はその日の夜、ずっと仕舞い込んだままのアルバムを引っ張り出してきた。
  二冊しかないアルバムの一つは、両親の若い頃のもの。
  もう一つはが生まれてから小学校四年生までのもの。
  五年生から先は、一人だから撮ってない。
  大事な一人娘だというのに一冊しかアルバムがないのは、両親が写真を選ぶのが非常に下手くそだったからである。
  見かねたが「その時期で一番いい写真を一枚選んで貼ってくれればいい」と言ったので、一冊に収まる量になってし
  まったのだ。
  収めていない写真は今どこにあるのか分からない。

  「‥‥」

  はそちらのアルバムではなく、両親のアルバムへと手を伸ばした。
  二人が出会って、恋に落ちて、そして永遠の愛を誓うまでが収められたアルバム。
  一度も開いた事がなかった、少しだけ汚れて年代を思わせる背表紙をそっと優しく撫でた。
  ゆっくりと開くと、
  なんだか、
  優しい香りがして――



  冷たい風が廊下を吹き抜ける。
  やはり三年生の教室があるここは、人気が無くて寂しい。
  はそんなことを思いながら、鞄を右から左へと持ち替える。
  そんな彼女をちろっと見下ろして、沖田は口を開いた。

  「随分お疲れみたいだね。」
  「あーうん、まあ、昨夜ちょっとね。」

  ちょっと、と誤魔化す彼女に沖田はおやおやと大袈裟に呟いてみせる。

  「土方先生、狂喜乱舞?」
  「‥‥なんであの人が出てくるわけ、そこで。」

  というかなんだその狂喜乱舞という表現は、とは訝った。
  因みに意味は「気が狂ったかのように喜び、踊り狂うこと」だ。
  正直、彼が理性をすっ飛ばして暴れまくる姿なんて想像できない。
  想像したらモザイク処理しなければいけないとんでもない仕上がりになって、はふるっと頭を振った。

  「え?昨夜は激しくえっちしたって事でしょ?」
  だからそう言うことを外で言うな、とは鳩尾に肘鉄を食らわせる。が、二度は通用しない。
  それは彼の手で受け止められ、にやにやと意地の悪い笑みを向けられるばかりだ。
  はちがう、と彼の手をそのまま強く肘で押して、口を開いた。
  「してない。」
  「またまた、嘘吐いちゃって。
  もう全部分かってるから隠す必要ないんじゃない?」
  「してないっての!」
  強く否定され、おや、と沖田は目を開く。
  「‥‥じゃあ、渡して終わり?」
  それだけなんてあり得ない。
  もしOKだったら文字通り土方は狂喜乱舞して、彼女を一晩中愛しつづけただろう。おじさんちょっとしつこいよ、と突
  っ込んでやりたくなるくらい。
  因みにNOという選択肢は二人の間には存在しない、と決めつけているが、実際その通りだろう。
  とんだ惚気話だ。
  しかし、は何を言われているのか分からないと言う風に首を捻った。
  「渡す、って何を?」
  「‥‥何って‥‥」
  「‥‥‥」
  「‥‥」
  なんだか会話が咬み合ってない。
  主語が抜けてるんだから当然の事だろうと、冷静に見ている第三者がいたら突っ込む、確実に。

  「昨夜、どこに行ったの?」
  「東北軒。」
  「‥‥それ、僕が教えてあげたラーメン屋さん?」
  「そ。
  味噌ラーメンは絶品でした。」
  「‥‥‥」

  会話が咬み合わない理由が分かった。
  沖田ははーっと溜息を零すと、それ、と彼女に呆れたように訊ねる。
  「土方さん、昨夜、行きたい店があるとか行ってなかった?」
  「‥‥それは聞いてないけど‥‥なんか、東北軒に誘ったらすごい複雑な顔された。」
  当然だ。
  恐らく、昨夜は彼にとって勝負の日でもあったに違いない。
  一年という年月を待って、漸く訪れた勝負の日。
  だから色々と考えていたに違いないのだ、彼は。
  だというのに、彼女は‥‥見事にその計画をぶっ潰してくれたのだ。
  それはもう、無邪気に、悪びれなく、だ。

