いつかはやらなければならない事だった。
 その為にずっと、は沖田に鍛えて貰っていたのだ。
 その為に血の滲むような努力をしてきたのだ。
 だけどいざ目の前に突きつけられると恐ろしいと思うのが人というもの。

 恐ろしくて当然だ。
 躊躇って当然だ。
 その手を血に染め、他者の命を奪うのだから。


 薄暗い裏路地に男が数名倒れている。彼らは雨が打ち付けているというのにぴくりとも動かない。動かないのは当然だった。闇が深くて見えはしないが、あたりは赤で染め上げられているのだから。
 そう、血だ。
 彼らが流した血。
 男達は皆、揃って事切れていた。
 倒れ込んだ男の顔を覗き込む。見知らぬ顔だ。恐らく……薩摩か長州の人間だろう。
 突然斬り掛かってきて名乗りもあげないものだから何者かは分からない。
「副長」
 身元を改めていると後ろから声を掛けられる。振り返ればそこに闇に溶けてしまいそうな漆黒を纏った男の姿があった。
「山崎か」
 悪いな、と声を掛ければ彼はゆるりと頭を振った。
 謝ったのはこの死体の後片づけなどという嫌な仕事を彼に押しつけてしまうからである。
「……恐らく、薩長の不逞浪士だろう」
「この辺りを根城にしていた連中でしょうか?」
「さあな」
 そこまで確かめる事は出来なかった。突然だったから。
 呟いて不意にぬるりと頬のあたりに違和感を覚えて手の甲で乱暴に拭う。見ればべっとりと血が付いていた。彼の血ではない。彼が殺した相手の血だ。闇の中で見えないが恐らく着物にも血しぶきが飛んでいる事だろう。会津藩のお偉い方に呼ばれたからと折角新しく設えた着物だというのに台無しだ。
「処理は如何様に?」
「悪いが、いつものように頼む」
 はい。と返ってくるのもいつもと同じ声。
 土方は悪いともう一度だけ言って、すたすたと歩き出した。
 薄暗い路地から表通りに出ると眩しいくらいの月光が降り注いでいる。

 そこに……その人の姿はなかった。


「おかえりなさい」
 玄関先で沖田とばったりと遭遇した。
 羽織を着ている所を見るとどうやら今から巡察のようである。彼はおやと目を丸くして、それからにこりと笑った。
「随分と帰りが遅いと思ったら、斬り合いでもしてたんですか?」
「まあ、な」
「僕も呼んでくれれば良かったのに」
 楽しげにそう言われて土方は呆れる。
 決して人を斬る事はいけない事だ、などときれい事を言うつもりはない。必要で在れば何人だって殺してみせる。だが沖田のそれは少し異常だ。彼はやたらと殺したがっているように見えるから。
 実際微かに香る血のにおいに翡翠の奥に獣じみた色が浮かんでいた。まるで血に飢えたあの化け物……羅刹のようだといえば彼は気を悪くするだろうか。無論沖田は人を殺したくて仕方がないのではなく、近藤の為に人を殺すのを厭わない。それだけなのだろうが。
「馬鹿な事言ってねえで、とっとと巡察に行ってこい」
「言われなくても行きますよ」
 横を通り過ぎざまに言えば、沖田はひょいと肩を竦めて言った。
 草履の紐をしかと結ぶとそれじゃあ行ってきますと背を向けて、それから何かを思いだして振り返る。
「土方さん……に、何かありました?」
「………」
 ぴたりと男の足が止まった。
 振り返り、彼は問う。
「あいつ、何処にいるんだ?」
 質問を質問で返すなど卑怯だ。思ったけれど沖田はこちらを見る土方がやけに真剣な表情をしているのに気付いて、止める。
 なんとなく、彼女が『そう』だった理由が分かったからだ。
 そうか、と沖田は笑った。誇らしげに。

