9
仙台までの強行軍は思ったよりも過酷であった。
人目を避けるために街道を避けて険しい山道を通る事になったのだが、東北は未開の地が多い。
故に山もまともに人が通れるようにはなっておらず、獣道をただひたすら進むことになった。
おまけに季節柄、朝夜はひどく冷え込んだ。
野宿となれば遠慮なくその冷気に当てられることになり寒さのためにまともに眠ることさえ出来ない程。
「寒い‥‥」
冷たい空気が遠慮無く吹きつけ、誰かがそんな言葉を呟いた。
すっかり夜も更け、空には星が瞬いている。
ひんやりと空気は冷え切ってしまい、火を囲んでも一向に暖かくならない。
一時の休息を取るためにほとんどの人間が目を閉じてはいるが‥‥誰もが身を縮めて、仲間達と寄り添っていた。
あちこちで咳き込む声が聞こえた。
眠っている仲間達の顔色は‥‥あまり良くない。
連日の寒さによる寝不足と、酷い山道で体力を消耗しているらしい。
おかげで体調を崩す人間が続出だ。
医療部隊は大忙しというところだろう。
と、数名の医術を囓った人間、それから何故か仙台まで同行することになった山口がその対応に追われている。
毎日忙しそうにあっちへこっちへ走り回っているのを見た。
しかし医術に長けた人間がいるのは心強いが、
「でもなんで仙台まで一緒についてくる気になったんだ?」
武人でもない彼が何故自分達についてくる気になったのか不思議でならない。
確かに彼は幕府側の人間ではあるが‥‥そこまで義理立てする必要もないだろうに‥‥
「まさか‥‥」
彼女を追いかけてどこまでもついてくるつもりだというのだろうか?
いやいや、そんなまさか。
ついてきたとしても彼女はどこまでも自分と一緒に突き進むだけだ。
地獄へと――突き進むだけ――
そんな彼女についてきて、彼もまた同じように地獄へと堕ちるつもりだろうか?
それとも――
すうっと冷たい風が通りすぎ、思考が途切れる。
そして同時にすぐ傍でじゃりと音が聞こえて、土方は咄嗟に柄に手を伸ばした。
「大将自ら見張り‥‥なんて御苦労様です。」
だが、続いて聞こえた聞き慣れた言葉に、男は不機嫌そうに眉根を寄せた。
抜刀はしなかった。
視線を上げれば闇の中でもきらきらと輝く琥珀と視線がぶつかった。
「‥‥」
音を立てるまで気付かなかった。
相変わらず、気配を悟らせずに近付いてくる奴である。
「おまえ、気配を殺して近付くんじゃねえって言ってんだろ。」
危うく斬り殺すところだったと土方に言われて、はすいませんと悪びれなく謝った。
恐れを微塵も感じていないようである。
土方に抜き打ちで斬られた所で、一撃くらいなら受け止められるとでも思っているのだろうか?
