「俺たちと共に地獄に落ちる覚悟はあるか?」

 静かな紫紺が真っ直ぐに見つめて問うてくる。
 地獄に堕ちる覚悟はあるのかと。
 彼らと一緒に。

 真っ直ぐに向き合うその人の背後には闇が広がっている。一歩踏み込んだら戻ってこられないかのような、深く暗い闇だ。
 その闇の中に、ぽつりと赤い光を見付けた。飢えるあまりに狂気さえ孕んだ瞳が、ぎょろぎょろと獲物を求めて蠢いている。いくつも、いくつも。
 つんと、嫌な匂いが鼻につく。独特なそれは死の臭いだ。噎せ返りそうな血の臭いと共に、闇の中に充満している。

「俺たちと共に地獄に堕ちる覚悟はあるか?」

 深い闇は、まるで口のようだとは思った。
 狂気と死の臭いをさせた大きな化け物が、自分たちを飲み込んでやろうと大きな口を開けてそこにいるのではないか。
 飲み込まれれば文字通り、自分たちも狂気と死にまみれるのだろう。彼の言ったとおり地獄が待っているに違いない。
 土方はもう一度、に訊ねた。
 これが最後だと言わんばかりに、怖い表情で。
 鋭い紫紺は偽りを許さない。迷いを見逃さない。だが、怖い顔をしながらも彼女が恐れる事を許してくれるのだ。地獄を恐れて目を逸らしたとしても、彼は認めてくれるのだろう。その甘さをは狡いと思う。
 同時に、ほんの少し腹が立った。

「何を今更」
 鼻で笑うと男の鼻の頭に皺が寄る。怒鳴る一歩前の顔だ。は負けじと睨み返して言ってやった。
「私は、地獄の果てまで皆と一緒に行くつもりです」
 今更覚悟の程を見極めようなんて、失礼にも程がある。
 はとっくの昔に選んだのだ。
 新選組の一員となると決めたときから。
 否。あの日、彼らの元に来たときから。
 どこまでも共に行こうと決めていた。
 それが例え修羅の道であろうと――地獄であろうと。
 どこまでも一緒に堕ちてやると。

 紫紺が一度、悲しそうに揺れた。
 その瞳を静かに伏せ、何かを諦めるように閉ざす。

「じゃあ、地獄を見せてやる」

 もう一度開いたとき、その瞳には迷いは消え失せていた。
 ただ強い光を湛えて、闇の中を睨み付けていた。


零れた滴



 文久三年――十二月。
 見上げた空は生憎の曇天。
 今にも雨か雪でも降りそうな嫌な空だった。

「やっと、着いた」
 目の前に広がる見慣れぬ町並みを見つめながら、静かに一人ごちる。
 はあ、と疲れた溜息が零れたのは長旅のせいだろう。此処に辿り着くまで気を張っていたのも要因かもしれない。
 しかし漸く目的地に到着したのが嬉しいのか、笠の下では愛らしい笑みが浮かんでいる。
「ここが、京の都」
 都と言われるだけあって、通りは賑わっていた。
 行き交う人々は誰も彼もが優しげな笑顔を浮かべている。交わされる柔らかな言葉さえ、この都にはしっくりと似合っているような気がした。
 でも、
 と口を閉ざす。
 京の市中に漂っている空気は、不思議と冷え切ってしまっているように感じたのだ。
 にこやかにこちらへと向けられる瞳の奥には田舎者を排斥するかのような拒絶の色が確かに伺えるような気がして、
「なんだか……」
 居心地が悪いような、と思った。
 だがそんなことを言っている場合ではない。
 ただ一人で江戸からここまでやってきたのは物見遊山の為ではないのだ。
「探さないと」
 気持ちを引き締めるように、一度頬を叩く。
 そうして栗色の大きな瞳に強い決意の色を込めると、穏やかで冷たい町並みを真っ直ぐに見つめた。
「父様。どうかご無事で」
 祈るかのような囁きを一つ。誰にも聞こえないように呟くと――雪村千鶴は京の町へと足を踏み入れた。



