身体の中を別の物が蠢いているのが分かった。
それは意志を持ち、
自分を蝕んでいく事が。
あの、赤いものが、
自分を取って食おうとしているのが。
抗えば抗うほど‥‥
飢えは酷くなり、叫びたいほどの痛みと衝動が身体を襲う。
ほんの一滴。
それだけでいいから喉の渇きを潤したかった。
「大丈夫ですか?」
と心配そうに問いかけるその人の、
白い首筋が目に飛び込んでくる。
あの柔らかい肌の下。
流れる血はどんな味がするのだろう?
その香りと同じく、
甘いのだろうか?
飢えが理性を蝕む。
乾きを潤せと。
血を、欲せ、と。
しかし、
その一滴のために‥‥
彼女を傷つける事は出来なかった。
そうすればそうするだけ、
身体は蝕まれていくというのに。
でも、
傷つけたくなくて――
狂いたく、なくて――

1
どうして今まで気付かなかったんだろう。
千鶴は今更ながらに自分の間抜けさを呪った。
変若水の研究をしていたのは自分の父、綱道だということは知っていた。
なんて恐ろしいものを作り出したんだろうと恐れ、自責の念に駆られてばかりで、気づけなかったけれど‥‥
羅刹の研究をしていた、というのならば絶対に抗体というものも作り出しているに違いない。
そして今更ながらに彼は蘭法医だったのだと思い出す。
思い出して、
「家に何か手がかりがあるかもしれない。」
千鶴は思い立ったように立ち上がった。
千鶴と沖田は、新選組を離れ、松本が用意した隠れ家に身を寄せる事となった。
当初は寝たきりの状態で、沖田のそばを片時も離れられない状態であったが、辛抱強く介抱を続けたおかげか
少しずつ回復へと向かっていった。
とはいえ、まだ予断を許さない状態だ。
沖田は毎日床についたままで、時折「暇だなー」と愚痴を零していた。
回復に向かうにつれて千鶴の心の中に、一つの不安が生まれた。
それは羅刹としての彼の事だった。
羅刹は、昼日中に動く事が出来ない。
それの影響か、沖田はほとんど昼間には目を覚ます事は無くなっていた。
その分夜になると目が冴えるようで、山崎が夜中に隠れて起きあがっていそうで不安だと零していた。
驚異的な回復力も、羅刹としての能力なのだろう。
それは有り難いことだったけれど‥‥でも、
羅刹は、
血を求める生き物だと千鶴は知っていた。
初めて新選組に出会ったとき、
それから、屯所で千鶴を襲った隊士も、
山南にも。
‥‥血を求めた。
沖田はまだ吸血衝動は出ていないが、彼もいつ、血を求め始めるか分からない。
それに‥‥血を求めた時、千鶴にはどうすればいいのか分からなかった。
与えればいいのか。
堪えさせればいいのか。
そして、その結果がどうなるのか。
千鶴にはさっぱり分からなかった。
彼に血を与える事に抵抗はない。
むしろ自分の血で彼の役に立てるのならばそれ以上嬉しい事はない。
この身で彼の役に立てるのならば何だってしてあげたいと思う。
でも‥‥その行為の先に何が待っているのか分からない。
「もっと、私に知識があれば‥‥」
何が蘭方医の娘だと彼女は悔しげに唇を噛む。
変若水は父の研究したものだというのに。
もう少し、父親のやる事を見ていれば、知識を囓っていれば。
そんな事を考えているとき、ふと、閃いたのだった。
ここが江戸で。
彼女の家は、
そう遠くはない所にあったのだと。
千鶴達が隊を離れ、数日が経った。
戦況は相変わらず思わしくなく、まだ、近藤も戻ってこない。
宙ぶらりんで不安と不満ばかりが募る中、今日も今日とて土方はあちこち奔走している。
は届いた書簡などを整理し、一人、彼の戻りを待っていると、広間に藤堂が現れた。
「よ、平助。」
おはようと、は手を挙げて挨拶をする。
「あれ、一人?」
土方さんは?と出会い頭に質問され、は苦笑した。
「お出かけ。」
「そっか。」
藤堂は呟き、彼女の隣に腰を下ろした。
今日は夜の見回りはないのだろうか‥‥随分とゆっくりしている。
「腹減ったぁ‥‥」
「起きてすぐにそれ?」
ぐぅと腹を鳴らし、藤堂は空腹を訴える。
はくすくすと笑い、丁度用意してあった膳を一つ‥‥彼へと差し出した。
膳の上には少し冷えてしまったが、今晩の夕飯が乗っていた。
「お!?いいのか?」
差し出され、藤堂は目を輝かせる。
いいのか?と聞きながらもうちゃっかり箸を手にしているあたり‥‥彼は本当に憎めない男だと思う。
「どうぞ」
に笑顔で促され、いっただきますと声を上げるが早いか、飯をかっ込んだ。
因みにもう一つ、その向こうにおいてある手つかずの膳は土方の、だ。
そして、藤堂が今まさに平らげようとしているのはの。
本当は‥‥彼が戻ってきたら一緒に食べようと思っていたのだ。
