6
それからの日々は、まさに地獄のようだった。
沖田を屯所に連れ帰り、手当を受けさせたが思うように回復しなかった。
驚異的な羅刹の回復力だというのに、銃弾を受けた傷口は塞がらない。
それどころか、化膿し熱を持ってしばらく起きあがれない状態が続いた。
とにかく彼を松本に診せるべきだと、山崎と千鶴と共に大坂へと向かう事となった。
そうこうしている間に、伏見奉行所が敵の手によって襲撃を受けた。
高台からの砲弾での攻撃、そして西洋化した新型の銃器により、こちらは大打撃を受けることとなる。
やがて手薄になった奉行所に火を放たれ、彼らは散り散りになりながら一路大坂城へと向かうことになった。
「源さん大丈夫ですか?」
ばたばたと日中に、は走った。
連れ立っているのは井上だ。
浅葱の衣を羽織った彼は、疲労の伺える顔で「大丈夫だ」と答える。
「やっぱり私一人で行った方が‥‥」
淀城までは少しばかり走る事となる。
昨夜から戦い通しの彼はやはり休んでいて貰った方がよかっただろうかとが告げれば、彼は首を緩く振った。
「にばかり、頼ってはいられまいて。」
昨夜から走り通しなのは彼女とて一緒。
心配するなと優しく笑うと、彼は視線を前に向けた。
「あと一息だ。」
「はい。」
どこかで喧噪の音を聞きながら、二人は淀城へと走った。
薩長連合軍の強さは異常だった。
彼らの士気の高さもさるものだが、それよりすごかったのは彼らが持つ武器であった。
近代兵器を完璧に使いこなす彼らに、刀では全く歯が立たなかった。
このままでは圧し負けてしまう。
援軍を呼び、少しでも戦況を有利にしようと考え、と井上は淀城へ援軍を要請すべく走っていた。
「あれ‥‥?」
淀城へとたどり着いたとき、井上も、そしても息を切らせていた。
ようやくたどり着いた事にほっと安堵のため息をつき、しかしすぐに疑問の声を上げた。
「‥‥どうして城門が閉まってるんだろ?」
淀城の大きな門は、固く閉ざされていた。
その前には番兵もいない。
誰もおらず、おまけにひっそりとしている。
薩長との戦闘に備えて‥‥というには、その静まりようは不気味だった。
「‥‥」
「‥‥」
と井上は一度顔を見合わせる。
やがて、井上が声を高らかに上げた。
「我々は幕命を受けて参った!
御上に弓引く逆賊を迎え撃つため、力を貸してもらいたい!」
空も張り裂けんばかりの大きな声で叫ぶ。
だが、いつまで待っても門は開く気配がない。
まるで、彼らを拒絶するかのように、固く閉ざされたままだった。
と、そのとき――
「‥‥」
はきらりと陽光を受けて輝くものを城の、窓に見つけた。
人がいた。
良かったと思う間もなく、その人が持っている輝くものを見て、は双眸を見開く。
「源さん!」
彼女が叫んで、彼を引き倒す。
瞬間、
バァン!!
城の各所から銃声がこだました。
あちらこちらから、一斉に。
幸いそれは二人に当たらなかったが、あたりに敵兵の姿は見あたらない。
すなわち‥‥その銃弾は、彼らに向け放たれたもの。
そう、
新選組に。
「‥‥まさか。」
井上は蒼白になり呟いた。
「‥‥ええ。」
そうでしょうねとは唇を噛む。
淀藩は、佐幕側のはずだ。
しかも、徳川の縁の者でもある。
それが薩長の強さに、恐れを抱いたのだろう。
負けるかも知れない。
そう恐れ、
彼らは知らないふり、見なかったふりをしようというのだ。
「源さん、戻りましょう。」
は城を見上げる彼に告げた。
「これ以上ここにいても、無駄です。
あいつらは絶対に門を開けない。」
力も貸さない。
ここにいたところで、銃弾をぶちこまれるだけだ。
「‥‥」
「戻りましょう。
土方さんに伝えないと‥‥」
「ああ‥‥」
やがて井上は、くるりと踵を返して走り出す。
「‥‥」
はもう一度だけ城を見上げた。
琥珀の瞳がぎらりと、鋭く光る。
そこには激しい怒りと、侮蔑の色が浮かんでいた。
臆病者が。
吐き捨てるように心の中で呟いて、
そして、
「っ」
その瞳は一度だけ悔しげに歪むと、またいつもの強い色へと戻った。
林の中を二人は進む。
ざあと時折強い風が吹き、そのたびに浅葱の衣を揺らした。
待機している本隊と合流しようとするその足取りは、重い。
終始無言で歩き続けていると、
「。」
ふいに井上が彼女を呼んだ。
「なんですか?」
は振り返った。
その表情には微塵も疲れの色など浮かべていない。
