材料が切れた所で、空が茜色に染まっている事に気付いた。

「そろそろ戻ろう。」

暗くなると危険だと促され、千鶴は袂に懐紙に包んだ薬包を忍ばせた。

 

千鶴は江戸の離れにある自分の家へ、山崎と共にやってきていた。

思い立ってすぐに‥‥というわけにもいかず、その間も沖田は熱と痛みに苦しむ毎日を送っていた。

一刻も早く、と思ったが、彼女1人では外に出すことは出来ない。

山崎の手が空くのを待って、ようやく二日が経った今日、家に戻ってくることが出来た。

家には誰も出入りした形跡はなく、埃まみれの有様だった。

その中、2人は綱道の資料を漁り‥‥古びた本に挟まれた紙切れを見つけた。

 

そこには、とある薬の調合法が書かれていた。

 

羅刹の吸血衝動を抑える薬‥‥らしい。

 

彼の残した紙切れ一枚程度のそれには、

羅刹がどのようなものか‥‥ということと、隣にまるで殴り書きでもするように処方薬の作成法が書かれていた。

羅刹については千鶴達が聞きかじった事がそのまま書かれていて、目新しい情報はなかった。

その薬がどういった作用で吸血衝動を抑えるのかはとうとう分からないままだった。

勿論、その薬が本当に効くかどうかもだ。

しかし、何もしないよりはずっとましという事で、二人は残った材料を使って薬をいくつか作ってみた。

千鶴は戸を締めながらそうだと口を開いた。

 

「山崎さん、医学の知識がおありなんですね。」

それは先ほど、薬を調合する千鶴をてきぱきと手伝っていた彼の様子を見て分かった事だった。

普通の人ならば知らないような薬草の名を口にしても、彼は迷わず千鶴の望んだものを持ってきた。

きっと彼は医学の知識があるのだろう。

そう言うと、彼は少しと返事をした。

「松本先生にも医術について教えてもらっている。

今後、何かの役に立つだろう?」

「‥‥すごい、ですね‥‥」

千鶴は気がつくとそんな事を口にしていた。

すごい、と言われ彼は不思議そうな顔でこちらを見た。

何故そう言われるのか分からない‥‥と言った顔だったので、千鶴はぼそぼそと思った事を口にしてみた。

「だって‥‥山崎さん、剣の腕だってたちますし」

当たり前なのかもしれないが、武器の扱いだって長けているし、同行している最中見聞きした事だが、色んな

知識を持っている。

例えば食べられる草、食べられない草。

毒になるもの、ならないもの。

あるいは、真水の清め方‥‥など色々だ。

千鶴はその度に感心していたというのに、おまけに医学知識なんて。

この人はどこまで己を高めようとするのだろう。

 

そう言えば、彼は僅かに苦笑を漏らした。

 

「いや、俺など、剣の腕で言えば大した事はない。」

 

「え?そ、そうなんですか?」

 

驚いたように声を上げる彼女に、ああそうだと山崎は頷いた。

決して卑下するわけでもなく、事実をありのままに認めて。

「剣の腕では到底、幹部の誰にも敵わない。」

「そう、なんですか‥‥」

千鶴から見れば山崎も他の幹部も同じように見える。

勿論、沖田みたいに化け物じみた強さを持っている人間が同じようには見えないが‥‥それでも、皆同じよう

な強さなのだと思っていた。

山崎は首を振ってみせる。

「永倉さんは18で本目録を授かるほどの腕の持ち主で、原田さんは種田流の免許皆伝の腕前だ。」

「す、すごい‥‥」

少しばかり、護身用ではあるが剣術を囓っていた千鶴はひとえにその言葉しか出てこない。

「免許皆伝などしていなくても、藤堂さんの腕前も‥‥それに、斎藤さんの居合いの腕前も知っているだろう?」

こくんと千鶴は頷いた。

藤堂が戦っている所はあまり見た事がないが、彼も若いながらに幹部をしているくらいだ。

だから、他の人間にひけを取らないくらいに強いはず。

そうか‥‥その中に自分はいたのだと考えると、すごい人たちと知り合ったものだと今更ながらに思う。

 

それに、

と山崎の声の調子が少し変わった。

 

「‥‥さんは‥‥」

は。

「あの人は、まともな剣術を教わっていない。」

「え?」

それには驚いた。

思わず大きな声が出るが、山崎は顔を顰めたりはしなかった。

 

が剣術を習っていなかった?

