9
「甲府城は、既に敵の手に落ちています。」
翌日、
朝早くに戻ってきた斥候部隊がもたらしたのは、衝撃的な内容だった。
「甲府城は、既に敵の手に落ちています。」
斎藤の苦しげな言葉に、一同は一瞬、言葉を失った。
その報せは瞬く間に隊内に広がり‥‥その日の内に、半数の隊士が逃げた。
残ったのはたった百余りという戦力だ。
これで戦うのは無謀だ、一度戻るべきだと永倉は近藤に噛みついた。
しかし、彼は、
「戦わずして逃げ帰る事はまかりならん」
と、この場に布陣し、全面戦争をする姿勢を見せた。
勝てるのか?
誰かが不安げに呟く。
こちらは少数、武器もろくに扱えないものばかりと来ている。
戦力も武器も、おまけに志気もまったく相手に敵わない。
これで勝てるのだろうか?
不安はあっという間に‥‥隊士全員の胸の奥に、根付いた。
このままでは、
勝てないとは思った。
さく、さく。
は何度もうろうろと行ったり来たりを繰り返している。
ぴりぴりとした空気が張りつめているその中、はただ一人だけ別の不安を抱えていた。
確かにこの戦で勝ち残れるか、
それも心配だったが、今彼女の頭を占めているのは別の事だった。
――夢を、見たのだ。
薫のもたらした情報のおかげで眠れないと思っていたのに、いつの間にかうつらうつらとしていたらしい。
眠ったかどうか分からないと言う状況の中、は夢を見た。
真っ白い世界だった。
が初めて、この世に生を受けたとき。
近藤から世界を貰ったときと同じ、いや、それよりも真っ白い世界だった。
眩しくて前が見えないほど。
その中に、
ぽつんと、土方が立っていた。
彼はずっとこちらに背を向けていた。
呼びかけても振り返らなかった。
振り向かず、背を向けて歩き出した。
何故か反射的に追いかけた。
だけど、全然距離は縮まらなかった。
そればかりか、段々と距離が開いていった。
は何度も呼んだ。
だが、最後まで彼は振り返ることなく‥‥
やがて、
その姿が消えた。
瞬間、
真っ白の世界は真っ黒に塗り潰され、
は飛び起きた。
所詮、
夢だ‥‥とは思ったが、は楽観視できなかった。
何故なら、昨夜聞いた薫の話が頭に残っていたからだ。
『羅刹の力の源』
それはその人間の寿命だと彼は言った。
力を使い続ければその人間の命を縮める事になるのだと。
まるで彼が消えたのは、彼の死を意味しているようで。
こうしている今も、彼は残りの寿命を縮めているような気がして。
「‥‥」
は何度も行き来を繰り返し、
「‥‥ちょっと、様子見てくるだけならいいかな‥‥」
は一人ごちた。
誰かに言い訳をする必要もないのに、そう呟いて、よし、と自分を奮い立たせるように声を出す。
そうして、彼の元へと向かった。
「本気か?」
彼の元へと近付くに連れ、足取りはゆっくりになっていった。
それでも引き返さずに何度も気合いを入れ直してたどり着いた時、薄い布で隔てられた向こうから声がした。
原田だった。
「あんた本気で、一人で江戸に戻るつもりなのかよ?」
立ち聞きは良くないと思って、踵を返そうとしたとき、また布の向こうから驚くべき言葉が聞こえ、
「‥‥え?」
は立ち止まる。
「このままじゃ、勝ち目はねえ。」
次いで、土方の声が聞こえる。
このまま正面切って戦っては、こちらが負けるのは目に見えていると。
やはり冷静に分析したらしい彼は、
「だから、増援を呼んでくる。」
そう告げた。
彼には戦力のあてがあるらしい。
この苦しい戦況を覆せるかも知れないあてが。
それはまだ江戸で待機しているから彼が自ら戻って、それを呼んでくるというのだ。
ただ、
彼、一人で。
「‥‥そんなのわざわざあんたが行かなくても‥‥」
俺や新八じゃ駄目なのか?と原田は言った。
江戸まで戻るのは決して遠くはないが‥‥その途中何があるか分からない。
いざという時のために戦力を割きたくないのだろうが、一人で戻るなんて無謀すぎる。
彼は新選組の副長だ。
そんな彼が一人で、なんて。
