とても懐かしい夢を見た。
久しぶりに昔の物を整理していたせいだろうか。
昔の夢を見た。
今は亡き友と、離ればなれになった仲間と、京の、彼ら新選組が始まったあの場所で共に過ごしていた懐かしい日々の夢。
鬼の副長として在ったあの日々を、決して彼は辛いとは思わなかった。それが彼の役目だったからだ。
ただ、今思うと少しだけそんな自分に肩の力を抜けと教えてやりたい。
あの日々は駆け抜けるしかなかったけれど、もっともっと、周りを見れば良かったと。
色んな物が彼の周りにはあったのだ。あの時しかなかったものだってあった。
それを、少し惜しいなとも思う。
「土方さん?」
穏やかな夢が薄れゆくと共に聞こえてきた控えめな呼び声。
優しい声に導かれるままに瞳をゆっくりと開けば、声と等しく、いやそれ以上に優しい琥珀が見下ろしていた。
「おはようございます、今日は随分とお寝坊さんなんですね」
からかうような言葉はしかし寝起きの彼を気遣ってか、控えめな音で紡がれる。どことなく、からかわれているよりも甘やかされている気分になって、ついその手を伸ばして甘えてしまいそうになった。
だが、
「……?」
徐々に頭が覚醒していくと、その彼女の姿に思わずという風に戸惑いの声を上げてしまう。
夢の続きを見ているのか……そう、錯覚してしまう。何故なら、
「あ、これ?」
は自分の恰好を見下ろして笑ってみせる。
「荷物の整理をするなら動きやすい恰好の方が良いと思って」
彼女が身につけていたそれは、かつて新選組の一員として彼の傍らにあった時に身につけていた男物の着物だったのだ。
年頃の女だというのに綺麗に着飾る事も出来ない。それを不憫に思った土方がせめて着物の色味くらいは、という事で彼女に与えたのは鮮やかな黄色の着物だ。派手になりすぎないように裾に向かうに連れて濃淡が出るようにわざわざ染め直させた一品。
はそれを大層気に入って大切に着ていたようだが、十数年経った今でもまさか着られる状態とは思わなかった。
身につけなければ落ち着かないのか、濃紺の羽織まで腰に巻き付けている。
髪も男のように高く結って、愛刀こそ腰に差していないものの、あの頃とまるっきり同じ出で立ち。
副長助勤として彼の傍らにいたあのままの姿。
「どうかしました?」
無言でまじまじと見つめられどうかしたのかと訊ねれば、彼ははっと我に返って苦笑いを浮かべながら口を開く。
「い、いや、その……懐かしい夢を見ていたもんだからよ」
「懐かしい夢?」
「昔の、京にいた頃の夢だ」
夫の言葉に妻は、ああ、と声を上げ、それから自分の恰好を見て意地悪く口元を歪める。
「夢の続きでも見てる気分?」
「……かもな」
「残念ですけど、夢じゃありませんよ」
おどけた様子で答えた土方に、はにこりと笑いを向けて立ち上がる。
ふわりと舞った飴色の髪は、なるほどあの頃よりもずっと短い。それに、
「朝ご飯、冷めちゃいますからもうそろそろ起きてくださいね」
向けられる柔らかな笑顔は、あの時では見られなかったもの。
そう、彼の部下ではなく妻となったからこそ見られるそれに、土方はなんとなく照れくさいものを感じて小さな笑みを零すのだった。
今日は昨日の続きで、離れの片付けを二人でする事となった。
思い入れがあるという理由は分かるが、流石に客人を泊められない程物で溢れかえってしまっているのはいけない。
こと妻は物を捨てられない性質なので、夫である彼が英断をしてやらなければ物が減る様子はないようだ。
「ああ、それは駄目です! まだ、着れます!」
「ああ? 着れるって……ここ穴空いちまってんだろ?」
「継ぎを当てれば着られます」
「やめとけやめとけ。指を縫いつけるのが関の山だ」