昨夜からずっと走り通し、淀城まで共に走った。
疲れていないはずがない。
そして、何より先ほどの仕打ちだ。
精神的に参っているというのが本当の所であるが、彼女はいつもの通りだった。
しかし、それ故に、と井上は思う。
「‥‥おまえさんのせいじゃない。」
そう、零した。
「はい?」
は言われている事が分からない、と首を捻る。
そんな彼女を見て、井上は優しい顔のまま続けた。
「おおかた、土方さんに援軍を連れてこられないのは、自分のせいだと思っているんだろう?」
「‥‥」
は表情を変えず、口を閉ざした。
それが否なのか、是なのかは分からない。
ただ、井上には彼女が自分を責めている見えて、気にするなというように続けた。
「はは、仕方ないさ。」
それは彼女のせいではない。
いかに有能な副長助勤とはいえ‥‥彼女はただ一人の人間。
なんでもかんでも一人でこなせるわけではない。
大軍を動かせるだけの権力があるわけでもないのだから。
人一人に出来る事などたかが知れている。
自惚れていたわけではない。
何でもやれば出来ると‥‥出来ないことなど何一つないと。
そう馬鹿みたいに信じていたわけではない。
所詮自分の力などその程度だと。
そんなことは分かってる。
分かっているけど、
とは思う。
「土方さんに‥‥二度とあんな顔、させたくないんです。」
ぽつりと、はそんな言葉を漏らした。
彼が伏見奉行所を捨てたとき。
撤退の言葉を口にしたとき。
あの時の彼の顔は忘れられない。
拳を握りしめ、血さえもにじませ唇を噛みしめていたあの男の顔は、悔しいと言うよりもひどく苦しそうだった。
だって、悔しかった。
彼はその何倍も悔しかったに違いない。
苦しかったに違いない。
それでも、その決断を口にするしかなかった。
きっと、今でも彼は自分を責めている。
あの時ああしていれば、自分がこうしていれば、こうだったら‥‥
自分の無力さ、不甲斐なさを一人で感じて、一人背負って‥‥
そしてそれでも、前を見て走り続けてる。
悲しいことや苦しいことを全部自分の中に封じ込めて。
きっと今回の事を聞けばまた彼は苦しむ。
それでも決断しなければならない。
「私が出来るなら、なんでもしてあげたい。」
あの人を。
あの人たちを助けられるならば。
何だってしたい。
例えこの身が傷つくことになっても。
それでも、彼が負っている傷を思えば、小さなものに感じるのだ。
「役に立ちたいんです。」
何でもいい。
ただ、何もしないで見ているのはいやなのだと。
そう呟くの横顔は、やはり苦しそうだと思った。
それほどに、
新選組を‥‥
彼らを‥‥
彼を、
は大事に思っているのだと。
とん、との頭に大きな手が乗せられた。
なんだろうと顔を上げれば、井上は優しい笑みを向けていた。
「トシさんは‥‥幸せ者だなぁ。」
それほどに、彼女に思われて。
幸せだなと彼は呟いた。
くしゃくしゃと優しく撫でる彼に、は苦笑を浮かべた。
「幸せなのは、私の方ですよ。」
だって、こんなに優しい人たちが周りにいる。
優しくて強くて、暖かい人たちに囲まれて育ってきた自分こそ、幸せ者だとは思った。
だから、
「‥‥役に立ちたいんです。」
何があっても。
どんなときでも。
彼らの為に生きたいと、は思った。
本隊が待機しているあたりまで歩いてきたとき、違和感を覚えた。
「確か‥‥このあたりだったと思ったんだが‥‥」
呟く井上だが、あたりには人っ子一人見あたらない。
もしや道を間違えたのかとも思ったが、にはその場所は見覚えがあった。
間違いなどではない。
確か、この道をまっすぐ行った所に‥‥
は先を歩き、道を曲がった所でそれを見つけた。
「源さん!人がっ‥‥」
道ばたに人が倒れていた。
その男は浅葱の羽織を着ている。
新選組の隊士だろう。
「まさか‥‥薩長軍はもうここまで?」
「‥‥」
は黙した。
そんなはずはないと思うが‥‥それでも今は何が起きてもおかしくない状況だ。
そっと足音を立てないように、は進む。
あたりに気を配るけれどやはり人の気配はないように感じられた。
「‥‥!?」
やがて、それを見つけた。
浅黄色のだんだら羽織を身につけた隊士たちが、折り重なるように林道に倒れているのを。
そして、
その中心には――
「見覚えのある羽織を着た連中がうろついているから、まさかとは思ったが‥‥
