粛々と、式は進む。
代表でさえないはただ椅子に座って時が過ぎるのを待つだけで‥‥恐らく、彼と出会わなければその時間はとてもつ
まらないものとなっていただろう。
いや、その時間だけでなく三年間という学校生活さえ、つまらないものだったに違いない。
でも違う。
にとって、この三年間はかけがえのない時間となっていた。
哀しい事も苦しい事もあった。
でも、それ以上に嬉しい事があった。
泣いた分以上に笑う事が出来た。
上辺だけじゃなく心の底から笑い合う事が出来た。
思えば入学した頃‥‥は虚しいと思ったものだった。
だって何処に行っても何をしても、自分は孤独だと思っていたから。
確かには孤独だった。両親はいなかった。
でも、ひとりじゃないと彼が教えてくれた。
そして、
彼はの傍にいてくれた。
傍にいて、色んなものを与えてくれた。
大切なものをいっぱい、いっぱい、彼が教えてくれた。
『雪村』
クラスメイト一人一人の名を、担任の教師が読み上げていく。
静かな空間に響く彼の声も‥‥きっと何の感慨も覚えずに「はい」と答えていただろう。
でも、違う。
は答えるのに一瞬躊躇うほど、三年間という時間を愛おしく思っていた。
まだ卒業したくないここにいたいと願いたくなるほど。
ここにいる限り、は彼と共にいられるのだから。
教頭ともなるとやる事が多いらしく、帰りのホームルームは副担の教師がやって来て熱い言葉をいくつか贈ってもらうと
早々に解散となった。
午後から自由の身となった彼らは今から町へと繰り出すらしい。
一緒に行かないかと誘われたが、も沖田もさして仲の良いクラスメイトがいたわけでもないので遠慮しておく事にし
て、見回りにやってきた学年主任に追い出される形で教室を後にした。
卒業生は全校生徒で見送る‥‥がこの学校のモットーなのか、今日は1年生も2年生も同じように午前中は式に参加して
午後は休みだ。
「卒業おめでとうございます」
昇降口にやって来ると待ってました、とばかりに千鶴から花を差し出される。
リボンで留めたガラスケースの中には彼女が選んだのだろう明るく柔らかい色を基調とした花々が美しく花開いている。
どうやら思い出として残しておけるようにプリザーブドフラワーにしてくれたらしい。
生花をもらえるのは嬉しいけれど枯れてしまうのを見るのが少し悲しいので、それはとても嬉しい贈り物だ。
「ありがとう。これ、千鶴ちゃんが作ったの?」
「はい‥‥その、ちゃんとアレンジ教室で教えてもらったので、大丈夫だと思うんですけどっ‥‥」
失敗してたらごめんなさい、と僅かに視線を落としてしまう彼女を沖田がするよりも先に、は抱きしめる。
「ありがと、嬉しい。」
心の底から感謝の気持ちを言葉にすると、腕の中に抱きしめられた千鶴が感極まったように涙を零しながら抱きしめ返し
てきた。
「わ、私、寂しいですっ!!」
「私も寂しいよ。千鶴ちゃんと明日からこうして学校で会う事も出来ないんだなーって思ったら‥‥」
「さっ‥‥」
だから、とその背中を撫でてやりながらは口を開いた。
「寂しくなったらいつでもおいで。」
決して遠くに行ってしまうわけではない。
学校では無理かもしれないけれど、いつだって会う事が出来る距離にお互いは住んでいる。
いつだって‥‥なんて昔は無理だった。
千鶴はの家を知らなかったし、は千鶴を避けていた。
それは決して彼女を嫌っての事ではなく、負い目を感じていたから。
本当の家族でもないのに本当の家族のように接してくれる彼らに、負い目を‥‥そして、孤独を、感じていた。
それはただいじけていただけなんだと後で分かったけれど、あの時はどうしようもないほど、の心はひねくれてしま
っていた。
でも、もうそんな事はない。
会えないと寂しくなるほど、寂しいと素直に言えるほど‥‥千鶴の事が大切だ。
本当の妹のように、いや、本当の妹だと今ならはっきり言える。
「はい、会いに、行きますっ」
「あ、でも、千鶴ちゃん来年受験だから私が会いに行った方がいいかな?」
などと一人言いながら彼女をぎゅっと抱きしめていると、後ろから不機嫌な声で「」と呼ばれた。
振り返るとそこに彼女を独占され、なおかつほったらかされて不満げな顔をしてぽつんとたたずんでいる彼氏の姿が。
「いい加減返してくれない?僕の彼女。」
