18

 

空が鉛の色へと変わっていく。

嫌な空だった。

まるで、空が地面を、自分たちを押しつぶしそうな重たい空。

 

「仕掛けてくるなら、明日だろうな。」

 

五月の初めだった。

土方が、難しい顔をしてそんな事を呟いたのは。

 

新政府軍はすぐそこまで迫っていた。

出来うる限り応戦したけれど、彼らは明らかに追いつめられていた。

明日には箱館が戦場になるだろう。

そして、

この五稜郭こそ、最後の砦となるのだろう。

そして、

自分は今度こそ、死ぬだろう。

 

土方は自分の死期が近付いている事を感じていた。

 

自分が死ぬのは、構わない。

だけど、

「‥‥」

彼はそっと、自分を真っ直ぐに見つめる彼女へと視線を向ける。

向けられる事が分かっていたのか、そして何を言われるのか分かっていたのか、彼女の瞳は真っ直ぐな揺らぐ事のな

い瞳でこちらを見つめている。

睨み付けるかのようなそれには、

「決して、逃げない」

という強い意志が現れていた。

‥‥」

彼女はここにいさせてほしいと願った。

それを土方も許した。

それでもやはり、死が目前に近付いているのに彼女を死なせる事を恐れる自分がいた。

迷うような素振りを、は頭を振って否定する。

まるで「迷うな」と言うかのように。

「私は、土方さんの傍にいます。」

迷うことなくきっぱりと告げた。

 

は元来、頑固な性格の持ち主である。

普段は何事にも柔軟なように見えるけれど、それは全て「彼女の意志」ではないからだ。

与えられた任務に自分の意志など必要ではない。だから、命令には文句一つつけずに忠実にこなす。

でも、それ以外は違う。

実は彼女は折れているように見せかけているだけで、色んな出来事は彼女の思ったとおりになっているのである。

なんというか、こう、掌でころころと操られている‥‥そんな感じだ。

ほとんどの人間は気付かない。

の思うままに全てが運んでいるなどとは。

恐らくそれが「の得」になるようなものではないから‥‥なのだろう。

とにもかくにもという人間は、頑固だ。

一度こうと決めたら絶対に譲らない。どんな手段を使ってでも、絶対に自分の意志を貫く女だ。

そして‥‥

その頑固ぶりに、いつも退かされる羽目になるのは土方の方であった。

「おまえは‥‥昔っから俺の言う事は聞きゃしねえ。」

は、と嘆息し、今忌々しげに土方は呟く。

「なんだかんだと、反抗してきやがって‥‥一度でも「分かりました」って素直に頷いた事、ねえだろ。」

確かに彼の言うとおりだ。思い返せば彼にはよく反抗していた気がする。

割と何事に対しても聞き分けが良く、なおかつ柔和な態度で相手を思い通りに動かすではあったが、こう真っ向

を切って向かっていくのは彼だけであった。

彼には面と向かって反駁せざるを得なかった。

それもこれも、

「土方さんが無理ばっかりするのが悪いんです。」

彼のせいだ。

そうに違いない。

「もっと自分の事を省みてくれれば‥‥私だってこんなに噛みついたりしません。」

「は、その台詞、そっくりそのままてめえに熨斗つけて返してやるよ。」

「土方さんからの贈り物なんて、恐れ多くていただけません。」

にこり、と笑顔で返せば彼は苦い顔になってしまった。

自分でも可愛げがない、というのは分かっている。

それでもこの軽口のやりとりが堪らなく愛しくて‥‥つい、応戦してしまうのだ。

自分は一生可愛い女にはなれない。でも、この時間を彼と共有できるならば、そんなものにはならなくたっていい。

 

「‥‥」

その愛おしい時間を沈黙で終わらせた彼が険しい顔になった事に気付き、は笑みを消した。

険しい顔にはやはり迷いの色が浮かんでいる。

がきっぱりと断った今でも、彼は彼女を安全な場所へと避難させようと考えているのだろう。

例えば‥‥どこぞの伝手を使って外の国へと逃がすとかそんなことを。

そうすればだけは生き延びられる。

生き延びて、平和な所で‥‥幸せに生きられるかも知れない。

でも、そんなもの、にはいらなかった。

「お願いです。」

懇願するように、は言う。

「ここにいさせて。」

「‥‥。」

「土方さんがいやだって言うならもう二度と鬼の力なんて使わないから。」

「‥‥」

「ちゃんと、言うこと、聞くから。」

ふざけた色は全て消して、は真摯な眼差しを向けて頼み込んだ。

彼がしろというのならば土下座だって、なんだってする。

みっともなく縋り付いてでもこの場に残ってやる。

あの時、

彼に突き放されたときに感じた、あの孤独感や無力感を二度と味わいたくなかった。

だから、

 

