きっと人を好きになるのに時間なんて関係ない。
 どれほど長い間一緒にいても心が動かない時は動かないし、一瞬でもどうしようもなく心が揺さぶられる事もある。
 時間なんて関係ない。
 理由も要らない。
 恋に落ちるのに必要なのは、自分と、相手と、それから想いだけ。

 私は21年間生きてきて、恋というものはこうも単純で……だけどある種複雑なものなのだと思い知った。



 回転ブランコ、ゴーカート、3Dアトラクション、ホラーハウス、大小様々なアトラクションの数々。
 閉園まで遊び尽くしてやろうと、私たちはパーク内のアトラクションに片っ端から乗りこんだ。
 流石有名な遊園地だけあってアトラクションの数も多いし、それぞれがすごく楽しい。
 回転ブランコなんて凄く速くてある意味絶叫系の部類に入れても良いんじゃないかって位だし、3Dアクションは機体の動きと映像が巧妙で手に汗握るくらいに興奮した。
ホラーハウスもかなり本格的だった。私はどちらかというと得意な部類なんだけど思わず「うひゃあ」なんて声を上げてしまったくらいだ。彼には笑われてしまったけど……どうやら私が腕を掴んだ事は見逃してくれるらしい。

「遊園地に来たら、コーヒーカップには乗らないとですよね」
 遊園地にはどこにでもあるんだろう。
 我先にと飛び込む子供達の後に続きながら、私たちは手近なブルーのカップに乗り込む。
 ぐるぐるとゆっくりと動き出すターンテーブルの上で、それぞれが好きなようにカップを回転させるのだ。
 回しすぎには注意。回転しまくるジェットコースター以上に酔う恐れがある。
「回しすぎるなよ」
 中央ににょきっと生えたバーに手を伸ばせば彼に先に釘を差された。
「分かってますって」
 任せてくださいと答えれば、緩やかに機体が動き出す。
 穏やかな音楽が流れ出し、早速やんちゃな子供達が激しくカップを回し始めた。
 バーは、最初すごく重たい。女の子の力ではちょっと大変だなと思っていると彼がそれに気付いて力を貸してくれる。二人で回せばカップは回りだし、バーも軽くなっていく。
 BGMに合わせてダンスできるように、私はそんなに回さない。
 でも、多分今日はいつもと違うから調子に乗っていたんだろう。
「おい、あんまり回すなって。こういうのは後からスピードが出るもんなんだからよ」
「大丈夫大丈夫」
 そういえば、彼の台詞は私がいつも彼に言っていた台詞で、私の台詞は彼が言っていた台詞だ。
 まさか逆の立場になる日が来ようとは思わない。
「え、あ、あれ!?」
 気付けば景色は見えないほど、身体に掛かる負荷はいつものそれよりも早く、あまりの早さでお尻がつつつと滑るほどになっていた。
「ちょ、ととと止まれ!」
 勝手にくるくると回り続けるバーに手を伸ばして止めようと試みるけど、所詮女の力。
 摩擦で痛い思いをするだけで回転をどうにかする事も出来ない。
「うわあああ、目が回るぅううっ」
「だから、言っただろうが!」
 この馬鹿と罵りながら、彼がバーを掴んだ。
 少しだけスピードが落ちた気がする、けど、少しだけ。
 吹き飛ばされる事も、失神する事もなかったけど、機体が完全に止まった頃私の平衡感覚は完璧に狂っていた。
「あ、足下が、揺れとる」
「自業自得だ」
 呆れた声を漏らして立ち上がった彼は、私ほどダメージを受けていないみたい。私みたいに目を瞑らなかったせいなのか、それとも彼自身が強いのか、しっかりと歩いている。足取りは少々重たいけれど。
「おい、出るぞ」
「うぇーい」
 私は促され立ち上がり、カップから出た。
 瞬間、その段差にさえ身体が順応出来ずにかくんと膝から折れた。
「!」
 転ける。
 そう思って身体を強張らせれば、ふわりと身体が浮いた。
 彼が、私の身体を掬い上げてくれたのだ。
 軽やかに、まるで子供でも抱き上げるみたいに腰に手を回して。
 腰に手を回している……だからつまり、密着状態。
 さっき顔を埋めた場所、いや、さっきよりも高い位置、胸の部分だ。
 どくんと聞こえた気がするのは彼の鼓動。
 そして包まれているのは彼の温もり、感触。
 私と違う、他者の、それ。
 胸が痛いくらいに……締めつけられた。
 苦しくて、切なくて、でも、なんだか暖かくて、幸せ。
 もっと触れていたくなる。
「そろそろ、自分で立っちゃくれねえか?」
 苦笑混じりの言葉が聞こえなければ、私はその背に手を回していただろう。
 私は慌てて離れた。
 そうして、苦笑を浮かべる彼に言うのだ。
「平衡感覚って、年と共に衰えていくんですよね」
「てめえは、支えて貰ってそういう事を言うか」
 かわいげのない一言でも言わなければ、どうにかなってしまいそうだった。