それにこれほど大きく裂けているのだ。継ぎを当てるのもあまりに見窄らしいというもの。あまり見窄らしい恰好を彼女にさせたくない。
そんな本心は告げずに些か意地悪な言葉を吐けば、妻の頬がぷぅっと膨らんだ。
「どうせ、不器用ですよ!」
「分かってんなら、やめとけ」
拗ねてそっぽ向いてしまう彼女に苦笑を向けつつ、破れた着物を放りながら次を引っ張り出す。
続いて葛籠から出てきたのは鏡だ。ご丁寧に布で刳るんであるが、見事に真ん中から割れていて顔を映し出す事も出来ない。何故こんな不要な物が取っているのかさっぱりだ。
「こいつも棄てるぞ」
「ああああ! 土方さん、駄目っ! それは駄目っ!」
「なんでだ?」
そっぽ向いていた妻はすっ飛んできて腕を掴む。必死の形相にこれは彼女にとってかなり大切な物なのだろうと察する事が出来た、が、
「それは、左之さんがくれたの」
「――棄てる」
他の男からの贈り物なんぞを大事にされては堪らない。しかもそんな必死になって、なんて。
「原田から貰ったもんなら、他にもあっただろ? 割れた鏡なんか残しておいても意味ねえし、危ねえだろ」
「で、でも、それ、最初の貰い物でっ」
「つーか、鏡なんぞ女に贈るんじゃねえよ。てめえの顔を見ろって意味だぞ、失礼じゃねえか」
「違いますよ! それ、私が鏡持ってないって言ったからくれたもので……って、ぁあああ!」
ぽいっと処分する壺の中に放り投げられては声を上げる。走って取りに行こうとしかねないので、先に手を掴んでおいたら恨みがましい目で睨まれた。
「土方さん、ひどい」
「酷くねえ。むしろおまえの方が酷いだろ」
「私のどこが酷いって言うんですか?」
「分かってねえあたりが、余計に悪い。……こっちも棄てるぞ」
「あ、駄目! それは総司の……」
ガシャン。
皆まで言わせずに放り投げれば綺麗に弧を描き、嫌な音を立てて壺の中に吸い込まれた。恐らく、割れただろう。原田がくれた鏡諸共。
「総司からもらったもんはさっき簪があっただろ。あれで十分だ」
「でも!」
「後は、こっちの破れた本もいらねえな」
「それは山崎さんの!」
「山崎がくれたもんなら、帯留めがあっただろ……っつか、ほんとおまえって貰いもんばっかだな」
廃棄の山を見ながらぽつりと土方は呟く。
私衛館にいた頃から共にいたので贅沢する余裕が無かったというのはあるが、彼女は物欲に乏しい女だった。
物欲に乏しい、というよりは自分に無頓着と言うべきだろうか?
給金が出るようになってからも彼女は自分の為に金を使う事はなかったような気がする。こつこつと貯めていた金は組の為か、仲間の為に使っていたものだ。勘定方である山崎がそれはそれは申し訳なさそうに彼女から金を受け取っていたのを見た事があるし飲み代にと永倉が借りていたのも良く目にした。確か、一度も返済しなかったので一度彼の給金を没収してに渡した事があったが、それも結局泣きつかれて飲み代にと貸していた気がする。
自分の為に使えと窘めれば、
「使い道が無くて困っていたし、誰かに役立てて貰えれば本望です」
なんていじらしい事を言うのである。
だから代わりにと周りの人間が彼女に買い与えるようになっていたのは必然で、それが故に彼女は更に欲のない人間にしたのかもしれない。
土方もその一人だ。
が、しかしそれは彼女を女として見るようになってからがほとんどだ。昔は仕事ばかりして、あまり彼女にかまけてやる事は出来なかった。だが、他の連中は外に出てはやれ土産だ、なんだと言って彼女に買い与えていたようで、要するに何が言いたいかというと、
(俺の贈ったもんが極端に少ねえだろ)
それが悔しい。
廃棄の山となったそのほとんどが自分以外の男から買い与えて貰ったもので、それが故に彼の英断には容赦がない。
――要は嫉妬なのだ。
「だ、駄目! もう棄てないでっ」
