「あ、あの、土方さん落ち着いてください!」
「俺は、最初から落ち着いてる」
「いやいや、落ち着いてる人がこんな風に人を壁に押しつけたりなんかしません!」
「ああそりゃ俺も矛盾を感じてる。てめえの女房を壁に押しつけて無理矢理話をしなきゃなんねえって事態だからな」
「だ、だから、それはっ」
 口を開けば両腕を壁に押さえつけた手に力が篭もる。
 黙れと力ずくで命じられるような力強さに思わず怯んで息を飲めば、目前に迫った紫紺が私を真っ直ぐに捉えて、

「単刀直入に聞く」

 ぎくりと身体が強張り、目が見開かれたのを彼は見逃さない。
 それだけで十分な答えになるだろうけれど、彼はあくまで私の口から言葉を引き出そうとした。

「おまえ、俺とすんの、嫌か?」

 何をと聞けるほど私の性格は歪みきれていなかったらしい。



 確かに私は彼を避けていた。
 こうして壁に押しつけられて、逃げないように捕まえておかなければならないほど、私は彼を明らかに避けていた所がある。
 とは言っても顔も合わせるし会話だって普通にする。
 じゃあ、なにを避けていたか……というと、彼と触れ合う事をだ。
 正確には彼の言葉通り。
 彼に、抱かれるのを、私は避けていた。

 先に言っておきたいのだけど、決して私が心変わりしたわけじゃない。
 彼の事は今でも好きだし、彼とは……出来れば触れ合っていたい。
 でもそれをしないのは触れ合えば、その、そういう雰囲気に自然となってしまうからで。まあ夫婦なんだから当然の事といえば当然の事かもしれないけど、とにかく私はそういう雰囲気にならないようにと今までずっと彼と触れ合うのを避けていた。
 寝相が悪いから一人で寝させて欲しいと言い訳をしてみたり、そういう雰囲気になりそうだと思ったら用事を思いだした振りをして部屋を出たりと……まあ、最初は分からないようにやってたけどそれが何日も続けばおかしいと気付くだろう。鈍い人でも十日もそんなのが続けば薄々と勘付くに違いない。
土方さんくらい勘の鋭い人ならばもっと早かっただろう。
 だから多分、気付いてからの数日は彼も問い質そうかと迷っていたんだと思うんだ。
 だって正直に聞き難いじゃない?
『俺とすんの、嫌か?』
 なんてこの恰好つけたがりの彼が聞くのには相当葛藤があっただろうし。
 それでも我慢の限界だったみたいで――だって土方さんどちらかというと短気だし――十二日目にして、彼は私に直接聞く事にしたという事だ。
 いやまあ正直言い訳の材料も無くなってきて困ってたけど、それ以上に問い質される方が困る。
「い、嫌じゃ、ない、けど」
 とりあえず彼の事を嫌っている訳じゃない。
 それを聞いたら逃がしてくれるかなとかちょこっと甘っちょろい事を考えて視線を逸らせば、逃がすかとばかりに追ってきた視線に再び絡め取られる。
「けど、なんだ? それで、俺が見逃すとでも思ってたか?」
「っ」
「悪いが、今日はおまえの我が儘は聞かねえよ」
 洗いざらいぶちまけるまで逃がさない。
 そう紫紺が私に突きつけるみたいにぎらりと妖しく光る。
 怒ったような瞳も、やっぱり怖いくらいに綺麗で、私は、
 私は、
「――」
 ぎゅうっと目を瞑って世界を遮断した。
 この期に及んで悪足掻きだと言われても良い。
 でも、まだ、私には耐えられない。