 少し優しくして貰ったからって、単純すぎじゃないだろうか。
 なんとでも言ってくれ。
 私だって自分でもちょっとどうかしていると思っている。
 でも、どうしようもない。
 好きになってしまったんだから、どうしようもないじゃないか。
 止めようと思っても、後から後から湧いてくるんだ。
 彼を好きだと思う気持ちが。
 自分でも、どうしたらいいのか分からないくらいに。
 今まで……こんなに人を好きになった事はあるだろうか?
 多分、ない。
 確かに私は長年付き合っていた彼氏がいるけど、多分、ここまで激しい感情を抱いた事はなかっただろう。
 でも別に嫌いってわけじゃない。好きだから付き合っていた。ただ、なんというか……好きと言うよりは楽だから一緒にいたという感じ。長年一緒にいたから彼は私のことを良く知っていたし、私も彼の事を知っていた。だから、楽だった。だから、一緒にいた。
 この人と一緒にいたいという感じではなく、この人となら一緒にいても良いかな、みたいな。
 だから……だから、浮気なんかされたんだろう。私が本気で好きじゃなかったから。
 でもね、
 でも、この人は違う。
 私はこの人の事をほんの少ししか知らない。
 何が好きで、趣味は何で、何を思い、何がしたいのかも分からない。
 でも、
 好きになった。
 本当に好きになった。
 この人とずっと一緒にいたい。何があっても彼の傍にいたい。
 そう思うくらい、好きになった。
 心の底から。

「時間が経つのは早いもんだな」
 闇色に染まる空を背景に、彼は時計を見て呟く。
 彼の背中は今まで見たどの背中より広く、大きく見える。惚れた欲目かもしれない。
「あと、1時間で閉園だ」
 言葉にぎくりと身体が強張る。
 ここにいられるのには期限があったのだと、今更のように思い出す。
 ずっとは……いられない。
「……ここを出たら、もう帰るんですよね?」
 問い掛ければ彼は振り返り、そうだなと時計と睨めっこをしながら答えた。
「ここで終いだ」
 おしまい。
 そんな言葉に、私の胸はちくりと痛んだ。
 一緒にいられるのは後1時間だけ。
 それが過ぎたら、きっとさよならしなければならないのだろう。
 彼は言った。
今日限りだと。
明日になれば知らない人に戻る。
 明日になればもう二度と会うことなどないと。