「あなたの傍にいさせてください。」

 

は、真っ直ぐに土方を見据え、告げた。

それが、彼女の唯一の望みだった。

‥‥なんてちっぽけで、なんてばかばかしい望みだろうか。

ここにいても幸せにだってなれない。不幸にしかなれないのに。

それこそが自分の最大で唯一の望みだと言うのだから。

本当に‥‥馬鹿な女だ、と彼は思う。

だけどそれ以上に、

自分は馬鹿で、愚かだとも。

 

ふ、と彼は苦笑を漏らし、敵わないなと首の後ろをがりがりと掻く。

「女に言わせてばかりじゃ‥‥格好つかねえよな。」

彼は苦笑を漏らしたかと思うと、徐に真剣な面持ちになって真っ直ぐにを見た。

あまりに真剣な眼差しに、どきりと胸が震える。

思わず怯みそうになり、負けじと去勢を張るようには睨み返す。

土方は口を開いた。

 

「じゃあ、留めを刺すぞ。」

 

いいのか?と問いかけられ、は困惑する。

突然そんな物騒な事を言われても意味が分からない。

まさかここで斬り伏せられるというのだろうか‥‥

しかし、彼が自分を邪魔だと思って切るのならば仕方ない。

「どうぞ。」

自分でも間抜けな言葉だと思ったが、は答えた。

抵抗しない事を示すように手を広げてみせると、土方は双眸を細めた。

睨まれているのだと、分かる。

だが、間違いを指摘するのは止めて、今度はこう言った。

「もう、逃がしてやれねえからな。」

「だから、私逃げる気なんて‥‥」

そんなものない、と告げる彼女の言葉は、怖いくらいに真剣な紫紺に見つめられて、止まった。

 

彼の瞳には切望するような色が浮かんでいた。

何故、そんな目で見つめられるのだろうかと思った。

そんな熱く見つめられたら‥‥錯覚してしまうじゃないか。

彼に、

想われているのだと――

 

「俺は‥‥おまえに惚れてる。」

 

だけど、彼は言った。

そのの誤解は、誤解などではなく、真実なのだと。

 

 

認めてしまった。

口にしてしまった。

もう、止める事は出来ない。

無かった事には出来ない。

自分の行動は間違いではなかったはずだった。

でも、口にして、驚いたように自分を見つめる彼女を見て‥‥少し、後悔した。

知らないままならば、彼女は自分に囚われずに済んだのに。

もう、

手を離してやることもできない。

まさしくこれは‥‥息の根を止める行為だった。

土方は今、の、自由に空に舞い上がるための羽根を、地面に縫い止めた。

自分の我が儘な想いという暴力的なまでの杭で。

残酷にも彼女から自由を奪ってしまった。

 

でも、

止められないのだ。もう。

 

「新選組を率いる勤めさえ終えれば、俺は死んでも構わないと思っていた。」

自分の心を整理するかのように、土方は言葉を紡ぐ。

は目を見開いたまま、動かない。まるで、そのまま死んでしまったみたいで、少し、不安になった。

「別に死にたいと思ってる訳じゃねえよ。」

茶化すように笑う。

それでもは釣られてくれない。

相変わらず、動かない。

「‥‥ただ、俺の生きる目的が無くなっちまうだけだ。」

どこか、寂しげな言葉が彼の唇から零れる。

じっと己の手を見て‥‥彼は今更のように自分が手にはもうなにもないのだな、と思い知った。

「道標としての役割さえ果たし終われば、俺が生死に頓着する理由も消えちまうんだよ。」

新選組という大きな志を背負い、彼は今日まで歩み続けてきた。

その重荷を肩から下ろした瞬間、彼を定めるものが消えてしまう。

歩んできた道はそこで途切れて、新しいものを見つけなければ、そこで終わってしまうのだ。

 