「漸く、人を殺せたんですね」

 良かったと笑う彼に、何処が良いのかと思わず吐き捨ててやりたくなった。



 は庭の方にいる。沖田は教えてくれた。
 ただ庭の片隅で空を見上げてぼんやりしていると。
 その言葉通り、彼女は一人で空を見上げて佇んでいた。
 表情は見えない。でもその背中が酷く悲しげに見えたのはきっと彼自身が悔いているからだ。
 彼女を連れて行った事を。
 彼女に刀を抜かせた事を。
 そうして、彼女に、人を殺させた事。
 確かに、人を斬れもしない人間は足手まといだ。この新選組にいる以上、彼らと共に戦うと決めた以上は人を斬ってもらわなければならない。殺してもらわなければならない。そうしなければこの先生き残れない。
 甘い――と言われるかも知れない。
 それでも彼女には手を汚して欲しくはなかった。
 綺麗なままでいて欲しかった。
 きっとまた山南に甘いと言われるのだろう。昔、沖田に人殺しをさせたくないと願ったあの時と同じように。
 選んだのはだ。
 人を殺すと決めたのは
 でも、
 選ばせたのは――自分だった。


 呼びかけに彼女は音もなく振り返る。
 ぼんやりと青白い月光を受けたその表情は、まるで紙のように白く見えた。
「……土方さん」
 琥珀が自分を認めると、にこりと細められる。
 いつものように彼女は笑って見せた。
 弱々しく見える笑顔に、一瞬言葉を失う。何を言えば良いのか分からなかった。
「……探したぞ」
 ただそれだけを言うと彼女は目を丸くして、それから何を言われたのかが分かったらしい。苦笑を漏らして謝ってくる。
「すいません。なんか血のにおいに酔ったみたいで」
「――」
 まさか彼女自身がその話題を口にすると思わなくて、一瞬変な息が漏れてしまった。
 どう口にすれば彼女を傷つけずに済むか。どのみち事実は事実、言いつくろった所で彼女が人を殺めたのは事実だけど、それでも男の甘さが言葉を探した。その努力は実りそうにはなかったが、こうもあっけらかんと本題をつかれるとは……
「その、」
 言葉を用意していなくて口籠もってしまう。何と言えばいいだろう?
 そんな彼の気遣いをは察していたようだ。今度は苦笑に変えると、ふるふると頭を振って見せた。
「平気ですよ。私」
「……」
「後悔はしてません」
 彼女は迷いのない真っ直ぐな瞳で言った。
「寧ろ、漸く踏ん切りがついたって感じですっきりしてます」
 まるで憑き物でも落ちたかのように、清々しい表情をしていた。
 その瞳をまた月へと向けて、彼女は大きく伸びをする。
 息をたくさん吸い込んで、吐いて、それから明るい声で続けた。
「私、ずっと総司に稽古をつけて貰っていたんです」
 それは土方も知っている。随分と沖田が熱心に道場へと通うと思っていたら、まさか彼女を鍛えているというので驚いたものだった。同時にに同情もした。彼の厳しい扱きに耐えられないと思ったからだ。でも、は音を上げずひたすら剣の稽古に励んだ。いつからか木刀が真剣に代わっていった時にはぎょっとしたものだが、それは実戦で耐えられるように鍛錬していたと思っていた。
 でも、違った。
 沖田が教えていたのは、人の殺し方。人間の急所。どこをどう打てば人が殺せるか。どうすれば最小限の力で息の根を止められるか。それを彼女に教えていたのだと知った時にはぞっとしたものだ。そしてそれが、彼女が自ら乞うたと聞いて愕然とした。
 何故そこまで、人を殺したいのかと。
 まさか彼女も沖田と同じ生き物なのかと。血に飢えた獣なのかと。
 ふわりと血の香りが漂う。そういえば彼女は着替えをしていない。彼女も土方と同じように返り血を浴びたはずなのだ。でも、深い濃紺がその血の色を隠してしまっているのだろう。血に酔った……そう言いながらもまだ血を纏っている。麻痺してしまったのかもしれない。沖田と同じように。
「どうして、」
 何故、と口を吐いて出る。
 どうして、彼女はそうなってしまったのか。血に飢える獣へと成り下がってしまったのか。
 そう問いかけて口を噤む。それはあからさまに彼女を悪く言う言葉だ。きっと彼女もなりたくてなったわけではない。沖田と同じように。強いられたのだと分かっている。
 土方は頭を振ると、代わりの言葉を探した。
「どうして、あの時刃を抜いた」
 何故、とは妙な事を聞く。
 あそこで刃を抜かなければは死んでいた。黙って殺されてやる程はお人好しではない。しかも何処の誰とも分からない輩になんて。
「抜かなければ殺されていました」
「それは、分かってる!」
 そんな事じゃない。と男が怒鳴る。
 はきょとんとしていた。その様子が更に男を苛立たせた。
「おまえは刀を抜く必要なんて無かった!」
 殺す必要なんてなかった。
 だって命を狙われていたのは彼女ではない。
 あの時命の危機にさらされていたのは、

