そんなに荷物を持って歩いては危ないよ。
廊下を曲がる前に井上に言われたばかりだった。
山のように積み上げられた洗濯物を手に廊下を歩く千鶴を見かけて、見ていられなかったのだろう。私が持っていってあげようと声を掛けてくれたのに、彼女は平気ですと笑顔で言ったのだ。
確かに大荷物だが嵩張るだけで重たいものではない。忙しく仕事をしている井上の手を借りるのも申し訳ないという彼女の気遣いだ。
それに目的地まであとちょっと。
その油断があったのだろう。
廊下を曲がった先、千鶴は何もないところで突然躓いた。
身体が傾いだ瞬間山のように積み上げられた洗濯物が雪崩れ落ちようとする。いけないと洗濯物を庇うあまりに自分の身体の方が疎かになって、
「な、なんでこんな所に洗濯物の山!? っていうか、足―!?」
通りがかったが見たのは廊下の真ん中に出来た山から足が生えているという何とも奇妙奇天烈――下手すれば怪談だろうこれは、というような光景。
思わず飛び上がりそうになり、だがその山から生えているのが細くて白い女の子の足だと気付く。
新選組に女の子などいない。一応も含めて此処にいるのは男だけだ。実際には違うけれど。
つまりこの足は、
「千鶴ちゃん!?」
慌てて洗濯物から彼女を発掘する。
折角身を挺して守ったのは悪いとは思うが、洗濯物は廊下に散らばらせた。それよりも彼女の方が大事だ。洗濯物の山で窒息なんてしたら大変である。
「千鶴ちゃん、大丈夫!?」
「は……はい」
無論窒息などはしない。所詮洗濯物だから。
でも何故か彼女は顔を顰めて何度も小さく呻き声を漏らしている。
「どうしたの? どっか苦しい?」
「い、え……その、足を」
「足?」
言われて視線を向ければ、転んだ時に捻ったのだろう。彼女の足首が確かに腫れていた。
「あー、捻ったみたいだね」
とても痛そうである。
動かすのはまずい、ときょろきょろと辺りを見回すとこれまた丁度タイミング良く廊下の先から沖田がひょこっと姿を見せた。
「あれ? に千鶴ちゃん?」
彼は状況を見て小首を傾げている。
「どうしたの? この状況は。もしかして新八さんが汚れ物をいっぱいだすから嫌になっちゃった?」
この山はやはりあの人か。は半眼で散らばった洗濯物を睨み付ける。いくら千鶴が断らないからと言って遠慮無く汚すヤツがあるか、全く。いや、そんなことより。
「ナイスタイミングだ、総司。困ってたんだよね」
「ない、す? なにそれ、何かのまじない?」
聞き慣れない言葉に微かに眉を寄せる彼に、それは置いておいてとは言う。
「悪いんだけど、ちょっと手を貸してくれない?」
「手? 何?」
「千鶴ちゃん、足挫いちゃったみたいで」
言葉に沖田は笑みを消して険しい顔になる。本当? と千鶴へと真剣な眼差しを向けるが、彼女はふるふると頭を振って、笑った。
「平気、です。ちょっと転んだだけなので」
明らかにやせ我慢をしているのがその強張った表情から察する事が出来る。痛みのあまりに額に冷や汗まで浮かべているのに、彼女は平気と言って無理に立ち上がろうとした。
「つっ!」
無論その瞬間足首を動かしてしまって呻きながらまた崩れ落ちる事となり、それがただの虚勢であると証明してしまう事となるのだが。
「千鶴ちゃん。無理しちゃ駄目だって」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫じゃない。やせ我慢して悪化したらどうするの? 逆にみんなに心配掛けちゃうでしょ」
少し厳しい口調になってしまったが、そう窘めれば彼女も大人しくせざるを得ない。
すみませんと肩を落として俯いてしまう彼女に苦笑を向け、すぐに沖田の方を見上げた。
「悪いけど総司。千鶴ちゃんを部屋まで連れて行ってあげてくれる?」
の言葉に彼は盛大な溜息を吐いた。
「全く、君は本当に世話が焼ける子だよね」
やれやれと肩を竦めながら意地悪な事を言われてますます千鶴は俯いてしまった。
そんな彼女に呆れたような困ったような顔で笑いかけ、彼はそっと膝を着いた……かと思えば、
