何故春先に鬱になる人が多いのかっていうと、その時期の気圧の変化が関係しているらしい。
気圧の変化が激しすぎて脳が疲れてしまい、その疲労が蓄積して結果鬱によく似た症状が起こるという。だから性格には鬱ではなく、脳が、それによって身体が疲れたと錯覚するだけだ。
そう思えば自然はすごいって事だ。酷い言葉を使わなくても人を死に追いやってしまうのだから。
「今すぐ私の前から消えて」
私は割とポジティブな方だと思っている。
生まれてこの方、死にたいと思った事は一度もない。脳天気だったのかもしれない。
でも、私もこの春先の気圧の変化というのに疲弊しきっている所に上司からの厳しい叱責、プラス減給に事実上の左遷勧告。おまけに長いこと付き合っていた彼氏の浮気が発覚し、浮気相手が私の友達でその子は今までずっと私を憎んでいたらしく、その積年の恨みを晴らすべく恨み辛みをぶちまけられ挙げ句の果てに目の前から消えろ発言までされて、いやぁ今回ばかりは精神的にキた。
マイナスオーラというのはマイナス要素を引きつけるというけど、本当だ。恐らく、一生分の悪いことが重なったのだろう。
私は、先にも述べたけど割とポジティブだ。
でもね……私だって心が折れる時がある。ぼっきり折れてしまう時だってある。その見事に折れた心を更に粉砕させるように、嫌な事が体当たりしてきたら、そりゃあ、逃げたいって思うよ。
「死ぬ気か?」
どこか遠い場所に逃げてしまいたい。
そう思っていた私は知らない土地の、知らない崖の上に立っていた。
木で出来た柵の向こうは断崖絶壁。その下には荒れ狂う海が広がっている。
自殺の名所で有名だけど、注意書きは『危険、入るな』の立て看板のみ。本当に止める気があるのだろうか、こんな低い柵で。
勿論、その柵で止められなかったのは片隅にそっと置かれている白い花束を見れば分かる。綺麗なユリの花束。誰かが手向けたものだ。きっと……誰かがここで身を投げた。それを悼んで花を供える者がいるのだ。
私がここで身を投げれば……誰かが悲しんでくれるだろうか?
両親もいない今、多分もう誰も悲しまない。悲しんでも一瞬で、忘れられるのが関の山。
誰の記憶にも残らなければ私が生きた証というものはあるのだろうか?
無ければ、私がここにいる必要なんてないのではないだろうか?
そんなことを、ぼんやりと考えていた。考えながらいつしか身体は柵の向こう側に出ていて、私は崖の上から荒れ狂う海を見つめていて、
「死ぬ気か?」
誰もいないと思っていたのに、振り返ればそこに人の姿があった。
とても綺麗な紫の瞳が印象的だった。
世界というのはよく分からない。
昨日まで友達だと思っていた人が突然人を大嫌いだと言いだして、昨日までは優秀だと褒めてくれた上司がいきなり左遷を言い渡した。
世界というのはよく分からない。
同じ事を繰り返していたつもりでも、どこかでねじ曲がってしまう。
私の意志とは裏腹に。
「丁度良い。俺に少しつきあえ」
自殺なんてやめろとか命を無駄にするなとか、もっともらしい説教はいくらでもあっただろうに。彼は私の自殺……する気は一応無かったんだけど……を止めるのではなく、唐突にそんな事を言って私をその場から連行した。
「え? え? え!?」
ずるずると引きずるような形で腕を引っ張ったかと思うと、少し先に停めてあった車に「乗れ」と短く指示をして自分はとっとと運転席に乗り込んでしまう。
「え、ちょ、乗れって……」
なに? なんなの、この展開?
乗れってこの車にって事なんだろうけど、その意味が分からない。
「早く乗れって言ってんだろうが」
訳が分からずおろおろする私に容赦なく飛んできたのは苛立った声。
鋭い声はまるで従わなければならないという暗示を私に掛け、慌てて扉を開けると私は助手席に滑り込んだ。
滑り込んだ、けど、
「シートベルト」
「え?」
「だからシートベルトを締めろってんだよ」
いや、そうなんですけどね。
そうじゃなくて、
「なんで?」
なんで私は車に乗ってシートベルトなんぞをしなければならないんだ?