「――俺だ――」

 そう。
 彼女がその手を血で染めたのは、自分のせい。

 ほんの少しの気の緩みだった。多分、上手く事が運んだせいで浮かれていたのだろう。
 だからあんな人気のない道を供に彼女一人を連れて歩いていた。早く屯所に帰って近藤に話してやりたくて、つい近道をしようなんて考えてしまったせいだ。は録に戦えないというのに。
 その浮かれた気持ちを見透かしたかのように、彼らは闇から飛び出してきた。即座に応戦したものの、相手は複数。こちらは一人。おまけに戦えない彼女を連れている。庇いながら戦うのには限界があった。おまけに細い裏路地。せめてもう少し大きな通りに出れば自由が利く。
 だが思うように事も運ばず、気付けば防戦一方になっていた。
 そして、斬り結んでいる最中、一人が後ろから斬り掛かってきた。
 そのまま受ければ、まず死ぬのは間違いない。だが身体を捻って応戦をすれば、上手くいけば右腕一本の犠牲で済むだろう。とはいっても斬られれば無論、戦えない。戦えなければ、待っているのは死だ。それでも後ろから斬りつけられて死ぬよりもまだ良い。もしかしたら逃げ切れるかも知れないのだから。
 覚悟を決め、身体を捻る。一方の手を犠牲にして一縷の望みに掛けてみようとする。もし最悪、右腕が使えなければ……その時は山南のようにあの薬を飲めば良い。そうすればまだ戦える。
 口元に自嘲じみた笑みが浮かんだ。
 鬼と呼ばれた自分が羅刹のような化け物になる。それはどんな皮肉なのだろうかと。
 だがその時、が、と不自然な音を浪士が上げその瞳を見開いていた。
 何が起こったのか一瞬分からなかったが、闇の中、その胸から鈍色の切っ先がまるで棘のように突き出ていた。無論彼の身体の中から飛び出したのではない。誰かが彼の胸を貫いた。
 そしてその誰かというのは、

 小さな、影。
 彼女だった。
 血飛沫が飛び散り、男はどさりと大地に伏す。
 そのままぴくりと何度か痙攣した後はもう、二度と動かなかった。
 男を見下ろすの瞳には一瞬、何かが過ぎった。
 瞳が大きく揺れた。
 だけど、それだけ。
 次の瞬間には強い眼差しへと代わり、彼女は迷わず他の浪士も斬り伏せた。

「あの時、俺を助けに飛び出さなければおまえは……」
 その手を血で汚す事などなかった。
 お陰で自分が助かった事は事実だけど、同時に、彼女は。
 言い掛けるのをは真っ直ぐに男を見つめて、きっぱりと言葉を紡ぐ。
「私は間違った事はしていません」
「……っ」
「新選組には土方さんが必要なんです」
 自分みたいな小娘よりもずっとずっと、彼は必要な存在だ。
 新選組には無くてはならない人。皆を纏めて、導くのは彼しかいない。
「だから、これで良いんです」
 これで良い。
 彼が無事で、これからも戦えるのならばそれで良い。
 人を殺したくらいが何だと言うんだ。この世界ではそれは悪ではない。生きる為に必要なのだ。
「私は、後悔していない」
 迷うはずなんてない。これで漸く、彼らの役に立てる。
 それは喜ばしい事じゃないか。
 彼女は言った。
 きっぱりと、言い切った。
 迷いなんて微塵もない表情で。
 それが逆に、男には痛ましくて堪らなかった。
 彼女は何度も後悔していないと言った。でもそれは本当に後悔していないからではない。逆に酷く後悔をしていて、だけど、それを認めたくないから。自分に暗示を掛けているから。そう男には見えた。
 ――いや、そうだと知っていた。

