10
今日はなんだか頭がぼんやりとする。
空気はひんやりと冷え切っているのに、頭だけがぼうっとした。
まさか冷え逆上せだろうか、とは思った。
これだけ寒ければ仕方のないことかもしれない。
「‥‥ああ、いけない‥‥」
ぼんやりとしていたせいで、ぽたりと墨が紙に落ちてしまった。
折角書いた文が台無しだ。
は慌てて筆を下ろした。
残念ながら文は使えそうにない。
もったいないと呟きながら紙を丸めてぽいと放り投げた。
紙くずは屑入れの側面に当たって、ぽん、と見当違いな方向へと飛んでいってしまう。
どうやら今日は本格的にぼーっとしているようだ。
今日は部屋で待機していて良かった。
丸めた紙に滲む自分の文字は‥‥教えてくれたあの人の文字に似ていた。
そういえば、
「山南さんのことは‥‥どうなっただろ?」
ぼんやりついでにはそんなことを考える。
まだ山南からも藤堂からも連絡は来ない。
毎晩のように見回りに出てはいるが、辻斬り事件の犯人はまだ捕まらない。
だがその辻斬りの被害者はいつかの‥‥京や江戸で起こった事件と同じで、身元が判明できないくらいに切り刻まれて
いた。
昔、羅刹隊が見回りに出たとき、攘夷志士らを同じように切り刻んでいたのを思い出す。
考えれば考えるほど‥‥彼らが怪しくて‥‥仕方がなかった。
憶測で考えてはいけないのだろうけど。
「‥‥」
はもう一度ふぅ、と溜息を零した。
冷たい空気を散らすのは思ったよりも熱い吐息であった。
「考えても仕方ないな。」
次、とは新しい紙を取りだして筆を取った。
今日も何事もなく一日が過ぎる。
土方の帰りを待ちながらそう思っていると、不意の来客が現れたのだった。
「っ!!」
襖が乱暴に開き転がるように入ってきたのは、
「平助?」
驚くことにここ数日連絡が取れなかった藤堂だったのだ。
無理をして昼に動いているせいだろうか、顔が随分と青かった。
「土方さんは!?」
転がり込むなり彼は言って土方の姿を探す。
切迫した様子の口調にはすぐさま瞳を細めて問いただした。
「何かあった?」
生憎と土方は城下町へと視察に出ている。
代わりに話を聞くと言えば藤堂は短い逡巡の後にこくりと頷いた。
「オレたちがここに来たとき‥‥仙台藩が、幕府軍に非協力的でさ。」
彼はそう言って切り出した。
城にも入れてもらえず、まともに取り合ってもくれず、まるで彼ら幕府軍と接触したくないといった感じの反応だった
と彼は言った。
そんな藩の様子に『もしかしたら仙台藩に新政府軍からの圧力が掛かっているのではないか』と山南は考え、あちこち
調べ回ったという。
そうして、調べ回るうちに、
「仙台に綱道さんが来てるって事を突き止めたんだ。」
「綱道さんが‥‥?」
は瞳を僅かに見開いた。
あれだけ探していて見つからなかったというのにこんな所で見つかるとは‥‥
こいつは好都合だとは思った。
彼には聞きたいことが山ほどあった。
羅刹の研究をしているのは‥‥彼だったから。
「綱道さんは‥‥新政府軍の、羅刹隊を率いてるみたいでさ。
これは放っておけないと羅刹隊の動きを監視していたんだけど。」
けど?
は目を細めた。
藤堂は言いづらそうに視線を逸らす。
「見ちゃったんだ、オレ。
山南さんが、綱道さんに接触してるところ。」
集団で動けば動きが目立ってしまう。
と言って山南は単独行動を取り始めた。
そしてある日、
情報を得ると言って隊を離れた山南が綱道と密会している姿を彼は目撃してしまったのだ。
「しかも、一度や二度じゃないんだ!
綱道さんと会ってるのは‥‥」
何度も彼らは隠れるように会っていたのだと藤堂は教えてくれた。
もし何か考えがあるのだとしたら自分にも教えて欲しい‥‥と藤堂は訴えた。
だが、山南はただはぐらかすばかりで、そればかりか、
「本隊にも連絡入れないし‥‥」
まるで連絡を取っているその状況を知らせたくないとでも言わんばかりの行動に藤堂はぐしゃりと顔を顰めた。
「オレ、どうしたらいいのかわからなくなって‥‥」
それは裏切り行為なのか、それとも違うのか。
彼が何を考えているのか分からなくて、どうしたらいいのか分からなくて‥‥
「そしたら、土方さんが仙台に着いたって聞いて‥‥」
「山南さんの目を盗んでここに来たって事?」
なるほど。
今の時間帯なら羅刹である山南は眠っている頃か。
はふむ、と一つ呟いた。
「‥‥」
ここは彼から直接話を聞き出すのが一番か。
もし敵と接触して情報を得ているのならばそれでいい。
有り難い事に綱道とも接触しているのだ。
羅刹に関する情報が聞き出せたかもしれない。
それに、
もし、敵に寝返ったのだとしたら、
彼の行く手を阻むのだとしたら、
斬ればいいだけ――
敵になったのならば容赦なく斬り捨てればいい。
「‥‥あの人が手を下すまでもない。」
は小さく呟いた。
仲間を斬って、
彼が傷つく必要はない。
彼だけが、罪を背負う必要はない。
「私が、殺す。」
鋭い眼差しでは告げた。
その強さに藤堂は思わず息を飲んだ。
「山南さんの所に連れてって。」
彼の代わりに私が――終わらせる――
藤堂の事を考え、なるべく人通りの少ない薄暗い場所を選んで歩く。
陽の光の下で彼は少し苦しそうだった。
夜を待ってから出れば良かったのかも知れないがそうすると土方に気付かれる恐れがある。
そうなっては意味がない。
藤堂には申し訳ないが、少しだけ我慢して貰うしかなかった。
そういえば今頃見回りに出ている彼も同じ状況だろうか?