「まずいなぁ」
 誰もいない静かな廊下を歩きながら、は一人ごちた。
 辺りには人の気配はない。通り過ぎてきた幹部の部屋は全て蛻の空だった。皆、今頃巡察やら隊士の稽古やらで忙しくしているのだろう。当然だ。だってもう昼も過ぎた刻限なのだから。
「まっずいなぁ……」
 本来ならこんな時間まで寝転けていたら鬼の副長の雷が飛んできた事だろう。だらけていると蹴り出されて道場で扱かれていたかも知れない。そもそも、彼が怒鳴り込んでくるまでが寝転けている事はあり得なかった。元より他の幹部連中よりもは早起きを心がけているのだから。
 だけどそんな彼女が昼過ぎまで寝転けていたのもそれを誰も起こさなかったのも、偏に彼女の疲労が限界まで蓄積していたせいなのだ。
 やはり三日も眠らずに夜通し駆けずり回るというのは無理があったらしい。明け方屯所に戻ってきた事は覚えているが、その後いつ自分が布団に入ったかも覚えていない。正直に言おう。本気で疲れていた。それに気付いて皆寝かしてくれていたのだろう。お陰でぐっすり休む事は出来た、が、
「こんな時間じゃ、何も残ってないよねえ」
 眠っていても腹は減るもの。
 考えてみれば昨夜もろくなものを食べていない。空腹のあまりに目が覚めるのも当然というものだった。
 皆が気遣って寝かせてくれるのは有り難いが、このまま眠っていては夜まで食事にありつく事が出来ない。それは耐えられそうになかった。
 はぼさぼさの髪を手櫛で整えながら、皆が集まる広間へと向かう。
 もうこの時間じゃ朝飯の残りどころか米粒ひとつないかもしれないが、それでも何か腹には入れておきたい。無ければ外に走らないといけないのだ。夕餉まで何も食べられないのは耐えられそうにない。
 もし飯が残っていなかったら菓子でも食べよう。確か前に井上が戸棚の奥に隠しておくと言っていたのを覚えている。藤堂らに見つかっていなければまだあるはずなのだが。そんな事を回らない頭で考えながら広間のふすまに手を掛けた。
「あれ?」
 さっとふすまを開くと、そこに人の姿があった。皆出払っていると思ったので思わずと声が出てしまう。
「総司に、一……左之さん?」
 珍しい組み合わせだ。彼らは茶を飲みながら何やら話し込んでいたらしい。
「おお、。おはようさん」
 彼女に気付くと原田が手を挙げて挨拶をしてくれた。おはよう、と言うには随分と遅い時間だ。
「随分と遅いお目覚めだね」
 当然、そこを突いてくるのは沖田である。
「あんまり遅いから、死んじゃったかと思ったよ」
 にこにこと笑顔でそんな事を言ってくる彼を軽く睨むと、静かに彼らのそばに腰を下ろした。
 藤堂と永倉がいない所を見ると昼の巡察は八番組と二番組で、非番の彼らは暇を持て余してここで歓談の最中だったという所だろう。
 いや、そんな事はどうでもいいとして、
「ねえねえ、私のご飯は?」
 にとってはそれが重要なのである。
 お腹がきゅうきゅうと切なげに鳴いているのだ。何か入れてやらなければあまりに可哀想な鳴き声を上げて。
 しかし、その問いに返ってきたのは沖田の冷たい一言で。
「そんなの残ってるわけないじゃん」
「ですよねー」
 答えは分かっていたが、当然の如くと言われてしまうとちょっと切ない。
 腹の虫は更に切なく鳴いていた。ごめんよ、とは己の腹を慰めるように撫でた。
「今日は美味しい魚が出たよ? が好きそうなやつ」
「そう思うなら、残して置いてくれてもいいじゃん」
「うん、僕は思ったけど。平助と新八さんが食べちゃった」
「あの人らには優しさとかないのか」
 はため息を一つ零して、とりあえず空腹を誤魔化す為に沖田の飲んでいたお茶を引ったくる。
 ごくりと喉を越すお茶は意外にも渋くて、空きっ腹にはちょっと刺激が強すぎた。きりりと痛む胃を押さえ、は無言で湯呑みを突き返す。
「満足した?」
「全然。苦みが余計に刺激をしてお腹が空いた」
「お酒の方が良かったかな?」
「昼間からお酒なんて飲めるわけないだろ」
 それに空きっ腹に酒なんぞを入れたら酔いが回る。
 は仕方ないと呟いて、勝手場を漁るべく重たい腰を持ち上げた。
「それより、。その頭をどうにかする方が先だろ」
 そんな彼女に、原田は苦い顔で言葉を投げかけてきた。
 頭? とは己の頭部を手で触れる。明らかに手櫛でひっつめたというのがまるわかりの頭だ。ぴょんぴょんと髪が飛び出してとてもちゃんと纏めているとは言えない。そんな頭で外に出てくるなんて。
「おまえさん、女だろう」
「さて何の事やら。って、仕方ないじゃないですか。さっき起きたとこなんだから」
 身支度もそこそこに食い物を求めてやって来た、と正直に言うと彼は苦笑でやれやれと肩を竦めてしまう。
 妙齢の女が身支度よりも飯を優先というのは如何なものか。
「左之さん、には言うだけ無駄だよ」
「だな」
 呆れた様子で言う沖田と原田のやりとりには多少反論したい気持ちもある。まあ、その通りなのだから反論するだけ無駄という所だが。
「それにしても髪の毛一つまともに結べないって、本当に手先不器用なんだね」
「しみじみと哀れむような顔で言うな」
「だって、髪の毛も結べない程不器用な女の子って可哀想じゃない?」
「ああごめんね。可哀想な女の子で」
 にこやかに痛い所をざくざくと突いてくる沖田を、はいつものように笑顔で軽く受け流しておく。
 受け流すが確かに彼らの言うとおりだ。女だからとかそういうのはどうでも良いとして、隊士の手本となる幹部がだらしない恰好をしているわけにはいかない。
 ということで、
「一さーん」
 傍観していた斎藤に視線を向ける。
 いつもと違う呼び方は一応申し訳無いと思うからなのか、しかし彼女にそう呼ばれるとくすぐったくて堪らない。
 斎藤は皆まで言うなと頭を振り、やはり黙っての後ろに膝を着いた。
 しゅるりとの結い紐が男の手によって解かれる。
 柔らかな飴色は地面に落ちることなく彼の手に集められ、長い指が彼女の髪を梳き始めた。
 は嫌がらず大人しく彼が髪を結い終わるのを待っている。昔、彼に結んで貰ってから斎藤に結んで貰うのが当たり前になっていたのだ。
 最初に結んで貰った時はあまりに仏頂面だったので迷惑だろうかと思ったものだが、意外な事にその後もこちらが言うよりも前に髪が乱れていると結んでくれるようになった。どうやら土方に面倒を見てくれと頼まれたらしく、今でもその言葉に忠実に従っているらしい。実に真面目な男である。
 因みに無骨な男の手は、これまた意外な事に優しい。結んでいる時の彼の顔なんかは真剣そのものだったりもする。
 笑ってはいけないと思いつつ、はいつものように一つ小さく笑った。斎藤は気付かなかったようだ。
「それにしても、随分疲れてたみたいだな?」
 向かいに座っていた原田が声を掛けてきた。
「この数日、ろくに顔も合わせてねえよな」
「そうですね」
 確か、とは宙を見る。
 最後に彼らと一緒に食事を摂ったのは……四日前だっただろうか。
 その前から夕飯時に屯所にいた日はない。大抵戻ってくるのは明け方だったし、戻って少し休んだらすぐに外に飛び出しての毎日だった。そういえばここ最近夕飯を食べた記憶がない。どうしていただろうかと記憶を探ったが、どうでも良い事だったのか思い出せなかった。
「今日も、また出掛けるの?」
 今度は沖田が訊ねてくる。は被りを振った。
「ううん、多分出掛けないと思う。今日は何も仕事がないって土方さんが、」
 言い掛けて、あ、と彼女は小さく声を漏らす。
 しまったという顔に変わった。
「私、土方さんに報告行かなきゃいけないんだった」
 本来なら一番に行かなければならないのに、今朝はどうにも睡魔に抗う事が出来ず部屋に戻ってしまったのだった。きっと彼は寝ずに待っていたに違いない。こんな所で油を売っている場合ではなかった。
 こうしてはいられないとが立ち上がる。
 それを見計らったように斎藤の手が離れた。寸分の緩みもなく結ばれた髪は、相変わらず綺麗だ。
「一、ありがと」
「いや。それよりも土方さんが待っている」
 早く行けと言われ、はこくりと頷くと長い髪をふわりと揺らして部屋を出ていこうとした。