「悪いが‥‥これは俺にしかできねえことだ。
おまえや、新八に頼むわけにはいかねえよ。」
こう言っては彼らには申し訳ないが、位のない彼らが助力を乞うた所で門前払いが関の山だろう。
だから、土方が行くのだ。
「‥‥で、でも‥‥」
「悪いが時間はあまりねえんだ。
納得しろとは言わないが、後の事は‥‥」
頼むと言いかけた声は、ばさりと布を押しのける音で遮られた。
そこに、
「‥‥」
彼女の姿があり、土方も原田も目を丸くする。
「‥‥今の、どういうこと?」
咎めるような視線に、土方は決まり悪そうな顔を、背けた。
「あいつはきっと‥‥あんたを待ってたんだ」
昨夜、薫との騒ぎで助けに入った原田は、彼女の顔を見て分かった。
自分を見た瞬間に、少しだけ、その瞳が翳ったのを見て、分かった。
待っていたのはただ一人だったのだと。
「そんなに心配なら人任せにしねえで、てめえでどうにかするんだな」
どこか怒ったような声でそっと言い残した原田が出ていってしまうと、残されたのは二人きりになる。
視線を背けたままの土方は僅かにしかめっ面で、はそんな彼をじっと見ていた。
相変わらず、二人の距離は開いたままだった。
沈黙ばかりで時間が過ぎていたそれに、先に痺れを切らしたのはだ。
「‥‥私に、内緒で行こうとしたんですか。」
呟きは先ほどの咎めるそれとは違っていた。
視線を戻せば、彼女は視線を伏せていた。
その顔には、一人、何も知らされていなかった事実に対して、彼女がどう思ったかがありありと浮かんでいる。
悲しそうな顔だった。
「おまえにも、ちゃんと言うつもりだったんだが‥‥」
土方は決まり悪そうな顔で呟く。
それは言い訳にしかすぎず、彼はすぐに、
「悪かった。」
と溜息混じりに謝罪を述べる。
そうして、土方は真っ直ぐを見て説明をする。
「さっき聞いたとおりだが‥‥
俺はこの戦い、勝てるとはおもえねえ。」
いや、このままだと確実に負けると彼は踏んでいる。
「だから、俺は増援を呼びに江戸まで一度戻ってくる。」
戻って、より戦いやすい状況にすると。
彼は言った。
はそこで漸く視線を彼に戻す。
「一人で?」
「‥‥ああ。
なるべく、戦力は割きたくねえ。」
彼は頷いた。
「私が同行するのも?」
問えば、彼は再び強く頷く。
「おまえは貴重な戦力だ。
ここを、近藤さんを守って欲しい。」
「‥‥」
そう言われれば、にはもう何も言えない。
ただ悔しげに唇を噛みしめ、是、と言うしか。
彼の命令は絶対だから。
「‥‥それじゃ、俺は行く。」
「‥‥」
「後を、頼むぞ。」
あっさりとした言葉で終え、土方はすたすたと反対側へと歩き始めた。
出口は、二方向にある。
勿論彼が選んだのは、とは反対側。
はその遠くなる背中を見つめ、
ふいに、
その光景が今朝見た夢と、重なる。
遠くなる背中。
届かない声。
届かない手。
それから、
喪失――
一瞬にして、夢と現実が重なった。
だけど、
「‥‥どう、した?」
その人は振り返った。
遠かった背中は気がつくと目の前で、
「‥‥あ‥‥」
の伸ばした手は、
しっかりと彼の服の裾を掴んでいた。
首だけを振り返った土方は驚きの表情を浮かべていた。
も、そうだった。
自分のした行動に驚いた。
身体は、彼女の意志とは関係なく動いていた。
衝動的に。
彼を、引き留めていた。
「あ‥‥その‥‥」
は慌てて手を離す。
それから慌てて距離を取ろうとしたが、一歩を後ろに踏み出した瞬間、
「動くなっ!」
彼の手が今度は反対に伸びて、の羽織を掴んだ。
「っ!?」
は足を止めた。
同じように土方は咄嗟に掴んだ手を、慌てて、離す。
が、
完全には離れない。
指先が、まるで名残惜しむように、彼女の衣の一端を掴んでいた。
「土方‥‥さん?」
「このあいだのは、無かった事にしろ。」
不意に、ぽつりと呟いた。
何の事かと視線で問うと、土方はその視線を真正面から受け‥‥やがて、決まり悪そうに僅かに視線を逸らした。
「‥‥この間の‥‥あれだ。」
