青空が薄紅色で染め上げられていた。小さな花々は可憐な花びらを大きく開き、柔らかく風に揺られている。
「花見日和だねぇ」
 桜を見上げはぽつりと呟いた。
 数日前から見頃だと永倉や藤堂が騒いでいた。春と言えば花見だ、と。気持ちは分かるが屯所を空けるわけにもいかない、と渋る土方をなんとか皆で説得して今日、どうにか花見の席を設ける事が出来た。雨が降ったらどうしようかと思っていたが、お天道様はそこまで意地悪ではないらしい。
「晴れて良かったですね」
 千鶴も隣で同じように空を見上げて零す。はこくりと頷き、次いで苦笑を漏らした。
「土方さんが場所取りなんてらしくない事するから、絶対雨が降ると思ったけど……」
さんたら」
 くすりと釣られて彼女も小さく笑いを零す。
 さて、いつまでもこんな所に突っ立っているわけにはいかない。
 先に行って待っているという彼らを捜さなければ。
「どの辺にいらっしゃるんでしょうか」
「多分土方さんの事だから一番綺麗な桜の下を陣取ってるよ」
 あの人目敏いからなぁ、などと言いながらきょろきょろしていると通りがかった人々のこんな会話が聞こえてきた。
「さっき、向こうの方で乱闘騒ぎがあったらしいぞ」
「ああ知ってる。あれだろう? お互いに刀抜いてやりあったっていう」
 会話を聞きながらは思わずと顔を顰めてしまった。
 折角の花見の席だというのに喧嘩など無粋な事である。しかも刀まで持ち出すとは迷惑千万な。
 確かに酒が入る分諍いは起きやすいというものだが、折角楽しい時間を過ごしているのだからもう少し寛大になれないものなのだろうか。
 それとも――こんな場所で乱闘騒ぎを起こす程の理由があったというのだろうか?
 もしや、とは耳を峙て行き過ぎる彼らの会話に集中した。
 彼らは言った。
「喧嘩の理由があれだろ」
「あー、そうそうあれだ」
 彼らが譲れなかったものとは一体なんだったのだろうか?

「花見の場所取り」

 さくさくさく。
 二人の足音が遠ざかっていく。
 その音までも彼女の耳には鮮明に届いていた。
「はぁああああああ」
 やがて、その口から盛大な溜息が漏れた。
 なんというか――とてつもなく下らない。
「あ、あのさん?」
 突然溜息を吐いた彼女に千鶴がおろおろとした様子で声を掛けてくるが、はそれにさえ気付けない程脱力していた。
 脱力というか逆に怒りさえ感じる。なんでそんな下らない事に全神経を傾けてしまったのかと。ああ無駄な事をしてしまった。折角楽しい気分だったのに。
 なんで花見の場所取り如きで刃傷沙汰なんだ。そんなものの為に刀は抜くものではない。
「全く、どこの馬鹿野郎だそんな――」
 下らない事で騒ぎを起こす連中は。

 そう一人ごちて前を見た時だった。
 ドン。
「うおっと」
 前をよく見ていなかったせいで肩が盛大にぶつかってしまったようである。
 すれ違いざまぶつかった相手は屈強な男のようだ。ふらりともしないが、前方不注意でぶつかったのはの方。
「すみません」
「貴様、何処に目をつけている」
 慌てて振り返って謝れば相手は非常に不愉快そうに振り返って、

「げ」

 の口から盛大に嫌そうな声が上がった。
 目の前にいたのは出来れば二度とお近づきになりたくない人間。いや、彼らは人ではなかったか。
 二度とお近づきになりたくない――鬼だった。


