その日の夜遅く、

の元に一通の手紙が届いた。

差出人は山崎だった。

 

「‥‥なんだろ?」

 

相当急いで届けてくれたらしい飛脚に礼を言い、は文を見てみた。

珍しくその宛名はだったのだ。

 

中を見れば、彼らしい丁寧な文字が並んでいる。

彼にしては珍しく、挨拶もそこそこに用件へと入っていた。

今日千鶴と共に彼女の家に戻ったところ、羅刹に関する情報を得た‥‥という始まりだ。

そして羅刹の発作を抑える薬が出来たので、それを土方や藤堂、山南にも渡して欲しいとの事だった。

なるほど、さすが蘭法医の娘。

はここにいたら「そんな事無いですよ」と謙遜する彼女を思い浮かべながら、早速同封されていた薬包

を手に、羅刹隊のいる大部屋へと向かうことにした。

 

 

「薬、ですか?」

 

怪訝そうな顔で山南が口を開く。

隣からひょこっと藤堂がの手元を覗き込む。

彼女の手には小さな薬包がいくつか乗せられていた。

 

「山崎さんから手紙で‥‥」

は掻い摘んで説明をする。

 

それを興味津々に聞いていた藤堂だが、相反して山南は興味が無さそうだった。

 

ひとしきり説明を聞くと、彼は首を振って「必要ない」と言ってのけた。

「薬になど頼らなくとも‥‥どうにかしてみせます。」

「でも‥‥

これで楽になるかもしれないんですよ?」

が言えば、山南は神経質そうな顔で、

 

「所詮、薬など‥‥一時凌ぎにしかなりませんよ。」

 

薬の効能でも知っているかのように言ってのけ、

「少し出掛けてきます」

と言い残してその場を去ってしまった。

 

「山南さん‥‥なんか変だよな。」

 

その後ろ姿を見送った藤堂がぽつりと呟く。

「変?」

訊ねれば彼が消えた方を見つめながら、

「なんか‥‥最近一人で良く出掛けてるみたいなんだ。」

と声を潜めて教えてくれた。

「オレがついていく‥‥って言ったも「必要ない」って言われてさ‥‥」

「‥‥」

「まあ、俺たちは羅刹隊だから夜に出歩くのは普通なんだけど‥‥」

でも、と藤堂は言う。

言いたい事が分かった。

 

「辻斬りの事?」

 

最近、江戸で勃発している辻斬りの事だろうか。

の言葉に藤堂はこくりと頷き、顔を顰めて呟く。

「山南さんを疑うわけじゃねーけど‥‥」

だけど、信じる事も出来ない‥‥と。

確かに彼の言いたい事はよく分かった。

 

その辻斬りにやられた人間は‥‥原型を留めないほど滅多切りにされていると聞く。

それは京にいたころ、羅刹隊が見回りの際に殺した人を‥‥同じようにしていたから。

人を。

まるで、玩具のように壊していたのと、

同じだったから。

 

まさか。

は彼が消えた方を睨み付けた。

彼の吸血衝動は酷くなっているのではないだろうか?

だから‥‥夜な夜な外に出て血を啜っているのではないだろうか?

そんな考えが頭を過ぎった。

「‥‥。」

藤堂に呼ばれ、彼女はふいっと頭を振った。

「決めつけるのは早いよ。」

自分に言い聞かすように言って、は僅かに笑みを向ける。

「もしかしたら本当に一人で巡察してるだけかもしんないし、さ。」

ね?と言えば、彼はそうだよなとその表情を明るくした。

 

それから彼はひょいとの手元から包みを一つ、頂戴する。

 

「平助?」

「オレはもらっておく。」

手にとって、彼は懐に入れてぽん、とその上から軽く叩いた。

「千鶴が折角作ってくれたんだし、な。」

「山崎さんも、だよ。」

の言葉に、あ、そうだったと彼は苦笑して、思い出したように口を開く。

 

「‥‥それ、土方さん所にも持っていくの?」

 

彼も羅刹の1人だ。

彼にも‥‥確かにこれは必要だろう。

 

「‥‥うん、一応。」

は曖昧に誤魔化す。

藤堂の様子を見ると、彼がに関する態度を知らないようだ。

持っていきたいのは山々だが‥‥斎藤に頼む羽目になるだろう。

とはいえ‥‥彼に必要かどうかは分からない。

それよりも彼に必要なのは急速だと思う。

 

「きついのはこれからだぜ。」

 

