甲府城へはこの峠を越えると、すぐ、という所で待機命令が出た。

昼のうちに斥候部隊‥‥斎藤がここを発った。

森に隠れるように設営された野営の陣の中、

 

「‥‥眠れない。」

 

はのっそりと起き出した。

ぱちぱちと炎の爆ぜる音が聞こえる。

時折、人の歩く音と控えめな話し声。

 

それが気になって眠れないわけではなかった。

 

昼間‥‥斎藤に言われた事が頭をぐるぐると回っていたのだ。

気にしないと割り切れば割り切るほど、まるで苛むように脳裏に色んな事が蘇る。

そうしては胸の奥にじりりと痛みが走り、は嫌な気分になる。

もう何も考えたくなんかないのに、まるできちんと目を向けろと言われているみたいだ。

 

「くそ」

 

は吐き捨て、地面に布を敷いただけの簡素な寝床からは立ち上がり、傍らの刀を手に陣を出る。

 

 

?」

 

その時、隊士達と話をしていたらしい原田に声を掛けられる。

「少し散歩してきます。」

何かを言及される前には言って、足早にその場を後にした。

 

 

さくさくと草を踏みしだき、は森を奥へと進む。

所々、葉の隙間より差し込む月光で灯りを手にしなくとも進む事が出来た。

は暫く進み、

ざ、

 

「‥‥」

 

その場に立ち止まる。

あたりに人の気配どころか獣の気配もないのを確かめると、

「なんだっていうのさ‥‥まったくもー」

自分の額に手を当て、ぐるぐると止まらない思考にうんざりと溜息を吐く。

頭の中が全く落ち着かない。

鬩ぎ合うような声があちこちから聞こえて煩いったらありゃしない。

 

「一のやつ‥‥」

恨み言でも言うように、彼女の心を引っ掻き回した仲間の名を口にする。

戦の前だというのに、余計な事を。

そのおかげで戦えなくなったらどうしてくれるというんだ。

 

「っていうか‥‥なんで今なのさ。」

 

ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き乱す。

 

なにもこんな時に言わなくたっていいだろうに。

せめてもう少し後‥‥この戦いに一段落ついてから言ってくれれば‥‥

そうしたらもう少しまともに考える事だって、

 

「‥‥」

 

は考え、頭を振った。

同じだな。

きっと、もう少し余裕のあるときだって‥‥同じ結果だ。

 

同じようにきっと悩んで、

同じように‥‥

 

「なかった事にする、だろうな。」

 

はそっと呟いた。

今も半分‥‥無かった事にしようとしている。

苛む声が煩いけれど、彼女に休息を与えてくれないけれど。

それでも、嫌だった。

 

彼ともう一度向き合うのは。

 

意地を張っている、というわけではない。

ただ、この距離が丁度いいとは思ったのだ。

多少、寂しいと思っても‥‥近付かない方がいいのだと。

近付けば彼を傷つける。

近付けば彼を苦しめる。

近付けば‥‥自分は‥‥

 

「‥‥」

 

はそっと首を振った。

斎藤の声が頭に木霊するせいだ。

余計な事を考えてしまう。

ふるふると頭を振って、はもう一度歩き出した。

更に、陣から離れるように。

 

「‥‥頭、冷やしたいなぁ。」

 

きんきんに冷えた川にでも頭を突っ込めば、ちょっとは思考が麻痺するんじゃないだろうか?