だが。

 

「生きたいと思う理由が出来た。」

 

土方はそっと頭を振り、微かに目元を綻ばせる。

穏やかな笑みを向けられ、は凍り付いたままだった身体をびくり、と跳ねさせた。

その表情は驚くほどに優しかった。

彼とは思えないほどに‥‥

 

「ひじかた‥‥さん?」

思わず、確かめるようには呼ぶ。

応えるようにその人は微笑み、続けた。

 

「おまえがそばにいてくれるから‥‥

今の俺はまだ生き続けたいと思えるんだ。」

 

おまえがそばにいてくれるから

今の俺はまだ生きたいと思えるんだ

 

それは、どういう意味だろう。

どういう意味で彼は言ったんだろう。

の気持ちを少しでも安心させるためだろうか?

いやちがう、その目には偽りはない。

彼は本心から‥‥そう思ってくれている。

自分がいるからこそ、この先の未来も生きてみたいと。

でも、どうして?

なんでそんな事を?

 

そんな疑問が、唇から漏れていたというのか、土方は、再度、言葉を刻みつけるように、音に乗せた。

 

「惚れてるからだ‥‥おまえに。」

 

彼女が好きで、

彼女とこの先も一緒にいたいと思うから。

笑って、泣いて、怒って、これから先の、決して長くない人生を共に歩みたいと思うから。

彼女とならきっと‥‥生きていて良かったと思えるだろう。

だから、

男はこの先を生きてみたいと思った。

 

「おまえが――

 

好きだ

 

続くはずだった言葉は突然、

「っ!!」

ばちんと、聞こえた音と彼女の異常な行動により遮られた。

激しい音を立てたのは彼女が思いきり自分の耳を両手で塞いだからである。勢い余って耳を思い切り叩いてしまった

ようだ。

顔が歪む。

が、歪むのは土方も同じ事だった。

 

彼女が人と少し変わっているというのは知っていた。

その異常な行動に何度も頭を悩まされ続けた。

だが、これはその中で最もといってもいいほど異常な行動である。

異常‥‥というよりは、腹の立つと言った方が良いだろうか?

 

は突然、

耳を塞いだのであった。

 

まるで‥‥彼の言葉を聞きたくないと言わんばかりに。

 

「‥‥なんのつもりだ?」

思わず土方の声が低く尖る。

それも当然だ。

彼は今、彼女に想いをうち明けようとしていたのである。

好きだと。

彼女を好いていると。

それを分かっていて、は耳を塞いだのだ。

もうこれは拒絶としか思えない。

自分の想いを拒絶しているようにしか。

でもそれはおかしいではないか。

彼女が自分を嫌っているのならば分かるけれど、彼女は自分を好きだと言っていた。

こんなどうしようもない男を好いているからこそ、ここまで来たのだと。

ならば彼の想いを拒む必要はないはずで‥‥

「まさか、他に好きな奴でも出来たってんじゃねえだろうな‥‥」

「違いますっ!」

思わず殺気立って訊ねる土方に、は違うと首を振った。

どうやら耳を塞いでいても完璧に音は遮断できず、声は聞こえているらしい。つまりは彼女がしていることは無意味

というわけだ。

だがそれに、この時の二人は気付いていない。

は耳を塞いで、少しくぐもって聞こえる彼の言葉に反論した。

「私は、土方さんが好きですっ」

「じゃあ、なんで耳を塞ぐ必要があるんだよ。」

「聞きたくないからです!」

「聞きたくないって、どういうことだ?」

「そのままの意味ですっ」

「意味がわかんねえよ!」

耳を塞いでいるから大声になりつつある二人のやりとりは、酷く滑稽である。

会話は成り立っているのだから、聞こえているということである。それならば気にせずに土方は言葉を続ければいい

ものを、その手を引きはがそうとするのだ。

「いいから手を退けろ。」

「いーやーだー!」

ぐぎぎとは呻り声を上げながら抵抗した。

どうやら本気で拒んでいるらしく、その力は尋常ではない。

とはいっても所詮は女の力。ねじ伏せられないということはないが、細い手首を掴んでいるだけでなんだか折れてし

まいそうで扱いに困ってしまって、なかなか力を出す事が出来ない。

土方はちっと舌打ちをした。

こういう場合はもうちょっと甘い雰囲気になるんじゃないだろうか?