っていうか、付き合えってなに?
なんなのそれ。
「ったく」
彼は盛大に溜息を吐くと、手間の掛かるとか何とか失礼な事を言いながら身を乗り出して勝手に私のシートベルトを締めてしまった。
そうして車は緩やかに発進する。
……もしかしたらこれは、ある種の誘拐?
私お金持ってませんって言って置いた方が良いんだろうか。
「名前は?」
ただでさえ状況が理解できなくてパニック状態なのに、おまけに突然「名前は?」なんて聞かれて私はちょっと対応できずにいる。そんな私を不機嫌そうに眉間に皺を寄せて睨み付けて、
「名前だよ、名前。おまえ、日本語分かるか?」
英語で言った方が良いか? なんて言いながら「What‘s your name?」なんてこれまた腹が立つくらい綺麗な発音で訊ねられて私はカチンと来る。明らかに私が日本人である事を分かっていての、行為だ。馬鹿にしている。
「雪村です!」
「はいはい、雪村さんね」
だからついつい強い語調で答えれば、彼はそんな私の苛立ちなんぞ知ったことじゃないと言わんばかりに馬鹿にした口調で言って車を発進させた。
人に名乗らせておいて、自分は答えないつもりか。この人、どういう育ち方を……
「俺は土方だ」
睨み付ける私の視線に気付いたのか、それとも気付いていないのか、彼も名乗りを上げてアクセルを軽く踏み込んだ。車のスピードが上がり、緩やかな坂を静かに下っていく。
サイドミラーに私が先程立っていた崖が見えて、それもすぐに消える。
「つまらねえ一人旅にうんざりしてたんだ」
過ぎ去っていく景色をサイドミラーで追いかける私とは逆に、彼は前だけを見据えて言った。
「どうせその命捨てちまうんだったら、俺の旅に付き合って貰うぜ」
世界というのは……分からない。
本当によく分からない。
昨日と今日で一体何が違うっていうんだろう?
何が、こんなに世界を変えたっていうんだろう?
「あ、あの、すいません」
来たことも見たこともない知らない土地を……私は良く知らない人の背中を追いかけている。
呼びかけるけど彼は止まらず、ずんずんと先へと進んだ。
「あの! ちょっと!」
「うるっせえな」
止まってと強い声を上げれば、彼は煩そうに振り返り私を睨み付けた。
今更気付いたけど……この人すごく綺麗な顔をしている。どことなく漂うオーラが近寄りがたい印象を与えるけど、クールな美人さんだ。目の保養に是非ともお友達になりたい所だけど、
「ぎゃあぎゃあ喚くな。折角骨休めに来てんのが台無しだろうが」
がし、と大きな手が私の頭を掴み、ぎりぎりと指先がこめかみを締めつける。
「いだ、いだだだだっ!!」
遠慮無しに男の握力で捕まれ、私がギブアップするのは当然の事。
「ぎ、ギブ!! 頭潰れるっ!!」
「これ以上喚くってんなら、本気で握りつぶすぞ」
「うわああ、分かりました! 分かったから離し、てっ」
私が本気で痛いと訴えれば漸くその手が離れる。
あまりの痛みにしゃがみ込んで頭を両手で抱える私を、彼は冷たく一瞥し、やがてくるりと背中を向けてしまった。
目の保養にはなるだろう……けど、決してお友達にはなりたくない。こんな乱暴な人。絶対ごめんだ。
「なんで……」
涙目で睨み付けながら問いを口にする。
さっき頭を押さえつけられたせいか、未だに頭は整理がついていないけれど、大事な事だけは纏まった。