はそんな事を考えながらふらふらと森の奥へと向かっていき、

ふいに、

 

――

 

虫の音まで聞こえなくなっているのに気付いた。

それと同時に感じる、肌をちりりと刺すような、気。

前方からだ。

 

「‥‥」

はそっと腰に手を伸ばす。

いつでも抜刀できる状態で、足を止めるとにやりと笑みを浮かべた。

 

「いるんだろ?出てきなよ。」

 

挑発的な言葉に、森の奥からくすくすと耳につく笑い声が響いた。

 

「こんばんは、姉さん。」

出来れば二度と会いたくなかったその人の姿に‥‥しかし、は有り難いと心の中でだけ感謝を告げる。

 

これで、

余計な事を考えずに済む――

 

 

闇が這い出して、出てきたような。

そんな出で立ちの少年は、にこりと笑みを浮かべている。

こんばんわと気安く挨拶をするのは、彼女の愛する妹と同じ顔をしていた。

しかし、彼女とは違ってその表情には無邪気さはない。

無邪気に笑みを浮かべても、その奥には混沌とした闇が広がっているのをは感じた。

 

昔は‥‥こんなんじゃなかったのに。

 

は記憶を探り、自分の後をついてきた可愛い子供を思いだした。

そういえばあの時から、少しばかり暗い所があった気がする。

 

『男鬼だから』

 

頭の中で答えるような声があり、はそうかと呟いた。

雪村の血筋で‥‥鬼の血が濃いのは女鬼だけだった。

対して男鬼に濃い血が流れるのは風間家だったっけ。

それ故に、きっと両親に蔑ろにされてしまったのだろう。

そんな親には見えなかったけれど。

 

「何の用?」

 

は声を低くした。

同時に身体から殺気が溢れる。

眇めた琥珀の瞳には笑みが浮かんでいるが、そこには受け入れるような色はない。

 

それに薫は気付かないのだろうか。

 

「姉さんに会いに来たんだよ。」

 

薫は嬉しそうな顔で彼女を見た。

それは心底彼女を愛するような眼差しで、は少しばかり恐ろしいと思った。

 

「僕と一緒に行こう?」

「止まれ――

 

の鋭い声が口から発された。

剣呑とした眼差しになり、は鯉口を切った。

ぎらりと刃が月光に反射し、薫はその場に立ち止まる。

 

どうして?

 

と言いたげな瞳でこちらを見ていた。

 

「鬼は鬼と一緒にいた方がいいのに。」

「‥‥」

は首を緩く振る。

 

確かに、

鬼は鬼と一緒にいた方がいいのかもしれない。

ひっそりと身を隠した方が世の為になるのかもしれない。

こんな化け物が表舞台にいてはいけないのかも、しれない。

 

でも、

 

「私は行かない。」

 

はきっぱりと言った。

 

行けない、ではなく、行かないと。

自分の意志はここで、彼らと同行する事だと。

それをきっぱりと彼に告げた。

 

すると、薫は顔を歪め、一瞬にして憤怒の表情へと変わる。

 

「どうして!?」

 

今度は問いかけというより、非難に近い声で薫は言った。

 

「僕は、姉さんが大好きなのに!」

拒絶された事が悲しいのか、それとも悔しいのか。

彼は声を荒げる。

まるで自分の望み通りにならずに癇癪を起こす子供みたいだとは思った。

「姉さんも僕を捨てるの!?」

見開いた瞳に孤独を見る。

ああそうか、彼はずっと孤独だったのだ。

里を追われて、南雲家に引き取られてもずっと。

孤独で、悲しい日々を過ごしてきた。

南雲の人間は、彼が男鬼だと知って酷い仕打ちをしてきたのだろう。

 

『いらない子』

 

だと、そう、言われたのかも知れない。

 

そう言われ続けてきたのかもしれない。

 

「姉さんだけは違うと思ってたのに!」

「薫‥‥」

近付く彼には静かに止める。

「近付いたら斬るぞ。」

言うが彼は聞こえないらしく、距離を縮めてきた。

「薫。」

「なんでっ!?」

悲痛な叫びの応えは、

 

「‥‥」

 

無言の拒絶。

 

「っ‥‥」

薫の顔が歪んだ。

置いて行かれた子供みたいな‥‥ひどく心細そうな顔だった。

自分でも酷い事をしていると分かる。

彼に絶望を与えているというのは。

でも、

「‥‥私は行かない。」

はゆっくりと頭を振った。

もう、ここにいる事を迷わない。

 