ここ数日、彼は遅くに帰ってくる事が多くて‥‥一人だとろくに食事も取らないと斎藤が零していたのを知って
いたから。
それなら一緒に食べようと言えば、否が応でも一口くらい箸を付けるだろうと思っていたから。
まあ、後で握り飯くらい作って、一緒に食べようと誘えばいいか。
は一人そう考え、そうしたらきっと土方が「もっと食え」とか言いながらおかずなんかを寄越してきそうだ
と想像して、一人笑った。
「そういや、土方さんさ‥‥」
かりこりと白菜の漬け物を囓りながら呟く彼に、は耳を傾ける。
「その‥‥最近調子、どう?」
「どうって‥‥いつもの通り。」
はひょいと肩を竦めた。
無理して毎晩走り回っている。
お偉いさん方は相変わらずの逃げ腰で‥‥隊士達には不安が広まっていて‥‥町はぎすぎすして。
間に立っている土方はさぞ大変だろうとは思った。
「大丈夫なのか?」
「多分ね。」
くしゃりと顔を歪めた。
心配は心配だが‥‥こればっかりは自分が代わってあげることができない。
局長不在の今、彼の穴を埋められるのは土方だけだ。
所詮自分は彼の補佐をする事しかできないのだと、は自分の無力さに歯がゆい思いだった。
しかし、
「ああしてると楽なんだと思うよ。」
は思う。
彼は走り回っている方が楽なんだと思う。
はっきり言って、楽そうには見えないくらい彼は疲弊しきっているけど‥‥ただ邸で待っているよりは、苦しく
ても何かをしている方が楽なんだと思う。
余計な事を考えずに済むし、何より、
「近藤さんが戻ってきたときの事を考えると‥‥さ。」
ぽつとは呟いた。
彼が戻ってきたときに、より戦いやすい状況にあれば‥‥
彼を勝たせてあげる事が出来る。
どこまでも彼を高いところに連れていってあげられる。
それを考えるだけで、土方は楽しいのだと思う。
そのための布石を打っているのだ。
それを考えてはくすくすと笑った。
「ほんと、土方さんって、近藤さん一番だよねぇ。」
他人事のように呟く彼女に、藤堂は呆れたような顔で言う。
「そういうだってそうだろ?」
言われては、
「そう、だね。」
なんだか不思議な顔で、曖昧に笑った。
「あ、土方さん。」
あっという間に膳を平らげ藤堂が箸を置いた頃、廊下に重たい足取りが聞こえてきて、襖が開いてその人が戻
ってきた。
のっそりと入ってきた彼は、二人を見ると顔を顰めた。
「なんだ‥‥まだ起きてやがったのか。」
何時だと思ってんだ?
と厳しい顔をされて、は思わず反論に口を開く。
「それ、土方さんに言われたくないですよ。」
彼こそ何時だと思ってるんだ。
こんな時間に供も連れずに一人歩き‥‥なんて「何を考えてるんだ」と言ってやりたい。
「‥‥」
反論に眉を寄せて疲れた溜息を零すと、もういいと話題をうち切る。
そのまま部屋を横切り、どっかと、腰を下ろした。
疲れの色を濃くする顔は、青い。
「土方さん?」
大丈夫ですか?と気遣うような視線に、土方は顔を手で覆った。
平気だとその下から声が返ってきたが、お世辞にも平気とは思えなかった。
ここ数日の激務と‥‥そして単純に栄養不足だとは思う。
ず、と彼の前に膳を押す。
寄せられ、彼は顔を顰め、
「いい」
短く拒否。
お茶だけを飲んで済まそうとするので、はすうと半眼になり睨み付けた。
「駄目です。
ちゃんと食べてください。」
「いらねぇって言ってんだろ‥‥
腹がいっぱいなんだよ」
「嘘ばっかり。
腹一杯食べてる人間がなんでそんな頬痩けてるんですか?」
痛いところを突かれる。
土方はうるせえなと煩わしげにこちらを睨み付けてくる。
疲れ、苛立った顔はそりゃ迫力満点で‥‥それを目の当たりにすれば羅刹隊も裸足で逃げるほどの迫力だ。
実際、藤堂は背中が寒くなり、その場を去りたくなった。
しかし、はそれがどうしたとこちらも視線を鋭くして、
「食べないと‥‥筋力落ちますよ。」
「大丈夫だ。」
「大丈夫なわけないでしょうが。」
「なんでてめぇに分かるんだよ。」
「当たり前じゃないですか。」
と言いは膝立ちになって彼との距離を詰めようとする。
瞬間、
「‥‥」
ちりと肌を刺すような、
張り詰めた空気が充満する。
それを発したのは土方で、彼は先ほどよりももっと強く鋭い眼差しで床を見つめていた。
正しくは‥‥彼女の足下だ。
あ、また。
はここ最近になって何度か感じたそれに気づく。
ちりちりと肌を刺す居心地の悪い空気に、藤堂は怪訝そうな顔で2人を見守っていた。
やがて、
「‥‥」
は動くのをやめ、座り直した。
その代わり、
「いざって時に刀を持つ力も残ってないなんて事になったら、笑い飛ばして後世まで語り継いでやりますから
ね。」
それでもいいんですか?