は涙目になって両手で貰い物の山を守ろうと立ちはだかる。そんな彼女にさえ苛立ちを覚えつつ、今更のように彼は思い知らされた。
(本当に、あの頃の俺にとってこいつは部下でしかなかったんだな)
唯一の女としてそれなりに配慮はしたつもりだが、土方にとって彼女は部下であり、それ以上ではなかったのだ。気には掛けていても他の連中のように女だからと特別扱いはしていない。勿論それで良いと望んだのはだが、今から考えるともう少し気に掛けてやっても良かったのではないだろうか、そう思う。
思い返せばあの頃の自分はに厳しくするばかりで、怒鳴る事は日常茶飯事だし、手や足が出た事だってある。思い切り頭を殴りつけてから、そういえば女だったと思い出す事だって一度や二度ではない。それに、女の彼女に無茶ばかりさせていた。
「無茶するな」とはどの口が言うのだろう。それを強いていたのは自分だというのに。
とこう考えてみると、よく彼女は自分などの事を好いてくれたなと思う。
他の男のように優しくもなければ、贈り物だってろくにしてやらなかったというのに。
だがそんな事を言っても、この欲のない妻の事だ。
十分だと言って笑うのだろう。
欲張りな自分とは大違いだ。
「お疲れさまでした」
の妨害を受けつつも廃棄の山をどうにか運び出し終え、離れが綺麗に片付いたのは空が茜色に染まった頃だった。
丁度明日には永倉が来ると言っていた。彼に頼んで町まで運んで貰おう。きっとあれだけあれば幾ばくかの金にはなるはず。それで妻に何か買って帰ろう、そんな事を考えつつ縁側で涼んでいると声を掛けられた。
「」
どうやら茶を淹れてきてくれたらしい。湯気の上がる湯飲みを傍らに置きながら腰を下ろした彼女は濡れた手拭いを差し出してくれた。
「機嫌は直ったか?」
それを受け取りつつ茶化したように声を掛ければ、の目はまん丸く見開かれ、すぐに苦笑で歪む。
「不満ではあるんですけど……一応、その通りだなと思いましたし」
遠慮無く大事にしていた物を棄てられてはいくらが温厚と雖も機嫌を損ねるもの。しかしながら、大切とは言っても壊れている物をいつまでも置いておけないし、何より使えない物を大事に仕舞っていても意味がない。使ってやらなければ存在の価値はないのだ。例え大切な物であっても。それをだって分かっている。ただ踏ん切りがつかなかっただけ、なのだ。
「でも、ちょっとだけ不満ですけど」
それでもやっぱり少し未練は残るし、酷い仕打ちだとも思う、とが言えば彼はくつくつと意地の悪い笑みを漏らしながら茶を啜った。
「おうおう、だったら今度から未練が残らねえように精々使うこったな」
「……意地悪」
拗ねた声が詰る。
「なんだ、俺が意地の悪い男だって知ってただろ?」
少しは堪えてくれるかと思いきや、更に意地の悪い表情を向けられては言葉に詰まった。彼の言葉の裏に、それでも好きなのだろう? と茶化す響きを感じる。その通りだが、認めるのは癪だ。
はむぅっと唇を尖らせ、何か良い反論の言葉はないだろうかと考え、それにぶち当たった。
「土方さんの、鬼」
そう言われるのは久しい。
思わずあの時を思い出して「ああそうだ」と意地悪く答えてしまいそうになり、そういえば今更のように気付く。
「おい、なんで『土方さん』なんだ?」
彼女がそう呼んでいた事に。
朝目覚めた頃から確かそう呼んでいた気がする。ここ最近は改めずとも名で呼んでいたせいか、気付かなかった。いや、気付かなかったのは恐らく彼女がその恰好をしていたせいだろう。
彼を『土方さん』と呼んでいたあの頃の姿をしていたから。
一人の女ではなく、副長助勤としての姿をしていたから。
「あ、すいません。つい」
言われても気付いたらしい。
「この着物を着たら、なんかあの時を思い出しちゃって……」