 そんな私を見て土方さんはふぅっと一つ溜息を吐いた。
 呆れたような怒ったような溜息で一度気持ちを落ち着かせたのか、強く握っていた手から少しだけ力が抜ける。
 少しだけほっとして私も小さく息を零せば、言い辛そうに彼がこう訊ねてきた。
「やっぱり……最初のが痛かったせいか?」
「……え?」
 あまりに予想外な言葉に思わず、目を瞬かせながら彼を見てしまった。
 すると彼は眉間に皺を寄せたまま、でもさっきとは違って怒っているというよりは困ったような顔をしていて、
「そりゃ、まあ、悪かったとは思ってる」
 なんて勝手な事を言い出すから私はぽかんと呆気に取られてしまう。
「なるべく痛え思いはさせないようにと思ったんだが……加減が分からなくなっちまって、おまえには辛い思いをさせた。そこは謝る」
 いや、謝られても私なんて返せばいいの?
 はあとか、いいえとか言えばいいの?
 言えないよ! 何も言えるわけないじゃん! っていうか、この人一体何を言い出すの!?
 お願いだからそれ以上変な事言うのはやめて!!
「でも、おまえだって途中から痛がってなかったし、」
 そんな私の心の声など全く気付かず、土方さんは訥々と恥ずかしい事を言い続ける。
 言いながらちょっとだけ目元が照れて染まっているんだけど、恥ずかしいんなら言うな! っていうか、私が恥ずかしいから言わないで!!
「好さそうにしてたのも芝居じゃねえだろうし。最後の方はおまえの方から強請ってきたくらいだから、嫌って事はねえよな? まああの後もうやめてくれって言うまでしちまったのは確かだろうが、」
「も、もう止めて! それ以上言わないでぇええええ!!」
 今なら私、死ねる。
 恥ずかしさで悶え死ぬ事が出来る。
 ねえもしかしてこれ報復なの?
 何日も避け続けてきた私への罰?
 もう充分です。十分すぎるくらいに罰は受けました。
「身体の方は悪くねえって事は……やっぱりあれか」
 あまりに効果的な精神面への攻撃に一人打ち拉がれている私などお構いなしに、土方さんは言葉を続ける。
 まだ、苛めるつもりかこの人は。
 流石鬼の副長様。相手を完膚無きまで叩きのめさないと気が済まないのか。
「土方さん、もう、お願いだから」
 やめてくれと力無く訴える声をまるっと無視し、彼は小さく呻くように零した。

「俺の事が嫌だって事か」

 じりっと胸が痛くなるような悲しそうな声。
 はっとして顔を上げれば私から視線を逸らした彼の横顔はひどく苦しげで、見ているだけで胸が張り裂けてしまいそうだった。
 そんな顔をさせたくもないしそんな言葉を言わせたくもないし、言われたくない。
『嫌い』だなんて、冗談でもあり得ないのに。
 でも、彼にそう思わせたのは私だ。
 私が彼の事を嫌っていると思わせ、それ故に彼を傷つけたのはこの……私。

「……悪かった」
 それは何に対しての謝罪なのか。土方さんは謝って私の手をゆるりと離す。
 離れる温もりにはっと追いすがるように視線を向ければ、彼は、情けない顔で見る私を見て口元を無理矢理拉げてみせた。
 笑ったんだろうけれど、それは全然笑顔になって無い。
 傷ついたような瞳をしているくせに。眉だって情けなく下がってるくせに。
 それなのに私を困らせまいと、彼は笑おうとしてくれた。

 もう、そんな彼の傷ついた顔を見ていたら我慢できなかった。
 自分の中のもやもやしたのとかなんか、どうだっていい、なんとでもなってしまえばいい。
 だって私の大切な人がこんなに苦しそうな顔をしているのに黙ってなんかいられないじゃない。

「待って!」
 自分でも思ったよりも強い力が、声に、身体に籠もる。
 いけないと思った時には私の身体は体当たりでもするみたいに彼に飛び込んでいて、
「っ!?」
 どさりと派手な音を立てて、私たちは二人一緒に畳の上に転がった。
 実際畳の上に転がったのは土方さんの方だけ。
 私に激突されて彼は派手に背中を打った事だろう。小さく痛みを訴えるのを私は聞きながら、でも案じるよりも先に私は彼の胸ぐらを勢いのあまりにつかんで口を開いていた。
「そんな事言わないで!」
 噛みつくような勢いで私は言う。
「私があなたを嫌いになる事なんて、絶対にない!!」
 だから、そんな事を勝手に言わないで。
 言わせたのは私だ。勝手な事を言っているのも私。
 でも、どうしても譲れなかった。
「何があってもどんな事があっても、私があなたを嫌いになる事なんてあり得ない! 例えば世界を敵に回したって――」
 誰かに後ろ指を指されようともこの気持ちを変えるつもりはない。
 大罪と言われるならば私は喜んで罪人になろう。
 この世の全てがひっくり返っても私が彼を嫌いになる事なんて無い。それほどまでに確たるものを、誰にも覆されたくない。
 特に……彼には。

