ふと気がつくと、いつもそこにいた。
皆が揃って笑っていたときも。
苦しい戦いの中でも。
がむしゃらに走り回っているときも。
立ち止まりそうになったときも。
気がつくとそこにいた。
そこにいて、自分を見ていた。
彼女はいつだって、自分が求める瞳をこちらに向けていた。
苦しいときは、暖かく優しい眼差しで。
迷ったときは、凛とした揺るぎない眼差しで。
それを見ていると、なんだか自分が奮い立たせられるような気がした。
ひどく優しくなれた。
穏やかに、暖かい気持ちになれた。
冷静に、なれた。
――彼女はいつだってそこにいた。
自分の傍に。
あの時、
近藤が投降し、自暴自棄になっていたあの時。
周りの全てを拒絶し、寄せ付けなかったあの時。
彼女は傍にいた。
傍にいて、
目を見る代わりにその手を握ってくれた。
何故、そこにいてくれるのだろう?
何故、自分の傍にいるのだろう?
彼女の世界の中心は、近藤だったはず。
それなのに、
何故、
自分の傍にいてくれるのだろうか?
彼を、
見捨てた男なのに。
「それが近藤さんの願いだからです。」
その言葉に、
自分はどれだけ甘えるのだろうかと男は嗤った。

1
男は澄み渡った青空を、まぶしそうに目を細めて見つめていた。
穏やかな青空と同じ、いや、それよりも穏やかなそれで、目に刻みつけるかのように見つめた後、
「ながながと厄介になった。」
と周りの者たちに場違いな挨拶をし、やがて頭を垂れた。
目をつぶればすぐ傍に仲間の顔が見えた。
昨日の事のように、彼はいろんな事を思い出した。
決して楽ばかりではなかった。
苦しいことや悲しいことも何度もあったはずなのに‥‥
今思い出すと、とても、彼には満足のいく生き方で、
「楽しかったなぁ。」
彼は心の底からそんな言葉を呟いた。
それは、慶応四年――四月の二十五日の事。
『すごいです!土方さん!!』
年若い兵士がこちらを希望の籠もった瞳で見つめる。
宇都宮城を陥落させる前、彼らは畏怖と好奇の眼差しで見つめていた。
だが、陥落させた後、彼らは羨望の眼差しをこちらへと向けていた。
単純なものだと笑ったが、その真っ直ぐで希望に満ちた瞳を見ると‥‥なんだか昔を思い出した。
『土方さんってやっぱりすげー!』
曇りのない、きらきらと輝く瞳が。
『あんたと一緒に喧嘩が出来るなんて、最高だな!』
どこか無邪気ささえ感じる楽しそうな瞳が。
かつての仲間達の瞳も、確かそんな色を浮かべていた。
もうここにはいない仲間達の姿だ。
彼らも同じ夢を見た。
共に見たいと彼らは言った。
共に戦いたいと彼らは真っ直ぐに自分を見た。
『土方さんと一緒に戦える事を誇りに思います。』
宇都宮で彼に向けられた瞳は、それと同じだった。
昔。
自分が向けられていたのと同じ。
そして、
昔、
自分が彼と共に、夢を語り合ったとき。
『なあ、トシ。
俺は昔から夢があるんだ。』
『へえ?どんな?』
『軍記物に出てくる武将達のように、自分の信じたものを守り貫く武士になってみたいんだ。』
子供が夢を語るかのように、純粋で‥‥美しい瞳を持った男は、そう言った。
並み居る敵をばったばったと倒し、仕えるべき主の為に死をも怖れずに戦う‥‥そんな武将になりたいと。
所詮は、馬鹿げた夢だ。
貧乏道場と百姓の息子では侍になどなれない。
でも、
彼らの憧れであった。
あんな風に、
己の信念を貫き通し、守るべき者の為に命を掛け、潔く生きたい――
『そいつはいいな。』
馬鹿げた夢だと男は思った。
だけど、その馬鹿げた夢を‥‥この男と共に見てみたいと、そう思った。
『それじゃああんたは武将になってくれ。
俺はあんたを押し上げてやるよ。』
そう言えば、彼はきらきらと‥‥星の瞬きよりも輝く瞳をこちらに向けて、
『じゃあ、一緒に行こう。』
迷いのない、いっそ爽快な笑みを、彼は浮かべた。
そして、
そんな馬鹿な男達の元に、仲間が集まった。
彼と描いた夢が‥‥少しずつ形になっていった。
新選組は、
近藤と土方が作り上げた、夢のかたまりだった。
一度壊れ掛けたそれは‥‥
また、
新たな希望を、生み出した。
『どこまでもついていきます』
輝く、眩しい笑顔を見せる兵士達の目は‥‥あの時の近藤と同じ、迷いのない綺麗な輝きを放っていた。
「俺はあいつらを引っ張ってやらねえとなと思ってる。」
夢の中で土方は呟いた。
それは夢だと分かった。
ぼんやりと、景色が曖昧に掠れていたからだ。
そして隣に、
「近藤さん。」
彼が、いたから。
「あんたと一緒に描いた夢を‥‥見たいと言ってくれてる奴らがたくさんいるんだ。」
土方の言葉に、近藤は目元を和らげてそうかと答えた。
そこは見慣れた場所だ。
試衛館道場だった。
彼らは揃って縁側に腰を下ろしていた。
よく、そうして話し合ったのを思い出す。