どうして彼女が相手だとこうも上手くいかないのだろう。

「おまえ、言ってる事とやってることが、違うだろうが!」

好きだと言うのならばどうして。

どうして彼の想いを拒む?

彼女が本気で自分を想っているのならば、拒む必要なんかどこにも――

 

「だって、聞いたら止められなくなるっ」

 

強く拒む彼女の唇から漏れたのは、どこか弱々しい声。

震えて、掠れる声には怯えた色がはっきりと浮かんでいる。

どういうことか?と土方は訝った。

彼女は、教えてくれた。

 

「もし、冗談でも、土方さんが私を、私の事を想っていると言ってくれたなら‥‥」

 

自分のことを、他の人間とは違うと。

特別だと。

一人の女として、欲してくれていると。

好いてくれていると。

聞いてしまったら、知ってしまったら。

 

「私は、もう、止められなくなるっ」

 

ただ傍にあり続けたいと願うだけではいられなくなる。

触れたいと思ってしまう。

触れて欲しいと願ってしまう。

彼に抱きしめてほしいと。

愛して欲しいと。

求めてしまう。

きっと貪欲に、我が儘なくらい。

欲してしまう。

 

そんな貪欲で浅ましい自分を、見られたくなかった。

 

「私っ」

 

は琥珀を揺らした。

ひどく怯えたような色は、彼女がどれほどに恐れているのかを男に知らしめた。

 

「嫌われたく‥‥ないんですっ」

 

嫌われたくない。

欲深になった自分を見て、嫌われたくない。

だったら、いっそ、知らないままがいい。

知らなければ求めることだってない。

求めなければ彼に嫌われる事だって、ない。

だから、

このままで、

 

「俺は、いやだ――

 

だけど、男は言った。

そんなのはごめんだと。

想い合っているのに、気持ちが繋がらないこんなもどかしい距離なんて、クソ食らえだ。

 

ぐいと、強い力で引き寄せられはぎくりと肩を震わせた。

吐息さえも触れる距離に、彼の顔がある。

真剣で熱い眼差しで、彼はじっと自分を見つめている。

錯覚してしまいそうなほど‥‥土方はを切望するような眼差しで見つめていた。

 

「俺は、欲しいと思ったものは手に入れる。」

「っ‥‥」

彼の唇から零れた吐息が、の唇を掠める。

ぞくりと肌が震えるほどの熱さに、身体が竦んだ。

「絶対に、手に入れなきゃ気がすまねえんだよ。」

傲慢な男は言った。

欲したものは絶対に手に入れなければ気が済まないと。

その、

彼が望むものが一体なんなのか。

それがは怖くて、聞けなかった。

分かっていたから。

彼が望む物を。

分かっていたからこそ、怯えた。

拒んだ。

 

「や‥‥」

耳を塞ぐその手を力でねじ伏せられる。

先ほどまでは手加減されていたのだ‥‥と分かるほど、強い、男の力で。

ともすれば折れてしまいそうなほどの力で。

土方は引きはがそうとする。

「や、いやだ、ひじかたさ‥‥」

「てめえでけしかけて、今更嫌がってんじゃねえよ。」

怯えるに土方は不敵に笑いながら言った。

そうなのだ。

先に始めたのはだ。

彼女が先に言ったのだ。

好きだと。

土方がどれほどに拒んでも好きだと言って、男に認めさせたのだ。

狂おしいまでのこの想いを、男に植え付けたのだ。

「一方的に言って、こっちの言い分は聞かねえってのは公平じゃねえだろ。」

「やだ‥‥やっ」

「俺は言ったはずだぞ。」

「っ!」

みしりと音が立ちそうなくらい強く手首を掴まれ、ねじ伏せられた。

こうなるとを守るものは何もなくなる。

するりと鮮明に聞こえる土方の声が、ひどく、甘く、残酷に聞こえた。

 

「とどめを差す、と――

 

