8
「諦めて良いと、誰が許した。」
怒りを孕んだ声がの耳に届く。
それは幻聴だろうか?
最期に声が聞きたいと思っていた自分の、都合のいい夢だろうか?
は目を閉じたまま、そんな事を思った。
「――死んでいいなんて、誰が許した。」
声はもう一度聞こえた。
幻ではない。
この声は‥‥
「‥‥」
風間は煩わしげに振り返る。
そこに、男の姿があった。
瞳に鋭い殺気を湛え、いつも以上に怖い顔をした、その人の姿。
「ひじかた‥‥さん‥‥」
掠れた声がの口から漏れる。
嘘、と言えば、彼は憤怒の表情を浮かべて風のように走った。
「いつまで乗ってやがるんだ!」
ざんっと早い一撃に、風間は飛び退く。
は慌てて上体を起こした。
土方はそんなを守るように、彼女の前に立つ。
赤い彼女の首元を見て顔を顰める。
「平気か?」
訊ねられ、は首を押さえる。
赤く染まってはいるものの、もう傷は無くなっていた。
は傷口を隠すように手を当てたまま首を縦に振る。
それを見ると、僅かに土方の表情が和らいだ。
すぐに、
その瞳は鋭いものへと変わり、鬼を睨み付けた。
「くそっ、嫌な予感が的中しやがったか。」
「人間が‥‥俺の邪魔をするか。」
良いところを邪魔された風間はひどく苛立った様子で呟く。
しかし、苛立っているというのは土方とて同じだ。
自分の部下に、狼藉を働いた。
そればかりか、
「源さんはどうした?」
土方は彼の姿が見あたらない事に気付き、訊ねる。
井上の名に、は一瞬だけ‥‥泣きそうな顔を浮かべた。
それを歯を食いしばって堪えると、細い息を吐き出す。
「源さんから、言づてが、あります。」
震える声に、土方は彼女が何を言おうとしたのか‥‥悟った。
「力不足で申し訳ない‥‥最後まで共に在れなかったことを‥‥許して欲しい。」
彼の最期の言葉を。
一言一言、噛みしめては音にする。
は残酷だと思った。
それでも、
自分には伝えるべき義務がある。
は唇を噛みしめて、
「こんな私を京まで一緒に連れて来てくれて‥‥
最後の夢を見させてくれて‥‥」
く、と喉が鳴った。
まだ、は唇を噛みしめて、息を取り戻す。
「感謝しても、しきれない‥‥」
それが、彼の最後の言葉だ。
瞬間、
「っ」
土方は泣き出す寸前のような、ひきつった息を漏らした。
苦しげに瞳を細めて、やがて、その冷たい瞳に炎を宿した。
すらりと刀を腰から一息で抜き、切っ先を風間へと向ける。
「‥‥やれやれ、無駄死にがまた増えるか。
何故そこまで死に急ぐのか、理解できぬな。」
風間はつぶやき、刀を引き抜いた。
「手間は掛かるが、仕方あるまい。」
悠然とした調子で、彼は言った。
かかってこい、と。
その言葉に、土方の表情が、変わった。
「‥‥無駄死にって、言いやがったか、今」
低く唸るような声がその口から漏れた。
「この俺の前で、無駄死にとほざきやがったか!?」
鋭い怒りの声と共に、土方は風間の間合いの中へと飛び込んだ。
渾身の力を込めて、鬼の首筋へと一太刀を振り抜く。
「っ!」
その一撃に、風間は驚きの表情を湛え、刀の棟で咄嗟に刃を受け止める。
押し合う二人の力は一瞬、拮抗し合っていたが、
「何だとっ!?」
風間の方がすぐに圧し負けた。
その表情を驚きと、そして怒りの色に染める。
人間相手の鍔迫り合いで押し負けた事は初めてだったのだろう。
何が起こったのか分からないという顔で、彼は土方を見た。
その瞬間、生まれた隙を彼は見逃さなかった。
次々と刀を打ち下ろし、鬼へと追撃を繰り返した。
きぃん!