舐められたものだ。
「少し、交代しますよ。」
はそう呟いて、そっと彼の横に腰を下ろした。
その瞬間、右から受けていた冷たい空気が遮断される。
が身体で壁を作ったからだ。
「見張り、交代します。」
おい、とこちらが文句を言うよりも先にそう言われ、土方は面食らう。
「土方さん、顔色が悪いです。
疲れてるでしょ?」
疲れてる‥‥というのならば疲れていない人間はいない。
ここまで強行軍で進んできた。
それに、疲れているというのならば彼女の方が疲れているに決まっている。
何故なら彼女は先鋒軍にいながら、中軍・後方軍への命令伝達に奔走していたから。
慣れない雪道を進むだけで疲れるというのに、は何往復と、その道を行き来している。
おまけにここ数日体調を崩す人間が増えている。
それの対応にも追われていて、彼女は朝から晩まで駆けずり回っていたのだ。
――疲れていないはずがない。
「余計な気ぃ回してんじゃねえよ。」
おまえこそ疲れてんじゃねえのかと突っぱねればは平気平気と笑った。
「私、さっき向こうで寝てきました。」
「‥‥」
「それに土方さんより、ずっと若いですしね。」
にや、と意地悪く言われ土方は半眼で睨み付ける。
確かに彼女の言うとおりだ。
彼女とは一回り違うのだった。
こればかりはどうにもならないが‥‥若さ‥‥というのは時に羨ましいものだ。
「少しで良いですから、眠ってください。」
それでも首を縦に振ろうとしない彼には続ける。
「土方さん、最近まともに眠ってないでしょ?」
確かに、彼女の言うとおりだ。
この寒さのせいもあるが、やらなければいけない事があって、ここ数日、ろくに休みを取っていない。
目を瞑っても色々と考え事をしている内に朝になってしまい、結局一睡もしないまま動き出す‥‥という日々が続いて
いた。
それに羅刹となった彼は昼間、陽の下を歩くのは体力を常人よりも消耗するし、おまけに彼は一月も前かも知れないが
大怪我を負ったのだ。
人よりも休息を必要とする身体のはず‥‥である。
「‥‥眠ってください。」
お願いしますと彼女は言った。
琥珀の瞳に真っ直ぐにこちらを見て頼まれると‥‥弱い。
いつの間にこんなに自分は彼女に甘くなってしまったのだろう。
まったく、と彼は自分を笑い飛ばした。
「じゃあ、少しだけ‥‥」
まあ彼女が見張りを代わってくれるというのならば何より安心だ。
土方は悪いなと言って、身体を木の幹に凭れさせる。
じんわりと冷たいそれが頭の後ろに伝わって、背筋が震えた。
生き物というのはもっと暖かいんじゃないだろうかと内心で呟いていると、の苦笑と共に、
「こっち。」
ぐい、と腕を軽く引かれる。
そしてとん、と彼女の華奢な肩に男の肩が触れ、頭がこつんとぶつかった。
「そんなのに寄りかかってちゃ寒くて眠れないでしょ?」
「‥‥」
「特別に貸してあげます。」
私の肩。
とはまるで内緒話でもするかのように囁く。
馬鹿野郎、大将が助役の肩にもたれ掛かって眠れるか‥‥というか、それじゃおまえに負担が掛かるじゃねえか‥‥
とか、
そんな事を反論しようと思ったのに、
「‥‥ああ‥‥」
ふわりと隣から伝わる自分よりも高い温もりが、心地よくて、
身体から力が抜けた。
まるで今まで気を張りつめていたのが嘘みたいに、するりと、眠りの波に攫われそうになる。
「山の向こうが明るくなったら‥‥起こしてくれ。」
日の出までそう時間はない。
でも、今なら深い眠りにつけそうな気がした。
一時だけでも、深い、安らかな眠りに。
「‥‥おやすみなさい。」
子守歌でも口にするかのような、優しい声を最後に聞いて‥‥土方の意識はすとんと、落ちた。
「‥‥」
途端、肩に掛かる重みが増し、に彼が眠った事を知らせる。
一呼吸も置かぬ間に熟睡してしまう‥‥というのは、よほど疲れていたのだろう。
「‥‥無茶ばっかりして‥‥」
は小さく呟いた。