 でも、
許されるのならば、

「最後に何に乗りたい?」
 私は願った。
 最後になんかしたくないと。
 これで終わりになんかしたくない。

「私」

 彼のことは何も知らない。
 何も分からない。
 どんな人で何を考えているのかも分からない。
 でも、それでも、

「土方さんと、もっと、一緒にいたい」

 そう本気で思ったから。
 本気で願うから。
 私は真っ直ぐに彼を見つめて言った。
 もっと一緒にいたいって。

「……」
 彼は驚いたように目を見開いた。
 紫の瞳には園内の色とりどりの光が映り込んでいた。
 その瞳はやがて徐々に、真剣な色へと変えていって、
 それから、

「――」

 静かに、私たちの影は重なった。

 キスの時には目を閉じるものだ。
 そう言った元彼の言葉を思い出して、私はそっと目を閉じるのだった。


「……飲むもの、買ってくる」
「あ、はい」
 触れた時と同じだけ静かに唇が離れ、土方さんは視線も合わさずに小さくぽそっと言うと背を向けてしまった。
 あ、はい、とか普通に答えたけど私の視線は足下だ。
 顔なんてとてもあげられない。
 きっと真っ赤だ。
 一緒にいたいと願ったのは本当だけど、よく言えたな私。
 いやでもでも、それよりも……さっきのだよ。
 さっきの、
「……キス、された」
 んだよね?
 触れるまで目を開けていたんだから絶対そうなんだよね。
 キスされた、土方さんに。
 それって……どういうこと?
 キスされたってことは、その、
「嫌じゃないって事、だよね?」
 いやもしかしたら……
「好きになって、くれた?」
 と言うことだろうか。
 あり得ない、と言うことでもない。たった数時間でも恋に落ちる事があるというのは私が証明している。彼が私と同じだっておかしくはないんだ。
 じゃなきゃ、キスなんてしない……よね?
「うわ、どうしよ」
 彼が好きになってくれたかも知れない。そう思うとどうしようもなく嬉しさが込み上げて、私はその場で暴れたくなる。許されるならば大声を上げてしまいたい。
 まだそうだと決まったわけでもないのに、いつからそう思ってくれていたのかなんて勝手に想像し始めたりする私の頭は、相当舞い上がっているんだろうな。
 そういえば、彼は旅行に来たと言っていたけどこの遊園地ルートは彼には似つかわしくない。
 嫌なことを吐き出す為、というのも私ばかりがストレス発散をしていた。どちらかというと彼は私に付き合ってくれていたような気がする。それに私の話を聞いてくれた。
「私の為?」
 いやいやまさか、そんな自惚れちゃあいけない。
 でも、土方さんは私に優しかった。
 とっても優しかったんだ。
「っ」
 今すぐ、彼に伝えたい。
好きだと彼に言いたくて、その場から走り出す。
 閉園が近くてもまだまだ通りは人で賑わっている。広間に集まった人たちは最後の花火を見て、帰宅するのだろう。
 私はその間を縫って彼を捜した。
 彼は目立つ人だ。独特な雰囲気を持っている、それにきっと好きな相手のフェロモンっていうのを察知するんだろう。人で溢れかえっているのに私は彼を見つけだした。
 店の前にいた。 宣言通り紙コップを持っている。ジュースは買えたらしい。しかも、二つだ。
 私は欲しいとは言ってないけど気を利かせて買ってきてくれたんだろう。それさえも私の想いを膨らませる。
 飛び込んで、好きだと大声で伝えたい程に。
 でも、生憎と彼は電話中だった。
 二つのカップを一度持って店の前を離れると手近なテーブルの上にそれを置いて、携帯を持ち直す。
 遠かったから、何を話しているのか分からない。ただなんとなく近付いてはいけない雰囲気だったので、私の足は徐々にゆっくりになって、止まる。
 そのまま引き返せば良かったのに、彼の横顔がなんだか少しだけ悲しそうに見えたから。
 私はつい、いけないと思いつつもこっそりと近付いて盗み聞きなんて卑怯な事をしてしまった。
「今日は悪かったな。色々とおまえに任せちまってよ」
 死角から近付いて、私は彼の後方へと回る。丁度大きな看板があったからそこに身を隠させて貰った。
「仕事はどうだ? なんかトラブルとかは起きてねえか?」
 どうやら相手は仕事関係の人らしい。
 口振りからすると、それなりに親しい相手みたいだ。
 それにしても休みの日にまで仕事の心配って……いや、仕事っていうか、多分仕事をしているその人の心配なんだろうな。きっとトラブルが起きたって言ったらすっ飛んでいくか、それとも今できる限りの知恵を電話で伝えるんだろう。
 私は彼を知らないけど、多分、そう言う人だと思う。
 相手からは問題が起きたという報告はなかったんだろう。そうか、と安堵の溜息を漏らして、それから、声のトーンが変わった。
「俺も、あちこち回ってみた」
 随分と静かな声。
 静かで、優しい声。
 でも、何故だろう。すごく悲しく聞こえる。
「ツツジの群生、見てきたぜ。ありゃあ見事だった」
看板からこっそりと顔を出せば、彼は空を見上げていた。
双眸を細めて、何かを、懐かしむように。
だけどそれは悲しい記憶なんだろう。苦しい記憶なんだろう。
彼の横顔は、すごくすごく、辛そうだった。
そして、
優しかった。

「あいつが、好きな理由がよく分かった」

どきん――

胸が嫌な音を立てた。

あいつ、って誰?
 あなたにそんな悲しそうな顔をさせる人は、誰?
 優しそうな顔をさせる人は、誰?

「それから、遊園地にも来てる。あの頃と何にも変わんねえんだぜ」

 どきん、
 また胸が嫌な音を立てて、軋む。
 心臓がねじ曲がってしまいそうだった。

――アノ頃ト、何ニモ変ワラネエンダゼ――

 あの頃って、何時?
 初めてじゃないの?
 変わらない景色を、誰と、見たの?