「ひゃぁあ!?」
座り込んだままの千鶴の身体をひょいと、それはもう軽々と持ち上げてしまったのである。
突然抱え上げられた千鶴の方は驚いて素っ頓狂な声を漏らしてしまったが、それを見守るも驚きに目をまん丸く見開いてぽかんと呆けている。
「それじゃあ、千鶴ちゃんは僕が責任持って部屋に連れて行くから。あ、それよりもお医者さんに診せた方が良いかな?」
「……えっ!?」
「近くに腕の良いお医者さんがいるって聞いたから、僕そこまで千鶴ちゃんを連れて行ってくるよ」
「……連れて行くって、ちょ、お、沖田さん!? お、下ろしてください!!」
はっと我に返ってばたばたと暴れたけれどそんなのは無駄な抵抗である。
沖田は彼女の声になど耳を傾けるはずもなく、ただ暴れると危ないよと楽しげに言いながら悠々と廊下を行ってしまうのであった。
は声が遠ざかっても暫く洗濯物の中でぽかんとしていた。
だってまさか彼がそんな事をするとは思わなかったからだ。
「お姫様……だっこ」
あんな恥ずかしい事をする人間というのがいるとは。しかも、幕末の時代に。
世の中って不思議である。
「姫さんがなんだって?」
一人ごちたつもりだったのに突然後ろから声を掛けられ、はぎっくーんと飛び上がりそうになる。
驚いて振り返ればそこにいつからいたのか土方の姿がある。
「い、いつからそこに!?」
「総司が、千鶴のヤツを連れて行った所からだ」
彼は答えながら散らばった洗濯物を怪訝そうに見遣る。これは一体どういう事だと言いたげな顔だった。
どうやら千鶴が連行された所は見たけれどその原因までは知らないらしい。
は慌てて洗濯物をかき集めながら説明をした。
「……なるほど、そう言う事か」
「そう言う事です」
「で。さっきの姫さまだっこってのは何だ?」
お姫様だっこ。
彼がその単語を口にした瞬間、なんだかぶっと噴き出しそうになった。
慌てて口を手で押さえたら怪訝な顔で「なんだ」と睨まれてしまう。だって、鬼の副長が『お姫様だっこ』なんて単語を口にした、あまりのギャップに笑いが込み上げてくる。
「なんだよ、言えないような事なのか?」
「や、そうじゃなくて……」
「じゃあ、なんだよ」
教えろ、と彼は執拗に聞いてくる。
何がそんなに彼の好奇心を煽ったのかは分からないが、とにかくは笑いを必死に堪えるとさっきのと沖田らが消えた方向を指差しながら口を開いた。
「総司が千鶴ちゃんを抱き上げたあの恰好の事です」
「さっきのがか?」
横抱きにこう抱え上げるのがかと問い返され、そうと頷く。
「姫さんってのはああやって抱き上げられるもんなのか?」
「さあ、それは私にはよく分かりませんけど……お姫様のように大事に扱うからじゃないですか?」
もよくはしらない。ただそれがお姫様抱っこだと呼ばれているという事だけ。
それから、
「あれは女の子の永遠の憧れなんです」
女の子であれば一度はやって欲しい……と思うのがお姫様抱っこだとか。
あんな風にお姫様のように大切に扱って欲しい。
無論イケメンに、という前提で夢見る乙女が多いと言う。
(私はノーサンキューだけどね)
そして当然の事ながらは少数派で、お姫様抱っこなんて憧れてなんぞいない。
正直あれは拷問だと彼女は思っている。
だって恥ずかしいじゃないか。あんな風に男性に抱え上げられるなんて。
しかもイケメンなんかにされたら至近距離でその美しい顔を見なければならない。耐えられない。
イケメンのドアップも、その構図も、耐えられない。
嬉しい以前に自分なら恥ずかしすぎて憤死――
「ひょ、わぁあああ!?」
突然、身体が浮いた。
何もしていないのに突然だ。ふわりと自分の意志とは関係なく浮遊した。
なんだこれは、何が起こっている。タイムスリップなんてあり得ない事が起こる世界だから魔法もアリなのか。それは和洋折衷過ぎるだろうとパニックを起こしてばたばたと手足をばたつかせながら辺りを見回すと、
「っ!?」
至近距離にイケメンの顔があって、飛び上がりそうになった。
イケメンというのは当然……土方の事である。