「ほう、これは良いところで会ったものだ」
 赤い瞳がついと細められ、不機嫌な表情がうってかわって上機嫌のそれへと変わる。
 反面、対峙するは嫌そうな顔だ。出来れば直視もしたくない……というか、関わりたくないと言うのが本音。
「か、ざま……さん」
 突然立ち止まった彼女に気付いた千鶴も、鬼を見て口元を引き攣らせている。
 風間は彼女もちらりと見遣り、ほう、と短く声を漏らす。
「なんだ、風間。人間の女になんかちょっかい掛けてんのか?」
 背後から別の声が飛んでくる。振り返って見れば浅黒い肌の男がにょっと人混みから顔を出した。はもう一度「げ」と声を上げそうになる。彼も鬼だったからだ。確か不知火とか言う鬼……
「なんだなんだ、女鬼じゃねえか。何しにきやがったんだあ?」
「何をしに……など、この俺に会いに来たに決まっている」
「違う」
 ふふんと何故か得意げに言う風間の言葉をぴしゃりとは即答で否定する。
 相変わらず自分本位な男である。好意的であった事は一度もなく、むしろ敵対心剥き出しであると誰の目から見ても明らかであるというのに、自分に会いに来たなどと勘違い出来るとはめでたい。これも春だからか……否、彼の頭の中は年中春だ。
「照れるな」
「微塵も照れてないし、私たち、あんたに会いに来たわけじゃないから」
 話が通じないというのは今までの経験で分かっている。故に、早めに退散するのが得策。
 それじゃと手を上げ、千鶴の手を取って歩き出そうとするとその腕を強い力で掴まれた。振り返らなくても風間が掴んだのだと分かる。
「何処へ行こうと言うのだ。これから宴の席だ」
「だからなに?」
「夫になる男に酌をするのが妻の役目であろう」
「だれが妻だ、誰が」
 勝手に決めるなとは強く言ってその腕を振り払えば、きゃあと後ろで千鶴が声を上げたのが聞こえた。
「千鶴ちゃん!?」
 その手を不知火に掴まれていた。鬼はにやりと笑みを浮かべながら言う。
「どうせおまえら、新選組の奴らの所に行くつもりだったんだろう?」
「そんなのあんた達に関係ないだろうが。良いからその手を離せ」
 きっと睨み付ければそうはいかないと背後で風間が声を上げた。
「あの野良犬たちには先程不愉快な思いをさせられたからな」
「不愉快って、何の事、」
 鬼の頭領は忌々しげに向こうを睨み付け、ぎりりと悔しげに奥歯を噛みしめて言い放った。
「人が折角絶好の花見場所を見付けたというのに、あの連中が俺の邪魔を――」
 いや、先に見付けたのはオレだってよ、という不知火の声が後ろで聞こえた気がしたが、は目を丸く見開いてそのまましばし呆然と立ち尽くし、

「おまえらかぁああああああ!!」

 あまりの馬鹿馬鹿しさに絶叫しながら風間の胸ぐらを掴んでしまった。
 掴まれた風間はといえば、一瞬目を丸くし、すぐに不快げに睨み付けてくる。胸ぐらを掴んだ如きで人を斬り殺しそうな程の殺気だ。
「花見の席で場所取りで刃傷沙汰なんて馬鹿馬鹿しい事してる連中なんて、どこの大馬鹿野郎かと思ったら!」
「貴様、この俺を馬鹿呼ばわりする気か……!?」
「その通りだろうが!! この馬鹿野郎!!」
 再び馬鹿と呼ばれて風間の顔が怒りで歪む。
 西の鬼の頭領とか言われているが、実はこの鬼案外頭が悪いのかも知れない。は思う。だって花見の場所取りで刀を抜くとか普通に考えてあり得ない――
「ってことは、おまえらとやり合ったのって!?」
 そこまで考えてはっとは気付く。
 彼らと刃を交えようなんて人間そういるはずがない。普通の人間ならば関わりあいにならないようにするだろう。そんな彼らに面と向かって立ち向かっていく人間。それは、
「新選組の連中だ」
「うわぁああああああ!! あの人達も馬鹿の一員だったぁああああああ!」
 不知火の冷静な突っこみには声を上げてその場に崩れ落ちる。
 何と言う事だろう。場所取り如きで争っていた馬鹿野郎が身内だったなんて。情けなくて言葉も出ない。いや、恥ずかしくてか。
「ふん、俺に酌をするのが泣く程嬉しいか」
 情けなさに打ち拉がれているとそんな声と共に強い力で引っ張り上げられる。
 はっと我に返った時にはもう遅い。鬼の腕にがっちりと腰を掴まれて抱き寄せられていた。
 至近距離に鬼の端正な顔があり、は慌てて胸を押し返す。ともすれば口付けてしまいそうな距離だ。
「は、離せ!!」
「不知火、そちらの女鬼も連れてゆくぞ。しっかり捕まえていろ」
「オレ様に指図すんなって」
 文句を言いながらもひょいと小脇に千鶴を抱え上げ、不知火は後に続く。
「千鶴ちゃん!」
さんっ!!」
 二人は互いの名を呼び合い、なんとか腕から逃れようと藻掻くが、やはり男鬼の力は強い。彼女らでは抗えない程。
「さて、向こうでゆっくりと酒と、貴様を堪能させて貰うとするか」
 にやりと笑うその顔があまりに妖艶で、はざぁっと背筋を寒いものが駆け上がっていくのを止められなかった。
 このままじゃ、