 その背に声が掛かる。呼んだのは原田だった。
 なにと肩越しに振り返れば、彼は困ったような顔で笑って、
「あんまり無理するんじゃねえぞ」
 と声を掛けた。
 そう言ったところで彼女は無理をするのだろうけれど、それでも純粋に心配をしているのだと彼には告げる事しか出来ない。彼女の仕事を代わってやる事が出来ないのでは心配するしか彼には出来ないのだ。それがの重荷になったとしても。
 分かっていてもそう言わずにはいられないのは、彼女が大事な仲間で、大切な妹だから。だからもし本当に望むのならばの代わりに自分が出来る事を何でもしてやりたいと思う。
 そんな原田の優しい思いには一瞬目を丸くして、ふっと笑った。
 薄い唇が意地悪く引き上がった。
「大丈夫。無理なんてこれっぽっちもしてませんから」
 にやりと悪戯っぽく笑うと、彼女はするりと開いた襖から滑り出る。ふわりと最後に出ていく飴色はまるで猫の尾のように気まぐれに揺れて、消えた。

「なんで僕たちの前だと、ってあんなに可愛くないのかなぁ?」
「まあ、俺たちに心配掛けないようにって事なんだろ」
「分かってるけど……でも、近藤さんに見せる位とまではいかないけど、もうちょっと可愛い反応しても罰は当たらないと思う」
「ありゃあ別格だ。諦めろ」
「総司、左之。無駄話を続けるのならば道場に行って隊士達に稽古をつけてやったらどうだ?」
 静かな斎藤の言葉に、二人は揃ってやれやれと肩を落とすのだった。



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