に在る事が出来る。感謝こそすれども恨むだなんてあり得ない。彼がいなければはとっくにこの世から消えていなくなっているのだから。
「だが、」
言い掛けたのをがゆるりと頭を振って遮る。
彼にそんな風に言われたくない。言わせたくない。悔いて欲しくなんかないのだ。自分のせいだなんて思って欲しくない。ただが勝手にした事。これは自分の我が儘なのだから。彼を責めるつもりはない。言い付けを守らずに戻ってきた自分にだって非がある。
「そんな事よりも」
はそっと手の中にずっと握られたままだった冷たいそれを、差し出す。
目が覚めた時からずっと握っていた。どうやら土方がお守り代わりにと持たせてくれたのだろう。残念ながらはそれがどういうものか分からない。ただ彼が我を忘れて追いかけるものだというのは分かった。
「大事なものなんでしょう?」
はい、と白い手の上でころりと青が転がる。
大切な友から贈られた、大切なもの。大事な思い出が詰まった、もの。だけど、今だけは辛くて仕方がない。そんなものの為に彼女にこれほどの傷を負わせてしまったのだから。
「大事なもの、なんでしょ?」
手を伸ばすのを躊躇う男に、がもう一度優しく告げた。
そうだ。大切なものだ。大切な友との思い出だ。
「だったら、大切にしてあげてください」
ぐ、と奥歯を折れてしまいそうな程に噛みしめた。
何故詰ってくれないのだろう。責めてくれないのだろう。こんなものの為に、彼女は光を失ったのに。どうしてそんな風に言えるのだろう。手のひらに収まる程のちっぽけなものの為に、彼女は光を失ったというのに。
「なん、でっ」
震える声が零れた。
詰ってくれ。泣いて責めてくれ。そうしてくれた方がいっそ――そう考える自分の身勝手さと弱さに吐き気がする。自分だけ楽になろうだなんて、最低だ。彼女はこれから先、何も見えないその辛さを一生背負わなければならないのに。
「……」
手のひらの上から、石が無くなる事はない。はひっそりと溜息を零した。そうして黙って、枕元に置いた。いつか、また彼がそれを手に出来る日がくると信じて。
が口を噤むと、静寂が部屋を満たした。
ふわりと頬を優しい春風が撫でた。庭に面した障子戸が開いている。そこから柔らかな春の風が滑り込んでくる。まるで慰めるように優しく。土方はそっと双眸を細めて庭へと視線を向けた。あまり手入れされていない庭は少し閑散としている。だが新緑の香りがした。控えめな花の香りも。
平和だ。と思う。今日も何処かで戦いは続いている。殺し合いが続いている。そんな風には思えぬ程に平和だ。出来るならばこの優しい時間の中に彼女と共にいたい。彼女と穏やかな時間を過ごしたい。でもこれから自分は戦場に戻らなければならない。そして彼女は――
「……土方さん」
静かに名を呼ばれた。見れば彼女も同じように風を感じるのだろう、庭の方へと顔を向けたまま静かな口調でこう告げたのだ。
「私を、ここに置いていってください」
きっとそれしか方法はない。彼女を戦場に連れ出す事は出来ない。ここに置いていくしかない。だって彼女は、目が見えないのだ。いくら音に敏感だと言っても、音だけでは敵味方を判別する事も出来ない。敵がどのような武器を持っているかも、だ。彼女を戦地に連れて行った所で死なせてしまうだけ。ならばここに置いておいた方が良いのだ。
でも、
「――俺、は、」
ひゅと喉の奥で声が張り付いた。言葉が出ない。
それしかないと分かっていても答える事が出来なかった。
熱いものが込み上げて、土方は必死でそれに抗うかのように拳を握りしめ、畳を睨み付ける。唇も噛み切らんばかりにきつく噛んだ。ぎりぎりと奥歯が嫌な音を立てている。喉のもう傍まで込み上げてきていた。吐き出してはならない。告げてしまえば彼女をもっと傷つける。苦しめる。それが分かっていた。
それでも、耐えられなかった。
「俺はっ……最期まで、おまえと共にいたい」
手放したくなかった。もう。
