「はい、平助君。」
満面の笑みで彼女がやって来たのは、いつもよりも30分遅刻で。
やってくるなりふんわりと、甘い香りが漂って、藤堂はすんっとそのにおいの正体を探るみたいに鼻を鳴らす。
『平助って犬みたいだよね』と以前沖田がからかっていたのを思い出したが‥‥なんとなくその気持ちが分かった。
くすりと千鶴が笑みを漏らすのと藤堂がにおいの正体を突き止めるのが同時で、
「お!マフィンじゃん!!」
千鶴が差し出した箱の中には、まるっと美味しそうに膨らんだマフィンがずらりと並んでいる。
ナッツを混ぜてあるものや、チョコ味のもの、更には甘い物が苦手な人用に抹茶味のものもあった。
「昨日作ったの。
良かったら‥‥」
「え!?マジで!?食っていいの!?」
その目をまん丸く見開いて驚いたように声を上げる。
いいの?と聞きながら今すぐにでも飛びつきたそうな顔だ。
実際、お腹も空いていたし、何より、それは千鶴の手作りお菓子だ。
ものすごく食べたい。
今すぐ食べたい。
っていうか、食べて良いですか?
「勿論。」
まるで目の前に餌を差し出されてお預けを食ってる犬そのものの表情に、千鶴はにっこりと笑顔を浮かべる。
「食べて。」
笑顔のままのその言葉に、
藤堂は迷いもせずにマフィンに手を出したのだった。
「うっめぇええええ!!」
という歓喜の声に斎藤は怪訝そうな顔で足を止める。
そうしてチラッと道場を覗いて、
「何をしている?」
こんな遅くまで残っている藤堂と千鶴の姿に質問を口にした。
「はひへふん!」
マフィンを頬張ったまま藤堂が何かを言った。
多分、斎藤を呼んだのだろう。
いい、とりあえずそれを飲み込んでから喋れ。
斎藤は呆れたように彼を見て、それから事情の説明を求めるべく千鶴を見る。
その鼻先に、
「どうぞ。」
ずいっと箱が差し出された。
ふわん、と食欲をそそる甘い香りがする。
「‥‥なんだ?これは。」
ころんと箱の中で転がる美味しそうなマフィンに斎藤は細めた瞳を和らげながら問いかけた。
「差し入れです。」
昨夜作ったんです、と千鶴は笑顔のまま答える。
「本当は部員皆さんの分を作りたかったんですけど‥‥途中で材料が足り無くなっちゃって‥‥」
「‥‥」
「今回は、お世話になっている方に‥‥ということで、持ってきたんです。」
「‥‥俺にも、その権利があるということか?」
「はい!」
千鶴は満面の笑みで頷いた。
「良かったらもらってください。」
ころん‥‥と箱の中でまるで自己主張でもするように抹茶味のそれが転がった。
斎藤は千鶴の顔をじっと見つめた後、
いつもは真面目なその表情を少し苦笑に緩めて、
「では、戴く。」
抹茶味のマフィンに手を伸ばした。
そのマフィンは今まで食べたどれよりも美味しかった‥‥と斎藤は思う。
職員室に入った瞬間、わぁっと歓声が上がって土方は何事かと顔を顰めた。
随分遅い時間だからもう誰もいないと思っていたら‥‥そこに、原田や永倉の姿があった。
雄叫びを挙げたのは永倉だった。
なんだ、珍しく彼の予想があたったか?
明日は大雨か、もしくは嵐だな‥‥
などと考えながらそちらへ向かうと、永倉の巨体の向こうに小さな人影が見えた。
「千鶴?」
彼女だった。
「あ、土方先生。」
千鶴は土方に気付くとお疲れさまですという労いの言葉と愛らしい笑みを向けてくれる。
それをおうと愛想のない返事をしつつ、
「おまえ、こんな時間まで残ってるなんて、何かあったのか?」
もう8時だぞ、と時計を見て呟く。
生徒はとっくに下校時間だ。
まさか彼女に限って居残りなんて事はないし、部活もとっくの昔に終わっているはずだろうから、彼女がこんな時間まで残っ
ていたのは彼女の意志という事になる。
「あの、これを先生に‥‥」
そう訊ねると、千鶴は持っていた箱をずいと差し出した。
なんだ?