と些か辛辣な言葉を投げかけらた。
「‥‥わぁったよ!」
言葉に土方は乱暴に膳を引き寄せ、自棄くそ気味に飯を掻き込んだ。
良かった。
食べ物を口にする力はあるらしい。
はほっとした。
ほっとしたのはつかの間‥‥胸の奥には言いしれぬ黒い物がぐるぐると渦巻いている。
渦巻いてはいるが、彼女は口にすることはなかった。
「」
ふいに襖の外から斎藤の声が聞こえてきた。
続いて控えめにそれが開き、僅かな隙間から彼はこちらを見て、
「副長、おかえりでしたか。」
頭をぺこりと下げた。
土方はおお、と短く声を上げる。
そんな彼が久しぶりにまともな食事を採っている事に僅かに表情を緩めた斎藤は、すぐにへと視線を向けた。
「少し、頼めるか?」
「なに?」
はすっと立ち上がると彼の方へと近づいていった。
その際、傍らに置いていた刀を持っていくのを忘れない。
ここ数日、邸の周りをうろちょろしている不審人物がいるのだが、それが恐ろしく逃げ足の速い人間なのだと
斎藤は告げた。
足の速さではに敵う人間はいない。
ということで、彼女にしばらく見張っていてもらえまいかという事だ。
「了解。」
はこくりと頷くと、腰に刀を差して、くるっと振り返った。
「ちょっと出かけてくるけど‥‥」
瞬間、明らかに土方がほっとしたような顔をして、は笑顔を浮かべる。
「悪いけど平助。土方さん見張ってて?」
「え?」
「最後まで食べなかったらぶん殴っていいから。」
こともなげに言ってのける彼女に、藤堂は思いっきり顔を顰めて反論する。
「それが出来んのは、この世でおまえと総司だけだと思う。」
確かに。
は心の中で応え、じゃあ頑張れと言い残して、静かに出て行った。
「ったく‥‥」
がいなくなるや土方は悪態を吐いた。
箸で漬け物を突きながら、行儀悪く胡座を掻いた自分の腿に肘をつく。
そこの手に顎を乗せて、
「口うるせぇやつだ」
と吐き捨てた。
「まるで土方さんの母親みてえ‥‥」
藤堂の苦笑に、土方はあんなのは御免だと答える。
「あいつ、今まであんなに口うるさかったっけ?」
「そいつは多分‥‥」
土方は眉を寄せ、ごくっとお茶で飲み下し、口を開く。
「千鶴に似てきた。」
そう、千鶴に似てきたのだ。
今までは心配をしてもどこか当人の意志に任せるといった割り切った所があった気がするが‥‥今では当人が
「大丈夫」と言っても、お節介を焼いてくるようになった。
千鶴も「大丈夫」だと当人が言っても心配そうな顔で何度も「大丈夫ですか?」と言っていた気がする。
労咳だから近寄るなと何度言っても沖田の世話を甲斐甲斐しく世話を焼いていた所を見ても‥‥彼女がいかに
お節介だったか分かる。
ただ、千鶴と違って、はやや強引で、心配をされる方としては堪らない。
寝不足だと気付かれれば頭を殴ってでも寝かしつけかねない。
「っはは、なるほど!」
藤堂は笑った。
対して、土方は忌々しげに顔を歪めている。
「なんだってあんな急にお節介になりやがったんだ‥‥」
「そりゃ‥‥」
土方さんが無理をしてるからだと藤堂は心の中でだけ答える。
江戸にやってきてから明らかに彼の負担は増えた。
それこそ毎日、寝ずに仕事をしないと追いつかないほどで‥‥そればかりか彼の身体の事も心配なのだろう。
彼は、羅刹だ。
羅刹となった身に、昼の日差しは辛いはずだ。
だけど彼はそんなこと関係ないとばかりに昼も、それから夜も休むことなく働き続けた。
それはでなくても心配になるというものだ。
まあ、土方に何かを言った所で「放っておけ」と一蹴されるばかりで‥‥
そんな彼に多少強引になれるのがだと言う事だろう。
しかし、
「‥‥」
土方はそっと目を細めた。
僅かな焦りと苛立ちの色を浮かべた瞳。
その奥に‥‥
飢えた色があった。

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