  「‥‥僕、初めて土方さんが可哀想だと思った。」

  冗談ではなく、彼には同情した。
  自分がされたら、凹む。遠回しに拒絶されてるんじゃないかと勘ぐってしまいそうだ。
  二度目の勝負に出るのが怖い。

  「なにそれ。」
  「‥‥はもう少しムードって言葉を勉強した方が良いよ。」
  「ぶち壊しそうなおまえに言われたくないんだけど。」
  「少なくとも、僕は土方さんの気持ちは分かる。」
  「どういうこと?」
  「そのまんまの意味。」
  「分かんないよ。」

  先に進もうとする彼を追いかける。
  階段を降りて昇降口へと真っ直ぐ向かうらしい。
  珍しい。千鶴の所には寄らないのだろうか?
  とその背中を追いかけながら思った時、彼は首だけ振り返って教えてくれた。

  「千鶴ちゃん、今日、お休み。」
  「‥‥」
  「何?その疑わしい物を見るような目は。」
  「自分の胸に聞いてみろ。」

  先ほどのお返し、とばかりに言って先を進む。
  今日の予定は変更して、千鶴のお見舞いに行こうと靴を履き替える彼女に沖田は追いついて、違うよ、とむくれたように
  否定した。

  「僕のせいじゃない。」
  「どうだか。」
  「‥‥、僕を一体なんだと思ってるの?」
  「悪魔?」
  「が僕をどう見てるのかよく分かった。」
  「冗談だよ。半分は。」

  はにやりと笑って、とん、と爪先で地面を叩く。
  そうしながら昔、よく母親からその癖は直しなさい、と言われていたなぁなんて思い出した。

  「で、千鶴ちゃん、本当はどうしたの?」
  徐々に茜色に染まっていく空を背後に、二人は揃って歩き出した。
  問いかけに沖田はひょいと肩を竦めて、
  「ここ最近、夜遅くまで勉強してたせいで風邪ひいたんじゃないか‥‥ってさ。」
  と教えてくれる。
  そういえば、最近は千鶴が必死で勉強している姿をよく見る。
  学期末の試験が近付いているせいもあるのだろうが、彼女が勉強しているのは二年で習う範囲だけではなかった。
  そう、彼女は大学受験に向けての勉強に励んでいるのだ。
  以前聞いたときはそれほど難しい大学ではない‥‥と言っていたのだけど。
  「‥‥僕と、同じ大学に行きたいんだって。
  可愛いこと言ってくれるよね。」
  照れたように視線を背ける彼に、はそっか、と目元を綻ばせる。
  「一緒の大学か‥‥それは私も嬉しいな。」
  もし受かったら、沖田とは同じ大学なのである。
  しかし。
  「‥‥でもそれって千鶴ちゃんにとってはかなりの負担なんじゃない?」
  の言葉に、沖田も困ったような顔で頷くばかりだ。

  決して千鶴の頭が悪いわけではない。
  どちらかというと彼女は優秀な方である。
  しかしながら、や沖田という元々天才肌というわけではない。
  飛び抜けて賢い、というのではなく、こつこつと頑張る秀才タイプ。いわば、普通の子、なのだ。
  そんな彼女が二人と同じ大学に行く、というのは本気で頑張らないと難しいだろう。

  「‥‥ヤマ張ってあげれば?」
  沖田のヤマはよく当たると有名だ。
  そう言えば、彼は苦笑で頭を振って、
  「千鶴ちゃんがそんな事、喜ぶはずないじゃない。」
  「‥‥真面目だからねぇ。」
  彼の言葉に、も困ったように呟き、夕焼け空を眩しげに目を細めて見るのだった。
  太陽とは違って、少しだけ寂しそうで優しい紅。
  「父さんが、夕日は好きって言ってたなぁ。」
  思い出して立ち止まる。
  よく、立ち止まって父親がじっと空を、夕日を眺めていたのを思い出した。
  思い出してふと、笑ってしまった。
  今日は、なんだかやけに昔の記憶が蘇る。
  昨夜、アルバムなんて見たからだろうか‥‥