己の着物の裾を懐かしそうに撫でた、かと思うとはぱっと顔を上げてこう言う。
「あの頃の私、土方さんに怒られてばっかりでしたよね」
「……」
まさに先程それを考えていて複雑な心境になった、というのを彼女は知るはずもない。
その通りなのだが改めて彼女の口から言われると本当に自分は怒鳴ってばかりだったのだなと痛感せざるを得ないというもの。
決して憎いから怒鳴っていたわけではない。まあ、女に手を挙げてしまったのは褒められた事ではないが、だがあの頃はも男だったわけで、いや、正確にはあの頃も今も女なのだが……
と、ここまで考えてふととある考えが思いつく。
あの頃の自分をどうにかしたいと思った所で土台無理な話。過去は過去であって、変える事は出来ないのだから。
だが、今なら――
「、確か、俺が昔着ていたあの深紫の着物は残ってるって言ってたな?」
「え、あ、は、はい」
唐突な話題変換には目を瞬かせながら、こくりと頷く。
「そいつをちょっと持ってきてみろ」
「今、ですか?」
「ああ」
今すぐだ、と土方が言えばは何故と問わずに腰を上げる。未だにあの頃の名残でも残っているのだろう、彼の命には逆らわない。また、何故と問い掛けもしない。それが絶対で、彼を信用していたから。
「えっと、持ってきましたけど」
程なくしてぱたぱたと足音をさせながら、が手に懐かしい着物を持って戻ってくる。あの頃身につけていた袴も一緒にだ。
埃の嫌なにおいはしない。恐らく、が大事に仕舞ってくれていたのだろう。大切なものだから。
それを受け取って部屋へと戻ると、早速身につけていた着物を脱ぎ捨てて懐かしいそれへと袖を通す。
「あの、土方さん、一応繕ってはいますけど……」
彼が一体何をするのか彼女も気になってはいたようで、後ろからついてきていたはおずおずと進言した。恐らく、肩口の見事な縫い目の事を言っているのだろう。少し布地が引き攣ってはいるが、別に構わない。
「よっし、これで……」
袴紐を結びしかと袷を正した時には、その背がすっと美しく正される。
はその姿を見ると自然と気持ちが引き締まるのを感じた。真っ直ぐに前を見つめるこの男に、この高潔でさえあるこの男に、相応しい刃で在り続けよう――そう願ったあの頃に戻ったような。
「本当に、あの頃に戻ったみてえだな」
彼女の顔つきが女のそれから武人のそれに変わっていくのを見て、土方は苦笑を浮かべる。
もし彼が命じれば今すぐにでも風のように飛び出していきそうだ。その手に刃を携えて。
でも、
「……え、土方、さん?」
一歩踏み出した男が伸ばした手に引き寄せられ、気付けばその腕に抱かれていた。
困惑気味な声がの口から零れたのは、気持ちが妻ではなく彼の部下であったからだろう。思わず慌てて離れようとして、それから彼が夫である事を思いだした。
だけど何となく気恥ずかしい。恐らく、その恰好をしているからだ。
副長とその助勤。男女の仲ではなく、いや、男女の仲であってはならない関係。
その恰好で抱き合う、というのは何となく恥ずかしくて、さりげなく腕から逃れようと胸を押し返した瞬間、
「う、わっ!?」
突然、身体を浮遊感が襲った。思わず驚いたような声を漏らしてしまい、慌てて彼の着物を掴んで安定を取り戻したか、と思えば、
「え、ぇ…?」
とさりと背中に感じる畳の感触と、そして身体の上に感じる男の温もりに一瞬、何が起きたのか分からない。
彼に押し倒された。一瞬頭が理解できなかったのはやはり彼が鬼の副長の形をしていたからだ。先程確かに夫だと思いだしたのに頭がまた、戻っている。突然副長に押し倒された……そんな感覚がどうにもまともな思考を邪魔するらしい。
「あああああ、あの、土方さん? なななな、何事ですか!?」