彼はこちらを見下ろして、
「どうだ?」
なんて訊ねてきた。
思考回路が停止したは目を見開いて彼を見つめるしか出来ない。
「なんだよ、無反応か? 折角憧れのお姫様抱っことやらをしてやったってのによ」
彼はひょいと片眉を跳ね上げ、くつくつと笑う。
その意地悪な顔までやっぱりイケメンは格好いい。しかし至近距離で見るイケメンというのは色々と心臓に悪いというか……
「って、うおぉおあああ!?」
はたと我に返り、は女らしくない声を上げて彼の腕の中で暴れた。
一気に押し寄せる恥ずかしさで顔は真っ赤だ。汗もだらだらと出てくる。とにかくここから降りなければと必死に藻掻いたが、屈強な男の腕はそんな事では揺るがない。
「こら、暴れんな。危ねえだろうが」
「あば、あば、暴れるに決まってるでしょうが! 下ろしてくださいよ!!」
「なんでだよ? 憧れてたんだろ? してほしかったんじゃねえのか?」
「違う!!」
私は断じて、そんな事言っていない。
確かに世の女性は憧れるかもしれないがは違う。恥ずかしいだけだから絶対にして欲しくない。そう思っていたのに。
「……なんだ。おまえ照れてんのか?」
「ふがっ!?」
にやり、と双眸が意地悪く細められる。
その顔はまずい。沖田が意地悪を思いついたのと同じ顔だ。
まずいまずい。まずいと分かっているのに逃げられないこの状況はもっとまずい。
「そりゃあ良い。おまえが照れてる様子なんぞ滅多に拝めねえからな。この機会に精々堪能させてもらうとするか」
「え。ちょ……うわぁああ、や、ど、何処行くんですかぁああ!?」
すたすたと歩き出す彼には絶叫する。
「何処って、そうだな。総司じゃねえが医者の所にでも行くか? おまえは最近働き詰めだし、疲れてるだろ?」
「ちょ、じょ、冗談! 私疲れてないし、疲労如きで来られたら医者だって迷惑だし! っていうかこんな所誰かに見られたらどうするんですか!? 私男ですよ! 土方さんそっちの気があるんじゃないかって噂されますよ!?」
バタバタと暴れながら声を上げるが彼は何処吹く風だ。そんなにが慌てる様子を見るのが楽しいのか。くつくつと笑うだけで下ろしてはくれない。
「そうなったらそうなったでおまえに責任取って貰うさ」
「せ、責任なんて取れません取れません! つか大体どうやって責任取るって言うんですか!?」
「それはおまえが考えろ」
「ひ、酷っ! っていうかマジで、本当下ろして! こんな所誰かに見られたら私っ、」
「だったらあまり騒がねえ方が賢明だろ」
まさに正論には慌てて口を両手で塞いだ。
そうだ。こんな大声で騒いでいたら誰かが様子を見に来るに決まっている。だからといっても大人しく彼に抱き上げられるわけにもいかない。本当に恥ずかしくて消えたくなる。
「……も、勘弁してくださいよぉ」
これは何の罰ゲームなのだろう。
私が何をしたと言いながらは顔を両手で覆う。
隠した所で耳まで真っ赤なのだ。そんならしくもない様子に思わずと土方は笑みを深くしてしまう。
弱点を見付けてほくそ笑む――というよりは、普通の女の子らしい彼女の様子が微笑ましい。いつも飄々として大人びた顔をしてはいるものの彼女もやはり年頃の女。人並みに照れもするし、恥ずかしいと思う感情だって持っている。しかもその表現がこれほどに不器用というのは実に可愛らしいものだ。
流石にそこまで恥ずかしがる彼女を誰ぞの目に曝すのは酷というもの。
くるりと爪先で方向転換すると洗濯物を踏みつけないようにしながら廊下を戻る。
「ど、どこ、行くの?」
手の下で怯えたような声が上がる。らしくない様子に笑い声を上げてしまいそうだ。
「そんなに怯えんな。おまえに頼みたい仕事があったから俺の部屋に連れて行くだけだ」
「……そ、それなら下ろしてくださいよぉ」
「どうせすぐそこなんだ。気にすんな」
「私が、気にするからぁ」
と蚊の鳴くような声で訴えたけれど、彼は上機嫌な様子で廊下を進むだけだった。
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