土方は闇の中にいた。

ぼんやりと自分は浮かんでいた。

あたりには何も見えない。

温度も感じなかった。

 

死んだだろうか‥‥

 

と思った。

とうとう、死んだだろうかと。

 

まあ、今回は随分と無茶な事をしでかしたのだ。

あれで生きている方が不思議だ。

普通の人間であれば戦いの最中に死んでいただろう。

 

とうとう死んだか‥‥

 

と土方は笑う。

 

死ぬ事は怖くなかったが、近藤の事が気がかりだった。

彼はどうなっただろうかと。

自分たちの願いは通じただろうか。

彼を助ける事は出来ただろうか。

そうであればいい。

彼が生きていれば‥‥新選組は大丈夫だ。

自分よりも彼がいてくれるほうが、新選組は‥‥

 

土方はそっと瞳を閉じる。

開いているのと同じ闇だった。

 

そういえば‥‥と彼は目を閉じ、思う。

 

あの時自分が死んだ、というのならば、やはり風間に負けてしまったということだろうか?

 

それは正直癪だ。

あの男にだけは負けたくなかった。

あの男は新選組を、彼らの夢を笑い、踏みにじろうとした。

 

それに彼は‥‥

 

――

 

脳裏に色を失う琥珀の瞳が蘇り、土方ははっと目を開けた。

 

――

そうだ。

彼女だ。

 

あの場で死んでいたというのならば、彼女は一体どうなった?

風間の腕から奪い返した。

でも、あそこで死んでいて‥‥もし、奪い返されていたとしたら?

 

そして、

あの男に‥‥

あの男の手に、

彼女が汚されていたとしたら?

 

――――

 

目の前が真っ赤に染まった。

燃えさかる炎がすぐ目の前に迫った気がした。

 

怒りで頭の中がぐつぐつと沸騰している。

声を発すれば叫んでしまいそうだった。

 

――誰が奪わせるもんか‥‥

 

ぎりりと奥歯を噛みしめた。

 

鬼の唇が彼女のそれを汚すのを。

彼女の悲痛な声が聞こえるのを。

その瞳が、自分を見て悲しげな色を浮かべるのを。

 

そして、

 

彼女の白い肌に、

鬼が自分の証を刻みつける様を思い出し、

男の目の前は真っ赤に染まった。

 

――そいつは俺の――

 

世界は、開けた。

 

 

 

「‥‥」

 

ぼんやりと映るのは見慣れない薄汚れた天井だった。

土方はそれを見つめながら、地獄というのはあまりに質素だと思った。

質素で‥‥あまりに普通だと。

 

しかし、

 

「目、覚めました?」

 

そのぼやけた視界に柔らかい飴色が映り込んだ瞬間、

 

「‥‥?」

 

ここが地獄ではないのだと、理解した。

 

と呼ぶ声はひどく掠れている。

力のないその声に、はそっと、目を細めて笑った。

彼女は少し‥‥痩せてしまったような気がした。

 

 

そこは、宇都宮よりも南に位置する、日光の土地。

宇都宮城にて勝利を収めた旧幕府軍であったが、数日後には新政府軍の強大な力により再び城を奪われる事となった。

大鳥率いる旧幕府軍はその後北へと進軍する事となったが、大怪我を負った土方は、戦いの場から一時離脱する事となったのだ。

療養‥‥とは言ったが、誰もが土方の死を覚悟した。

それほどに、彼はひどい状態だった。

ほとんど生きているのが奇跡という傷を負っていた。

医者さえ匙を投げるほどの大怪我だった。

今では縫合され傷口は閉じているが、腹の傷は特に酷かった。

開いた傷口から腸が覗いていたのだ。

それは、を助けるために自ら大穴を空けた、傷だった。

 

誰もが彼の死を予感した。

ただ一人、

だけは彼の生命力を信じ、

一人彼に付き従いその地に留まる事となった。

 