やはり来ていたか。」
身動き一つしない死体の群れの中、
嘲笑うように微笑む男の姿を見つけた。
「か、ざま‥‥」
鬼の、姿。
どうしてここにとは奥歯を噛みしめる。
その視線に気づいたか、風間はにやりと笑って答えてくれた。
「淀藩の動向を見に出向いたまでだ。
面倒ごともたまんは手を出してみるものだな。」
「‥‥」
風間はの目をまっすぐに見て、実に嬉しそうに、笑った。
ぞくりと肌が泡立つほどの笑みに、は小さく息を飲んだ。
「おまえが戻ってくるまでの退屈凌ぎにこの連中と遊んではみたが‥‥
暇すらつぶせなかったな。」
倒れた隊士をつまらなそうな目で見て彼は言う。
「っ」
言葉に井上が肩を小刻みに震わせたのが分かった。
何故なら、
そこに倒れている隊士たちは‥‥井上の六番組を中心に構成されている者たちだ。
自分の部下を殺され、しかも、退屈凌ぎにもならなかったと言われたのだ。
「っ!」
怒りのあまり、奥歯をぎりと噛みしめる音が聞こえてきそうだった。
「‥‥どうして、私を?」
彼が狙っているのは千鶴のはず。
確かに、今彼女は新選組を離れ、沖田たちと共に別の場所にいる。
彼らの居場所を突き止められなかったのだろうか。
いや、そうではない。
彼は‥‥
自分を待っていたと言った。
何故?
そんなこと、聞かなくても、分かった。
「貴様が――鬼だからだ。」
「っ!」
はその言葉が紡がれた瞬間、走った。
井上に聞かせるのを嫌がるように、刃を抜き去り、男へと一太刀浴びせる。
「っ」
ぎぃん!!
といやな音を立てて、刃が打ち合った。
ぎりぎりと刃を合わせながら、は振り返り叫ぶ。
「源さん!今の内に早くっ!」
言うが、井上は動かない。
ただ、まっすぐに風間を見ていた。
いつもは穏やかな瞳を、怒りの色へと変えて、まっすぐに睨み付けていた。
「源さん!!」
ざんっ――
と風間の刃が一閃する。
はそれを寸前でかわして、大きく後ろへ飛んだ。
「源さん、早く!」
そのまま刃を構え、もう一撃を打ち出そうとすると、
「‥‥。」
その肩を井上が掴んだ。
いつもは優しいその手が、痛いほどの力で掴んで、は双眸を見開く。
そして同時に、彼の覚悟を知ると首を振った。
「だめ‥‥です。」
駄目。
は言った。
「源さんじゃ‥‥あいつには勝てない。」
それを彼に告げるのはどれほどに酷いことか分かっている。
も、そして井上本人も分かっていた。
一太刀を浴びせることさえ出来ない。
ううん、きっと‥‥
きっと、
は唇を噛む。
「、退きなさい。」
しかし、井上は譲らなかった。
これだけは譲れないと、彼は首を振った。
真っ直ぐに風間を見据える目を見て、分かってしまった。
彼は、
もう、
死ぬことを受け入れているのだと。
それでもなお、
部下の仇を討とうと、
彼らの、そして、
自分の誇りを、守ろうとしているのだ。
止められない。
止めることなんて出来ない。
は悔しげに唇を噛み、やがて、刃を引いた。
代わりに、今度は井上が刀を抜きはなった。
「敵わぬと知りながら刃を向ける‥‥か。
人間とはかくも愚かなものだ。」
そんな彼に風間はただ嘲りの言葉を浴びせる。
井上は応えなかった。
真っ直ぐ敵を見据えていた。
「‥‥行きなさい。」
その背中を見守る彼女に、静かに井上は言い放つ。
「‥‥」
一瞬、躊躇った。
それが今生の別れだと‥‥知っていたから。
「源さん。」
「一つ、土方さんに伝えてもらえるかな。」
彼はぽつんと思い出したように言う。
なにを?
の問いに、彼は僅かに振り返った。
そこには、
いつもの優しいあの笑みを浮かべて、
「力不足で申し訳ない。
最後まで共に在れなかったことを許してほしい。」
彼はそう、呟いた。
「こんな私を京まで一緒に連れて来てくれて‥‥
最後の夢を見せてくれて、感謝してもしきれない‥‥とね。」
一つ一つの音を、は心に刻みつける。
彼の最期の言葉を。
ぐ、と奥歯を噛みしめて一つ力強く頷くと、井上は満足そうに笑った。
そうして、
「行きなさい。」
もう、彼はこちらを振り向かない。
はその背中を目に焼き付けて、やがて、断ち切るように走り出した。
「さよなら‥‥」
吐き出された言葉は、ひどく苦しげな音となって紡がれた。

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