「信じて、ください」
 私の気持ちを疑ってなんか欲しくない。
 私の彼への想いを、彼にだけは信じて欲しい。
 好きで好きで堪らなくて、この身体も魂も全部彼に捧げて彼の一部にして欲しいくらいに愛しているんだって、彼には信じて貰いたい。
「何があっても、好きだから」
 だから、と言う声が震えた。
 なんでだろ。私泣きそうになってる。
 泣きたいのは土方さんの方だろうに、私勝手に泣きたくなってる。
 どうして私はこんなに勝手なんだろう。
 腹が立って、思わず唇を噛みしめた。
 そんな私を土方さんは、まるで許すみたいに優しい笑みを向けてくれて、その大きな手で頬を慈しむように撫でてくれる。
 久しぶりの彼の、感触。
 やっぱり大きくて、暖かくて、優しくて――好きだ。
「分かってる、おまえの気持ちは」
「ん、うん」
「だから、余計に分からねえんだよ」
 土方さんは私に優しく触れながら言った。
「ここまで俺を想ってくれるおまえが、なんで、俺を拒むのか……分からなかった」
「それ、は……」
「なんで、俺を拒む?」
 一瞬怯む私に彼は静かに乞う。
 私の言葉で、私の気持ちを。
 好きであるのならば何故、拒むのか。何故、逃げるのか。
「なあ、
 教えてくれとどこか弱ささえ感じる眼差しに、私は腹をくくるしかなかった。

「怒らないで、聞いてくださいね」
 身勝手な台詞だけど、土方さんはこくりと確かに頷いてくれた。
 一度だけ息をゆっくりと吸う。緊張のあまり震えてしまうけれど、深く胸をいっぱいもう吐き出すしかない状況まで吸うと、吐き出すその勢いに任せて私は言った。

「ひ、土方さんが私を見るその顔が、い、いやらしくて恥ずかしかったんです!!」

 断っておくけど、決して私はふざけているわけじゃない。
 至って真面目。真剣に、何日も彼を傷つけてまで逃げ続けた理由が……これなんだ。いや本当だってば。
 決して土方さんを馬鹿にしたいわけでもないんだって。

「……そりゃ、どういう意味だ?」
「お、怒らないって言ったじゃないですか!」
 呆気に取られた顔が徐々に険しい顔になっていくのを見て私は慌てた。
「怒ってねえ」
「怒ってる!」
 明らか表情も声も怒ってるよ。
 そりゃまあ、いやらしい顔とか言われて喜ぶとは思わないけどさ。特にこの色男は女の人に顔の事で悪い事なんて言われた事なんてないだろうし。だから、私は悪口を言ってるわけではないってば。
「……まあ確かに、いやらしい事を考えてる事は確かだが」
 そんな締まりねえ顔をした覚えはないとぶつぶつ呟く土方さんに私は驚いて声を上げた。
「や、やらしい事考えてるの!?」
 信じられないという声を上げれば彼は盛大に溜息を一つ吐き、これだから困るんだよとかなんとかぶつぶつ言ってから私を睨み付けてこう言う。
「言っとくが、おまえが想像できねえようないやらしい事を俺は考えてる」
「!?」
「で、それをおまえにしたいと思ってる、毎日」
「毎日っ!?」
 当然だろうと言い切る土方さんに私は絶句。
 なんでだろう、とんでもなく恥ずかしい事を言っているはずなのに土方さんはすごく満足げだ。
 いやいやいや、いやらしい事を考えてるとか言われても、それを実行したいとか言われても!!
「で、そのいやらしい顔をしてる俺が見るに耐えなかったってのか?」
「ち、違います!」
 動揺しまくる私は一瞬言葉に詰まるけど、慌ててそれは否定した。
「土方さんは締まらない顔をしていても綺麗です!」
 力説するとまた変な顔になった。
 褒めたつもりなのにこれは褒め言葉になっていないと気付いて慌てて、だから、と私は口を開く。
「見るに耐えないとかそういうんじゃなくて、その、」
「もう、何とでも言え」
「だから、私は貶してなんかないってば!」
 私が言いたいのはだから、だから、

