「俺は会津に残ります。」

 

それから数日後。

『仙台にて再起を賭ける』

という大鳥からの報せで、一行は仙台へと発つ事になった。

仙台にて残った力を集結させ、一気に反撃に出るという事だった。

それを受けて仙台藩とは縁がある山南は羅刹隊と共に一足先に向かう事となる。

土方ら本隊が到着するまでに地盤を固めておく必要があるというのだ。

それと同時に、仙台に味方を逃がすためにどうしても今の最前線‥‥母成峠で迎撃する必要もあった。

戦力を分散させるよりも、早く仙台に向かった方がいいのは分かっていた。

だが、そうすれば会津藩を‥‥見捨てることになる。

 

――何を捨てて、

――何を選ぶべきか、

 

土方は迷った。

 

そんな彼に進言したのは、

 

「俺が、会津に残ります。」

 

斎藤だった。

 

「俺は微衷を尽くして生きたい。

武士として、信じた義のために戦いたい。」

 

彼は言った。

皆のためでも、新選組のためでもなく、

ただ自分のために‥‥残りたいのだと。

 

だけどそれは――囮になるために違いはなかった。

 

 

 

襖を開けると先客がいた。

自分の部屋に。

その光景を見るのは何度目だろうと思いながら、土方は溜息を吐く。

 

「おまえに今更礼儀云々を説いた所で遅いだろうが‥‥普通は部屋の主がいない場合は入室するのを遠慮すると思う

んだがな‥‥」

「だって私と土方さんの仲ですから。」

あははと笑ってさらりという彼女に何を馬鹿げた事をと土方は鼻で笑い飛ばした。

すっと後ろ手に襖を閉めると、いつもの定位置に腰を下ろす。

はその前で正座している。

なんだかんだと忙しかったせいで、彼女がこの部屋に来るのは久しぶりである。

 

「先生の所に行かなくていいのか?」

 

自分でも意図せずそんな言葉が出てしまったのは、彼女が自分の所に来ていなかった間、山口の所に行っていたのを

知っていたからだ。

 

「‥‥」

 

どこか冷たい響きの言葉に、は一瞬目を見開いた。

なんだかすごく突き放された気分になり、思わず視線を落とし俯く彼女に、男は罪悪感が募る。

 

「‥‥悪い。」

 

決まり悪そうに、小さく謝罪の言葉を口にした。

 

彼女は別に遊んでいたわけではない。

彼の元に通い、彼のその知識を彼女なりに盗もうとしていたのだ。

それが分かったのは‥‥最近、が怪我人の治療に当たっていると聞いたからだった。

山口が今後どこまでついてきてくれるかは分からない。

それに戦場に彼を駆り出すわけにもいかない。

その知識を持っていれば、助かる命をは何度も見てきた。

だから‥‥彼女なりに技を盗むために通った。

そして着実に、彼女はそれを身につけている。

 

「助かってる‥‥」

と言うと、は首を振った。

彼の言う言葉にも一理あったからだ。

少なからず、も山口の所へ‥‥井上というかつての仲間の面影を追いかけて通っていた所があったから。

思い出に縋る‥‥なんてなんとも馬鹿な事をしたものだとは自分を恥じた。

 

双方が黙り込み‥‥重たい沈黙が落ちた。

 

二人とも別の場所をじっと見つめて‥‥ただ黙り込んでいた。

風の音もどこか二人の躊躇うような空気を悟ってか、音を立てずに静かに通り過ぎていく。

ただ時折じりじりと蝋燭の芯を焦がす音が控えめに響き、

 

「‥‥斎藤の事‥‥だろ?」

 

たっぷりの沈黙の後、重たい沈黙を破ったのは土方だった。

 

考えている事は二人とも同じだった。

はこくりと頷く。

 

明日から‥‥また別れる事となる仲間のことを、二人は考えていた。

そして多分、ここで別れたら、もう二度と、会う事は出来ない。

それを二人は分かっていたからこそ‥‥何も言えなかった。

 

「‥‥出来るなら、私‥‥一も連れていきたかった。」

 

一緒に仙台に。

いや仙台だけじゃない。

どこまでも一緒に戦いたかったと彼女は言った。

土方とて同じ気持ちだ。

でも、彼は選んだ。

自分で選んだ。

 

それは‥‥斎藤の最初で最後の彼の我が儘だった。

 

会津公には恩義がある。

それを今‥‥返したい。

 

彼は真っ直ぐな目をして、そう言った。

 

誰が止められるだろうか。

彼は自分の信じたものを貫くために残るというのだ。

土方が‥‥信じたものを貫くために生き抜くのと同じように。

彼はここで散ると言ったのだ。

 

もう、止められるはずがなかった。

 

それが‥‥彼の生き方なのだから。

 

「‥‥寂しいか?」

なんて愚かな事を聞いているのだろうと思った。

寂しいに決まってる。

一人ずつ、彼女は大事なものを失っていっているのだ。

何より彼女が大事にしたものを失って‥‥それこそ、身体の一部をもぎとられていくような思いだろう。

寂しくないはずがない。

苦しくないはずが‥‥ない。

 