 土方さんは静かに言った。
 悲しそうに瞳を伏せて。

「それと……あの崖にも行ったよ」

 花を供えてきた。
 彼は言った。
 きっと彼が備えたのは白い花。
 綺麗なユリの花束。

「寂しかったよ。――雪恵の、死んだ場所は」

 ぱ り ん

 心の中で、何かが弾けた音がした。

 ガシャン!!
 立ち上がった瞬間にぶつけてしまったらしい。
 けたたましい音を立てて看板が倒れる。
 その音に辺りの人間が一斉にこちらへと視線を向けた。
 勿論、彼も同じく。
「お、まえ……」
 彼は驚いたような顔で私を見ていた。
 どうしてここにと訊ねるような眼差しを向ける彼は、すぐに察しただろう。
 私が、今の会話を盗み聞きしていたこと。
 私は謝らなければならなかった。
 卑怯な事をして申し訳ないと。
 でも、そんな事をする余裕も考えられる思考もなく、ただ、
「おい!!」
 逃げた。
 踵を返して逃げた。
 人の波を掻き分けて、必死で逃げた。
 だってここにはいられない。いたくない。いや、いてはならない。
 待てと後ろから声が聞こえる。でも、止まらない。
 私は人混みを抜けた。抜けて、走った。
 後ろから、声が聞こえた。

「雪村!!」

 初めて、彼が私を呼んでくれた。
 それは嬉しいはずなのに、今はただただ苦しかった。


「出してください!」
 パークの外に飛び出すと丁度停まっていたタクシーに飛び乗る。
 行き先はと聞かれたけどとにかくすぐに出して欲しくて叫ぶように告げれば、運転手さんは慌てた様子で車を発進させた。
 背後でその時ドン、と音がした。振り返れば夜空に花火が上がった。
 大輪の花を咲かせ、はらはらと舞い落ちて消える。
 それを寂しいと思う間もなく二発目が打ち上がり、空は綺麗に彩られた。
 そんな花火をバックに、パーク内から人が飛び出してくる。多分、彼だ。
 私は見たくなくて視線を前に戻して、運転手さんに地図を見せてくれと頼んだ。
 地元の人間でもなければ望んで行ったわけでもない私は地名を知らない。だけど辿った道は覚えている。
 開いた地図を指でなぞる。彼と辿った道だ。
 それを私は遡った。
 涙が浮かんで、零れそうになる。それを必死に押し殺して、私は二人の始まりの場所を指さした。
「ここに、ここにお願いします!」
 始まりの地で、終わりにしよう。
 この恋も、この人生も。



 有名な岬ならともかく、自殺の名所とされるそこにこんな時間に訪れる人はいない。
 辺りはひっそりと静まりかえって、ただうち寄せる波の音だけがそこに存在した。
 タクシーの運転手さんもそこが自殺の名所だと知っていたからか、途中で止めた方がいいと説得しだしたけれど、私は財布の中身をそこに置いて車を飛び出した。わざわざ追いかけてまでは来ない。彼には関係のないことだからだ。
 月明かりに照らされるそこに、ぼんやりと青白いものがあった。
 花束。
 ユリの。
 彼が置いたもの。
 私はそれを見て、確かめて、笑った。
 自分を心の底から嗤った。
 自分の愚かさが可笑しくて、堪らなかった。
 最初からそうだったのだ。
 彼は、私なんぞ見ていなかった。
 彼は雪恵という人をずっと見ていた。
 その人の為に、今日一日を過ごしていた。
 私の為? 良くそんな事を思いついたもんだ。自惚れにも程がある。
 全部全部、彼女の為だった。私の為なんかじゃない。
 それなのに勝手に思いこんで、舞い上がって、馬鹿みたいだ。いや、馬鹿だ、私は。
「でも、好きだった」
 それは思いこみでもなんでもない。
 私は本当に好きだった。彼のことが好きだった。
 だからこそ、苦しくて仕方がないんだ。
 今日一日の事を思えば苦しくて、堪らない。

「……消えたい」

 そう、本気で思うほど、苦しかった。

 じゃりと土を踏み、私の一歩が柵の向こうへと飛び出す。
 ほんの四歩で、この世界から私はいなくなる。
 危険と書かれた看板からたった五歩で、人は死んでしまう。
 怖いとは自然と思わない。
 ただ、