「土方さんの顔が色っぽくて、綺麗で、そんな顔で見つめられるだけでどうしていいのか分かんなくなるくらいに恥ずかしかったんです!!」

 彼はどんなときだって美しかった。
 怒っている時も、悲しんでいる時も、笑っている時も。
 でもそのどれよりも美しいと思うのが……私を、女として見つめる時の表情。
 その瞳を欲で濡らし、飢えに乾き、揺れ、迷い、それでもひたすらに私を欲しいと切望する彼の顔。
 おぞましいほどに妖艶で、美しかった。
 この世のものとは思えないほどに綺麗で、だから、私は見てはいけないと思うのかも知れない。
 そんな表情で見つめられるから、私は恥ずかしいと思うのかも知れない。
 醜いなんてあり得ない。
 土方さんはとっても……綺麗で、


 呼ばれた。と思って顔を上げると掬い上げるように唇を塞がれた。
 その瞬間ぎくんっと身体が強張ったのは、やはり目の前にあるその顔が綺麗だったからだ。
 だからつい、見てはいけないと目を瞑れば唇を無理矢理開かされて、
「ふぁ、んっ、」
 舌を差し込まれて引きずり出されて絡まされる。
 大きくて熱い舌は私をいとも簡単に絡め取って、溺れされるんだ。
 抵抗なんて出来ないし、したくない。
 流されたいと思いながらそれでも怖くて抗ってしまうのか、逃げればその分だけ彼の心に焔を点けるのに。
「ン、だ……めっ」
 苦しくて、離してと私は彼を押しのける。
 少しだけ唇を離して貰えたけど、完全には逃がして貰えない。
 首の後ろをしっかりと捕らえられて、
「逃がさねえ」
 なんて掠れた声で言われてわけもなく泣きたくなるのは、恥ずかしいから? それとも、求められるのが嬉しいから?
 多分、後者だ。
 だって私の身体言ってるもん。
 彼が欲しいって。
 どうしようもなく欲しいって、切なげに震えてる。
 そんな自分も、恥ずかしくて……堪らなかったんだと思う。
 浅ましい自分を見られたくなくて、だから、私は逃げた。彼だけのせいじゃない。
「ゃ、だめ」
 ひりつくくらいに私を貪った唇がするりと滑り落ちて首筋に落ちる。そうしながら帯をくんっと引かれてはらりと緩まる感覚に駄目だと訴えたけれど彼は聞いてくれない。
「ひ、るま、なのにっ」
 まだ明るい。せめて、夜になってから。
 夜になったら、今夜は、絶対に拒まないから。
 そう言うけど彼は駄目と言った。
「夜まで、待てねえよ」
 余裕のない吐息がきゅんと私の胸を締めつける。
 狡い、そんな声で、そんな事。
「あんな可愛い事を言われて我慢できるほど、俺は出来た人間じゃねえんだよ」
「か、可愛い事なんて、何もっ」
 言っただろ? と耳にふっと息を吹きかけられて、力が抜けてしまう。
 その隙に手ははだけた裾から潜り込んで膝頭から太股までを撫で上げて、それだけで身体の奥がきゅんっと切なく震えた。
「さっきの言葉、俺が好きで好きで堪んねえって事だろ」
「んっ、やだっ」
「そんな事言われちゃ……」
「や、や、待って」
 お願い待ってと彼の手を掴めば、、と切なげに呼ばれて、
「止めて、やれねえよ」
 彼は悪いなと苦笑混じりに言った。

「――おまえが愛しすぎて、堪えが利かねえんだ――」

 その顔もやっぱり、目を覆いたくなるほど色っぽくて……綺麗。