相当動揺しているらしいはわたわたと手を無意味に動かしながら上擦った声を上げる。なるほど、あの時彼女にこのような事をしていたらこんな反応が返ってきたのか、これは楽しい。
「ちっとばかし昔を思いだして、悔やんでた所だ」
「む、昔? 悔やんで?」
「あの頃はおまえに厳しくしてばかりだったなってよ」
そっと手のひらで頬を包むとの表情が驚愕に歪み、固まる。
殴りつける事はあっても、このように触れた事はない。遠慮無く拳骨を頭に食らわしていたそれを申し訳なく思いつつ、優しく頬を撫で回せばの身体が徐々に何かを察して強張っていく。
「ひ、土方……さん?」
まさか、違いますよね? 私の思い違いですよね? なんて言いたげな瞳ににこりと、まるであの悪童・沖田総司が浮かべそうな邪気のない笑みを浮かべてみせる。
「痛え思い出ばかり……ってのも、可哀想だと思うんでな」
「わ、たし、そんなっ」
「今から、あん時の詫びを兼ねて――」
邪気のない笑みが、一瞬にして、歪む。
「鬼の副長がおまえをたっぷり、甘やかしてやるよ」
壮絶なほど――残酷で凶暴な笑みに。
確かに、あの頃のは土方に叱られてばかりだった。
殴られた事も一度や二度じゃないし、蹴りつけられた事も、抜刀して追いかけられた事もある。顔を合わせれば「無茶するな」と窘められ、たまに彼の言い付けを破れば長い説教と重たい拳骨が飛んできたものだった。
が、決して悪い記憶ではない。
にとってはそれも楽しい記憶だ。痛い記憶でもあるけれど。
それになにより、あの時の記憶というのは彼女にとっては決して汚してはならない神聖なものだった。
彼の生き様を、傍で見る事が出来たのだから。共に駆け抜ける事が出来たのだから。
それなのに、
「ちょ、待った!」
好き勝手な事を言ってくれる男が、突然人の袷をむんずと掴んできては慌ててその手を押さえ込んだ。
「な、何するんですか!」
「何って、さっきも言ったろ。甘やかしてやるって」
「なんで、突然、甘やかすになるんですか! 意味が分かりません!! いいから、離してっ」
ぐいぐいと肩を押しのけようとするけれど彼は退かない。そればかりか人の腕を掴んで強引に袷に手を伸ばそうとするので、させまいとして手をぱしりと叩き、彼が怯んだ隙に身体をもぞもぞと左右に動かして背を向けてやる。
そうして、彼の下からどうにかして這い出てやろうと思ったのに、
「ぐげっ!?」
べしゃ、と後ろから重みを駆けられて、蛙が踏みつぶされたみたいな無様な声を漏らした。
「逃げてんじゃねえよ、優しくしてやるっつってんのに」
「ど、どこが、優しいんですかっ! 私潰れて……おも、重いぃい!」
「おまえが逃げだそうとするからだろ」
「逃げ出すに決まってるでしょうが!」
突然訳の分からない事を言われて、こんな事をされたら誰だって逃げ出すに決まっている。
「っていうかもう夕飯時ですし、こういう事はその、夜に……」
「夕飯ならもう少し腹を空かせてからの方が良いだろ? 適度に動いた後の方が飯も美味いって言うしな」
「ちょ、その卑猥な言い方止めてくれません? って、ほんとに待ってってば!」
押さえつけていた手が下へと下りると同時に近付く温もり。首の後ろに男の吐息を感じて、これはまずいと慌てて畳を掻いて力ずくにでも這い出ようとすれば、ち、と耳の後ろで舌打ちが聞こえた。
「仕方ねえな」
「っふ、お、え?」
畳を掻いた手に大きな手が重ねられる。
思わずどきりとして動きを止めてしまえば、ひょいと手首を掴み上げられて、
「ふぉおおおお!?」
両手首を背中に纏められて縛り付けられた。その早さはまるで神業……と感心している場合ではない。
「ちょ、土方さんっ!?」
「これで大人しくなったな」
「ちょっと、優しくするって言ったの誰ですか!? 縛ってる時点で優しさ皆無です、皆無!」