「‥‥」

薫は暫くを縋るような顔で見つめ、

「‥‥っ!」

やがて顔を歪めて視線を伏せた。

 

さあ、と静かな風が二人の間を吹き抜ける。

は黙って、彼を見ていた。

彼が、ここを去ってくれるのを。

 

「‥‥どうせ‥‥」

俯いたまま、彼は虚ろな声で呟いた。

 

「‥‥あいつらは、いずれ、死ぬよ。」

 

最初、一体何を言われているのかと思った。

は眉を寄せ、なんのことだと問えば、薫は俯けた顔をゆっくりと上げる。

 

「あいつらは、いずれ‥‥」

「‥‥」

「死ぬんだよ?」

 

そうして、艶然とした笑みを浮かべた。

 

遠くない将来。

必ず死に絶える。

 

「羅刹の力の源はなんだと思う?」

「‥‥なに?」

何を馬鹿な事をと一蹴しようとして、問いかけには眉を寄せる。

 

羅刹の力の源。

それは何だろう?

あのすさまじい戦闘能力と回復力の源。

それは一体‥‥

 

「羅刹の力は‥‥奇跡の力だとでも思ってる?」

嘲笑うように薫は言った。

そんなはずはないと。

その言葉に、は僅かに嫌な物を感じた。

 

「‥‥なんなの?」

 

答えを求めるが、薫はどこか壊れたようにくすくすと笑っているだけだった。

 

「薫」

「姉さんでも知らない事があるんだね」

「薫、答えろ」

「僕は知ってるのに」

「薫!!」

 

は一気に距離を詰めた。

彼の思うつぼだと分かっていたが、それでも聞き流す事が出来なかった。

羅刹になった人間の顔が‥‥

彼の顔が、

脳裏を過ぎったから。

 

ぎり、とは彼の胸ぐらを掴み上げる。

掴まれたというのに、薫は何故か嬉しそうに目を細める。

 

そしてそっと、内緒話でもするように、教えてくれた。

 

「あいつらの‥‥命だよ。」

 

彼らの、

羅刹になった人間の、

命。

 

「いの、ち?」

そう、と彼は頷いた。

「あいつらは、自分の命を削って‥‥力を発揮しているんだ。」

何年、あるいは何十年と掛けて使われるはずだった命を、一瞬にして使っているのだと。

つまりは、

彼ら自身の寿命を、

彼らは羅刹になるたびに削っているのだと。

 

だから、

 

「あいつらは近くない将来、死ぬ。」

 

自分で自分の寿命を削って、

死にに急いでいるのだと。

 

――

 

の背筋をぞくりと寒いものが走った。

脳裏に、羅刹になった仲間の顔が次々と浮かんだ。

 

彼らは、

遠くない将来、

死ぬ。

 

羅刹になる度に。

残りの時間が、

短く――

 

「あいつらは、姉さんを置いていく。」

 

愕然とするを、薫は抱きしめた。

「姉さんをまたひとりぼっちにする。」

「‥‥」

「でも、僕はそんな事しないよ?」

身内に甘えるというのには、少しばかり熱の籠もった抱擁だった。

 

ねえ、

と耳に残る声が聞こえた。

 

「僕が‥‥姉さんにどんな想いを抱いていたか‥‥知ってる?」

 

千鶴と同じ顔で、だけど確かに男たる色を湛え、彼はの胸元に顔を埋めた。

胸当てを当てているおかげで直にその柔らかさを感じる事は出来ない。

 

「か‥‥おる‥‥?」

 

薫は、の細い鎖骨にそっと唇を寄せた。

 

「僕は、姉さんをずっと‥‥」

 

柔らかなそれが触れた瞬間、ぞくりと嫌悪に身体が震えた。

 

「っ!!」

瞬間、

 

 

 

!!」

鋭い声と、鋭い殺気が飛んでくる。

「ちっ!!」

薫が舌打ちをして一歩を引いた瞬間、

 