「なんで、私を?」
何故、私を連れてきたのか。
何故、旅の同行者が私なのか。
わけがわからない。分からないから教えてくれと私が言えば、彼はふんと鼻を鳴らした。
「さっき言っただろ。一人旅はつまらねえって……丁度おまえ、暇そうだったしな」
「だからって……なんで見ず知らずの私?」
それが分からない、理解できない。
そう訴えれば彼は視線を逸らしてぽつりと零した。
「おまえの事を何も知らねえから、だ」
だからその意味が分からないだって――
私はそれを教えてくれと言うのに、彼はこれ以上は時間の無駄と言わんばかりに背を向けてしまった。
「おら、しゃがみ込んでねえで行くぞ」
とっとと立てと彼は促す。促すと言うより急かすのが正しい。
誰が行くかと内心で思ったけど、そうしたらまた頭をがしっと捕まれそうだったので私は無言で立ち上がり、彼の後ろに続いた。
念で人をどうにか出来るならば今すぐこの男に天罰を。
そう思いながら睨み付けていると、彼は振り返りもせずに言った。
「んな不機嫌な面ぁしてねえで、周り見てみろ」
「誰がさせてると……」
小さく呟いた瞬間、ざぁと吹き付ける強い風に私は一瞬目を瞑り、開いたその時、
「う、わ……」
飛び込んでくる美しい景色に思わずと言う風に声が漏れた。
私たちの眼下に広がるのは真っ赤なツツジの群生。それに色を添えるのは新緑の鮮やかな緑。そして、その下を流れる深い、川の青。
自然が作り出す絵画。
人工では決して作り出せない、生き生きとした色彩のハーモニー。
そして、肌で感じる自然の感触。
生きた自然の香りが、暖かさが、私の五感を刺激する。
「……綺麗」
「だろ?」
呆然と呟けば何故か彼が勝ち誇ったように答えた。
これはあんたが作り出したものじゃないだろう。そう思ったが、今は止めておく。とんでもなく野暮だ。
「都会じゃ……こんな綺麗な景色、見られない」
そういえば、自然ってこんな感じだっただろうか。
赤はこんなに美しい色だっただろうか。緑ってこんなに生き生きとした色だっただろうか。青はこれほどに澄んだ色だっただろうか。
空気はこんなに優しくて、陽射しは柔らかくて、においはこんなに清々しいものだったか。
都会にいると忘れてしまう。
憂鬱になる灰色の空、無機質なビル街、忙しない人や車の喧噪、有害な排気ガスのにおい。それらが私の五感を鈍くさせていたというのか。それとも、あまりに汚いものが自分の中に積み重なり、澱のように底に溜まっていつしか自分でも気付かない位汚れてしまっていたのか。在るがままを感じ取れない程に。
すう、とめいっぱい空気を吸い込んでみる。
肺に溜まった嫌な空気が新鮮な空気で浄化されていくかのようだ。
「どうだ、ちっとは落ち着いたか?」
空気を吐き出すと、少しだけ、私の身体は軽くなった気がした。
「癒されました」
「そりゃ良かった」
素直にこくりと頷けば、彼は口の端をついとつり上げて意地悪く笑う。
「そんじゃ気持ちも落ち着いた所で、次は嫌なもんを全部吐き出しに行くとするか」
もう少しここにいたい気もするけど、用は済んだと歩き出す彼に促されてしまう。
私は勝手だなと内心で思いながら「次はどこへ」と訊ねてみた。
嫌な物を吐き出す場所……それは一体なんなんだろう?