咎めるような口調ではあったが、その声は優しかった。
静かな夜の森の中。
風の唸る音が何度も続いた。
こんなに寒くては熟睡も出来ないのだろう。
誰かのくしゃみの音や、何度も寝返りを打つ音が聞こえていたから。
ひゅぅ、
と一際冷たい風が吹き付ける。
まるで氷の塊でも肩にぶつけられたかのような冷たい風だった。
外套を羽織ってはいるとはいえ、右の肩がじんわりと冷えていくのが分かる。
体温が一気に失われた。
その逆、左は暖かい。
暖かい‥‥とはいえ、彼の体温は自分よりもずっとずっと低い気がする。
寝息さえ聞こえないそれに少しばかり不安を感じて、そっと手を伸ばした。
「‥‥ん‥‥」
頬に触れると、小さな声が聞こえた。
まずい、起こしたかと手を離すが‥‥目を覚ます様子はない。
どうやら本当に深い眠りについているようだ。
「‥‥」
良かった、と内心で呟きつつ躊躇いがちに彼の頬を包んだ。
すっかり冷え切ってしまったその肌を暖めるかのように、優しく包んで‥‥あやすみたいに撫でる。
自分の熱を‥‥少しでも彼に与えてあげるかのように。
不思議なことに。
風に晒しているのに、の手は温かかった。
否、
熱かった――
「なんだか‥‥寂しい場所ですね。」
茜色に染まる町並みを見て、がぽつりと呟いた。
翌日、仙台にたどり着いた事に誰もがホッと胸をなで下ろす中、ただ一人は状況を見て眉を顰める。
東北諸藩が集っていると聞いていたから、それなりに人でごった返しているのかと思っていたが‥‥町には活気がなか
った。
ちらほらと人は行き来しているが、どこか皆早足で‥‥何かから逃げているようにも見える。
立ち並ぶ店も門戸を閉ざしてしまっていて、何かに恐れて、皆閉じこもってしまっているかのような‥‥そんな印象
を与えた。
「やっぱり‥‥あの噂のせいですかね。」
と難しい顔で呟く。
「‥‥」
しかし、の言葉は独り言になってしまった。
聞いていないのかと振り返れば、思いっきり不機嫌そうな男の目とぶつかって、
「‥‥」
ふん、とそっぽを向かれてしまった。
「‥‥ちょっと‥‥まだ怒ってるんですか?」
は呆れたように零す。
「当たり前だろうが‥‥」
男は言った。
「予定通りなら、もう少し前に仙台にたどり着いていたはずだ。」
「‥‥」
「おまえが、日の出と共に俺を起こしていればな。」
土方の抗議の言葉に、はあははと笑ってみせた。
結局、土方が目を覚ましたのは随分と陽が昇ってしまってからで‥‥
慌てて皆をたたき起こして動き始めたのが昼頃で、仙台に到着した頃には陽は山の向こうに消えようとしていた。
予定より大幅に遅れてしまったのである。
「いや、だって、みんな幸せそうに眠ってるし‥‥」
疲れが溜まっているようだからもう少し休ませてあげた方がいいんじゃないかなぁと思って、と答えるの横を土方は通
り過ぎる。
横顔はまだ怒っている。
「反省してますって!」
「‥‥」
はそんな彼を追いかけて、もし今日中にやらなければいけない事があるとしたら全部私がやりますと言うが、それには
答えない。
苛立っているのは命令通りに行動しなかった彼女に、ではない。
自分にだ。
あれほどぐっすり眠ってしまうなんて‥‥気が緩んでいたとしか思えない。
しかも、目が覚めた時何故か自分は彼女の膝に頭を乗せて眠っていたのだ。
それは誰にも見られなかったからいいものの、行軍の最中部下の膝枕で寝転けていた‥‥などと弛みきっているにも
程がある。
おまけに、島田から聞いた話だが‥‥は一睡もしていなかったらしい。
怪我人やら病人やらの治療に当たっていて、それどころじゃかったと言っていた。
土方を休ませるために嘘を吐いたのだ。
それを見破れなかったどころか、熟睡してしまった自分に腹が立った。
彼女が疲れを微塵も見せないのは癪だが、それも全部自分の為なのだと思うと、更に‥‥である。
くそ、と内心で呟き、土方は茜色に染まる通りを大股で進んでいく。