ざん、

 

と二人の間を裂くように白刃が一閃する。

「っ!?」

は突き飛ばされ、数歩たじろぐ。

それでも即座に体勢を整え、腰に手を伸ばした時、大きな手に肩を掴まれた。

「‥‥左之‥‥さん‥‥」

顔を上げ、の口からは掠れた声が漏れる。

 

原田は手に槍を持ち、の前へと出た。

彼女をその大きな身体で隠すようにして、

「てめえ‥‥やっぱりあの時邪魔しやがった‥‥」

千鶴と同じ顔立ちに、一瞬だけ顔を顰め、次の瞬間、鋭い眼差しで睨め付ける。

制札事件の折り、原田は薫と対面していた。

あの時はまさか千鶴が‥‥と思ったりもしたが、こうして会ってみると彼女ではないのがよく分かった。

というか、似ていると思った事自体申し訳ない。

千鶴は、

「‥‥」

こんな風に嫌な笑い方をしない。

 

「また、俺たちの邪魔でもしに来たのか?」

原田は槍を隙なく構えている。

邪魔をされた薫は心底不機嫌な顔で彼を一瞥し、

「‥‥そっちが僕の邪魔をしているんだよ。」

と答える。

「ほんと、あんたたちって鼻だけは利くよね?

さすが犬ってところかな。」

「そういうてめえは‥‥こそこそ隠れて女を追っかけ回すのが趣味らしいな?

ふられたんだから潔く手を引いた方がいいぜ。」

原田の言葉に薫はすいと目を細めた。

反論しようとして、肩を竦める。

それから、まあいいやと彼は呟いた。

「どうせ、いずれはあんたたち全員死ぬんだし‥‥

死んだ後に、誘いにくれば誰も邪魔しないもんね。」

「勝手に決めんな。

誰がてめえらごときにやられるか。」

「好きに言えば?」

くすくすと笑い、薫はくるっと背を向けた。

 

「あ、そうだ」

 

やってきた闇の方へと戻ろうとして、薫はわざとらしい声を上げる。

首だけを振り返り、彼はこちらを‥‥原田の背に庇われているだろうへと視線を向けて、言った。

 

「姉さんの大好きな千鶴も‥‥ちゃんと誘って置いてあげるからね。」

 

「ッ、待て!薫!!」

言葉に飛び出そうとしたを、原田が慌てて押さえる。

!」

「薫!それはどういうっ‥‥」

問いかけに彼は笑みを残しただけで、

 

静かに、

闇の中に消えた。

まるで、飲まれたようだった。

 

 

「‥‥‥」

気配が完全に無くなったのを見計らい、原田はを離す。

離されたは、よろめきながら、自分の足でしかと立った。

地面を睨み付け、くそ、と内心で吐き捨てる。

きっと薫は千鶴にも何か手を出すつもりだ。

彼女を苦しめるつもりだ。

何か手を‥‥と思っても、彼女の居所は分からない。

こちらへ向かっているのは確かだが‥‥

「早く‥‥」

合流してくれとは祈った。

 

?」

ぽんと肩を原田が叩く。

「‥‥大丈夫か?」

視線を上げれば気遣うような彼の表情が飛び込んでくる。

「はい‥‥」

は頷いた。

大丈夫と答え、笑みを浮かべる。

きっと信じてもらえないだろうけど、せめて、これ以上心配は掛けないように笑顔で、は頷いた。

「ごめんなさい‥‥見に来てくれたんですね。」

の帰りが遅かったから、心配になったのだろう。

「ありがとうございます。」

と頭を下げると、彼はなんとも複雑そうな顔で「いや」と言葉を濁した。

 

不意に、

は思った。

肩に置かれている大きな手。

暖かい、優しい、原田の手。

それをすごく心強いと思った。

 

けど、

 

何故だろう?

自分が待っていたのは‥‥その人の手ではなくて‥‥