彼も‥‥藤堂と同じ羅刹だ。
「‥‥平助、平気?」
は何度も問いかけた。
返ってくるのはいつも「大丈夫」という言葉だ。
「辛いなら少し休んでいく?」
「そんな暇‥‥ねえよ。」
だが彼は頭を振ってしっかりと一歩を踏みしめる。
彼は焦っているように見えた。
「でも、今は日中だから大丈夫じゃ‥‥」
大丈夫じゃないのだろうか。
だって、
彼らは陽の光に弱いのだから。
そう続けようとした言葉は、
――がたんっ――
激しい物音と共に通りに駆け込んできた武装した集団に遮られた。
「っ!?」
二人は弾かれたように飛び、抜刀する。
あっという間に二人を取り囲んだのは見慣れぬ男達ばかりだ。
しかし、
その目と髪の色には見覚えがあった。
「羅刹‥‥」
色のない白い髪と‥‥そして血のような赤の瞳。
それを持った男達は二人を見ると、にやりと不気味に笑った。
そうして、
「っがぁっ!!」
一斉に飛びかかってくる。
「このっ!!」
「っ!」
咄嗟に刃を弾いては距離を取った。
昼間だというのにその動きは機敏である。
羅刹は日光に弱いはず。
それを証拠に藤堂は苦しそうに喘いでいる。
だが襲いかかる羅刹達はいきいきとした様子であった。
陽の光を恐れていない。
これは一体――
「っがぁああ!」
再び羅刹は刃を振り上げて斬りかかってきた。
咄嗟に目の前の敵を斬り伏せ、一角を切り崩すと走り出した。
狭い路地でこれだけ大勢と斬り結ぶのは不利だと思ったからだ。
「平助!」
「オレはいいから!先に行けっ!」
崩れた一角はあっという間に戻り、二人の間には壁が出来てしまっている。
取り残された彼は苦しげな声で、だが先に行けと吼えた。
行き先は‥‥分かっている。
は唇を噛みしめると、迫り来る羅刹達に鋭い眼差しを向けて、
「ついてこれるもんなら、ついてきな――!」
は挑発するように言って通りを駆けた。
陽の光の下に飛び出した。
が、羅刹はやはり恐れることなく追いかけてくる。
どれだけの数がいたのかは分からないが、その大半がについてくる所を見ると‥‥目的は藤堂というよりもに
あるようだ。
副長助勤を潰すのが先、か。
「‥‥おまえらに遅れを取るわけには‥‥」
いかない。
はずだった。
しかし、
――ずきん、と鈍い痛みが頭を駆け抜け、
「っ!?」
足下が揺れる。
まずい。
と思ったときには世界がぐるんと周り、均衡を保てなくなり、
「がぁっ!!」
「っ!?」
衝撃と共に闇に、
落ちた。
「‥‥今日も随分と人が少ねえな。」
町を巡りながら土方は小さくそんな事を呟く。
大きな通りは人がいないだけで更に広く見える。
今は昼日中と言うだけあってあちこちにちらほらと人の姿が見えた。
が、その誰もが足早に通りを駆け抜けていく。
ちり、と張りつめた空気は相変わらずのようである。
昨夜も辻斬りが出た‥‥と言っていたからだろう。
皆怯えているのだ。
いつ、自分が被害に遭うのかと。
「‥‥」
毎日のように見回りに出るのだけど一向に辻斬りの犯人は捕まらない。
そのうちに被害者は何十人と増えてしまっているというのに‥‥
「そろそろこっちから手を打ってみるか。」
土方は一人ごちた。
待っていても埒があかない。
ならばこちらから打って出るしかない。
そうと決まれば善は急げ、である。
土方はくるりと踵を返すと宿へと引き返した。
彼女にそう伝えるためである。
一人で出ようものならば文句を言われるのは目に見えているし、もし自分の帰りが遅ければ彼女は町中を駆け回って彼
を捜すだろう。
そんな事になったら大変だ。
「‥‥そういや‥‥」
ふと、彼は思いだした。
今日、自分を送り出した彼女の事を。
忘れ物を手渡してくれた時に触れた彼女の手は、
「‥‥なんだか熱かった気が‥‥」
彼女の手は‥‥そんなに熱かっただろうか?

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