訊ねながらべりっと強引に腕を引き剥がされ、奪われる。
沖田は千鶴を腕の中に閉じ込めると、しっしっとをさながら猫でも追っ払うみたいに手を振った。
「自分がほっとかれてるからって、人に八つ当たりしないでよ。」
「八つ当たりしてないって。」
ただ、とは口の中で小さく零す。
ちょっと、寂しいとは思う。
大切な思い出がいっぱい詰まったこの場所から巣立つ。
この瞬間、彼と一緒にいられないのはやっぱり‥‥寂しい。
確かに土方とは家に戻ればまた会える。
でも、この学校で教師と生徒として会えるのはもう、今日が最後。
明日からは、もうその関係ではいられなくなる。
「‥‥」
それを寂しいと感じているのは、自分だけなのだろう。
やっぱり子供だな、とは自分を自嘲気味に笑った。
「まったく、仕方ないよね。こんな大事な時に彼女を放っておく彼氏なんてさ。」
そんな彼女の気持ちに気付いたのだろう。
沖田はやれやれと溜息を吐きながら千鶴を離して、の首に手を回して行くよと告げた。
「え?なに?」
「卒業パーティ。」
「は?」
「折角午後休みなんだからぱぁっとやろうよ。」
「え?ちょ、おまえ、千鶴ちゃんとデートじゃなかったの?」
確か式が始まる前にそんな事を言っていたはずでは、と言えば、遅れてやって来た千鶴が満面の笑みで口を開く。
「私、美味しいイタリアンのお店見つけたんです。さんも一緒に行きましょう。」
「え?で、でもっ」
「そうだ。こうなったら一君にも声掛けようよ。」
「ちょ、総司!?」
「でしたら、私、平助君も誘ってみます。」
「どうせ暇だろうし新八さんとか、左之さんとかも呼んでみる?」
「えぇええ!?」
一人置いてけぼり状態のはただただ驚きの声を漏らすばかりで、そんな彼女に沖田は悪戯っぽく口元を歪めてみせた。
「僕たちと一緒なんだから‥‥センチメンタルな気持ちになんてさせてやんないよ。」
そんなの似合わない。
言い捨てる彼の言葉に一瞬呆気に取られ、苦笑に表情を変える。
また、彼らに気を遣わせてしまった。
今までだったら隠し通す自信があったのに、いつからだろう。
彼らにはいとも簡単に見抜かれてしまうようになったのは。
でも、それも、悪くない。
心配させたくなんかないけれど、気遣いは暖かくて――大切に思われているのだと感じれば幸せな気持ちになれる。
だからつい、甘えたくなるのだ。
大切な人というのは‥‥そういうもの。
彼らは、にとって大切な人だ。
「そう、だな。」
はこくりと頷いた。
頷けば沖田は満足げに笑い、千鶴は嬉しそうに目を輝かせた。
「じゃあ、今日は騒ごう。」
そう言って駆け出す二人に笑みを返し、は一度だけ振り返る。
新しいとも立派とも言えない、どこにでもありそうな薄汚れた校舎。
職員室の網戸が歪んでいるのは永倉が窓から飛び出そうとしたせい。
校舎の一角だけひどく汚れているのは沖田がした落書きの名残。
校庭の片隅には小さな木が一本植わっていて、それは千鶴とこっそり植えたハナミズキ。
屋上のフェンスが拉げているのは彼が思いきり蹴りつけたから。そのせいで、生徒は立ち入り禁止だ、今でも。
教師用の駐車場まで雪の中走った。
転んで、轢かれそうになった。結局、彼が庇ってくれたからは無事で済んだ。
そういえば前に自分の駐車スペースに沖田がゴミを放置していて嫌がらせを受けているという話をしていたのを思い出す。
夏には夜こっそりプールに入りに来て、三人揃って怒られた。でも結局、彼も沖田に引っ張り込まれて濡れ鼠だった。
秋に校長である近藤と焼き芋を焼いたのを、二人で食べた事だってあった。
それから、毎日のように北校舎の一番奥、あの古びた資料室に通った。
三年前のあの日、出会わなければきっと‥‥はあの場所になど行く事もなかっただろう。
初めはただのお節介。
それを煩わしいと思い続けた。
彼は最も触れて欲しくない所に触れてきた。だから、噛みついた。
でも、彼はお節介だった。本当に。
何度も嫌な顔をしながら近づいてきた。
その度に何度だって、は噛みついてやった。
いつか飽きるかと思ったけれど、その前に自分の方が絆されていた。
気付けば、その優しさが心地良いと思うようになっていて‥‥いつからか‥‥好きになっていた。
決して好きになってはいけない相手だって分かっていた。