「そう‥‥ですね。」

寂しくないと言えば嘘になります、とは言った。

でも、

「それが一の選んだ事なら‥‥それが一番なんだと思います。」

次にそう言って、確かに笑った。

 

こういうときも、やはり、彼女は笑うのだった。

 

「おまえは、泣かねえよな‥‥」

 

ぽつりと土方は呟いた。

 

は、一度だって泣かなかった。

 

井上が死んだ時も、原田や永倉がここを去った時も。

近藤が死んだと知らされた時も。

 

そしてまた、

斎藤という仲間を、家族を失う‥‥今だって。

 

「私は、泣きませんよ。」

そんな可愛い性格してませんと笑えば、土方はふっと空気が抜けたかのように笑って、

 

「俺の‥‥為、だろう?」

 

そう訊ねた。

 

自惚れでもなんでもない。

彼女ならばそうすると知っていた。

泣かない理由は、土方のため。

何故ならば、

 

「俺を‥‥苦しめると思ってるから。」

 

自分が泣く事で、土方を苦しめると。

そう、は思っていた。

いや、分かっていた。

 

だって、土方はそういう人だから。

 

が泣いた分、

彼は自分を責め続ける。

泣かせたのは自分だと‥‥自分が無力だからだと。

自分だって悲しい癖に、自分を責め続けるから。

 

「‥‥」

 

は是とも否とも言わなかった。

ただ、力無く笑っただけだった。

その笑顔が痛々しくて‥‥土方が逆に視線を落とした。

 

「おまえは、俺たちのせいで人生のほとんどを犠牲にしちまったな‥‥」

 

自分のしたい事を斬り捨てて、

自分の感情を斬り捨てて、

ただただ武人として戦うことに身を投じた。

 

「自分の思ったように‥‥泣く事もできねえなんて‥‥」

 

悲しすぎると彼は呟いた。

 

もっと自由に生きればいいのに。

自分達に囚われずに、もっと、自由に。

彼女が思ったままに生きればいいのに‥‥

 

そう、願わずにはいられない。

だって、このままではあまりに‥‥

彼女が哀れだ。

 

そう、思うのに――

 

「ねえ、土方さん。」

 

そっと静かな声が自分を呼ぶ。

視線を上げると、琥珀の瞳とぶつかった。

彼女は、控えめに笑った。

 

「私‥‥不幸じゃありませんよ?」

 

哀れな女は、そう言って‥‥笑った。

 

 

 

「土方さんは生き残ってください。」

見送りにやってきた斎藤は静かに言った。

「は」というのはどういう事だと内心で呟いたが、真剣な眼差しに気付いて、止める。

 

「新選組は近藤さんや土方さんが信じて築き上げてきた武士の道そのものだ。」

 

斎藤は言った。

 

敗走を積み重ねようとも、

幕府さえ官軍に頭を下げようとも、

新選組には決して折れない思いがある。

 

「新選組が掲げる誠の旗は、今や侍たちの拠り所になっています。」

 

いまや幕府でも将軍でもなく。

ただ自分が信じた『誠』のために‥‥彼は戦い続けている。

愚かなだけだというのに、しかし、侍達の拠り所となっているというのだ。

 

「新選組は武士を導くもの‥‥義の道標です。」

 

それは‥‥確かに馬鹿げた夢から始まった。

だけど、今では、

それが侍達を導く‥‥道標となっていた。

 

それだけが、戦い続ける侍達の‥‥希望なのだと。

 

「俺は新選組を作り上げた土方さんにこそ、道標を担い続ける義務があると考えています。」

「簡単に言ってくれるじゃねえか。」

真っ直ぐに告げる言葉に土方は小さく吹き出した。

 

道標を担い続ける義務がある‥‥となればそう簡単に投げ出すことも、止まることも出来ない。

勿論、

死ぬことさえも‥‥

 

簡単な道ではない。

貫き続けるのは簡単な事ではなかった。

 

だけど、

さあと、静かな風が吹く。

 

「おまえに約束してやるよ。」

 

土方は穏やかな表情で告げた。

 

「‥‥俺は、新選組の行く末を見届ける。」

 

侍達の未来を。

しかと見届けると彼は確かに言った。

 

それが‥‥自分が残された生き方。

それが‥‥死んでいった者達への精一杯の償い。

 

だから、

行く末を見届ける。

彼らが見られなかった『夢』を‥‥確かにこの目で。

 

その言葉に斎藤はそっと双眸を細めた。

嬉しそうに笑った。

 

「ありがとうございます。」

 

頭を垂れればさらりと黒髪が流れ‥‥風に揺れる。

そんな彼を見ていちいちくそ真面目な奴だと土方は笑い、くるりと踵を返した。

別れの言葉は‥‥なかった。

言いたくなかったのかもしれない。

 

。」

 

遠ざかる背中を見送った後、離れた所で荷物に腰を下ろしていた彼女に声を掛ける。

どきんと胸が嫌に高く鳴ったのを無理矢理無視して、は立ち上がろうとした。

そんな彼女に、

 

「髪が‥‥」

 