全部を捨ててまで自分を追いかけてきてくれた彼女を。彼だけを必死に求めてくれた彼女を、手放す事なんて出来なかった。だってこんなに愛おしいのだ。離れてしまう事で、心が死んでしまう程。知らず彼女を求めてしまう程、愛おしいのだ。彼女の与えてくれる笑顔が、彼を優しい気持ちにさせてくれる。彼女が傍にいるだけで、心が満たされる。人を愛するのがこれほど幸福であると教えてくれたのは彼女だ。彼女の存在が自分を満たしてくれる。
だからこそ、死なせたくないと思う。生きて幸せになってくれと。誰よりも愛しい人だからこそ生きて欲しいと。でもやはり離れたくない。彼女と共に最期まで在りたい。そんな相反する感情が彼の中で鬩ぎ合っている。
「最期まで、おまえと一緒に」
震える言葉で告げて、なんて残酷な事を言っているのだろうと思った。
彼女だってそう願ったはずだ。泣いて縋って、共に逝かせてくれとは願ったのだ。そんな彼女が何故置いていってくれだなんて言いだしたか。分かっている。自分が枷になるであろうと分かっているからだ。は願ったのだ。土方に生きて欲しいと。この戦いの先も生きていてほしいと。そんな人の枷になるわけにはいかない。だってほんの少しの時間だって長く生きて欲しいと願っているのだから。
だから、自分の気持ちを、願いを、彼女はへし折った。心の底から彼と共にいたいと願っているとしても、それを貫く事は出来ない。彼の為に。
「ごめんなさい」
「っ」
が申し訳なさそうに謝った。ひくりと喉が震え、思わずぶちまけてしまいそうになる。何を言いたかったのか分からない。だから声にならない声を漏らして、やがては肩を落として項垂れた。
「……分かった」
まるで嫌がるような、不満げな声が漏れてしまった。
最初から答えは決まっていた。がそう、願っているのだ。彼にはどうする事も出来ないし、その資格もなかった。ただみっともなく足掻いて、彼女を逆に苦しめただけ。
「すみません。最後までご一緒出来なくて」
「良い、言うな」
謝ってくれるな。余計に惨めになる。土方はふいとそっぽを向いたままで頭を振った。
「そうと決まったら、早速出る準備をします。この辺りは恐らく戦いに巻き込まれるでしょうから、もう少し北上しますね」
「それじゃあ、俺も一緒に」
途中まで、と言い掛けたのをは頭を振って遮る。
「その時間は、ないでしょう?」
「っ」
その通りだ。彼女を安全な場所に連れて行くだけの時間、彼にはない。早く五稜郭に戻って、体勢を立て直さなければと大鳥も言っていた。本来ならば今すぐにでもここを出て、戦いの準備をするべきなのだ。怪我人になど構っていないで。
分かっている。分かっていた。それでも、と土方は思ってしまう。ほんの少しの間でも一緒にいたかった。もう二度と会えないので在ればなおさら。ほんの少しでも彼女と共に。
はそう思ってくれる彼の気持ちもしっかりと汲み取り、でも、と柔らかく笑った。
「あなたは、あなたが信じた道を進んでください。私は大丈夫だから」
彼女の言葉が、強く、トンと背中を押した。
「……大鳥さんと一緒に隊士を返したのはいつですか?」
「つい、さっきだ」
「それならまだ近くにいるかもしれないですよね。土方さん、誰でも良いから一人、連れ戻して来て貰えませんか?」
その隊士に、安全な場所に連れて行って貰おうと彼女は言うのである。
あまりにあっさりとした引き際に、男の方が無性に悲しくなった。きっと泣いて縋り付いてくると思ったのだ。あの時泣いて、だったら殺してくれと乞うたように。離れたくないと彼女はそう願うと思っていたのだ。これが一番の方法だと分かっていても。
「土方さん。早く呼び戻さないと」
ぐるぐると胸の奥を感情が渦巻いている。それに蹴りをつけさせる事もしないというのか、が急かした。分かってる、と答えた声は乱暴で、土方はやけくそ気味に立ち上がり、ふすまの前でまた足を止めた。
「すぐに呼んでくるから、支度して待ってろ」
「はい」
やはり彼女はあっさりと頷いてしまった。
引き留めろよと思う自分が酷く女々しい気がして、土方は己にくそと吐き捨てて、部屋を出た。