「ちょっと、土方さん?」
が小走りで駆けてくるのが分かった。
彼女が誰より疲れていると分かっているけれど、待ってやる気はなかった。
むしろ疲れてその場で立ち止まってくれればいいと思う。
しかし、彼女は立ち止まることなく自分の後にぴったりとくっついてきた。
それが逆に腹が立って、ますます男の歩調は早くなる。
仙台の通りを早足で行きすぎる局長と、その助勤という光景に、部下達は「元気だなぁ」と笑みを零すのだった。
やがて町中を行き過ぎ、茜色に染まる大きな邸の前へとやってきた。
その前に立っていた髭を蓄えた男は大股で近付いてくる男を見つけてぱぁっと表情を明るくすると、
「土方君!」
親しげに彼の名を呼んだ。
呼ばれて彼は不機嫌な顔を怪訝なそれへと変え、その人物の姿を認めるとすぐにその表情を和らげた。
歩調を緩めれば逆に洋服姿の男の方が駆け寄ってくる。
「久しぶりだな、土方君。」
「榎本さんも変わりない様子で何よりです。」
その男は榎本武揚。
幕府海軍の副総裁である。
無血開城した江戸を見限って旧幕府艦隊の旗艦である開陽丸以下八隻の軍艦を奪った猛者だ。
とてもそうとは思えない柔和な印象を受ける洋装の紳士の姿には目を丸くした。
「状況は‥‥?」
再会の挨拶もそこそこに、土方は真剣な顔で仙台の状況を訊ねた。
すると彼も柔和なそれを消し、表情を硬くする。
「まず、仙台城の様子がおかしい。
彼らの考えていることはさっぱり読めん。
会談を申し込んでも是非の返答すら来ない。」
正式な申し出に対して何の返答もない‥‥というのは藩としておかしなことだ。
土方は僅かに眉を寄せた。
「それから、仙台藩にはおかしな部隊が存在している、という話まで街に広まり始めているところだ。」
辻斬りの話は聞いたかい?と榎本は訊ねる。
こくりと土方は頷いた。
どういうわけか、今仙台では辻斬りが横行しているらしい。
「その犯人達が城に戻るとこを見た‥‥という噂がまことしやかに囁かれている。」
「‥‥」
言葉に土方は黙り込んだ。
その事に関して思い当たる節があったのだ。
実は、先行させていた部隊からの連絡が途絶えていた。
山南のみならず、藤堂とも連絡が取れず、彼らが今、どこで何をしているのか全く分からない状況だったのである。
まさか‥‥とは思うが‥‥
「‥‥」
「‥‥」
同じ事を考えていたらしい、土方もも難しい顔で黙り込んだ。
「なんにせよ、このままでは動きようがない。」
榎本はため息混じりに呟いた。
返答がない仙台藩もそうだが、それよりもまず、
「辻斬りの犯人を捕縛してなんとか治安の維持に努めたいところだが‥‥」
それが優先事項である。
呟きに土方が顔を上げた。
「榎本さん‥‥その辻斬りの件、俺に預けてもらえないか。」
理由は聞かないでくれ、と言いたげな瞳を受け、榎本は逡巡する。
がすぐに、
「よし、この件は君に一任しよう。」
と快諾してくれた。
「詳しいことは聞かねえでおくよ。」
「有り難い。」
軽く頭を下げれば榎本はいいってことよと豪快に笑って、それじゃあやることがあるから‥‥と足早に邸の方へと戻っ
てしまった。
「辻斬りの件‥‥山南さんなんでしょうか。」
その後ろ姿を見送りながらはぽつんと呟いた。
さてな、と土方は頭を振り、
「憶測の段階じゃあ何も名言できねえよ。」
だが、とその双眸がすぐに細められた。
「もしあの人が辻斬りの首謀者なら‥‥俺が山南さんを斬るってことだけだ。」
迷いのない言葉にはやはり自分の手で片をつけるつもりかと内心で呟く。
必要ならば彼は山南を斬るつもりなのだろうと。
それと同時に、こうも呟いた。
本当は‥‥斬りたくないくせに――
だけど男は迷いのない瞳で真っ直ぐ前を見ていた。

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