原田は今でも、それを納得していない。
ことある毎に彼女を引き戻せと何度も土方に進言したが、彼も渋い顔をするばかりで、首を縦には振ってくれない。
反対だった。
それが必要な事だとしても。

――妓女として、島原に潜入するという事は。

例え、役目のために仕方ない事とは言え‥‥反対だった。

妓女の仕事が酒を注ぐばかりではないのは分かっていたからだ。
確かに島原は遊宴を楽しむ場所で、身体を売る事を主体とはしていない。彼女が潜入した廓もそうだ。
しかし‥‥
そこは遊郭だ。
酒を飲み、美しい女を前にして、男の理性が保たれるか‥‥と言えば、正直不安な所がある。
原田自身も何度か、酒を飲み、妓女と褥を共にした事があった。
そういう所なのだ、遊郭という所は。

だから‥‥原田は不安だった。

餓えた獣がわんさかといる世界に‥‥あの美しい女を放り込む事が。

きっと、彼女を前にしたら。
強靱な理性の持ち主も陥落するに違いない。
それほどに女は美しく‥‥
それほどに、どこか妖艶さを持った女だったから。

それに――
どこの世の中に、いるというのだろう。

惚れた女をそんなケダモノの群れの中に放り込みたがる男が――



「桔梗という妓女を知っているか?」

見知らぬ男が口にした、知っている名前に原田の手が止まる。
そこは鴨川縁の酒場だった。
なんとなく飲みたい気分になり、しかしいつも一緒の永倉とは別行動し、彼は一人席について酒を煽っていた。
荒れていた‥‥といえば荒れていた。
つい先日、制札事件で賊を捕らえ、報奨金も頂戴したというのに、全く気分が晴れない。
理由は‥‥その知らない男が口にした、名前のせいだ。

「‥‥?」

ちらりと横目で声の主を探る。
一つ席を挟んだ向こうに、二人組の男がいた。
上等な着物に身を包んだ男だった。
こんな安い酒場に来るのは似合わない男は、原田よりもずっとずっと年上だ。
お世辞にも綺麗とは言えない顔には、助平そうな笑みが浮かんでいる。
その男が「桔梗」という名を口にした瞬間、少し、いや、だいぶ、いやだと思った。
何故ならその名前は、
の別の名でもあったからだ。
そしてなにより、その名を持つ彼女は今‥‥

「角屋の花魁さんだろう?」

向かい合う男の言葉に、そうだ、とその助平そうな男は頷く。
わざわざ男が『花魁』と呼んだのは、彼女に敬意を込めたのだろうか、それとも、当てこすりだろうか?
花魁とは本来‥‥吉原の遊女を指す。

原田は盃に口づけたまま、その会話に耳を傾けた。

「お職を張ってる、売れっ子さんだって聞くけど‥‥あまり客とは褥を共にしない事で有名らしいね。」
それでも高い金を払って会いに来る客が沢山いるというのだから驚きだ。
今まで部屋に登楼てもらった男もいないと聞く。
相当気に入られないと彼女と褥は共に出来ない。
誰が一番に登楼できるだろうかと、通いの男達は密かに競争しているほどだ。

「‥‥」
誰がおまえらなんかを相手にするか。
と原田は一人、声には出さずに反論する。
彼女があそこにいる理由は、倒幕派の奴らの動きを探る為だ。
男に肌を許す為じゃない。

しかし、そんな原田の耳に、驚くべき言葉が飛び込んでくる。

実はな、と助平親父が口を開いた。
「先日、桔梗に本部屋に通して貰った。」
「なに!?あんた、桔梗さんに登楼てもらったのかい?」
高かっただろうに、と向かい合う男は驚きの声を上げた。
驚きの表情を浮かべたのは原田も同じだ。
思わず声を上げそうになる。
瞬間、酒を吸い込んで、思わぬ所に入り、咽せた。

そんな原田に気付かず、男は得意になってああと胸を張ってみせる。

しかも部屋に揚げてもらっただけじゃないと続けた。

「桔梗に‥‥してもらったんだよ。」

ぎくりと背中が震えたのを原田は覚えている。

「まさか、桔梗さんと閨を共に?」
心底羨ましいと言った風な相手の男の声が、遠くに聞こえた。
いや、それは叶わなかった。
と男は首を振り、その代わり‥‥と低く喉を震わせて笑った。