 やられる――


 ひゅん!!
 突如、風が吹き抜ける。
 桜の花びらを無粋にも引きちぎってしまいそうな強い風が。
 その風は人の間をすり抜けて、
 がこん!!
 と、男の後頭部に見事に直撃。
「っ!」
 不意打ちだったからか、それとも痛かったのか、風間は呻いたかと思うと頭の後ろを抱えて悶絶し始めた。
 カタン、と地面に落下したのは、
「重……箱?」
 空の重箱である。
 恐ろしい事に割れていた。どんな力で投げつけたらこうなるというのだろう。
(そうだ、この隙に!)
 これは好機とは即座に判断し、その腕から逃れるとついでに不知火に体当たりを食らわせて千鶴を奪還。小さな手を引いて、人混みに紛れるべく走った所で、
「わぷっ!?」
 ごつん、と誰かと正面衝突してしまった。
「ご、ごめ……」
 ぶつけた鼻の頭をさすりながら侘びれば突然、目の前の人にぐいと引き寄せられる。
 まだ鬼の一味が残っていたのか。そういえばあの天霧とか言う鬼の姿が見えなかった。まさか彼か、と慌てて顔を上げればそこには、
「ひじかた、さん……?」
 見慣れた仲間の顔がある。
 彼は口元をにやりと歪め、前方を睨み付けたままで口を開いた。
「嫌がる女を無理矢理行くたあ……流石鬼の大将だな。俺にはとてもとても真似出来ねえ」
 ぐい、と肩を引かれその大きな背の後ろに庇われる。少し乱暴な力だったからか、足下が縺れてたたらを踏むとその背中をとんと誰かの手が支えてくれた。
「総司……」
 彼もいた。二人だけじゃない。斎藤も、藤堂も、原田も。
 いつの間にかそこにいて全員が全員、鬼をじっと睨め付けていた。
 戦場で見せるような怖い程真剣な顔。それを受けて不知火はすいと楽しげに目を細め、風間は憤怒の表情を浮かべている。わなわなとその肩が震えていた。怒りが抑えられないらしい。
「誰だ。この俺にこんなものを投げつけたのは……」
 重箱の事を言っているのだろう。
 そういえば誰が、とも周りを見れば悪びれなく手を挙げたのは沖田であった。
「きっと避けられると思ってたけど、見事に真ん中に当たったよね」
「き、さまっ」
「目立つ色だったからとっても狙いやすかったよ」
 にこにこと笑顔で言う彼に、風間は刀の柄に手を掛ける。
 ざわっと辺りがざわめいた。当然だ。こんな所で刀を抜かれては巻き込まれる可能性もある。
「なんだやるってのか?」
 土方も応戦すべく腰の獲物に手を掛けていた。無論沖田などはいつの間にか抜いている。他の連中も同じくだ。そして一方の鬼も銃を構え、構えを取っている。
「貴様ら、今度という今度こそ許さん」
「それはこっちの台詞だ」
「どうせさっき斬っちゃう所だったんだし、構わないよね」
「ったく、折角音便に済ませてやろうってのにまだやるのかよ」
「そちらが先に仕掛けた事だろう」
「そうだ! 喧嘩ふっかけて逃げたのはそっちだろ!」
「喧嘩かどうかは知らねえが……嫌がる女を無理矢理ってのは見過ごせねえな」
 がちがちと互いの殺気がぶつかりあう。
 空気が張り詰め、やがて、どこかで振り切れた――瞬間、
「――」
 平和だった花見の席が再び乱闘の場となった……という事は言うまでもない。

 はらはらと桜の花びらが舞い降りてくる。
 それは相変わらずの晴天で、頬を撫でる風も優しい。
 その中で殺気立って斬り合いを続ける男達の姿があるが、はもう振り返らない。

「あ、あのさん……止めなくて良いんですか?」
「うん、面倒くさいから。放っておこう」

 好きなだけやってくれと、は彼らが用意した花見の席へとのんびりと歩いていくのだった。


  宴の始まり