そう呟いたに、藤堂が苦々しげな顔でそんな事を言った。

「土方さんはまだ羅刹になったばっかで、吸血衝動は出てないみたいだから。」

「吸血衝動‥‥?」

鸚鵡返しに訊ねるに、彼は躊躇いがちに頷く。

 

「羅刹になるとな‥‥血を飲みたくて飲みたくて仕方なくなっちまうんだよ。」

 

その衝動は剣の稽古で思い切り叩かれるよりももっと苦しいものなのだと彼は言った。

いっそ‥‥

殺してくれと思うほどの苦しみなのだと。

「‥‥」

言葉にの顔が青ざめた。

「‥‥それ、どうにかできないの?」

抑える方法は?

「血を‥‥」

藤堂は躊躇いながら口にした。

「血を飲めば、嘘みたいに良くなっちまう。

でも、それはあくまでもその場凌ぎにすぎねえからな。」

時間が経つとまた、苦しくなると彼は言った。

「しかも、最初の頃は少しの血でよかったのに、そのうち、多くの血を飲まなきゃ落ち着かなくなってくるんだ。」

「‥‥」

ぞくりと、背中が寒くなった。

 

彼らにとっての血は、薬であり‥‥同時に毒でもあるということか。

そして、

飲まなければ精神を壊し、

飲まなくても、

精神を、壊す。

 

血を飲んで生きながらえれば‥‥

血を求め彷徨う、化け物となる。

 

いつか見た‥‥あの隊士達のように。

 

 

「まあでも、ほら、コレがあるし。」

藤堂はそう明るく言って、の手元を指さした。

「そう、だね」

は頷きながら、胸の奥に溜まる言いしれぬ不安に顔を歪めた。

 

 

 

とりあえず藤堂にはいくつかを預け、そしていくつかを手にし、は彼の部屋へと向かった。

夜遅く‥‥とはいえ、灯りの消える事のない部屋。

きっと今日も眠ってはいない多忙な男の元へ。

 

「土方さん?」

 

控えめに襖の外から呼んでみる。

外から見れば今日もやはり灯りがついていた。

これで眠っていたらどうしようかと思ったが、

「なんだ?」

やっぱり起きていた。

起きていた事に溜息を吐いて、失礼しますと断りを入れ、襖を開ける。

「‥‥」

土方は机に向かっていた。

一心不乱に何かを書き留めている男の横顔は‥‥少しばかり不気味である。

ぎろと、隈のある目で睨まれた。

「こんな時間に何の用だ?」

相変わらず、彼のぴりぴりとした空気にはため息を漏らす。

やっぱり自分がここに来るべきでは無かったと。

しかしここで引き返したら彼に失礼だ。

とりあえず用件を伝えた。

「や、ちょっと山崎さんから手紙が届いたので‥‥」

「どんな用件だ?」

「羅刹の‥‥吸血衝動を抑える薬が出来たから‥‥って、急いで飛脚を飛ばしてくれたみたいです。」

「そうか。

他には?」

「他にはなにも。」

は首を振る。

振りながら袂に仕舞い込んだ薬を取り出す。

「それが薬か?」

「はい。

さっき平助には渡してきました。」

と差し出すと、土方は薬包をじっと睨み付けてきた。

山南のように「薬など」と吐き捨てる事はないが、しかし、動こうとはしない。

「土方さん?」

彼は暫くそれを睨み付けた後、

「‥‥」

ふいっと視線を逸らして、また机へと向かってしまった。

勿論包みを一つも取る事はなく。

「土方さん」

「それは羅刹隊にくれてやれ。

あいつらの方が必要だろ。」

「土方さんの分は?」

と訊ねれば彼は視線をこちらに遣りもせずに答えた。

「俺には‥‥必要ねえ。」

「必要ないって‥‥そんな‥‥」

確かに彼は、山南や藤堂よりもずっと後に変若水を飲んだ。

いくらか改良はされている‥‥とはいえ、大元は同じである。

ならば吸血衝動はいずれ出るわけで。

藤堂も言っていた。

 

――今はまだ症状が出ていないが、いずれは苦しむ事になる――と。

 

その時彼はどうやってその苦しみを乗り越えるというのだろう。

 

「一つくらい持ってて下さいよ。」

「いらねぇって言ってんだろ。」

「かさばるものじゃないんですし。」

「しつこい、いらねえものはいらねえ。」

 