「俺のものを‥‥ね。
ちょいと銜えて貰ったんだ。」

あの赤い唇に――

「随分と上手かったぞ。
舌と歯の使い方がまた絶品でな‥‥」

その後、男が酔いしれたように彼女の熱い口の中の様子を説明するのが、原田には耐えられなかった。



その日の夜。
は突然の来客に驚いた。
本来、客には三度通ってもらい、馴染み客となった客だけが部屋へと揚げてもらえる。
しかし、それを全てすっ飛ばして部屋にやってきた客が一人いた。
顔を見て‥‥納得する。
は少しほっとした顔で、部屋の真ん中で胡座を掻いている男を見て、笑った。

「型破りな人ですね。」

左之さん、とは彼を呼ぶ。
艶やかな着物に身を包んだ女は、本当にあの彼女かと思うほど美しく‥‥そして艶っぽい。
惜しげもなく晒される項にかかる後れ毛が、また、その色っぽさを際立たせ、これはあの鬼の土方でもころりといってしまいそうな光景だなと思った。
「っていうか、よく揚げてくれましたね?」
「‥‥近藤さんに、口を利いてもらった。」
「なるほど。」
確かに、懇意にしてもらっている新選組局長からの頼みでは断れまい。
それで‥‥とはその時になって原田の機嫌が悪いのに気付いた。

「どうしたんですか?」

怒りを孕んだような瞳をまっすぐに向けられ、は首を捻る。
何となく腰を落ち着けた方がいいのだろうかと思い、下ろせば、ふわりと白粉のにおいが舞った。
彼女が嫌いだと言ったにおい。
それに、酒と――男のにおいが原田の神経を更に逆撫でた。

「‥‥奥田という男を‥‥知ってるか?」

彼は土方とは違って言葉巧みに相手を追いつめる事は出来ない。
元々難しい事をするのは苦手だ。
だから、単刀直入に聞いてみた。

奥田という男の事を。

「‥‥っ」
その瞬間、は彼女らしくもなく、あからさまな驚きの表情を見せた。
瞳は大きく見開かれ、琥珀の瞳が零れそうになる。
その表情はしまったという顔で‥‥原田は奥歯をぎりりと噛みしめた。

「そいつと‥‥なにをした?」

訊ねると、ははっと表情をいつもの誤魔化すような笑顔になり、
「なにも。」
と答える。
「なにも‥‥」
していないという言葉を、あからさまな言葉で遮った。
「そいつのナニを‥‥銜えてやったって?」
先ほど酒場で聞いた言葉を口にする。
「っ」
が突きつけられた言葉に息を飲むのが分かった。
しかし、彼女はまたすぐに平静を取り戻す。

「奥田さんから聞いたんですか?」

あの人おしゃべりですねと、なんてことないように彼女は言ってのける。
それは、肯定の言葉だ。

「ええ‥‥そうですよ。
ちょっとだけ‥‥」
気持ちよくしてやりましたよと彼女は認めた。

ぐわんと頭を何かで殴られたような気がした。
目の前が、一瞬真っ赤に染まる。

「色々と情報を持ってそうだったので。」

情報を聞き出すために男の一物を銜えたのだと彼女は説明した。

驚きの表情で見ると、赤い口元に釘付けになった。
柔らかそうな唇だ。
そういえばあの男が言っていた。
彼女の口の中は熱く、柔らかくて気持ちが良かったと。

「っ」

じりっと身体の奥からどす黒い感情が溢れてきた。
ねっとりとまとわりつくのは黒く、醜い感情。

それは、
嫉妬――

しかし、原田に彼女を詰る権利はなかった。
二人はただの仲間で、それ以上でもそれ以下でもない。
自分が彼女の行動を制限する権利は、なかった。
だが、
それは分かっていても、抑えきれない激情が身体を支配する。

こみ上げる衝動のままに、原田はその手を伸ばしていた。

「‥‥でも、私それ以上は‥‥って、うわっ!?」

突然伸びてきた手に引きたおされ、はどさりと畳の上に押し倒される。
さらりと艶やかな仕掛けが、飴色の髪が畳の上に舞う。
思ったよりも小さな身体だと原田は思った。
その小さな身体の上に跨り、男は激情のままに‥‥袷を乱暴に乱した。

「やっ、やめっ‥‥」
突然の狼藉にはあわてふためく。
乱れた袷から、真っ白な肌が覗いて、目眩がした。
誰にも汚されない‥‥綺麗な肌。
自分がずっと大事にして、守り続けてきた美しい肌。
しかし、

「角屋一の妓女、桔梗が一番に肌を許した男は‥‥誰だ?」
この肌をもう誰かに蹂躙されたかと思うと――堪らなかった。
今まで守っていたとは思えない、乱暴な手つきで、
「っ!?」
その肌に触れた。