は副長である土方の部屋にやって来ていた。
  相変わらず文机の上には書類が山積みにされていて、はそれを見ながら相変わらずだなと心の中で呟く。
  「で?」
  どっかと腰を下ろしてと向き合う土方が口を開いて、促す。
  それだけで察しろ、というにはあまりに難しいだろうそれに、は淀まずに口を開いて言葉を紡ぐ。
  「鳳という置屋で預かって貰う事が出来ました。」
  言葉にほう、と土方の口角が跳ね上がる。
  「鳳って言や、有名な芸妓を抱えてるでけえ置屋じゃねえか。」
  よくそんな所に潜り込めたな、と感心する一方で、彼は思う。
  彼女が潜り込むならば絶対に一番の場所だと。
  一番というものが相応しい、いや、それ以外が相応しくないとこの男に思わせるほど、という女は美しく、また優れ
  た人間であるというのを誰よりも知っていたからだ。
  彼女の能力を一目でも見れば、一流どころの女将が放っておくはずがない。
  他の所へ譲ろうものならば客を全て奪われて、あっという間に落ち目になる。
  つまりはどこへ行こうと一番になる、ということだ。決して身内の欲目ではなく。
  「女将さんは私が浪士組の一員だって事を知って、なお、引き受けてくれました。」
  「大したタマだな。」
  流石玄人の女だ、と土方は微苦笑を浮かべざるを得ない。
  浪士組の一員を中に入れる、それはつまり厄介事を背負い込む事に他ならぬというのにそれを受け入れてしまうとは‥‥
  それを差し引いてもを働かせる事が金になると思ったのだろう。
  事実、その通りになるのだから忌々しいというか‥‥
  「いくつか条件は出されましたけどね。」

  一つ、必要な時に見世に出る代わり上客が希望した場合は置屋の要請に従う事。
  一つ、見世の中では揉め事を起こさぬ事。
  一つ、上がりのいくらかを置屋に回す事。

  「‥‥本当に大したタマだ。」
  まさか浪士組に交換条件を突きつけるなんて。
  苦笑を漏らす彼に、もひょいと肩を竦めて、
  「いつでも潜り込めます。」
  そしてすぐに真剣な表情になって言った。
  土方も同じように真剣な、しかし瞳の奥に微かに後悔と迷いの色を浮かべてをじっと見つめる。
  彼はを色町に潜入させる事には反対なのだ。
  花街では刃傷沙汰は御法度だが、その分別の危険というのが付きまとう。
  相手をするのは男で、酔っ払い。
  芸妓は身体は売らないが、中には無理矢理手込めにする客も出てくる。
  つまりは、彼女の貞操の心配だ。

  そんな事まで心配してくれる優しい上司に、はくすっと小さく困ったように笑った。
  それは彼が心配する事ではない。
  とて、もう子供ではないのだから。

  「‥‥それから、これ。」

  難しい顔になってしまった彼の気分を少しでも紛れさせてあげたくて、は懐から布で包んだそれを取りだした。
  5両ほどの金が包まれている。
  どうした?と見れば、はひょいと肩を竦めて、
  「試しに客の相手をしてみたら、小遣いだと言ってくれました。」
  どこぞの問屋の主人だと言っていただろうか‥‥
  は思い出しながら告げる。
  「もっと貰えたんですけど、着物代とかでさっ引かれて、これしか残りませんでした。」
  「‥‥‥そうか。」
  「これ、組のために役立ててください。」
  はそれをすっと土方の方へと押しやる。
  だがそれは彼女が汗水流して‥‥と言ったらおかしいかもしれないが、好きでもない相手の酒の相手をして稼いだものだ。
  受け取るわけにはいかない。
  そう土方が言うよりも先に、が先回りした。
  「私、使い道もないですし。」
  「‥‥」
  「皆、お腹空かせてるんだからたまにはいいもの、食べさせてあげてください。」
  にこっと悪戯っぽく言われてしまうと固辞するわけにもいかず、彼女の言う事も尤もだと思ったので、彼は溜息を吐きな
  がら金を受け取った。
  「もし欲しいもんがあったら、言え。
  こいつはおまえのもんなんだから遠慮なんかするなよ。」
  「分かってます。」
  は嬉しそうな顔で頷いた。

  「それから‥‥」

  とは少し声音を下げて言葉を紡いだ。

  「彼の事ですが。」
  誰、と言わずとも土方は察して、難しい顔になって頷く。
  本当に良くできた上司だと内心で感心しながら次の言葉を待って黙り込むと、彼は難しい顔のまま腕組みをして、やがて、