「傷は‥‥大丈夫ですか?」

はそっと控えめに訊ねる。

「‥‥」

それに土方は応えず、ただぼんやりと女を見つめた。

どうしたのだろう。

の格好は洋装ではなかった。

風間に駄目にされたので以前の、彼女が好んで着ていた着物を着ていたのだ。

それを見るとなんだか自分が夢でも見ていたような気になってきた。

長く‥‥辛い夢を、

今まで見ていたような。

 

ここは江戸でも京でもなく、

多摩の道場で‥‥

 

そういえば昔、自分が寝込んだとき。

命を落とすかも知れない大病を患ったとき‥‥

夢と現を何度も彷徨ったとき、あの時も確か、目を覚ましたらがいた。

同じように「大丈夫ですか?」と心配そうな声で訊ねてきた。

 

もしかしたら、あの時から自分は夢を見ていたのだろうか?

 

長い‥‥長い夢を。

 

「喉、乾いてませんか?」

ひどく、乾いた。

「お水‥‥」

答えてはいないのに、は察したらしい。

傍らに置いてある水差しに手を伸ばし、水を飲ませてくれようとする。

その彼女が横を向いた瞬間、

薄闇の中でも浮かび上がる、細く、

白い首筋が見えた。

 

瞬間、

心がざわりと騒ぐのを知った。

 

白い首筋に、うっすらと痣が見えた。

もうほとんど残っているかいない分からないくらい薄くなっていたが‥‥それは確かに痣だった。

それを見つけた瞬間、

 

脳裏に、首筋に食らい付く男の姿が蘇る。

 

あれは‥‥

あれは‥‥

 

夢では、ない。

 

そうだ。

鬼と戦ったのは夢ではない。

夢ではない。

あの鬼が、

の肌を暴き、

触れたのは、夢ではない。

 

あの、男が、

の肌に噛みついて痕を残したのは‥‥

 

夢では、

ない。

 

「っ」

 

土方は目の前が真っ赤になったのを思い出した。

ふつふつと身体の奥から何かがあふれ出し、理性を、奪った。

 

「土方さ‥‥っ!?」

 

水を差しだしたは強い力で引き寄せられた。

ばしゃと水が零れる音が聞こえ、水が肌を濡らす。

 

琥珀の瞳が見開かれていた。

 

「土方‥‥さん‥‥?」

 

驚きに見開かれる瞳を、土方は見下ろしていた。

 

彼が今し方横になっていた褥に押しつけられていた。

何故‥‥とは思う。

何故、自分は彼に組み敷かれているのだろうかと。

 

「‥‥」

 

やがて土方が力を無くしたように自分の上に覆い被さってきた。

どきりと胸が不覚にも高鳴った。

背中を、褥に残った彼の体温が。

前からは男の‥‥常よりも高い体温が包んでいる。

このまま眠ってしまうのかと思いきや、

「‥‥え‥‥?」

首筋に鼻先を強く押しつけてきた。

 

最初、血を求めているのかと思った。

 

無理もない。

あれほど血を流し、長い間羅刹として戦った。

そろそろ吸血衝動が来てもおかしくないと思った。

だが、その髪も未だ黒いままで‥‥いつまで経っても皮膚を裂かれる感覚もない。

ただ、鼻先を押しつけていつだけで‥‥

「土方さん?」

は不安に思って声を掛ける。

すると、

じり――

「っ」

肌に僅かな痛みが走る。

それは思ったよりも緩い刺激で、皮膚を裂くような力はなかった。

どちらかというと、その部分を甘噛みしているかのような‥‥

 

「あ‥‥あの‥‥」

 

土方さんともう一度は名を呼ぶ。

血を吸うつもりじゃないのならば一体何をしているのだろうかと、半ば混乱する頭で考える。

押し返す事も出来ずそのまま、彼に押し押されたままでいると、

 

「っ!?」

 

するりと肌の上を暖かな舌が滑った。

驚く事に土方は肩口から鎖骨へと唇を移動させ、浮かんだ骨をかりと噛んだのだ。

そしてそこを丁寧に舐めながら、

 