と嫌な音を立てる度に、刀が欠ける。
そんなこと顧みず、彼は何かに取り憑かれたような眼差しで、刃を振るい続けた。
焦りの表情を浮かべたのは風間の方だ。
力で押し負け、彼は完璧に劣勢に立たされている。
土方は口元に笑みを浮かべながら、今度はさきほどとは比べものにならない一撃を繰り出した。
瞬間、
ぞくりとは肌が泡立つのを感じた。
押しとどめられた気が、一気に膨らむのを感じた。
そして、
「‥‥まさか、この姿を人前にさらすことになるとは思わなかった。」
風間はゆらりと立ち上がる。
その髪は白銀に‥‥瞳は、金色へと変わっていた。
なにより、その額に、角があった。
人とは思えぬ形相をしたそれが、そこに立っていた。
「喜べ、人間。
本物の鬼の姿を目にした瞬間に、死ねるのだからな。」
言うが早いか、風間は目にもとまらぬ早さで刃を振るった。
「ぐっ――!」
鮮やかで、強い剣さばきに、今度は土方が苦しげな声を漏らす番だった。
その太刀筋は目測するのさえ難しい。
なんとかそれを受け流し、あるいはよけるのが精一杯で反撃の瞬間が見あたらない。
瞬く間に攻防に転じる事となった土方は歯をぎりりと噛みしめた。
「どうした、さっきまでの勢いは!?
おまえの感じていた悔しさとはその程度のものだったのか?」
風間は涼しい顔でその激しい一撃を繰り返す。
鬼と、人との違い。
そこまでにあるのかとは目を見張った。
「くそっ!」
一方、土方の呼吸は次第に苦しげなものへと変わっていく。
「くそったれ――!」
渾身の力を刀に込め、もう一度鬼へと斬りかかった。
だが、風間は易々と動きを見切り、
きぃん
「ぐぁっ!」
刃がはじかれた。
土方の刃は、地面にたたき落とされた。
「土方さん!!」
は叫んで飛び出そうとした。
しかし、
足が動かなかった。
まるでそこに縫い止められてしまったかのように、動いてはくれなかった。
どうして。
は口の中で呟く。
「土方さんっ!」
どさりと、土方が力なく地面に膝をつく。
もう、息をするのがやっとという状態だった。
その彼に、風間は容赦なく刀を向けた。
首へとあてがい‥‥その首を落とそうとするかのように。
「これで‥‥終いだ。」
鬼は、顔を笑みへと変えて告げた。
「人間とは愚かなものだな。
叶わぬと知りながら我らに立ち向かう‥‥
それは勇気ではなく、蛮勇と呼ぶのだ。」
嘲笑を浮かべながら鬼は続けた。
「鬼の力を軽んじ、恐れることを忘れたおまえたちが悪い。
‥‥己の不明を恥じて死ね。」
ぎらりと刃は日の光を受けて、鈍く光った。
切っ先を突きつけられて、だが、土方は疲弊しきった身体を引きずり、投げ出された刀の所へと向かう。
「何をしている。
まさか、逃げるつもりか?」
嘲りの言葉にも、土方は顔を上げない。
ただ、まっすぐに刀へと向かうばかりだ。
やがて、震える指先が刀の柄に届いた。
既に力の入らない手で、しかし土方は構えた。
「‥‥まだ足掻くつもりか。
あれだけ虚仮にされて、まだ彼我の実力差を理解できんとはな」
違う。
は確信した。
彼が、自分と敵との力の差が分からない愚か者ではない。
だけど、簡単に勝つことを諦める弱い人間でもない。
ならば、何故?
何故刃を抜くのだろう。
刃を向けるのだろう。
は固唾をのんで見守った。
そのとき、土方が着物のたもとから何かを取り出した。
「――っ!」
その鮮やかな赤を目にした瞬間、は息を飲んだ。
彼の手の中でゆらゆらと揺れる、血のような赤は‥‥
「変若水‥‥か。
どこまでも愚かな真似を。」
風間は瓶を見て嫌悪感に顔を歪ませるが、土方は相対して笑みを口元にはいた。
「愚か?
それがどうしたってんだ。」
当たり前だと彼は言うように。
「俺たちは、元から愚か者の集団だ。
馬鹿げた夢を見て、それだけをひたすら追いかけてここまで来た。」
ぎりと奥歯を土方は噛みしめた。
「今はまだ、坂道を登ってる最中なんだ。
こんな所でぶっ倒れて、転げ落ちちまう訳にゃいかねえんだよ――!」
切っ先がぶれる。
どうやら刀を持っているのも限界のようだ。
それでも止めない。
止まらない。
愚かな事だと風間は嘲った。
「‥‥たとえ羅刹になったとしても、所詮はまがい物。
鬼の敵ではない。」
「‥‥そんなのは、やってみなきゃわからねえぜ。」
風間の言葉に顔色一つ変えず、土方は笑みのまま、薬へと手を伸ばした。
「駄目――!!」
は声の限りに叫んだ。
やめて。
お願いやめてと。
その赤は、彼らを、
いや、
彼を、
壊すことが分かったから。
だけど、声は届かなかった。
男がごくりと薬を飲み干すのを、は呆然と見ていた。

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