「あれ?」
が首を捻ると、土方は苦虫を潰したような顔になる。
「あれだ‥‥あれ‥‥」
「‥‥」
に察するように促すが、やがて溜息と共に呟いた。
「俺に、二度と近付かないって‥‥約束だ。」
「あ‥‥」
言われては今の距離を咎められているような気がして一歩下がろうとする。
だから、と土方はもう一度指先に力を込め、それを遮った。
「それを無かった事にしろって言ってんだ。」
「‥‥え‥‥?」
今度こそ、は驚いたような声を漏らした。
が、血を飲んで欲しい一心で誓った事だった。
『土方には二度と近付かない』
誓ってから、は今まで一度も彼との距離を縮めた事がなかった。
今し方、衝動的に彼に近付くまで一度も、だ。
互いの距離を、悲しいと思った。
空しいと思った。
でも、
約束だから守った。
彼は血を飲んでくれた。
だから、
自分も守った。
それを彼は、無かった事にしろと言った。
それは‥‥どういう‥‥
驚きの眼差しで見つめる彼女に、土方は視線を逸らし、彼女がもう逃げないのが分かるとその手を離した。
離した手は宙を一瞬さまよい、迷った挙げ句に彼は頭の後ろへと回す。
がしがしと苛立ったように首を掻いた。
「どうにも、調子が出ねえんだよ。」
彼は言う。
調子が狂うと。
なんだかいつもと違って変な気分になると。
「おまえが‥‥」
隣にいないと――調子が狂う。
その恥ずかしすぎる言葉は口には出来なかった。
土方はふと、自分が少し前に口にした言葉を思い出す。
『ここにいろ』
自分の過去を知り、彼らの元を離れようとしたを、土方はそう言って引き留めた。
ここに、自分の傍に在り続けろと‥‥
そう言っておきながら、今度は自分が突き放した。
突き放して彼女が離れれば、手を伸ばした。
なんとも‥‥勝手な人間だと自分の事を笑った。
「あれは無かった事にしろ。」
穏やかだが、反論を許さない強い口調でそう告げられる。
そんな彼をはじっと見上げた。
見つめれば切れ長の、少し不機嫌そうな紫紺の瞳とぶつかる。
「‥‥」
逸らされるかと思いきや、
「返事はどうした?」
すいと細められ、意地悪そうな色で、真っ直ぐにを見つめ返してきた。
そこには‥‥あの時見た、拒絶の色はどこにもなかった。
『何か理由があったんだろう』
不意に、助言した斎藤の言葉が蘇る。
突然の事でまだ頭はついていかない。
あの夜‥‥いや、あの夜以前に彼が何を思ってあんな態度を取ったのか。
そして何故今、そんな事を言ったのか。
には全く分からなかった。
理由があったのかもなかったのかも‥‥分からなくて、
でも、
「‥‥」
彼は、
自身を拒んだものではなかった。
それが分かっただけで十分で、
「‥‥はい」
はしっかりと頷いた。
「はい。」
もう一度頷いて、目元を綻ばせた。
謝罪も、弁明も、
何一つ確かな事を告げていないのに、許してくれる彼女に、土方はなんとも申し訳ない気分でいっぱいになる。
勝手な自分を許してくれと心の中でだけ謝罪をして、土方は再度と向き合って口を開いた。
「‥‥近藤さんを‥‥」
頼むと、続く言葉をは頷いて遮った。
彼は行くつもりだ。
やはり一人で。
ふっと夢の内容が頭の中をちらつく。
でも、夢とは違って彼は振り返った。
手も届いた。
声も届いた。
だからきっと、
彼は消えたりはしない。
は自分に言い聞かせて、ゆったりと口を開く。
「いってらっしゃい」
彼を送り出すために笑顔を浮かべた‥‥
つもりだった。
しかし、
「‥‥なんて顔、してんだよ。」
土方は苦笑を浮かべたまま、歩き出そうとしなかった。
は笑っていた。
眉を寄せ、彼女は無理矢理口元だけが笑っていた。
その目は不安に揺れていて、あまりに頼りなげな表情に、見ているこちらの心が痛む。
「え‥‥?」
指摘され、は顔に手を当てた。
鏡でもない限り本人に見る事はできないだろう。
もう一度顔を上げたが、今度はさっきよりも難しい顔になっている。
く、と土方は思わず笑ってしまった。