ぴしゃりと言って、後はもうこちらに視線さえ向けない。

はその場で唇を噛みしめた。

それならばとはその場に薬を置いていこうとしゃがみ込んだ瞬間、

 

「ぐっ、あ!」

 

低いうめき声が上がった。

 

「土方さん?」

 

声に顔を上げれば、男が胸を押さえてうずくまっている姿が見えた。

それが尋常ではないと分かったのは、苦しげなうめき声よりも、

 

「っ!?」

 

艶めく黒髪が、

真っ白に色が抜けていくのを見たからだった。

 

「‥‥ら‥‥せつ‥‥?」

 

苦しげにこちらを見上げるその目は、

血のような赤。

 

以前一度だけ目にしたことがある、羅刹たる土方の姿だ。

 

「っ!!」

 

今度の発作はいつもよりも強かった。

断続的な痛みが身体のあちこちを襲う。

呼吸する事さえ苦しいほどの喉の渇きに、咄嗟に茶を飲み干した、が、それは収まらない。

それどころかもっと酷くなって‥‥

 

「ぐ、う、ぁ‥‥」

口から情けないうめき声がもれた。

 

じわじわと蝕むように、意識を黒いものが覆っていく。

衝動に身体が突き動かされそうになり、押さえ込むように畳に爪を立てればそれを苛むように背骨のあたりに

びきりと、まるで骨を折られるかのような痛みが走った。

「がぁっ‥‥」

痛みにのたうち回る。

 

『いっそのこと、殺してくれ!!』

 

昔、血に飢えた隊士がそんな事を言ってのたうち回っていたのを思い出した。

ああなるほど、その気持ちはよく分かる。

体感してよく分かった。

 

「く、そがぁっ!」

 

伝う汗が畳へと落ちる。

熱はやがて悪寒へと変わっていく。

ずるずると暗い淵に何かが引きずり込もうとしているのが、何となく分かった。

少しでも理性を手放せば‥‥多分‥‥

 

堕ちると。

 

「土方さんっ!?」

 

の必死な声が聞こえ、風が動いた。

我に返った彼女が部屋に飛び込んできたのだと分かった。

 

その瞬間、

 

意識がずるりと這い出た気がした。

 

ほとんど反射のように、

 

「来るな!!」

 

突然――

空気を裂くような、鋭い声が響いた。

 

「っ!?」

 

動き出した足が縫い止められ、動かなくなる。

 

声を発した瞬間、痛みは増した。

 

「ぐっ!!」

 

こみ上げる痛みに、喉元を掻きむしりたい衝動に駆られる。

しかし、土方はそれを懸命に抑え、ぎろりと鋭い眼差しを彼女へと向けた。

 

「来るな‥‥」

 

もう一度、低く、呻くように言う。

 

その声は。

鋭い眼差しは。

彼女を拒絶していた。

 

全身で‥‥彼はを拒絶した。

 

来るな――と。

 

目の前が‥‥真っ暗になった。

 

本気で拒絶された瞬間、何も考えられなくなって、否、

何も考えたくなくて‥‥

 

「ぐっぅぁああ!」

 

しかし次の瞬間、彼のうめき声で引き戻される。

畳の上で身体を折り曲げて、苦痛に耐える男を見て、はもうほとんど反射的に足を踏み出していた。

 

っ‥‥」

来るなともう一度男は言う。

は耳を貸さなかった。

 

獣が呻くような声を上げ、土方は喉を押さえていた。

苦しげな細い呼吸を漏らし、その目は酷く飢えている。

 

血が欲しいのだと‥‥分かった。

 

『羅刹になると、

血が飲みたくてどうしようもなくなるんだ』

 

「‥‥‥」

 

は考える間もなく、

ちゃき、

自分の刀の、鯉口を切った。

 

「‥‥なにを‥‥」

 

苦しげに彼は訊ねた。

は応えず、完全に鞘から抜かずに刃が見えた所で静かに自分の腕を当て、

 

じり――

 

痛みに顔を顰める事さえせず、その皮膚を裂いた。

瞬間、

つうとその刃に沿って赤い血の線が出来上がる。

独特な血のにおいに、男の目が見開かれた。

 

「おまえ‥‥なに、して‥‥」

「飲んで。」

 

は腕を差し出す。

見ればもう傷跡は塞がりつつある。

だが、血は戻らない。

彼女の白い腕にとどまっていた。

「飲んだら‥‥少しは楽になるんでしょ?」

「‥‥っ」

土方は喉を鳴らし、視線を逸らした。

血を見ないようにしているのだろう。

でも、その目は、その血に反応していた。

 