 いつの間にか、月が雲に隠れていた。
 分厚い雲に隠され、世界は闇で覆われていた。
 まるで誰も見てはいけないとでも言うみたいに。
 雲で月が隠されたからなのか。は随分と暗いと思った。でもそれにしては不自然だ。暗すぎる。それだけじゃない。ふわりと先程までずっとまとわりついていた血の匂いが、甘いそれに掻き消される。何かと思えば男の着物から香ってくるものだった。
「……悪かった」
 気付けば、男の胸に顔を押しつけていた。
 正確には押しつけられていた。大きな手で頭を包まれて、その逞しい胸に。
 何が起こったというのだろう。
 はぱちくりと瞬きを繰り返し、ただ近くにある彼の着物の模様をじっと見つめるしか出来なかった。
「俺の、せいだ」
 彼は言った。
 引き寄せたその身体を改めて見下ろし、彼は思う。の身体は本当に小さく、細い。頭だって小さくて、ほんのちょっと力を込めれば折れてしまいそうだ。この小さな身体で、折れてしまいそうな程脆い腕で、彼の命を救ったのだ。そして、人ひとりの命を奪った。こんなにか弱く細い腕で、だ。
「おまえが人を殺めたのは、俺のせいだ」
 彼は言葉を続けた。
 彼女が人を殺めたのは自分のせいだ。
 自分を助ける為に彼女は人を殺めたのだと。
「だから、俺のせいにすれば良い」
 その手を血に染めたのは自分のせいだと言えばいい。彼のせいで手を汚す事になったと思えばいい。
 全部全部自分のせいだから。
 もっと彼が強ければ、にそんな辛い選択をさせずに済んだのだから。
「だから……」
 柔らかな髪を指の腹で撫で、彼は頼むからと苦しげに言葉を吐いた。
「堪えるな」
 我慢をするな。
 苦しいのならば、辛いのならば、泣けば良い。
 人を殺めたくなかったのならば詰れば良い。怖かったのならば恐怖を吐き出せば良い。
 それは全部自分のせいだから。
 だから、無理に自分の中に感情を押し込めなくても良い。
「吐き出せ」
 言葉に腹の奥がカッと熱くなる。
 先程まで閉じ込めていたどろりとした醜いものがぐつぐつと奥底で煮立つのが分かった。それは解放を求めて蠢いている。
 唇を噛みしめれば頭上から優しい声が落ちてくる。
「辛いんだろう?」
 苦しいんだろう?
 腹の奥に燻った感情を、吐き出したくて堪らないのだろうと彼は問うてくる。
「認める事は、悪い事じゃねえんだよ」
 違うと言い掛ければ静かな声に遮られた。
「誰にだって恐れや迷いはあるもんだ。どんな強い人間でも、心が在る限りは……な」
「……」
「だが、それを認めずに見ねえ振りをした所で、傷ってもんは治らねえ。寧ろ膿んで自分でも気付かねえ内にでけえ傷跡になっちまって……最終的に壊れちまう。俺はそんな壊れたおまえの姿なんて、見たくはねえんだよ」
 だから、なあ。
 あやすというよりも乞うような響きで、彼は言葉を紡ぐ。
「我慢せずに吐き出しちまえ」
 するりと言葉が胸の奥に入ってきたのは、彼の言葉が純粋に自分の事を想って紡がれたものだったから。
 その彼の想いがとても暖かくて、優しかったから。
 意地っ張りの自分でも受け止める事が出来た。
 受け止めれば、堰き止めていた何かがぱちりと弾けていく。
 ああ、もう止められない。
 は目頭が熱くなってくるのを感じて、最後の抵抗にこれだけ言った。
「着物、鼻水でぐしゃぐしゃになっても知りませんからね」
 なんて色気のない言葉だと思ったが、土方はくつくつと笑ってこんな時でさえ意地を張る彼女に優しく囁いてやる。
「そんなもんで気が済むなら、安いもんだろう」
「嘘だぁ……これ結構高かったって、ぼやいてたくせに」
「下らねえ事だけ覚えてんじゃねえよ」
「だって、」
「もう黙れ」
 ぐ、と強く胸に押しつけられた。
 これじゃあ苦しいだろう。
 そんな文句もあまりに苦しくて、もう出てこなかった。嗚咽が、喉の奥から溢れて止まらなかった。
「ご、めんなさい」
 きゅと着物が引っ張られる感覚があった。が自分の着物を掴んだのだ。
「もう、泣いたり、しないからっ」
 今だけ。今の瞬間だけだから。
 もうこんな風に甘えたりなんかしないから。
 だから許してくれと乞う彼女があまりに哀れで、悲しくて、男は苦しげに表情を歪ませて溜息を零した。
「いいから、泣いてろ」
 それ以上はもう言葉など必要ない。
 言葉にならないの嗚咽と鳴き声だけが、静かな庭先に落ちて、消えた。