笑われたは、今度は憮然とした面もちになる。
「おまえ、最近俺の前じゃそんな顔ばっかりだな。」
悪いと謝った後、土方は静かにそう呟いた。
ここ数日、いや、一月の間、は不安げな顔、心配そうな顔でばかり土方を見ていた。
彼の身を案じてくれているのだろうが、こうも毎度同じ顔をされると少しばかり立つ瀬がない。
「そんなに俺は頼りないか?」
「そんな事‥‥」
は首を振った。
そんなつもりじゃない。
土方が絶対に戻ってくると思っている。
絶対に援軍を引き連れて戻ってきてくれる‥‥でも、
羅刹になった身体を思うと、
彼が一人で行動する事を思うと、
やっぱり心配で。
伏せた目元に、そっと、男の手が伸ばされる。
かさついた指先は一瞬触れ、その瞬間、一度躊躇うように離れ、またゆるゆると伸ばされる。
「‥‥」
それが下がった目尻を宥めるように撫で、やがて掌全体が頬を包んだ。
久しぶりに触れるその温もりに、は泣きたいような気分になった。
泣きたい気分になるけど、
その温もりに、
死ぬほど安堵した。
そうだ、と土方は声を上げ、その手を引いた。
温もりが離れた事に少しばかり寂しいと思っていると、土方は己の刀を腰より外した。
そうして、
「、刀を抜け。」
突然そんな事を言う。
「へ?なんで」
「いいから早くしろ。」
理由も言わず早くと急かされる。
まったく、この男はいつも‥‥と呆れつつもは刀を抜いた。
「完全に抜くんじゃねえ。」
鞘から抜き去る前で止められ、それでいい、と土方に言われる。
刀は半分も抜いていない。
何をするのかと視線を上げれば、土方も自分の刀を僅かに引き抜いた。
白刃が太陽の光を受けてきらりと光る。
それを、
きん
合わせた。
甲高いいい音が空気中に響いて、溶ける。
「なんですか?」
はまだ触れあったままの刀身と、土方の顔を交互に見た。
すると、彼は僅かに笑って、
「金打を打つ、といってな、武士が誓いを立てるときはこうするもんなんだと。」
と教えてくれた。
武士はこうして互いの刃を、あるいは鍔を合わせて、誓いを立てるのだと。
「もっとも、俺もお前も正式には武士じゃねえから‥‥所詮真似事なんだけどな。」
「‥‥」
視線を上げれば、土方は口元を軽く綻ばせながらこう言った。
「これは、証だ。」
「あ、かし?」
その言葉が、ひどくの胸に響いた。
「俺は必ず戻ってくる。」
彼は言った。
迷いのない絶対の自信を持つ瞳で、
「俺は必ず、ここに戻ってくる。」
と、そうに誓った。
だから、と彼はへ強い眼差しを向けて、
「おまえも生き延びて、俺に会うという証を今、立てろ。」
そう命令した。
一瞬、ぽかんとした彼女に、土方は苦笑を漏らす。
「てめえのこった、大方、近藤さんを守るためなら盾になってでもあの人を生かそうと思ってただろ。」
「‥‥そ、れは‥‥」
指摘され、は視線を彷徨わせる。
彼に頼むと言われたからには必要とあればそうすべきだと思ったのは確かだ。
だって、自分は鬼で‥‥
傷なんて簡単に癒えてしまうから。
「おまえは‥‥」
そうやって簡単に自分の身を差し出す彼女に、土方はため息を吐く。
もう少し自分を大事に‥‥と言ったところで彼女が聞く耳を持つはずもない。
昔からそうだったから。
でも、
「そんな事はしなくていい。」
土方は言った。
「敵わねえと思ったら逃げても良い。
もし近藤さんがごねたらはり倒してでも逃げてこい。」
「土方さん‥‥」
「絶対に。」
彼は絶対と何度も言った。
「信じて、俺を待っていろ。」
瞳と言葉に宿る、強すぎる光。
眩しいくらいのそれを受けて、はそっと目を細めた。
『俺は必ず戻る。
だから、
必ず生きて、俺を待て。』
きん、ともう一度、甲高い音が上がる。
からもう一度合わせて、やがて、彼女は永久の誓いでもするかのように、
「あなたを、いつまでも待ちます。」
そう紡いだ。

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