「酷くしねえ為の措置だ」
「ひどく……って、ひっ!?」
ぬる、と項に熱く濡れた感触が這い、は小さく息を漏らして仰け反る。
天辺で一つに纏めているお陰で、彼女の白く眩しい項は無防備だ。嘗め回したいほどに。
「何度も思うが、おまえよくあの中で無事でいられたな」
「な、何、言って…っん!」
「こんだけ色っぽい項を見せられたら、普通は噛みつきたくなるもんだろ」
「それ、は、あっ!!」
あんただけだと続く台詞はがりと些か強く歯を立てられて遮られる。鋭い痛みが走った。
「なに、が、優しく……」
「ああ、悪かった。つい、美味そうだったもんで、な」
「な、何いっ…っは、あっ」
くつりと耳の近くで意地の悪い笑みが聞こえ、次にはぬるりと今し方噛まれた所を熱く舐られて背筋がぞわぞわと震えてしまう。
「本当に美味そうだ。白くて滑らかで、おまけにいいにおいがするじゃねえか。ついつい噛みつきたくなっちまう」
「やめ、やめて…っ」
「鬼の副長が優しくしてやるって言ってるんだぜ。遠慮せずに甘えろってんだ」
「い、いやっ……んーっ!」
ぐいと力任せに着物を引っ張り、肩口を露わにする。白く細い、華奢な肩だ。ほんの少し力を入れただけでも折れてしまいそうで、壊してしまわないように優しくなぞればびくりと背中が大袈裟に震え、その弾みで美しい肩胛骨までが露わになった。
の背中は小さい。女なのだから当然だがこの背中で何度も自分たちを守ってくれたかと思うと、少し情けなく思えてしまう。どう見たって自分たちを守れるほど大きくも、逞しくもない。それなのに、この背に庇って、彼女は戦い続けたのだ。
「無茶ばかりしやがって」
些か八つ当たり気味の言葉を吐いて、土方は傷一つ無い小さな背中に唇を押し当てる。言葉とは裏腹に、その口付けは優しい。なんだか傷を労るように触れられている気分になって、はくすぐったいやら恥ずかしいやらで仕方なくて、
「やめっ」
もぞもぞと身を捩って逃れようとするけれど、彼の唇はそんな言葉など聞こえないと言わんばかりに背中のあちこちに唇を滑らせていく。
ただ触れたかと思うと、次には舌でねっとりと舐られ、或いは唇で強く吸われ、骨の形を確かめるみたいに歯を緩く当てられ、小さな背中は彼の唇、歯で、触れていない所はないという程丹念に触れられた。
更にもっと、下の方まで……と、襟ぐりを引っ張った所で、
「もう、や――いたっ!」
の口から鋭く痛みを訴える声が上がった。
痛くしたつもりはないどころか、触れてさえいない。
どうしたのかと声を掛ければは額を畳に擦りつけたまま、ふるふると頭を振ってただ「やめて」と言うばかりで答えない。
「おい、、どっか痛むんだろ? 隠すんじゃねえよ」
「平気、だから、も……ぃっ」
もう一度身を捩った瞬間、やはりは痛いと声を漏らした。そうして背を少し丸める。痛みを堪えようとしているのだろう。
「馬鹿、我慢すんじゃねえ。痛えんだろ?」
労るように肩を抱き、伏せた顔を覗き込む。は額を擦りつけながら唇を噛みしめているみたいだ。相当、痛そうに見えるのに、彼女は決して答えない。
心配を掛けさせない為になのか、どうか知らないが、今日は甘やかすと決めたのだ。我慢をされては困る。
「言え、」
「やっ、だ」
「副長命令だぞ」
「――」
些か、卑怯かと思った。
彼女にとって副長命令は、絶対。夫となった今では無意味な事かもしれないが、少なくとも……その姿の彼女には効果があるはずだ。副長助勤の姿である彼女にとっては。
命令だという言葉にの身体が一瞬強張り、しばし無言となる。迷っているのか、畳を見つめる瞳が左右に何度か振れ、やがて肩がゆっくりと落ちていくのと共に小さな呟きが零れた。
「痛い、の」