誰にも教えられた事がないのに、あれほどの強さを誇っているというのか。

確かにあの流れる、繊細な動きは他とはちょっと違う。

彼女の場合は戦っているというよりも、舞っているというのが似合う。

 

「以前、さんに聞いてみたんだが‥‥我流だと笑って教えてくれた。」

「‥‥」

「その我流のあの人にも、俺は敵わない。」

きっと足下にも及ばないなと彼は呟いた。

「剣の腕もそうだが‥‥あの人の、聡明さにはいつも驚かされる。」

の判断や、行動は、いつだって最善のものだった。

いつだって新選組の事を一番に考えるけど‥‥同時に被害を最小に抑える事も出来た。

そして、

 

それを迷わずにやってのけた。

 

どんな非道な事であろうと、新選組の為とあらば、彼女は手を下した。

自らの手が血で汚れようと構わず、彼女は茨の道を歩き続けた。

表舞台を近藤たちに任せる一方、彼女は裏舞台で暗躍し続けた。

闇の中を、一人で‥‥

 

『適材適所というやつだよ」

 

誰かが辛くないのかとに訊ねた事があった。

そうすると彼女は、あっさりと笑ってそう言った。

 

当たり前のように、自分の役目を受け入れていた。

 

苦しいと彼女が言ったのを聞いた事がない。

辛いと彼女が弱音を零したのを見た事はない。

どれほどに苦しく、辛い情況下にあっても、彼女は弱い自分を見せた事はなかった。

 

強い人だと、山崎は今でも思っている。

 

強く、

でも同時にひどく、

優しい人だと。

 

――あの人にそっくりだと。

 

「多分俺は‥‥」

敵わないだろうなと、彼は小さく呟いた。

 

武人としても、

人としても、

には敵わないと彼は思った。

 

ふわりと少しだけ冷たい風に吹かれ、山崎の短い髪が揺れる。

その横顔は、ひどく寂しそうに見えた。

 

 

「そんな事‥‥ないですよ。」

千鶴は気がつくと、そんな事を口にしていた。

山崎が視線を向けるが、彼女は視線を足下の、長い自分の影へと向けていて気付かない。

ただ、優しい横顔が彼には見えた。

さんは‥‥確かにお強い方で、素敵な方です。」

彼女は自分の憧れだった。

昔から、それからこれからも。

あの人のようになりたい、あの人のようであればと何度も思った。

でも、それは違うと千鶴は知った。

 

「でも、山崎さんには山崎さんの良いところがあるんです。」

 

千鶴にある、千鶴だけのいいところのように。

彼にも、彼にしかない良いところがある。

 

「山崎さんにしか出来ない事だっていっぱいあるんです。」

 

ただ、自分が気付かないだけ。

それだけなのだ。

 

決して彼がそんな自分を恥じているわけではないのは分かっていた。

だから、千鶴みたいにこんな言葉で自分を励まさなくても大丈夫だって。

でも、それでも千鶴は言いたかった。

 

「山崎さんには、山崎さんだけの何かがあるんです。」

 

それはちっぽけかもしれないが、自分にあった自分だけのものと同じで。

彼にだって、何かが、ある。

 

「雪村君‥‥」

「きっと‥‥」

呼ばれて千鶴は顔を上げた。

そして、目元をほころばせて笑う。

 

さんも同じ事を仰いますよ。」

 