だから、一度離れた。
でも、彼は追いかけてきてくれた。
そうして真っ直ぐに向き合ってくれた。
そして、
愛してくれた。
愛を、教えてくれた。
「‥‥」
はそっと瞳を眇める。
泣き出しそうな顔になって、それから、笑った。
沢山の思い出が詰まった、優しくて暖かい世界。
ただ、思うのは別れがたいという気持ちと、感謝の気持ち。
は誰にともなく、一人、刻みつけるように言葉を零した。
「ありがとう。」
さよなら、ではなく、ありがとう。
この気持ちに別れる必要はないはずだから――
土方は苛立っていた。
それはぱちぱちとキーボードを叩く音が彼の不機嫌さを物語っている。
先程までは無表情だったそれが、今では眉間に深い皺を刻み、身体からは不機嫌なオーラを放っている。これは相当、怒
っている証拠だ。
「ひ、土方さん、なんで荒れてんだ?」
「知らねえよ。さっきっからあんな調子だ。」
こそっと永倉が原田に訊ねるが、彼にも分からない。
ただ、見当はつく。
彼が荒れる理由など、一つだ。
と、その時、ぴりりと携帯が鳴った。
土方の携帯で、彼はひょいと無造作にそれを掴むとディスプレイに表示されている名前を見て、眉間の皺を更に深く刻んだ。
そうして、
「てめえ、総司!一体今までどこに隠れてやがった!」
職員室に残っているメンツがメンツだからか、隠しもせずにその場で通話ボタンを押し、開口一番に怒鳴りつける。
と、一瞬向こうで『うわ』という沖田の声が聞こえ、すぐに可愛げのない返事があった。
『なんですかー。彼女と連絡がつかないからって、僕に八つ当たりするの止めてくれません?』
「どうせ、てめえが連れ回してんだろうが。一体どこにいやがる。」
ちっと舌打ちをしつつ、煙草に手を伸ばす。
今時分煙もしないというのは時代遅れかもしれないが、その場で火を点けるとふわりと苦い香りと白い煙が立ち上った。
電話の向こうではなにやら賑やかな音が聞こえてくる。どこかの店にいるようだ。
『どこって、地下に。』
「地下ぁ?」
『そうですよ。の携帯古いから、地下では電波入らないでしょ?』
だから、地下に潜ったのか。
なんという男だ。卒業式のその日まで人に嫌がらせをするとは。
「‥‥じゃあ、とっととそこから出ろってアイツに伝えろ。」
いいなと一方的に言って切ろうとするのを、沖田の呆れたような声が遮る。
『放っておいたくせに、今更そんな事言うのって虫が良すぎないですか?』
は会いたがっていたのにと些か責め立てるような言葉に、彼は反論に口を開いた。
こちらだって色々と立て込んでいたのだ。
ちゃんと祝ってやりたい気持ちはあったけれど、でも‥‥と言い掛け、止める。
言い訳はすまい。
彼女の気持ちに応えてやれなかったのは、事実だ。どんな言葉を並べ立てても。
『、言ってましたよ。いつまで土方さんの家にいていいのか‥‥って。』
「ああ?あいつ何馬鹿な事言ってんだ?」
いつまでもなにも、と続けるのを沖田がストップと、止める。
『僕に言わないで。相手が違うし、聞きたくも無い。』
誰が男の告白なんぞ聞きたいものかと言う彼に、土方は一瞬面くらい、それからがしがしと髪をかき回して乱暴にため息
を吐く。
「分かってる。てめえに聞かせる事もねえことだったな。
だから、に早く地上に出て来いって伝えろ。」
『でも、の携帯、充電が死んでるんですけど。』
言葉に土方はひくりと口元を引き攣らせる。
ああそういえば、彼女の携帯は随分と使い込んでいる古い型で、充電が一日保たないと言っていた。
これは早々に買い換える必要があるようだ。今度の休みは二人でショップに行って交換しよう。
どうせだから新規に契約させて自分専用にさせても良いかもしれない。
などと考えながら、それじゃあ、と口を開く。
「に伝えろ、今すぐ。」
いいか、と彼は立ち上がり、スーツの上着を指先に引っかけると職員室から足早に出て行った。
「あいつに、俺たちの始まりの場所に来いって伝えろ。
そこで――おまえの知りたい答えを教えてやるってな。」
電話を切った後に、沖田はどう間違って伝えてやろうかと思ったが‥‥今日だけは止めておく事にした。

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