どこがと覗き込むけれどは顔を上げてくれない。
「擦れて、痛いの」
、と名を呼ぼうと口を開けばそれよりも前に、消え入りそうな声がこう綴った。
「……乳首が、擦れて、痛いの」
彼女の耳は、真っ赤だった。
きっと畳に伏した顔も真っ赤で、泣きそうな顔に歪んでいる事だろう。
予想外の言葉に、しかし納得する。確かに突っ伏したこの状態で何度も身を捩れば畳と胸が触れ合う事になるだろう。しかも着物を引っ張られたせいで彼女の胸元は緩んでいる。乳房でも一番敏感な乳首が擦れて、痛むのは当然の事だ。畳は優しく触れてはくれないのだから。
「そりゃ、悪かった」
「だから言いたくなかったのに!」
思わずと言う風に笑みを含んだ声が漏れて、は突っ伏したまま声を尖らせる。その反応までが愛おしくてくつりと喉を震わせて笑うと、がきっと睨み付けるように振り返った。
「もうやだ! 土方さんなんかっ……」
嫌いだと訴えるつもりなのか、それは冗談でも聞きたくない。
土方は彼女の言葉が唇から飛び出るよりも前に細い腰に手を回してぐいと起こしてやり、
「悪かったって」
背後から抱きしめるようにして彼女を腕の中に閉じ込める。
包み込むその温もりと感触。酷い事をされていたというのにその中に囚われると身を任せたくなる……そんな安心感には罵声を飲み込み、力を抜いて背に凭れ掛かった。凭れた瞬間に背に返ってくる固い胸板の感触が、堪らなく、好きだ。
「もう、何も心配はねえぞ」
身を任せてきた彼女をしかと抱きしめ、優しく声を掛けて柔らかな髪に優しく口付けを落とすと肩の上から覗き込むように前を見た。
大きく開かれた胸元から彼女の乳房が零れている。相変わらず見事な、柔らかそうな膨らみだ。むしゃぶりついてやりたい程美味そうである。
「ああ、本当に赤くなってるな」
その膨らみの先端は確かに、赤く痛々しいまでに色づいていた。これは相当痛かった事だろう。
「え、あっ…!」
は言葉にはっと我に返り、自分の姿を今更のように思い出して隠そうとしたけれど、もう遅い。
縛られた腕と身体に出来た隙間に手を差し込まれ、固定するように腕を回されたかと思うと大きな手が乳房を包む。
汗ばんだ肌は彼の手のひらにしっとりと吸い付いた。まるで、彼の手に自ら縋り付くみたいに。
「俺の手に良く馴染む」
「勝手な事…ぁっ」
「事実だろ? ほら、離れたくねえってついてくるじゃねえか」
「や、んっ…んっ」
手のひらで膨らみを支えながら指先に力を軽く力を入れる。それだけで指は深く沈み、男の興奮を高めてくれた。今度は力を緩めて肌の上を官能的に撫で上げればの身体は小刻みに震え、次の瞬間大きく仰け反った。
勃ち上がった乳首を摘まれてしまったのだ。
「や、いたっ!」
「まだ痛えのか? これでも優しく触ってるつもりだぞ」
摘んだかと思うと今度は指の腹ですりすりと撫でられ、腕の中でびくんっと身体が跳ねる。
「い、やっ、さわんな…でっ」
畳で擦られて敏感になっているせいだろう、少し触られるだけで耐え難い疼きと快感が走り、の口からはとても嫌がるものではない甘い声が漏れた。
「や、だ、やぁ…ん、あっ」
「ちゃんと優しくしてんだろ」
「や、やだ、それ、痛いっ…いた、のっ」
痛いから離してくれ、なんて嘘だ。は自分でも分かっているし彼もきっと気付いている。それでも離してくれなんて言って彼を煽ってどうするのだろう。嫌がる素振りを見せれば彼の欲を駆り立てるのは分かっているのに。そうして追いつめられるときっと今以上に恥ずかしい思いをさせられるとも知っているのに。
「あ、んぅっ!?」
後頭部を押しつけてはくはくと喘いでいると口の中に何かが滑り込んでくる。
少ししょっぱいそれは人の肌の味。舌を撫で時折悪戯するように引っ掻くのは彼の指だ。突然何をするのかと見上げれば、彼は口の端を引き上げて笑い、が苦しいとうったえるよりも前に指を引き出した。そうして、