  「‥‥必要な事を教えてやる必要はねえ。
  あいつは、浪士組とは何の関係もねえ人間だ。」
  「‥‥」

  いずれここを去るはずだ、と彼は言い、一つ、溜息を零した。

  浪士組とは関係のない、どこの馬の骨とも分からない人間。
  いてもいなくてもなんら支障のない人間。
  いや、恐らく、
  いない方がいい、人間。

  しかし、土方は言った。

  「死にそうになってたら、助けてやれ。」

  そこがあなたの優しすぎる所だろうと、は内心で呆れたように呟いた。



  広間から賑やかな声が聞こえてきて、顔を出せば仲間の中に違う毛色が混じっている事に気付いておや、とは声を上
  げた。

  「ご飯は井吹さんもご一緒?」

  不思議そうな問いかけに、龍之介はなんだよと不満げな顔で唇を尖らせた。
  「俺がいちゃ悪いのかよ。」
  「その態度が悪いだろ。」
  噛みつくような問いかけにごすんと、その頭を原田が殴った。

  「な、なんで殴るんだよ!」

  本気で痛かったのか、涙目になった龍之介に『女には優しく』――が原田の主義だからとは言えず、とりあえず睨み付け
  て黙らせた。
  その鋭さがあまりに迫力があったので龍之介は黙る事にして、恨めしげにを見遣る。
  完璧に八つ当たりだが、は困ったような顔で笑って軽く、会釈をした。
  因みに、その後もう一発、原田の拳骨を食らう事になったのは言うまでもない事だ。


  食事は、八木邸、前川邸で別々に取っている、と先ほど土方から教えて貰った。
  最初の内は芹沢や新見らとも一緒にとっていたのだが、これがまた空気が重苦しくて仕方がない‥‥ということで別々に
  なったのだという。
  まあ向こうはこちらを『百姓集団』だと蔑んでいる所があるし、なにより芹沢は島原で食事をする事が多い。
  新見もそれに付き従うので別々になっても仕方のない事だ。
  しかしながら龍之介は芹沢の小間使いだというのに、八木邸で食事をしているというのである。
  恐らく、あちらの人間とは馬が合わないのだろう‥‥というか、芹沢と新見では合わせる方が難しいのかもしれないが。

  「、悪いけど、彼も一緒なんだ。
  部外者がいて嫌かもしれないけど、我慢してあげてね。」
  意地の悪い事を言ってのけるのは勿論沖田である。
  龍之介がなんだと、と声を上げた。
  その反応に、沖田が楽しげに目を細めて笑うのが分かった。
  ああ、彼は沖田の良い玩具になっているらしい。
  は苦笑した。
  「構わないよ、私は。」
  そう言っては手近に空いている所、龍之介の隣に腰を下ろそうとして、
  「。」
  と沖田に呼ばれる。
  「ここ」
  とん、と自分の横を指し示して、そう言う。
  座るならば自分の横に来いということらしい。
  はひょいと肩を竦めて、指示通りに隣に行くとすとんと腰をおろした。
  大柄な沖田の隣に並ぶと、その華奢さが際立ち、なんだか大人と子供が並んでいるように見えた。
  というか‥‥龍之介は自分よりもその人は年下なのではないだろうかと、思った。

  「つーかさ、
  なんだよ、その『井吹さん』って呼び方―」
  じっと凝視をしていると、藤堂が顰め面で抗議の言葉を口にした。
  「龍之介にさん付けとか気持ち悪いんだけどー」
  「なんだよ、それ!どういう意味だよ!」
  「どういう意味もなにも、なぁ?」
  と藤堂が視線を周りに向ければ全くだ、と原田が頷いた。
  「てんで礼儀のなってねぇこいつを「さん付け」してやる事ぁねえよな。」
  「原田まで!」
  「そうそう、井吹君なんて『犬』で十分だよ。」
  「沖田!!」
  だんっと床を踏みならして抗議の声を上げる彼を見て、は「真面目というかなんというか」と心の中で呟く。
  恐らく根が真っ直ぐなのだろうな。
  そこはさらりと流しておけばいいことなのに。
  そんな風に熱くなるから沖田にからかわれるのだ。
  「‥‥なに?井吹さんって気持ち悪いから止めた方がいいって事?」
  が首を捻りながら訊ねると、藤堂はそう、と頷いた。
  「じゃあ、龍之介さん?」
  「だから、さん呼ばわりが気持ち悪い。」
  「でも、初対面だし‥‥君づけも年下の私じゃおかしいだろうし‥‥」
  「呼び捨てでいいじゃん!
  つか、オレのこと初対面で平助って言った癖に!」
  「そりゃ平助だから仕方ない。」
  「なんだとー!!」
  今度は藤堂が床を踏み抜かんばかりの勢いで抗議した。
  二人はちょっと似てるな、とか思いながらくすくすとは笑い、でもさ、と口を開いた。
  「龍之介って、長いんだよね。」
  咄嗟に呼びにくいんだけど、と言うと、
  「それじゃあ井吹、でいいんじゃねえか?」
  と原田が提案する。
  いやだから、それは年下の自分が名字を呼び捨てというのは失礼だろう、とは口の中で呟く。
  かといって名前の呼び捨てだって十分失礼な気もするが。