そしては了承した。

どこからでも掛かってこいと受けて立ったのだ。

そう、あの時に逃げ場を自分で失ったのだ。

いやちがう。

ここに来る迄何度だって、彼は逃げ道を与えてくれた。

それをことごとくはね除けたのは自身だったのだ。

そしてもう、

彼は逃げ場を与えてくれない。

言葉通りに、とどめを差すのだ。

 

「ぁっ」

 

喉の奥でひくりと音が鳴る。

見開いた瞳に紫紺の美しいそれが飛び込んできた。

美しい瞳は、真っ直ぐで誠実に、自分を見つめて、

 

「おまえが、好きだ」

 

ひどく、甘い言葉で、の身を貫いた。

 

貫いた言葉はやがて身体のあちこちへとその熱を撒き散らすかのように飛び散った。

指の先、足の先、それから頭のてっぺん、皮膚の表面まで全て。

その言葉が染み渡るかのように熱を持っていく。

その熱でを冒すように。

は抗った。

熱が身体の全てを支配してしまっては、本当に止められなくなる。

望んでしまう。

欲してしまう。

貪欲に、臆病に、

彼の全てを奪いたいと願うまでにきっと‥‥想いは膨らんで‥‥

 

「う、嘘だっ」

は足掻いた。

所詮悪あがきだとは分かっていた。

一度でも知ってしまっては止まらないと先ほど自分が言ったとおり、身体は想いは止まらなくなっていくのに。

それでも嘘だと、あってはいけないと拒んだ。

そうすればその分だけ、

「好きだ。」

「っ」

土方の言葉がその想いを更に強く刻みつけるように紡がれる。

「好きだ。」

彼は何度でも言った。

以前、が彼にしたように。

信じないと拒絶する土方に、何度も何度も自分の想いを必死に伝えるみたいに。

「おまえが、好きだ」

彼は想いを告げる。

甘く、優しく、時には激しく。

「おまえのことが誰よりも大切で‥‥」

この好きという言葉だけでは伝えられない気持ちを、どうか、彼女に伝えたい。

狂おしいまでの彼女への想いを、彼女に伝え、そして受け止めて欲しかった。

「誰よりも、いとおしい。」

「‥‥だ、だめっ」

甘い毒が身体に巡るみたいに、身体のあちこちが痺れていく。

逃げなければいけない。は思った。

手首が折れてしまいそうなほどに強く抗った。

離してくれと懇願しそうだった。

「っ」

呼ぶ声が酷く甘い。

自分の名はそれほど甘いものだったのかと驚くほどに。

「おまえが、好きだ、。」

「だ‥‥めっ‥‥」

「好きだ」

「そんなの、うそっ‥‥っ」

俯き振り乱す髪に、温もりが触れ、は身体を強ばらせた。

明らかに手とは違う感触に困惑していると、それが今度はこめかみに触れた。

「っひ、土方さんっ!?」

彼の、唇だった。

ただ触れた、というには明確な意志を感じるそれには驚きの声を上げる。

当然だ。

まさか、そんなところに口づけられると思っていなかったから。

だが土方からすればこれは至極当然の事である。

好きだと、愛していると思った。

そしてそれを伝えるのは言葉だけでは足りないと思った。

触れたいと思ったのだ。彼女に。この唇で。

触れて、口付けたいと思ったのだ。

愛しているから。

「な、にを‥‥」

「認めろ」

土方は強い口調で言う。

驚いて顔を向ければ唇がすぐ傍にあって、は凍り付いた。

ほんの少しでも動けば、触れてしまう距離だった。

言葉を紡ぐだけで、触れてしまいそうな距離だった。

彼は迷わなかった。

触れても構わなかった。

いや、

その赤い唇に彼こそが触れたいと思っていたのだ。

 

「俺は、おまえが好きだ」

 

まるで鋭利な刃物で彼女の胸に刻みつけるみたいに、言葉を紡ぐ。

深い、消えない傷になるほど強く、きつく、刻みつけるみたいに。

二度と‥‥彼女が忘れられないように。

この想いに囚われて、逃げ出せないように。

逃がしてやれないのならばいっそ‥‥どこまでも堕ちてしまいたかった。

彼女と共に。

 

「おまえは?」

 

懇願するような眼差しを受け、彼女は、思った。

 

それが大罪だったとしても。

許し難い罪だったとしても。

 