彼は肩越しに振り返って、にやりと挑戦的に笑った。
「嫌なもんを吐き出すには『アレ』が一番だろ?」
「きゃああああああああ!!」
絶叫が聞こえる。
それを掻き消すようにゴウっという喧しい音。
一瞬の内に過ぎ去っていく絶叫は、恐怖のというよりはどこか楽しそうに聞こえるのは気のせいかな。
いやでもあれはきっと楽しんだろう。特に女の子は。
「……あの」
私は目の前に広がる光景に、思わずという風に彼に訊ねる。
「ここは、一体」
「見て分かんねのか?」
呆れたような声は相変わらず人を馬鹿にした響きを湛えていた。
いや、分かってる。それがなんなのかくらい、私だって分かる。子供の頃何度も行ったさ、乗ったさ、だから分かってるよ。でも、私が聞きたいのは何故ここに来たかと言うこと。
確かに有名な場所だけど、わざわざ旅行に来てチョイスする所じゃない。
子連れならまだしも彼くらいの年齢の男性が、だ。
「もしかして……嫌な物を吐き出す方法って……」
ゴゴゴ、とけたたましい音を立てて過ぎ去っていくマシンを見送りつつ私はあれかと訊ねれば彼はこくりと頷いた。
「吐き出すんならやっぱり絶叫マシンだろ」
あなたに絶叫マシンは似合いません。
そんな言葉は辛うじて、飲み込んだ。
「ふあああ、楽しかったー」
マシンから降りる私の足は、軽やかだ。
元々絶叫系のマシンは大好き。ジェットコースターの疾走する爽快感が大好きだし、落下時の浮遊感も堪らない。胃がふわっと浮いたあの不思議な感じ、大好きだ。
つい楽しくてテンションを上げて叫んでしまうんだけど、本当すっきりする。
彼の言うとおり「嫌な物を吐き出す」には最適だ。
「なんであんなもんがこの世にあるんだ……」
すぐにでも並び直そうとする私とは逆に、彼の足取りは少し重たい。
見れば眉間には皺が刻まれていて、私みたいにすっきりとした顔はしていなかった。
「あれ、苦手ですか?」
男性はどちらかというと苦手な人がいるというけど、彼もそうだっただろうか。
訊ねれば彼はむっとした顔になった。
「苦手じゃねえ。ただ、あんまり乗り慣れてねえだけだ」
乗り慣れていないだけって言うけど、多分得意ではないんだと思う。
だって乗ってる時ずっと顰め面だった。声も上げないしバーにしがみつく事もないけど、落下する時に微かに身体が強張るのを私は知っている。
「でも、あんまり乗らないんですよね? それじゃあ、別の方が良くないですか?」
無理して乗って具合が悪くなってもなんだし、と言えば彼はムキになって「構わない」と言い張った。
「あんなもん、なんて事ねえ」
「でも」
「良いから、次、行くぞ」
次だ、と肩を怒らせてずんずんと歩き出す彼は、その後三つほど私に付き合ってくれて、
「……大丈夫ですか?」
ベンチでグロッキー。
ぐったりと背もたれにもたれ掛かり、青い顔を手で覆っている。
マシンに酔ったというよりは精神的苦痛に耐えかねてキた、という所か。
「無理なら無理って言ってくれればいいのに」
ジュースを差し出すと彼は手の下からぎろっと私を睨み付けた。
ただ、青い顔とへたったその恰好からはあまり威力はない。それは自分でも分かるらしく、ち、と舌打ちを一つして私の手からジュースをもぎ取るとストローに噛みついて飲み下しながらぼそりと零す。
「情けねえとか思ってんだろ」
いじけたような小さな声に、つい笑いが漏れそうになった。
思わず口元に笑みが浮かぶのを慌てて堪えながら、そんな事ないと首を振る。
でも、彼のスイッチはなかなかいじけモードから戻ってくれない。
ふて腐れたように視線を逸らしたまま「笑えばいいだろ」なんて投げやりに言いつつ、悔しげにストローを噛んでいる。
案外子供らしい所があるみたい。それがちょっとだけ……可愛いと思う。ほんのちょっとだ。
「情けないなんて思ってないです」
「口が笑ってんだよ」
「……確かに、笑えますけど」
ぎろ、と紫の瞳が私を睨む。それも彼の精一杯の強がりなのかと思えば、怖くない。
「あなたにも苦手な事があるんだなって思ったら、嬉しくて」
「……」
「馬鹿にしてるわけじゃないですよ」
双眸が更に細められるのに気付き、私は彼が何かを言う前に断りを入れた。
確かに今までずっと威圧的だった彼がジェットコースター如きを怖がり、一方の私は大の得意なので優越感に少し浸りたくもなる。けど、
「違う面も見られて、ちょっと、あなたを知ることが出来た」
それが、嬉しい。
怒ってばかりじゃなくて、意地悪なだけじゃなくて、本当は苦手なものもあって、子供みたいにいじける事もあった。
彼にだって私と同じで色んな面があって、色んなものを隠していた。それをほんの少し、知ることが出来た。それがちょっとだけ嬉しい。嬉しいというか、楽しい?