  「井吹龍之介‥‥でしょ?
  ええと、なんか良い呼び方ないかなぁ。」
  宙を見上げてうーんと唸るに、何でも良いよと沖田は投げやりに言った。
  彼の事でが悩む必要はない、とでも言いたげだ。

  龍之介はそんなをじーっと睨み付けるように見ている。
  興味津々、というよりはどこか不審がるようなそれで、気付いた藤堂が肘で突きながら小声で訊ねてきた。
  「‥‥おまえ、の事嫌いなわけ?」
  「え?いや、そういうわけじゃ‥‥」
  というか好きとか嫌いとか判断するほどの材料はない。
  何故なら先ほど出会ったばかりだ。
  浪士から助けてくれた恩人‥‥ではあるが、だからといって素直に感謝は出来ない。芹沢のような前例もあるので。
  それに大体、助けてくれと言った覚えはない。とこれを言えば原田の三発目がお見舞いされる上に、沖田に嫌みったらし
  く「人に迷惑をかけておいてその態度ってどうなんだろうね」とか言われるのは目に見えているので黙っておく。
  勿論自身が「助けてやった」と恩着せがましい事を言っているわけでもないのだけど‥‥
  では何故その人を不審そうに見るか、と聞かれれば「その人が浪士組の一員である」という事実のせいだろう。
  だってどう見たって子供としか思えない華奢な体付きをしていて‥‥とても、一員とは、

  ごすん、

  「ってぇええ!」

  などと思いながらじっと睨み付けていると、三発目が来た。
  何で殴るんだと殴った相手原田を睨み付けると、彼は厳めしい顔で言った。
  「じろじろ睨み付けるんじゃねえ。
  いくらが気にしねえにしても、気分良くはねえだろうが。」
  「だから!あんたはなんで先に手が出るんだよ!!
  口で言えよ口で!」
  「痛い目を見た方が身体にたたき込まれるだろ。
  それに、おまえは多少痛い目を見た方がためになる。」
  「どういう意味だよ!」

  ぎゃん、と喚くその姿をのんびりと見ながら、はぽつんと呟いた。
  「うち解けてるみたいだね。」
  「そりゃ、左之さんとか新八さんとか、平助とかは‥‥ね。」
  呟きに沖田が答える。
  「そういう総司だって、仲良さそうだけど?」
  「‥‥それってやきもち?」
  「うわぁ、総司君、面白い冗談―」
  にこりと笑顔でとんでもない事を言う沖田に、は感情を一切込めずにそんな事を言って受け流す。

  それから今度はがじっと龍之介を見た。

  腰には一応刀を差している‥‥が、彼は戦う事が出来ないらしい、ということを先ほど知った。
  先ほど暴れ回っていた浪士ははっきり言って雑魚も雑魚。素手でも応戦できるほどの弱さだ。
  そんな相手を前にして立ちすくんでいた‥‥ということは、彼はずぶの素人だ。
  人を斬るどころか、刀も録に抜いた事がないはずだ。

  戦えない人間が浪士組にいたところで犬死にするのが関の山だろうに。

  ああそういえば芹沢は彼を「犬」と呼んでいるんだったか。

  犬。
  犬と言うには少々でかすぎる、上にかわいげがない気がする。

  「龍」

  そんな事を考えていると、ふと、の頭に浮かんだのが、その呼び方であった。

  彼の名前は井吹龍之介。
  井吹と名字を呼び捨てにするのは憚られる。
  かといって名前を呼び捨てにするのは長い。
  だが名前の一文字を取って呼ぶと短くて、丁度良かった。

  「‥‥‥もしかして、俺の事か?」

  龍、と呼ばれて龍之介は怪訝そうに眉を寄せた。
  口にしてみると存外しっくりくる。
  ああこれは良い呼び名だ、と満足げに頷くと、はにこりと目を細めて笑った。
  その笑顔を見た途端、龍之介は何故か背中がぞくりと震えた。
  表情に言いしれぬ色気を感じたからだ。
  年下のガキが、と内心で呻く彼は、しかしその目を離す事さえ出来ない。

  完全に琥珀に囚われていた。

  はもう一度、呼んだ。

  「龍。」

  短い呼び名は、なんだか自分の物とは思えないくらいに、艶めいた響きを持っている。

  その呼び名を聞きながら、ふむ、と沖田が唸った。

  「名前負けだね。」

  「余計なお世話だ!!」


  呼び名決定




  は龍之介を「龍」と呼ぶ。