ふわんと香る甘さに怪訝そうに眉を寄せると箱の中にはころんと、マフィンがその広い箱の中に寂しげに残っていた。
「昨夜私が作ったんですけど‥‥
もし甘い物が苦手じゃなければ、召し上がってください。」
「召し上がって‥‥って、俺にか?」
「はい。」
千鶴は頷いた。
「いつもお世話になっていますから。」
これが彼女の従姉妹‥‥であるならば皮肉の一つも含んでいるのだろうが、目の前の少女は本心からの感謝の気持ちなのだ
ろう。
お世話になっている、
なんて教師なのだから当たり前だ。
生徒のために働くのが教師という生き物なのだから。
だから、感謝をされる謂われはないのだけど‥‥
「‥‥あ、お嫌い‥‥でしたか?」
まじまじと見つめていると千鶴が不安げに訊ねてくる。
折角厚意で作ってきてくれたのに、それを無碍に断るのは‥‥鬼だ。
鬼教師と言われているが、土方はそこまで鬼じゃない。
「有り難くもらっとく。」
ひょいと大きな手が残ったマフィンを取ってくれた。
千鶴はほっと安堵の溜息と、それに負けない嬉しそうな笑みを向けて、
「ありがとうございます。」
と言った。
ありがとう‥‥はこちらの台詞である。
土方は綺麗に焼き上がっているマフィンに、一口、かぶりつく。
ふんわりと程良い甘さが口の中に広がり、ああこれは本当に美味いなと土方は目元を綻ばせた。
「世辞抜きで美味いよ。」
「な!美味いだろ!?」
土方の言葉に何故か偉そうに胸を張ったのは永倉である。
「俺もあまりの美味さに、二個、三個と食っちまったよ!」
人の食べているマフィンを見ながら涎をじゅるっと啜る同僚に、やらねぇぞと土方は睨み付けた。
「おまえは遠慮無く食い過ぎだろ。
ったく、もらってねぇ奴の分まで食っちまいやがって‥‥」
その彼を呆れた面持ちで原田が見遣る。
どうやら彼も永倉も感謝の気持ちとやらを戴いていたようである。
しかも、永倉は三個も。
「‥‥なんだ、こんなに美味いのに食わなかった奴もいたのか?」
そいつは勿体ねえなと土方は指についた欠片さえ舐め取りながら言うと、千鶴はそうじゃないんですと、ちょっとだけ残念そ
うに言った。
「今日はお二人とも、学校には来ていらっしゃらなかったみたいで‥‥」
「学校に来ていない‥‥って?」
休みだったのか?と訊ねると、千鶴はそうなんですと空になった箱を腕の中に抱きしめながら頷いた。
「大学の模試があるとかで、沖田先輩もさんもお休みだったんです。」
「‥‥なに‥‥‥?」
彼女の言葉に土方はぴたっと手を止めた。
その声が一瞬鋭さを増し、千鶴は悪いことでも言っただろうかと不安になった。
もしかして、二人はサボリ?
いやいやまさか、そんな、彼が嘘を吐くなんてこと‥‥
しかし、男が声を鋭くした理由はそんな事ではなかった。
「‥‥それ‥‥総司は食ってねえのか?」
それ、と空になった箱に視線を向ける彼に、千鶴はきょとんとしたまま、
「はい。」
と頷く。
彼女は、沖田との為にもマフィンを作っていたのだ。
模試で休みだとは言っていたが、放課後には戻ってくるから一緒に帰ろうと沖田から昨夜メールがあった。
実はそのマフィンは、模試で疲れるだろう沖田への労いが一番の目的だった。
勿論「お世話になっている皆さんに感謝の気持ち」というのが偽りというわけではない。
ただ、千鶴の一番は沖田で‥‥彼に食べて貰いたくて作ってきたのだが‥‥
残念な事に会場付近で電車の事故があり、放課後までに戻ってくるのは困難になったという連絡を先ほど受けたのだ。
一日置いておいても別に腐ることはないだろうが、それでもやっぱり大事な人には美味しいものを食べて欲しい‥‥
ということで、残ってしまった二つをよければ食べたいと思う人に食べて貰おうとした結果、永倉がその権利を獲得し、彼の
胃の中に収まった。
つまり、沖田の分を永倉が食べてしまったということになる。
そして、
沖田は最愛の恋人が作ったお菓子を食べ損ねたということに‥‥
「‥‥‥」
土方は難しい顔になった。
なんだか、
果てしなく嫌な予感がした――そして、
「千鶴ちゃん、そのマフィンを食べた幸運な人たちって‥‥」
その日の夜、遅くに掛けた電話により彼女の初『手作りお菓子』を食べられなかったと知った沖田は、笑顔のままに訊ねた。
「一体、誰?」
暗い夜道に一人、
復讐劇のプロットを一気に頭の中に組み立てる男の姿があった。
彼の予感は的中した。

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