「ぁあっ!?」
「濡らしたら、少しは、ましになっただろ」
人の唾液で濡らした指で再び土方は乳首を嬲ってくる。濡れた感触が快感神経を刺激し、身体の奥に酷い疼きが募ってくる。狂いそうだ。
それじゃ、足りない。
「や、ぁあっ、あっ……ン!」
「濡れてるみてえだな」
足りないという思いが声にでも現れたのか、乳房を弄んでいた片手でそろそろと股座をなぞられた。
手のひらにしっとりと濡れた暖かい感触が伝わる。彼女は男のように下帯を巻いてはいない。だから黒い履き物の下に触れる柔らかさは彼女の肌なのだ。
「ぁ、あ…やだ、土方さっ…」
「ここも、ちゃんと弄ってやるよ」
囁く言葉と共にするりと手が黒い履き物に掛かり、あっと思う間にはぎ取られて大事な場所を暴かれてしまった。
隠そうと脚を閉じようとしたけれど、彼の脚に絡め取られてしまう。
そうして身動きを完璧に封じてから、脚の間に手を差し込んだ。
「ぁあっ」
「いつもより、濡れてんな」
くちゅ、と指先に触れる感触にそんな感想が零れる。
は感度の良い女ではあるが乳房の愛撫だけで滴るほどに濡らしているは珍しい。少し指先に力を入れれば膣口はいとも簡単に彼の指を飲み込み、いや、食らいつき、奥へと奥へと誘う胎内はぐずぐずに溶けている。指で散々解してやった後のようだ。
その理由は、恐らく一つだ。彼らの恰好が……いつもと違うせい。そんなもの如きで、と思うかも知れないが実際想像力というのは何よりも興奮を高めるものである。
副長である彼とこのような関係になるのはあり得ない。いや、なってはならない。その背徳感こそがの興奮剤なのだろう。
そして土方も、あの凛々しい副長助勤を手篭めにするその背徳感に高ぶって仕方がない。彼の股間とて、がちがちに固くなって涎を垂れ流している始末なのだから。
「待ってろ、すぐ、気持ちよくしてやるからな」
それは彼女に言うのか、自分に言うのか……男は告げながら指をぐちゅぐちゅと上下に動かした。
「あぁっ、や、はっ」
既に中は解れている。一度奥まで差し込み、再び引き抜いて二本で掻き回し、彼女の好い所を弄ってやる。
ざらついた壁を擦り上げればの身体がびくんと大きく跳ね、とろりと身体の奥から蜜が溢れてくる感触が指を包んで、落ちていった。
「どうだ、気持ち良いか?」
ぐちゃぐちゃと態と音をさせながら指を蠢かせると、は後頭部を擦りつけながら甲高い声を漏らしてこくこくと頷いた。
「は、い、っあ、きもち、い…」
「もっと、して欲しいか?」
「ん、…あ、して…もっと、してっ」
普段は気持ちが良くても恥ずかしがって好いと碌に言わないくせに、今日は随分と素直だ。そんなに副長に抱かれるのが良いのだろうか? だとしたらちょっとだけ、妬ける。自分の事なのに。
「あ、ぁっ、ひじかた、さっ…わたし、も、もうっ」
そんな男心になど気付かない彼女は、これまた素直に限界を訴えてきた。いつもよりも早いのも、癪だ。些か感じすぎではないだろうか、鬼の副長の手というやつに。
「そんなに、副長の手は好いのか?」
面白くなくて不機嫌そうに声が低くなるのを止められない。
が振り返った。甘ったるく声を上げながら、自分をぼんやりと見上げている。
きっと彼女には分からないだろう。男の複雑な心境など。
「そんなに、鬼の副長が好いのか?」
夫である自分よりも、鬼の副長であった自分の方が彼女は好きなのか。
問い掛けに、副長助勤は強い声で応えた。
「あなただから――ぜんぶ好いの」
そういえば昔から、副長助勤の方が一枚上手だった。

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