彼と共にどこまでも、

 

「すき‥‥です‥‥」

 

どこまでも、堕ちたいと思ってしまった。

願ってしまった。

もう逃れられない所まで堕ちて、もう他に何も見えないくらいに彼に溺れてしまいたかった。

 

‥‥」

「土方さんが、好き、ですっ」

はくしゃと唐突に顔を歪めた。

泣き出すみたいな顔だった。

「ごめん、なさいっ」

「なんで謝るんだよ。」

この状況で謝られると拒まれた気分になる。

「好きだ」と言われているのだからきっとそうではないのだろうが、それでも謝られるのはあまり嬉しくない。

出来ればこういう時は笑って欲しい。

「だって、私っ‥‥」

はひくと嗚咽でも漏らすように声を震わせる。

伏せられる琥珀が揺れていた。

見れば涙を浮かべていた。

泣くほど嬉しかったのか、と思えば違う。彼女は瞳いっぱいに罪悪感の色を湛えている。

「私、あなたに何もあげられないのにっ」

例えば彼が求めてくれるとしても。

自分のことを求めてくれるとしても、何も与える事が出来ない。

に出来るのはただ一つだけ。

人を殺す事だけだ。

なのに、

「私は、あなたの全部が欲しい。」

自分は何もあげられないのに、彼の全部を望んでしまう。

彼は自分に希望を与えてくれた。

居場所を与えてくれた。

優しい感情も、切ない気持ちも、色んなものを与えてくれた。

でも、それに見合うだけのものを返せず、なおかつそれ以上をは望んでしまう。

彼を形成する全てが欲しくて、求めてしまう。

自分は何も与えられないのに。あげられないのに。

改めて、自分が無価値な人間なのだと思い知らされる。

そればかりか‥‥自分は鬼。

人でさえない。化け物だ。

それなのに、

それなのに‥‥

「馬鹿。」

困ったような呆れたような声が降ってくる。

馬鹿というにはあまりに優しい響きを湛え、頬を大きな手が包み込んだ。

そっと包み込んだその手が上を向くように促した。

は抗わない。

濡れた瞳を上げれば慈しむような眼差しが見下ろしていた。

土方は愛おしいと思う。

この不器用でどうしようもないくらいに優しく、甘い女が、愛おしくてたまらないと。

彼女はきっと気付いていないだろう。

もう十分というほど、彼女にはたくさんのものを与えてもらっているということを。

ずっとずっと昔から‥‥土方はに色んなものをもらってきたのだ。

この先の命でさえも。

彼女に与えてもらったようなものなのだ。

だから、今度は‥‥彼が返そうと思う。

 

「土方さん‥‥私‥‥」

「もう、いい。」

そっと、目元を撫でられは目を細める。

気持ちが良くて思わずうっとりするように目尻が下がれば、それはひどく官能的な表情に見えて、男はどうしたらい

いのか分からない。

「ひじかた‥‥さん?」

困惑したように笑ったその瞳が、そっと辛そうに細められた。

どうしたのか?と問いかけることが出来なかったのは、紫紺の双眸が次の瞬間、迷いを消し去るかのように強い色を

湛え、同時に激しい熱を浮かべたからだ。

身をも焦がしてしまいそうな、激しい想い。

激しいくせに、なのに慈しむ優しささえも湛えているのは何故だろう?

穏やかな波のような‥‥身を委ねてしまいたい優しさがあるのは。

「‥‥」

は、そうするのが当たり前というかのようにそっと瞼を閉じる。

睫が震えながら閉ざされた。

それは思っているよりもずっと長く、影が目元に落ちた。

落ちたのは影だけではなく、閉ざされた事により涙もこぼれ落ちる。

美しくきらきらと軌跡を描きながら。

 

 

吐息が唇に触れた瞬間、彼女の唇が動いた。

怯えるでも、戸惑うでもなく、色づいた花びらのような唇が音もなく刻んだのは

『すき』

の二文字。

彼女の、真っ直ぐすぎる想い。

全身全霊、魂すらもかけて紡がれる想い。

 

土方は、その想いに応えた。

 

愛している――と、

 

言葉の代わりに、その唇を重ねた。

 

 

 

地獄に突き落とすその罪深き行為は酷く神聖なものに、感じた――