やがて、音が聞こえなくな室内を静寂が満たした。
はそれを確かめると、静かに立ち上がるのだった。
傍らにあるだろうそれに手を伸ばす。指先に固い感触が触れた。彼女の愛刀、久遠だった。やはり枕元に置いてくれていた。それを手に取ると、はそのまま部屋を後にする。
目は見えないが、何処に向かうのかははっきりしていた。
彼女の意志ははっきりと定まっていた。
此処を出て――彼らの敵を迎え撃つ。
手探りで帯を締め直すと、そこに久遠を差した。自分がどんな恰好をしているか分からない。もしかしたら寝間着姿かもしれないが、もうどうだって良いだろう。自分には見えないし、どうせ、切り刻まれて果てるのだ。その時にどんな恰好をしていたって構わない。
一人でも多く殺せたならそれで良いのだ。それだけで。
多くは望まない。ただ、彼がほんの少しでも生きながらえる事が出来れば良いのだ。
は廊下を一歩一歩、確かに踏みしめて歩く。その一歩は自分の死へと繋がっている。不思議と怖くはなかった。彼の為に死ねるのだから。
なのに、唇から震えた吐息が零れてしまう。肩が震えてしまう。じわりと目を覆う布が熱く湿った。薬が流れてしまうから泣いてはいけないと医者に言われたのに。これから死ぬのだから関係ないけれど、それでも、泣いてはいけないと思った。泣いてはいけないと自分に言い聞かせれば、まるで自分の身体が反抗でもするみたいに嗚咽が漏れる。涙が溢れる。出来る事ならば今すぐここで、泣き叫んでしまいたい程だ。
その代わりに、は涙声でこう零した。
「ひじかた、さんっ」
死ぬのなんてこれっぽっちも怖くない。刀を取った時に、いや、そのずっとずっと昔に、死への恐怖は捨てた。
でも、は怖くて、不安で、寂しくて、辛くて、堪らなかった。
――愛しい人と離れるのが、涙を止められない程に。
これが一番だと分かっている。それなのに、泣いて、今すぐ足を止めてしまいたくなる自分が酷く厭わしい。彼の為に死ぬのは本望だと言ったじゃないか。それなのにどうして彼と離れる事が怖くて堪らないのだ。死ねば彼と二度と会えなくなるのは分かっているのに。共に死のうと、離れて死のうと、同じだ。そんなの当たり前の事なのに。
分かっている。それでもずっと共にいたかった。彼が願ってくれたようにだって共にいたいと願う。死ぬ瞬間は、二人同時に心臓を貫いて欲しいと。そうすれば一緒に逝けるから。そうすれば地獄まで一緒に。
それを心の底から願う自分がいて、同時に彼を死なせたくないと願う自分がいる。最終的に勝ったのは後者だった。愛しい人に生きて欲しいと願った。自分が死んだ後も。
「っ」
唇を引き結び、は一歩を踏み出す。
歩け。歩くんだと自分の足に必死に命じる。今にも止まってしまいそうな自分の弱い心を奮い立たせ、は歯を食いしばって前を向いた。見えるのは相変わらず闇だけだ。それでも、前を必死に見据えて、その先にいつか見えるだろう光を求めて、一歩一歩死へと歩き出す。
「っ」
踏み出した一歩が、空を踏んだ。どうやら廊下が終わって、庭へと落ちてしまったらしい。どしゃと無様な音が響く。身体を痛みが走った。もうこれ以上進むなとでも言うみたいに、全身に痛みが広がり、を苦しめる。このまま蹲っていれば彼が見付けてくれるだろう。怒られるだろうけれど、心配して怒鳴りつけてくれるのが嬉しいと思う。彼が自分を叱るのはいつだってそう。の事を本気で思ってくれるから。それが嬉しくて堪らない。出来ればもう一度……そう思う自分を、は叱りとばした。
刀を杖代わりに立ち上がり、はずるずると身体を引きずるようにして歩いた。こんな有様では彼の敵を討ち取る事なんて出来ない。無駄に死んで終わるだけだ。そんなの嫌だ。一人でも多く討ち取って、彼を、彼の未来を――
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朔月
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