血が欲しいと。

 

その目は確かに言っていた。

 

残酷だと思った。

彼に、血を啜る‥‥なんて化け物じみた真似をさせるなんて。

土方は誇り高き武人だ。

その彼を‥‥化け物に変えるなんて、残酷だと。

でも、

「‥‥飲んでくれるまで、何度だって斬りますよ。」

彼を苦しめたくはなかった。

その苦しみから解放してあげたかった。

 

生憎と自分は鬼だ。

傷ならいくらでも治る。

彼が飲むまで自分を傷つけることだって厭わない。

 

その言葉を聞いて、彼が否と言えない事を知っていて口にした。

 

「‥‥土方さん」

 

飲んで。

ともう一度言う。

 

「誰がっ」

断ると、土方は視線を逸らした。

額に脂汗が浮かんでいる。

苦痛のせいで顔が赤から青へと変わっていた。

浮き出た血管がひくひくと震えている。

これ以上は無理だとは分かった。

このままでは‥‥この男が壊れると。

 

「飲んで!」

 

は些か声を荒げ、その手を差し出す。

鼻面に出され、血のにおいに男の身体は震えた。

衝動的に伸びた手を強靱な理性で押しとどめて首を振る。

いやだと。

 

は唇を噛みしめた。

どうしてくれればこの男を納得させる事が出来るだろう?

方法を探した。

 

「もう、お節介焼かないから‥‥」

 

気がつくと、そんな言葉が零れた。

 

土方に必要なお節介も焼かない。

口うるさくも言わない。

それに、

 

「もう、近付いたりしないからっ‥‥」

 

彼がそう望むなら、近付かないから――

 

口にした瞬間、胸の奥がじわりと痛んだ。

溢れそうな何かを必死に押しとどめ、は必死に血を飲むように言った。

彼を苦しみから解放してあげたいと思った。

ただ一心だった。

 

「だからお願いっ‥‥」

 

情けなくも言葉が震えた。

 

「‥‥」

 

土方は一度を見上げる。

いつもは美しい紫紺の瞳は、獣じみた赤の色に染まっている。

それで彼女を見て‥‥

「っ」

一度、苦しげに細められる。

 

「わ、かった‥‥」

 

やがて、か細い声がその口から零れた。

絶望めいた声を漏らし、彼は震える指先をこちらへと伸ばしてきた。

 

安堵の溜息と共に、震えた吐息がの口から漏れる。

 

は目を閉じた。

血を啜っている姿など絶対に見られたくないだろうと思ったから。

 

「‥‥」

 

冷たい指先が触れ、一瞬だけ躊躇うように離れた。

しかし、次の瞬間にはしっかりと大きな手に掴まれる。

 

土方はちらと視線を上にやり、がしかと目を閉じているのを確認すると、やがて、

「っ」

赤い血に舌先を這わせた。

その瞬間、

ぞくりと背中を震えが走った。

嫌悪ではない。

それは、歓喜だった。

 

他人の血がこれほどに美味だとは思わなかった。

 

いやこれも、自分が人ではないから思うのだろう。

 

「ん‥‥」

一閃した傷跡をなぞるように舌先を上へと這わせる。

口腔を満たす錆びた味は彼女の香りと同じで‥‥甘さがあった。

どこか、人の思考を蕩けさせるような甘さが、痛みを薄れさせてくれる。

狂おしいほどの飢えが‥‥血の一滴を飲み込むごとに消えていくのが分かった。

 

ごくりと喉をそれが越す度に、全身を快楽が走る。

それはまるで、絶頂に上り詰める感覚に似ていた。

 

「‥‥は‥‥」

 

やがて衣擦れの音と共に、温もりが離れる。

は漸く目を開けた。

目の前には常と同じ土方の姿があった。

 

「悪かった‥‥」

 

視線を背けたままの土方がぽつりと謝罪の言葉を口にした。

 

もまた、視線を逸らして、

 

「こちらこそ、すいませんでした。」

 

それだけを言うと、は部屋を飛びだした。

 

 

――その行為は、彼のためにした事だった。

彼を苦しみから解放するためだけだったはずだ――

 

なのに、彼に触れられた場所が熱を持ち‥‥

舌が這ったその皮膚の下はざわついて、疼いて‥‥

 

「‥‥っ‥‥」

 

そんな自分を‥‥恥じた。