そう告げれば彼は眉間の皺を少しだけ緩めて……
「よし、リベンジだ」
一気にジュースを煽るとがたんと立ち上がる。
「リベンジって、もしかして……」
またジェットコースターに乗るっていうの?
「いや、無理しない方が良いですって!」
慌てて私もそれに続けば、彼は行くと言って退かない。
「少し慣れた、もう大丈夫だ」
「いやいや、あれは慣れの問題じゃないですって!」
「大丈夫だっつってんだろ」
「いや、マジ、飲み物飲んだ後は止めた方が良いです!」
腕を掴んで引き留める。
振り払うかと思えば彼は振り返って、顰め面で言った。
「あんなもん、怖くともなんともねえんだよ」
ずっとずっと不機嫌だったその表情は、でも今はただ不機嫌なだけじゃないって分かる。
これは拗ねてるんだと思えば私は可笑しくて、
「笑うな!!」
げらげらと涙を浮かべて笑うと、彼に殴られた。
不思議と、痛くなかった。
その後絶叫マシンに3回乗り、私は見事その遊園地の絶叫系を制覇することが出来た。
叫びまくってストレスを発散しまくった私とは対照的に、彼はストレスを抱える事になっただろう。
それでも少しは慣れたのか、さっきみたいにグロッキーという状態ではなかった。顔色も、そんなに悪くない。疲れてるみたいではあるけど。
「いや、ほんと楽しかったです」
「ああそうかよ」
良かったな、とどうでも良さそうに彼は言う。
忌々しげに疾走する赤いマシンを睨み付けながら。
「特にあの、サイクロンが面白かったです」
真っ黒い機体の、と言えば彼の顔が歪んだ。そりゃそうだろう。
パーク内にある絶叫マシンの中で一番スリルがあると称されるものだ。とにかくその傾斜が半端ない。120度という傾斜を一気に駆け下りる。しかも落下前に一度止まるんだ。あのスリルが堪らない。
因みにその時の土方さんは若干顔が引きつっていたけど、当人の名誉の為に黙っておく事にする。
「俺は一生分を乗った気がする」
「閉園まで時間ありますよ? 私後二回くらい乗ってこようかなと思うんですけど」
と言うと彼はぎょっとした顔で私を見た。
俺を殺す気か? とでも言いたげな表情に私は笑って頭を振る。
「嘘。これだけ付き合って貰ったんですから、十分です」
私ももう満腹だ。絶叫マシンはたっぷり楽しんだ。
それでもまだ元気いっぱいの私を、彼は呆れたような眼差しで見つめながら言う。
「おまえ、こういうとこ来るとあれだろ? 乗り放題チケットで絶叫系制覇するタイプ」
「むしろそれ、野望」
乗り放題で絶叫系制覇とか、夢のよう。
そう答えれば彼はひょいと眉根を寄せた。
「野望? 実現させてねえのか?」
「実現は……あれ、今日が初めて?」
「初めてって、こういう場所にはあんまり来ねえのか?」
「いや、まあ、来ないって程でもないですけど」
それでも遊園地って言うほど子供でもないし、両親が亡くなってからはこういったテーマパークに来ること自体が少なくなっていたのは確かだろう。そんなお金も余裕もなかった。
だから稼ぐようになって何度か遊園地には来た、けど、
「彼氏がこういうの全然駄目で」
絶叫系がとにかく駄目な人だったから、乗れなかったのだ。
だから私は彼と遊園地に来るといっつも地上からあまり離れないタイプの大人しい乗り物しか乗れなくて、実はちょっとつまらないな……なんて思っていた事もある。勿論そんなの些細な事だけど。
そう答えた私を、彼は驚いたような顔で見ていた。
なんだろう。今の私の言葉に変な所があっただろうか?