斎藤は言って彼女にそのまま腰を下ろしているようにと促す。

言われるままに腰を下ろせば背後に斎藤はの背後に回り、何事かと思う間もなく、ぷつ、と髪を引っ張る感覚が

緩くなった。

落ちると思った髪は、だが男の手によって一纏めにされた。

どうやら髪の毛を結い直してくれるらしい。

 

「乱れてた?」

「少し、な。」

「今朝自分でやってみたんだけど‥‥」

どうやら上手く結べてなかったらしい。

 

昔から、は細かい事が苦手だった。

髪の毛を纏める‥‥というのもその一つで、自分で纏めると必ず髪の毛が纏めきれていなかったり、頭がぐちゃぐちゃ

に乱れてしまったりする。

だから、髪を纏めるのは斎藤の役目であった。

小さな時は沖田の姉に結んで貰っていたが、ある日、女手がなかったとき通りかかった斎藤に髪を結って貰ったのが

始まりだった。

 

「あの頃は、おっかなびっくりだったよなぁ。」

 

思い出して笑う彼女に斎藤は眉根を寄せた。

 

「仕方ないだろう‥‥」

女の髪など結った事がなかったのだ。

それに彼女の髪の毛は柔らかくて滑らかで、少し力を入れただけでぶつりと引きちぎってしまいそうだったのだ。

どれくらいの力を入れて良いのか分からず、緩く結えば髪の毛は落ちてしまい、またきつく結うと皮膚が引っ張られて

痛そうだった。

丁度良い結び方‥‥とやらを習得したのはそれから何度か失敗を重ねたからだ。

そういえば髪の毛は纏まると重たいのだ‥‥というのも彼女の髪を結って初めて知ったのだった。

 

「結べないなら結べないって言えばいいのにー」

律儀な奴だとは笑った。

「そういうあんたこそ、俺が不得手だと知っているのに何度も頼んだ。」

意地の悪い女だと斎藤が言う。

 

確かに彼の手際はあまり良くなかった。

でも、は何度も何度も彼に頼んだ。

またかという顔で迎えられたが、結局彼は結んでくれた。

 

すっと髪の毛の隙間を男の指が流れる。

もう躊躇いや戸惑いはないけれど、いつだって彼の指は、優しかった。

 

世間話をする時もあれば、無言の時もあった。

彼とはあまり会話をする機会がなかった。

元より彼が無口なせいもあっただろう。

でも、その無言の間が苦痛だと思った事は一度もない。

話さない分‥‥彼の優しい指使いが、彼の人となりというのを教えてくれたから。

 

はその時間が好きだった。

髪を結う短い時間だったけれど、その間の‥‥ありふれた日常‥‥みたいな時間が好きだった。

戦とか‥‥幕府とか、そういうのを考えないですむ、ごく普通の時間が。

 

「出来た。」

ぽんと肩を叩かれ、は振り返る。

振り返れば斎藤は穏やかに笑っていた。

珍しく穏やかなその表情に、心臓がいやな音を立てた。

「一‥‥」

何か言わなければと思った。

だけどそれよりも前に、

 

「土方さんを頼む。」

 

そう、彼は告げる。

 

――土方さんを頼む――

 

そんな言葉にの表情は僅かに引き締まった。

 

これから、何度、

その言葉で彼女は縛り付けられるだろうかと思った。

土方と同様、彼女は苦しい戦いから逃げ出すことも、立ち止まることも出来ず、悲しい行く末を見守る役目を負わされ

るのだ。

でも、

彼女にしか頼めない事だった。

 

「土方さんを‥‥頼む。」

 

まるで、

自分の想いを全部託すみたいな言葉。

まるで、

もう、二度と会えないみたいな‥‥言葉。

 

はそうっと目を細めた。

夢を見るほど‥‥子供じゃない。

現実が見えないほど‥‥子供じゃない。

でも、それでも、

 

「‥‥一。」

 

は願いたかった。

 

「また、会おうな。」

 

出来ることならばもう一度。

幕府も、戦も関係ない所で‥‥もう一度。

 

「会おう。」

 

そうしてまた‥‥一緒に、笑おう。

 

は願いたかった。

もしかしたら千鶴の甘さが伝染したのかもしれない。

でも、

甘くても良い。

そう思った。

 

「また、会おう。」

 

そっとは手を差し出した。

 

そんな彼女を驚いたように見つめていた彼は、

「‥‥」

やがてその青い瞳をそうっと、細めて、

 

「ああ。」

 

笑った。

 

「きっと‥‥また‥‥」

 

どこかで会おう――

 

ふわりと流れる飴色の髪には、白が揺れた。

それは以前、彼が髪を結んでいたものだった。

 

 

 

「また‥‥必ず‥‥」

 

 

手の中に収まった用を為さない組み紐を優しく見つめ、男は呟いた。

 

それは‥‥彼には似つかわしくない、赤の、組み紐。

 

「必ず‥‥」

 

もう一度、

 

彼は誓うように告げて、その組み紐を懐へとしまい込んだ。

 

まるで、

彼女らとの思い出を‥‥大事に仕舞うかのように――