――出会わなければ良かった。

 私は思った。
 彼と今日ここで出会わなければ、私はこんなに苦しいとは思わなかっただろう。
 だけど同時にこれほどに楽しいとも思わなかった。満たされたとも。
 だからこそ、今が苦しくて、空虚だ。
 消えてしまいたいと願うほどに。

 さく、

 一歩をもう一つ踏み出す。
 雪恵さんはその一歩をどんな気持ちで踏み出したのだろう。
 あんなに優しい男が傍にいてくれたのに。
 何故、あの人を悲しませる事をしでかしたんだろう。

 さく、

 残りは、二歩。
 彼は今頃自分を捜しているだろうか。きっと捜している。
 優しい人だから放っておけなくて捜し回ってるに決まってる。
 ああ、彼にはありがとうもごめんなさいも言えなかった。
 あんなに良くして貰えたのに、何も、何も、

 さく、
 あと、一歩。
 もう考えるのは止めた。
 見えるのは白い波飛沫だけなのに、ぽっかりと広がる闇には相変わらず引き寄せる力がある。
 私は目を閉じた。

 脳が身体を動かす為に神経を筋肉へと送り、最後の一歩が踏み出される。

 その時、だった。

「――」
 私の身体を引っ張る死に神の黒い手を振り払うように、強い力が私の身体を後ろへと引っ張ったのは。
 ぐいと引っ張られる所か、抱え上げられて乱暴に柵の向こうに放り投げられた。
 その瞬間肘を打ち付けた。痛いと声を上げる間もなく、飛んできたのは怒声。
「何考えてやがんだ、てめえは!!」
 叩き付けるというのが正しい音量の声に、はっと顔を上げる。
 肩を怒らせ、怒ったような顔で私を見下ろしていたのは……
「土方さん」
 だった。
 やっぱり追いかけてきた。
 その優しさが、今はただただ苦しい。
「あんな所から飛び降りたらタダじゃすまねえんだぞ! 分かってんのか!?」
 土方さんは私を怒鳴りつける。
 今朝は怒鳴りもしなければ引き留めもしなかった。
 ただただ付き合えと言って強引に腕を引っ張っただけで、私の生死に関わろうとはしなかった。
 私と彼は今でも他人だ。それは今朝と変わらない。
 それなのに、何故私を今度は怒鳴りつけるというんだろう。
「私が、死のうが、あなたには関係ない」
 それが命の恩人に対する態度か、私はそっぽを向いて立ち上がりもう一度柵を越えようと崖へと近付く。
「何ふざけた事抜かしてやがんだ、てめえは」
 立ちふさがるのは勿論彼だ。
 柵に足を掛ける前にその強い力で阻まれた。
「ふざけた事なんて言ってない。私は、ここから飛び降りるんです」
 退いてと身体を押しのけても、叶わない。
 彼は眉間に深い皺を刻み、怖いくらいに目を釣り上げて私を睨み付けた。
「誰が退くか。いいから頭を冷やせ」
「頭は冷静です。冷静に考えてこれが一番だって分かったんです」
「これが一番いい方法なはずねえだろうが」
 なおも私の前に立ちはだかる彼に、私はならばと別の所から越えようと方向転換をする。
 でも柵に到達して足を掛けたと思ったら引きずり降ろされて、なんだか無性に腹が立って私は彼の腕を振り払った。
「邪魔しないで!」
「出来るか!」
 もう一度足を掛けると今度はふわりと身体が浮いた。
 足が地面に着かない。
 見れば土方さんの腕に抱えられていて、
「降ろして!」
「断る」
 腕の中で私は藻掻いた。暴れた。
 彼の身体を蹴ったし、引っ掻いた。でも、土方さんは降ろしてくれない。私を離してくれない。
 その間にも見る見るうちに崖は遠ざかり、 風に吹かれてふわりとユリの花が揺れた。誘っているようにも、笑っているようにも見える。まるで、私をあざ笑うみたいに。
 なんだろう、すごく私は自分が惨めな気がした。
「なんでぇっ」
 ひ、と嗚咽が喉を突いて出る。
 闇に塗り潰された世界がぐにゃりと歪んだ。
「なんで、放っておいてくれないの?」
 なんて情けない声を上げるのだろう、私は。
「っなんで、っな、んで、私のこと、ほうって……」
 嗚咽が邪魔をする。言葉が紡げない。
 それでも黙っていられなくて彼を責めるように声を漏らしながら、彼の服を掴んだ。
 放って置いてくれと願いながら、私は掴んだ。
 彼の足は、車の前で止まった。
 私は抱き上げられたまま、泣きじゃくった。
 なんで、なんで、と問い掛けながら。
「今日は、俺の誕生日なんだよ」
 嗚咽の合間に、彼は呟く。私の問いに答えるみたいに。
「そんな日に死ぬんじゃねえよ」
 そんなの私の勝手だと言うのを、彼の手が私の身体を強く抱き、遮った。
 彼は言った。