貧乏道場と、百姓の子で‥‥どこまで上り詰められるか。
そんな夢を共に語り合った場所だった。
「俺は、幕府のお偉いさんを守りてえわけじゃねえ。」
もう戦う力も持たない軟弱者達を守りたいとは思わない。
信じて戦う兵士達を切り捨てるような臆病者を守って、無駄に散りたいとは‥‥
でも、
「あんたと作り上げた新選組を‥‥」
彼と共に描き、形にした夢の結晶を。
「潰したくはねえ。」
それはただ、
――楽しかった夢に追いすがっているだけなのかもしれない。
未練がましく、
ただ、
彼と共に描いた夢に、
いや、彼と過ごした楽しかった時間に、
縋り付いているだけなのかも。
だけど、
それでも、
それを信じてついてきてくれる人間がまだ、いる。
彼らの夢を、共に見たいと言ってくれる人間がまだいる。
「俺は‥‥」
土方は視線を青空へと向けた。
ぼんやりと歪んだ視界のくせに、空だけははっきりと美しく見えた。
まるで、彼の未来を示すかのように。
「死に場所を、見つけたよ。」
土方は言った。
決して自暴自棄になっているわけではない。
ただ、自分の役目を見つけ‥‥自分の結末を、予感しただけだ。
彼らを見届けた先に、自分の居場所はないと。
だから、
「俺は‥‥死に場所を見つけたよ。」
土方の言葉に、近藤はそうか、と答えただけだ。
死ぬな‥‥とは言わなかった。
ただ、
『トシよ。』
「ん?」
『おまえはこの戦いの先には自分の役目はないというが‥‥そんな事はないと俺は思う。』
腕を組み、近藤は優しげな笑みを浮かべていた。
「そうか?
俺には戦う事しか残されちゃいねえんだぜ?」
そんな人間が、戦いが終わったら何に役立つというのだろう。
そう言うと、近藤はゆったりと首を振った。
『おまえ自身を必要としている人間がいるだろう?』
新選組の副長‥‥ではなく、
彼、土方歳三という人間を、
必要としている人間が。
「‥‥誰だ?」
そんな奇特な奴はと土方は笑った。
すると、近藤はなんだと肩を竦め、
『トシも随分と鈍い男だなぁ‥‥』
やれやれと大仰に溜息を吐いてみせる。
「なんだよ、その反応は‥‥まさか近藤さん知ってんのか?」
『ああ。』
近藤は勿論だと頷く。
そしてにんまりと楽しげに笑い、
『トシ、おまえは前だけを見過ぎているんだ。
もう少しゆっくりと周りを見てみたらどうだ?』
と言う。
言われてみると彼は今まで前ばかりを見ていた気がする。
ただがむしゃらに前を‥‥未来ばかりを見つめていた。
特にここ最近は前ばかりしか見えていなくて、
振り返って、周りを見回す余裕は無かったかも知れない。
『おまえの周りには色んな人がいるだろう。』
色んな人が彼を支え、そして彼を想っている。
近藤は優しくそう告げた。
『だから‥‥』
――ひじかたさん――
声が聞こえた気がした。
呼ばれている。
その瞬間、何故か戻らなければいけない気がした。
だけど、もう少し彼と一緒に話をしたくて‥‥
「近藤さん!」
振り返ると彼は、遠く離れた場所にいた。
彼は笑顔でこちらを見ていた。
世界が遠のいていく。
夢から覚めようとしているのだと分かった。
待ってくれ、と手を伸ばしたが、その手は届かない。
追いかけようとする彼を、近藤はひどく優しい表情で見つめて、こう、言った。
『トシ‥‥おまえはまだこっちには来るなよ。』
――こっちって何だよ――
そう思った瞬間、
何か、その答えが出た気がして‥‥
霧散した。
瞳を薄く開くと、世界はぼんやりと霞がかってみえた。
それが眩しくて目を細める。
すると、差し込む光を遮るように何かが自分を覆った。
人影だ。
だれだ?
まだまともに物をとらえられない瞳には、黒い陰しか映らない。
近藤さん?
「‥‥土方さん‥‥」
静かな声が自分を呼んだ。
低く抑えても、よく通る凛とした声だった。
確か、その人の名前は――
「目が、覚めました?」
徐々に慣れていく瞳が捕らえたのは、二つの琥珀の輝きだった。
それはいつだって自分を見ていた強く‥‥そして美しい瞳。
「‥‥?」
意識せずとも名前が滑り落ち、呼ばれたはそっと微笑みを返した。
その瞬間、彼の視界ははっきりと開けていき、
世界が‥‥一瞬にして光で満たされる。
優しい光の中にいた、彼女の姿を見て――気がついた、
『おまえの周りには色んな人がいるだろう。』
色んな人が彼の周りにはいてくれると、近藤は確かに言った。
それが本当に、彼のためにいてくれるのか‥‥裏切らずに最後まで共にあるのかは、それは分からない。
でも、
確かに、
彼女は自分の傍にいた。
――昔から何一つ変わらず――傍に――
そんな事実を今更ながらに知ったと言えば‥‥あの人は笑うだろうか?

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