首を捻ると彼は、何故か少し言葉に迷うような仕草を見せてから零した。
「彼氏、いたのか」
彼氏。
今更のように思い出した。
長年付き合っていたからつい癖のように言ってしまったけど、もう、彼氏じゃない。
「元彼、です」
あはは、と私は笑った。
彼の双眸がまた、開いた。
「昨日、別れました」
開いた双眸はやがて……ゆっくりと細められる。
どこか哀れみの籠もった眼差しが痛くて、私は立ち上がって話題を変えた。
「お腹、空きません?」
「え、あ……ああ」
「私、ちょっと何か買ってきます。食べたいもの、ありますか?」
「……じゃあ、軽いもんと、珈琲」
「アイスで良いですよね?」
「頼む」
鞄を片手に立ち上がり、私は席を離れた。
戻ってくるまでに、彼が忘れてくれていると良いなと……思った。
そんなに言うほど、傷ついてはいない。
人というのは出会いがあるから別れもある。絶対なんて関係はこの世には存在しないから、私とあいつが別れたのは仕方のない事なんだ。
だから、傷ついてない。
仕方のない事だから。
だから、そんな風に同情されたくない。
くっついた別れたなんて、どこにでもある日常的な事で……特別じゃない。私だけが辛いんじゃない。もっと辛い思いをしている人にとっては「その程度」だ。
だから、私は平気なんだ。
それになにより、
彼には関係ない事――
「俺は軽いもんで良いって言っただろうが!」
重苦しい空気だと嫌だから、そう思ってジャンボアメリカンフランク(長さ30センチ・直径5センチ※衣含む)を買って帰ったら怒鳴りつけられた。
「おまえは俺の話を聞いてなかったのか?」
「失礼な。ちゃんと軽い物を選んできましたよー」
目を釣り上げて文句を言う彼に、私も負けじと応戦する。
「他にあったメニューはラーメンとか、ステーキセットとかだったんですから」
そっちをチョイスしなかっただけマシだと思って欲しい、と言うとひきっと彼の口元が引き攣る。確かにその二つから比べればジャンボアメリカンフランクは軽い方だ。ボリューム的には重量感はあるけれど。
「だからって、なんでこんな馬鹿でかいもんを買ってくるんだ」
文句を言いつつもいらないと突っぱねないあたりがこの人、実はいい人なんじゃないかなと思う。
だからついついうっかり、
「普通サイズもありましたが、ネタ的には面白いと思ったのでそちらにしてみました」
「馬鹿かてめえは!!」
なんて漏らしたらべしんっと机を叩かれた。
その弾みでドリンクがダンスしたけれど、倒れはしない。
ついでに向こうで子供が泣いたのは……まあ当人が決まり悪そうな顔をしているので見なかった事にしてあげよう。
「おまえも半分、食えよ」
「え……、関節キス?」
「ナイフ取・っ・て・く・る」
笑みを引き攣らせながら言って、彼はすたすたとお店の方へと向かってしまった。
その後ろ姿を見送りつつ、そういえば、と今更のように思い出した。
「持ってきてやったぞ。おら、切るからそっちに……」
「私たち、今日が初対面でしたね」
ナイフを持って戻ってきた彼にぽつりと告げれば、その表情が怪訝なそれに変わる。
私が何を言いたいのか分からないらしい。そりゃ当然だ、なんせ初対面だから。
出会って……今で4時間か。その程度のつきあいならこれで十分だ。
「なのに、なんでだろう。まるで何十年来の知り合いみたいに遠慮無く言いあえるの……」
私がそう告げれば漸く言葉の意味が分かったらしい。彼はああ、と声を上げ、それから小馬鹿にするような表情で私を見た。
「おまえが遠慮ねえせいじゃねえのか?」
「それ、あなたに言われたくないんですけど」
お互い様だと内心で突っ込みつつ、彼の言葉に妙に納得。
確かに初対面でもこうもぽんぽん好き放題言われると、遠慮してるのが馬鹿馬鹿しくなる。