  「‥‥」

  そんな事を考えながら歩き出した瞬間、じゃりと砂を踏みしだく音が聞こえ、少し先を歩いていた沖田が唐突に立ち止ま
  った。
  歩き出した勢いがついていたせいで思いっきり彼の胸に顔から突っ込んでしまって、は、う、と小さく声を上げた。
  ふわりと太陽の香りがする。
  そういえば千鶴が彼は「お日様の香りがするんです」と照れたような顔で言っていたのを思い出しながら、なんだよとぶ
  つけた鼻の頭を撫でつつ顔を上げた。
  「総司、突然止まるな。」
  抗議の声を上げるけれど、彼は振り返らない。
  「‥‥総司?」
  ともう一度声を掛けると、背中で押し返された。
  まるで、出るな、と言われているようで、一体なんだろうかとひょこっと広い背中から出してみた。

  校門から、長い影が伸びている。
  誰か立っているらしい。

  「‥‥‥誰?」
  その人物は、明らかにこちらを見ているようだ。
  着物を着ている所を見ると‥‥彼は生徒ではないらしい。
  というか、どう見ても生徒と思えない少し皺のある目元は、覚えがあって、は、あ、と小さく声を上げた。
  「綱道さん!?」
  呼びかけに、綱道と呼ばれた男はにこりと柔和な目元を細めて笑ってみせた。
  は庇ってくれた背中から飛び出すと、お久しぶりですと頭を下げた。
  沖田が視線だけで「誰?」と問うのが分かる。
  「あ‥‥彼は雪村綱道さん。」
  「‥‥雪村って事は、おじさんの?」
  問われてはこくりと頷いた。

  雪村は地元では割と有名な家である。
  こと、本家は、相当の力を持っており、未だにその地区一帯を取り仕切っているとか、なんとか。
  因みにや千鶴は本家筋にあたり、綱道は分家の人間だ。
  また、の父親は長男ということで、家を継ぐ人間であったのだが、亡くなってしまった今、本家の後継者は空白のま
  まなのである。
  当面の間は現当主‥‥や千鶴の父親の母親、つまり祖母が家を守っているとか。
  はもう随分と雪村の家に行っていないのでそのあたりは全く分からない。

  「それにしても、突然どうしたんですか?」
  の問いに、綱道は、剃髪した寒そうな頭をゆったりと撫でた。
  「実は‥‥ご当主が、病気になられてしまってね。」
  「ばあちゃんが?」
  「そうなんだよ。
  前々から心臓が悪いと言われていてね‥‥」
  心臓が悪かったのか、とは記憶の中の当主の姿を思い出す。
  会ったのは葬式の時の一度限りだったが、とにかく威厳のある矍鑠とした老女だったと記憶している。
  てきぱきと式を取り仕切っていて‥‥心臓が悪かったようには思えない。
  ただ寄る年波には勝てないのだろうか。

  「‥‥そう、ですか‥‥」
  俯く彼女に、綱道は、どうかな、と提案をした。
  「一度、お見舞いに来ては貰えないだろうか?」
  その言葉には一瞬、躊躇った。
  確かに、自分の祖母が病気になったと言われれば見舞いに行くのは当然なのかもしれない。
  ただ、にとっては雪村の家は縁のないもので‥‥身内と言われてもしっくりこない。
  血の繋がりがあるというのに、だ。
  会話だってしたことがないし、顔だってろくに覚えていないのに、今更見舞いに行った所で彼女の迷惑ではないのだろうか?
  むしろ、そんな孫に会いたいと思うものだろうか?

  「‥‥‥」

  そう考える一方で、ふと、蘇るのは両親を亡くした時の事だった。
  朝早くに友人の所に行ってくると出掛ける両親を、は見送れなかった。
  すぐに帰って来るという言葉を信じて、睡魔に身を委ねてしまった。
  あの時の事は今でも悔やまれてならない。
  どうしてきちんと見送りが出来なかったのか。
  最後の会話は、
  「行ってくるね」「うん」
  だけだったのだ。
  行ってらっしゃいも、気を付けて、も言えなかった。
  言えば何が変わったかというのは分からないけれど、それでも自分にその時出来た最大限の事が出来なかったのが悔やま
  れた。

  「‥‥‥会えなくなってから、後悔するのは、もう‥‥」

  はぼそっと呟く。
  例えば、祖母が自分など待っていなくても。
  それでもいなくなってから後悔するのは嫌だった。
  彼女は血の繋がった家族の一人なのだ。

  はすっと視線を上げると、綱道を見上げて頷いた。
  「分かりました。」
  一緒に行きますと答えた彼女に、綱道がほっとした表情を浮かべるのが‥‥沖田にはなんだか不思議に思えたものだった。