「自分の生まれた日に、好きな女に二度も死なれて堪るかよ」

 悔しそうな声で紡がれた言葉に、私の心臓は一度――止まった。


 ざ、ん。
 波の音しか聞こえない。
 耳から聞こえるのは波の音だけど、身体に聞こえるのは彼の心音。
 とくん、とくんと感じるその生命の音は……私が少し前に聞いたそれよりも、早い。
 その音にせき立てられるように、一瞬停止していた私の身体……私の全神経は緩やかに再び時を取り戻した。
「い、ま……なんて?」
「聞いて、なかったのかよ」
 問いに返ってきたのは呻くような低い声。
 決まり悪そうなそれを漏らし、一つ溜息。
「自分の生まれた日に、二度も好きな女に死なれて堪るかって言ったんだ」
 彼は今日が誕生日だと言った。
 その日に、好きな人に死なれるのはそりゃ確かに辛いだろう。自分の誕生日が大切な人の命日になってしまうのだから。自分が年を重ねる度に、時を止めてしまった彼女の事を思い出すのだから。
 一度目は恐らく、雪恵さん。
 でも、二人目って?
「凶悪な程に鈍いな、てめえは」
 はぁああ、と盛大な溜息を吐かれた。
 それから土方さんは私をゆっくりと降ろしてくれる。
 もう崖にダッシュなんぞはしないけど、万が一の事を考えてか彼の手は私の肩に置かれていた。
 顔を上げれば彼は真剣な表情で私を見下ろして、
「おまえが好きだって言ってんだ」
 だから、
「死ぬんじゃねえよ」
 そう、彼が言った。

 私は一瞬、呆気に取られたようにあんぐりと目と口とを開けて、
 それから、

「なんでぇ……」
 ひっくとまた嗚咽を漏らすと同時にぼたぼたと瞳から涙を零す私を、土方さんは笑った。
「なんで好きって言って泣くんだ、おまえは」
「だ、だって、土方さんが私を好きになる理由、ない、もんっ」
 会って間もないし、彼は私のことを良く知らない。
 好きになって貰えるような部分を見せた覚えもない。
「おまだって、同じようなもんだろ」
 土方さんは困ったように眉を下げ、涙を零す私の頬を優しく撫でる。
「出会ってまだ13時間と20分だし、俺の事良く知らねえ。それでも……」
 彼の声が少し優しくなった。
「俺と一緒にいたいと思ったんだろ?」
 一緒にいたい。その言葉が彼に好意を持っての言葉だと気付いている。
 気付いていて、それをちゃんと彼は受け止めて、言ってくれているのだ。
 自分も同じだと。
 同じ気持ちだって。
「で、も……」
 まだ雪恵さんに未練があるんじゃないのか。
 だから彼女の生きた跡を辿ったんじゃないのか。
 だからここに来たんじゃないのか。
「黙れ」
 言いかけた言葉は低く命じる声で遮られた。
 短い命令は、優しい声。
 そっと頬を包まれ傾けられる感覚に、私は小さな声を漏らす。けれど、拒まない。
「雪恵、さんが……」
 ただ、彼が愛した人が命を落とした場所でするのは悪い気がして、小さく名を刻めばもう何も言うなと言うみたいに唇を押しつけられた。

「もうグダグダ言うのは止めろ」
 美しい紫色が、熱っぽく私を見つめながら言う。
 そんな色にも染まるのかと驚くほどの色っぽいそれで。
「おまえは、俺が好きで、俺が欲しいんだろう? だったら余計な事は考えずに手を伸ばしゃ良い」
 彼はこうも言った。

「もしおまえが望まなくても、俺が勝手に奪うけどな」

 なんせ――

「今日は俺の誕生日だからな」

 プレゼントは奪う物じゃ無くて貰う物ではないだろうか。そう思ったけど、彼が本当に嬉しそうに笑うから、私は笑って手を伸ばした。


Happy Birthday!

                                  


  遅れてしまったけど、土方さん
  誕生日おめでとう☆