「ったく、かわいげのねえ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
しれっと返したら、彼は鼻の頭にまで皺を寄せて嫌そうな顔を向けてきた。
ただそれ以上は無駄だと思ったしく口を噤み、ジャンボアメリカンフランクを半分にすると意外な事に棒のついた方を私にくれた。
「……そういう気遣いしてくれるんですね」
「一応、俺のが年上だからな」
「知らない癖に!」
「いくつなんだよ」
豪快に手掴みでかぶりつく。
美人な外見に似合わず、男らしい食いっぷりだ。
軽い物とか言ってたから超小食なのかと思ってたけど、そうではないらしい。
「21ですけど?」
「じゃあ、年下だ。俺は28」
「威圧感は40代ですよね」
「どういう意味だ?」
「威圧感半端ないですねって事じゃないですか」
「そりゃ、俺の態度がでけえって事か? そりゃてめえには言われたくねえぞ」
「いやいや、そこまではっきり言ってないし」
言ってんじゃねえか、と彼はぶつぶつと言うとやけくそみたいにジャンボフランクにかぶりつき、コーヒーで流し込んでしまう。
私も慌ててジャンボフランクにかぶりついた。仕返しにとっとと行くぞなんて言われたら困るから。
「……で?」
でも、彼は私を急かしたりはしなかった。
ただ短いその言葉で質問を投げかけられ、私は顔を上げて何、と聞き返す。
「理由は?」
理由?
私の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
彼の中では言葉は成り立っているのかも知れないが、私は説明して貰えないと分からない。彼の頭の中を覗く能力はないのだから。
「彼氏と別れた理由だよ」
わ、と遠くで声が上がるのが聞こえた。
その声よりも大きく聞こえたのは、目の前のその人の言葉だ。
そして、そのどれよりも大きく聞こえたのは私の心臓の音。
どくんと、一つ音を立てた。
「なんだったんだ?」
彼は聞いてきた。
彼には関係のない事を、だ。
「別に良いだろ。どうせ俺は今日限りの相手だ」
関係ない、と突っぱねようとした言葉を彼は先に遮ってそう告げる。
「明日にゃ互い見知らぬ他人に戻る。今くらいは遠慮せずに吐き出しちまっても良いんじゃねえか?」
明日にはお互いに見知らぬ他人に戻る。
だから何を言っても許されるとでも言うのか。
明日には見知らぬ他人に戻るのならば逆に言うべきではないのだろうか。
それなのに、
「……浮気、されちゃって」
口が滑る私はどうしたんだろう?
今日合ったばかりの、良く知らない人に、情けない話をするなんて。
でも、一つ零すと後から後からまるで溢れてくるみたいに私の口から吐いて出た。
「しかも、それが私の友達で……びっくりです」
ずっと友達だと思っていたのにずっと憎まれていた、恨まれていた。それに気付かなかった私のなんと愚かしい事か。
友達だと信じていたけれど向こうは違っていた。私をどうにかして傷つけたくてずっと一緒にいたのだ。その胸の内に復讐の炎を燃やしながら。
浮気は良いことではないけど、多分、彼女は悪くない。
悪いと思いたくない。強いて言うなら脳天気な私のせいだ。私が彼女をそこまで歪ませた。それがひたすら申し訳ない。
「目の前から消えろって言われました」
「……」
彼は唇を引き結んだ。
紫の瞳は、哀れんだ色を浮かべてはいない。ただ、静かだった、酷く。
「なんか、二年もずっと浮気されてたらしいんですけど……私全然気付かなかったんですよ。どんだけ鈍感なんだって感じですよね」
彼は真剣な面もちで私を見ていた。
それがなんだか、妙に居心地が悪くて仕方ない。
「いやいや、そんな深刻じゃないんで笑い飛ばしてくださいよ」
あはは、と私は笑う。
彼も釣られて笑えば良いと思ったから、派手に笑ってやった。
そうしたら、彼は怒ったみたいな顔になって、
それから、
「無理矢理笑ってんじゃねえよ」