「あ‥‥」

 

大きな掌が、やや緩慢な動きで、袷を乱す。

 

は抵抗できなかった。

ただ、何故‥‥とそう思った。

何故‥‥彼はそんな事をするのだろうかと。

 

指先には、固い胸当ての感触がなかった。

その代わり、彼女の胸元は白いサラシで守られている。

 

「‥‥」

 

布越しに男の手の感触を感じ、は不覚にもどきりとしてしまった。

高鳴った鼓動が掌を通じて感じられた。

理由を問う事もなく、ただ男はじっと、サラシに守られている肌の白さを見つめた。

その下にあの時土方が見た‥‥柔らかそうな二つの膨らみがある。

それにあの男が、唇を‥‥

 

「っん‥‥」

 

土方の唇が胸のはじまりに触れる。

ちりと、背筋を甘い痺れが走っていった。

 

触れた瞬間、

唇が溶けてしまうかと思った。

それほどに彼女の肌は柔らかく、滑らかで‥‥そして甘かった。

ふわりと漂う花よりももっと甘い香りに、くらりと目眩がした。

土方はうっとりと目を閉じ、

緩く、

胸のはじまりに歯を立てた。

決して痛くない程度に。

緩く歯を立て、己の痕を刻んだ。

 

じりりと肌の下を疼きが走るのを感じ、

そこでようやく、

は彼の行動が、風間の取ったそれと同じなのだと気付いた。

彼があの日、に触れたのを彼は辿っていると。

 

でも何故?

 

どうして彼がそんなことを‥‥

 

「土方‥‥さん‥‥」

 

戸惑った声が自分を呼ぶ。

呼ばれて視線を上げれば、赤い唇に目が止まった。

 

そういえば‥‥あいつは、彼処にも触れた。

 

「‥‥」

 

のっそりと男は身体を起こす。

上から男の重みが消えたのには逃げられなかった。

熱っぽい瞳がじっと自分を見つめていたから。

 

「土方‥‥さ‥‥」

 

もう一度彼女が呼んだ。

その度に動く赤い果実は‥‥とてつもなく甘美な味がしそうな気がした。

甘くて、

自分が抱えているこの醜い感情を、

消し去ってくれそうだと。

 

それに、

触れたい――

 

「‥‥んっ‥‥」

だがその手がの唇に触れるより前に、どさりと、男は力を無くし、再度の上に落ちる。

びくんっと次は何が起こるのだろうかと身を竦ませた、が、

 

「‥‥あ、あれ?」

 

聞こえてきた静かな寝息に彼女は小さく声を上げる。

恐る恐る顔を覗き込むと、土方の双眸はしかと閉ざされていた。

幾分穏やかになった表情は‥‥

 

「眠ってる?」

 

彼が眠りに落ちてしまったのを彼女に教えた。

 

呆気に取られ、

 

「寝ぼけてた‥‥だけ?」

脱力したように呟き、やがて幸せそうな寝顔を見て、苦笑が漏れた。

 

突然目を覚ましたかと思ったら人を押し倒して‥‥

 

「なんなのさ。」

ぽか、と力無く女の胸の上で眠る男の頭を殴る。

ん、とそれに抗議するかのように呻いて、男は頭を動かす。

さらりと零れた滑らかな髪が肌を擽って仕方がない。

 

もう、とはもう一度呟いた。

そうして、黒髪にそっと指を絡め、

女の‥‥恋情の籠もった瞳を彼へと向けて、小さく呟いた。

 

「期待‥‥したじゃない。」

 

どくんと、その鼓動が一つ、彼女の淡い期待を苛むように鳴った。

 

 

闇の中で土方は叫んだ。

 

――そいつは俺の――

 

鬼はにやりと笑う。

 

俺の‥‥

 

言葉を口にしながら、男は戸惑ったような表情を浮かべた。

 

――そいつは、俺の‥‥なんだ?――