その顔が‥‥かつで彼と共に駆けていた尊敬すべき人と被る。

 

何故だろう。

と千鶴は全然違う人間なのに。

外見も中身も‥‥どこもかしこも違う人間なのに。

 

「‥‥似ているな。」

 

山崎は思った。

なにがと視線を上げると、彼は前を見たまま口元を歪めた。

 

「君に」

 

笑ったのだ。

 

さんと君は、少し似ている。」

 

ほとんど衝動的に感じた事だったのに、

ふと、二人を照らし合わせて似ている所が一つあったのだと思い出す。

 

「ただの1人を信じ抜いて、どこまでもついていく。」

 

土方の傍にあり続けると。

沖田の傍にあり続ける千鶴。

 

「その一途さは、そっくりだ。」

 

彼は笑った。

 

自分は、彼女のように強くはないけれど。

彼女のように役に立てているかは分からないけれど。

 

でも、

 

千鶴はそんな言葉に、そっと目を細めて、微笑んで言った。

 

「‥‥姉妹ですから。」

 

血が、確かに繋がっているのだと。

そんな事実に嬉しく思いながら、千鶴は言葉にした。

 

それに彼は一瞬目をまん丸くした。

 

 

――その瞬間だった。

 

 

ちりと焼け付くような殺気と、風を感じた。

「っぐ!?」

山崎がそれに反応をするよりも前に、衝撃が彼を襲った。

千鶴が目視できたのは何もなかった。

ただ、次の瞬間、山崎の身体が壁に叩きつけられ、

「山崎さん!?」

ぐらりと地に伏せる。

「山崎さん!!」

慌てて駆け寄る彼女を遮るように、

「っ!?」

黒い影が立ち塞がった。

 

にんまりと‥‥口元をいつものように歪めた、同じ顔とは思えないそれが目の前にあった。

 

「か‥‥おる‥‥」

瞬間、千鶴の口から憎々しげにその名が紡がれた。

 

突きつけられた憎しみに彼は嬉しそうな顔で笑いながら言う。

 

「やあ千鶴。元気そうでなによりだよ。」

「何‥‥しに来たの‥‥」

警戒の色を強くして問えば、彼は薄く笑みを浮かべたまま言った。

「決まってるじゃないか。

可愛い妹の顔を見に来たんだよ。」

「‥‥」

やはり三度目‥‥ともなると千鶴もそう簡単には信用しないらしい。

警戒心むき出しの彼女に、漸く学習したねと薫は笑い、とりあえず距離は詰めないようにして口を開いた。

 

「なに、もしかして怒ってる?

俺がそいつの事殴ったから。」

倒れたままの山崎を指さし、仕方ないじゃないかと肩を竦めた。

「俺は大好きな妹と二人きりで話したかったんだ。

邪魔だから帰れって言ったところで、そいつわかってくれなさそうだし。」

「‥‥」

確かに、薫に帰れと言われても山崎は帰らなかっただろう。

それはわかってはいるが、

「なにも殴らなくてもいいと思う」

固い声で言えば、薫はじゃあ殺せば良かったかな?と笑った。

無言で睨み付けると彼は肩をもう一度竦めて、ところで、と話題を変えた。

 

「沖田の様子はどう?

そろそろ‥‥死んだかな?」

 

楽しげな響きを持ったその言葉に千鶴は噛みつくような声を上げた。

「やめて!!」

瞳には明らかな怒りを湛えている。

薫はくすくすとますます楽しげに笑った。

彼女の怒りを心地よく感じるかのように目を細めて。

「まあ、羅刹だから生きてるよね?