不細工だ、と彼は言った。
酷い言葉だと抗議に口を開いたけど、それよりも先に彼の言葉が続いた。
「本当は、苦しくて堪らねんだろ?」
真っ直ぐに私を見つめる瞳に、どきりと胸が震える。まるで核心を突かれたみたいに、どきどきと鼓動が速まって私の心は焦る。
「ち、が……私は、そんな」
「泣きたかったんだろ?」
「違う、私、泣きたくなんか……」
「辛かったんだろ?」
「辛くなんか……」
辛くなんかない、泣きたくなんかない。
そう言いたいのに彼の言葉は、瞳は、私の心の奥に突き刺さる。突き刺さり揺さぶって、私の本心を暴こうとする。
自分でも知らずに心の奥に閉じ込めてしまったものを、勝手に暴いて引きずり出そうとする。
違う違う、私は。
ふるりと頭を振れば、彼は小さな声で言った。
「もう、許してやれよ」
その声こそが全ての罪を許すような優しい声で、
ぱた。
自分でも知らず、閉じ込めていたものが熱い滴となってこぼれ落ちた。
ぱた、ぱたと。
後から後から溢れて、胸の奥が苦しくなって、
「っ」
もう我慢できなかった。
私は、自分の手で口を覆うと声を押し殺し……泣いた。
声を上げるのはみっともないから、その代わりに涙で全てを押し流した。
どうしようもなく不細工な顔を伏せて泣けば、その頬に手が伸びる。
一瞬、伸ばした指先が止まり……やがて声もなく立ち上がったかと思うと私の傍に立って引き寄せた。
彼の指は油で汚れていたんだ。
そういう気遣いが出来るこの人は多分、滅茶苦茶男前……だ。
あー、やばい。
あれからどんだけ泣いたんだろう。
とりあえず涙が枯れるまで、とはいかないけど思う存分泣いたのは確かだ。
どれだけ泣いたか……っていうのはしっとりと濡れる、私の顔に触れるそれで分かる。
これはやばい。
ええと色々、やばい。
「……気が済んだか」
やばいんだけどどうにも対処が出来ず、その状況で固まっている私の耳に声が降ってくる。
長時間その状態で、流石に彼も注目を集める事に抵抗を覚えつつあるのだろう。声が固い。そして低い。
「は、はひ」
「……じゃあ、離れてくれるか」
涙はとっくに止まっているのに気付いている。でも、私が落ち着くまで引き剥がさなかったあたりがこの人は優しいのだろう。ただ敢えてそう言われるとどういう顔をして離れればいいのか分からないんだけどな。
「……」
とりあえず少し離れてみる。
彼のシャツの、お腹の部分にシミが出来ていた。
勿論犯人は私だ。私が盛大に泣いた、せい。
「ごめんなさい」
「いや、良い」
「鼻水、ついたかも」
「……それは……まあ、仕方ねえだろ」
一瞬言葉に詰まったけど、嫌そうな顔はしなかった。
うん、なんていうかびしっと決まってるのにシャツにシミとか、微妙だ。
色男なだけ更に残念っぷりが増す。
「そのうち乾くだろ」
とか言ってるけど、暫くは人々の視線に曝されるわけで申し訳ないやら恥ずかしいやら、情けないやらで顔を伏せていると、こんと頭を手の甲で叩かれた。
「とっとと、食っちまえよ」
それ、と半分のアメリカンフランクを顎で差して言う。
放置されたままのそれはちょっと寂しそうに佇んでいて、そうでしたと私は慌てて手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待っててください。すぐに食べます」
「良い、慌てんな」
がぶっと欲張って頬張れば苦笑と共に聞こえるのはさっきよりもずっと穏やかな声。
「時間はまだあるんだ。ゆっくり食えば良い。待っててやるから」
そんな優しい台詞どんな顔で言ってるのかと、ちらりと盗み見ればばちりと視線が絡んだ。
彼はとても……優しい顔をしていて、
私の胸はどきりと、大きく震えた。

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