死にたいくらい苦しいと思うけど‥‥」

「薫!」

繰り返し千鶴が声を荒げると、今度はその表情に無邪気な笑みを浮かべた。

 

「かわいそうな沖田は遠くないうちに血だけを求めて化け物になるよ。」

 

薫は千鶴の心を荒立てるかのような言葉を選んで口にする。

「そんなことない!!」

まんまとそれに填り、千鶴は声を上げた。

発作を抑える薬があると心の中で告げれば、彼は千鶴とそれから彼女の家とを見て「ああ」と小さく納得した

ような声を上げた。

「もしかして、綱道おじさんの資料とか見た?」

彼は満面の笑みを浮かべたまま、千鶴の希望を打ち砕こうとした。

「あの薬は短時間しか効かないし、ひどい発作は抑えられないよ?」

「っ‥‥」

その瞬間、千鶴の口から悲鳴じみた声が漏れかける。

それを咄嗟に堪え、彼女は唇を噛んだ。

苦渋の表情に、薫は酷薄な笑みを深くした。

「銃撃された傷が治らなければ‥‥どんどん体力が減っていくよね。」

「‥‥」

「その体力が尽きたら‥‥」

残念ながら、と彼は茶化した。

「沖田とはお別れだ。」

ひら、と手を振って彼は笑った。

 

確かに彼は生き続けるかもしれない。

だが、中身は空っぽの‥‥化け物になる。

 

薫はそう言った。

 

そんな事にはならない。

絶対に沖田はそんなことにはならない。

絶対に。

 

そう心の中で呟きながら、しかし、千鶴の中には漠然とした不安が渦巻いていた。

 

千鶴は奥歯を噛みしめる。

彼の言葉を信じて、何度も馬鹿を見たけれど、それでも千鶴にはその言葉を嘘だと決めつけるだけの知識がない。

多分、千鶴よりも薫の方が羅刹については詳しいのだろう。

彼が薬を持っていた事からしてもそれは分かった。

 

自分は正しいのか。

彼は間違っているのか。

 

分からなくなってくる。

 

「沖田を助ける方法‥‥教えてあげようか?」

 

ぐるぐると考え続ける千鶴の耳元で、そっと、囁くような声が聞こえる。

「っ!?」

驚いて顔を上げれば、すぐそばに薫の顔があった。

自分と同じ‥‥だけど、自分よりもずっと妖艶で‥‥同時に何か、危うげな顔が。

 

「鬼の血を与えればいんだよ。」

 

「‥‥え?」

 

 

千鶴は驚きの声を漏らす。

どういう事かと視線だけで訊ねると、彼はあっさりと教えてくれた。

 

普通の人間の血を与えても、狂う精神を止めることは出来ない。

でも、鬼の血ならば違う‥‥と彼は言う。

 

「純粋な鬼の血を与えれば‥‥効果も強い‥‥」

つまりそれは、

「私の血を、沖田さんに‥‥?」

そうすれば彼は狂わずにいられるというのか‥‥

 

そう訊ねると彼は子供を褒めるような口調で「正解だよ」と笑った。

 

「俺たち鬼は血に狂わないだろ。

でも、怪我が治るのは早い。」

 

まがいものの羅刹に血を与えれば、その力を分けてやれるというわけだと。

 

「‥‥」

 

血を。

血を飲ませる?

 

千鶴は眉を顰めた。

 

かつて血を求めて襲いかかってきた隊士や、恐ろしい形相の山南を思い出したのだ。

特に自分の血を床に這ってまで啜っていた隊士を思い出して、背中が震える。

あれはどう考えても、血によって元に戻ったとは思えない。

むしろ‥‥

 

「‥‥信じるか信じないかは、好きにすればいいよ。」

無言で探るような視線だった千鶴に、薫は目を眇めて吐き捨てた。

まるで自分の言う事を信じない彼女が気にくわないと言いたげに。

 

「まあ、沖田が苦しむ姿を見たければ‥‥」

 

くるりと背を向けた彼は振り返りもせずに残酷な言葉を口にした。

 

「薬を飲ませればいいんじゃない?」

 

そんな残酷な事をするなら、やっぱり兄妹だよと彼は笑って、

消えた――