夜空を、分厚い雲が覆っている。
いつもならば美しく瞬く星空は雲に隠され、時折姿を見せる月の光だけが、地上を照らしていた。
その雲の向こうにはきらきらと輝く星の川が流れていることだろう。
今日は、
七月七日。
七夕なのだから。
「‥‥どうした?」
酒宴の席を早々に退席して、一人縁側で空を見上げていると声を掛けられた。
きっと自分を捜しに来るだろうと思っていた声の主に、は振り返りもせず空を見上げて、答えた。
「空を、見てます。」
「何か見えるか?」
隣にやってきた男はひょいと眉根を寄せて生憎の曇り空を見上げた。
雲以外、何も見えない。
「時々お月さんが顔を出すくらいです。」
ひょいと肩を竦めてが言えば、それのどこが面白いんだと苦笑を漏らしながら、とすっと隣に腰を下ろした。
どうやら、酒宴の席に戻るつもりはないらしい。
「いいんですか?
副長が抜けて来ちゃって‥‥」
彼がいなくなってしまったら、彼らはどんな騒ぎ方をするか分からないと言うのに‥‥
そう苦笑で零すと、土方はひょいとその肩を竦めて、構わないだろうと答えた。
「今日は無礼講だ。
好きなだけ騒げばいいさ。」
「そうですね‥‥」
「‥‥ところで、あれは平助の奴が採ってきたのか?」
さら、と庭先で揺れるそれを見つけて土方は双眸を細める。
地面にざくっと刺さっているのは一本の笹。
そうして、その枝にはふわふわと風に揺られて揺れる色とりどりの短冊がぶら下がっていた。
「折角の七夕だから‥‥って千鶴ちゃんのために調達してきたらしいんですけど‥‥」
「けど?」
「一番に短冊ぶら下げたの新八さんなんですよ?」
「‥‥あー、見なくてもくだらねえ願いなんだろうって事はよく分かるな。」
の言葉に土方は渋い顔をした。
大方、女にちやほやされたいとか、そんなことを書いてるんだろう。
若しくは酒。
「千鶴ちゃんなんか慎ましい願いだってのにねぇ‥‥」
『皆さんといつまでもこうして笑っていられますように』
なんて、慎ましくて可愛らしい願いじゃないかとは思った。
他の連中も少しは見習えばいいのに。
絡まった短冊を解くためにちらっと見てしまったのだが、皆あまりにくだらない、自分の欲望に忠実すぎる願いで‥‥
ちょっとだけ呆れたじゃないか。
「‥‥って、そういや土方さんは飾らないんですか?」
そういえば、その短冊の中に彼のものを見つけなかった気がして問いかける。
彼なら願い事なんて山ほどありそうなのに。
「あの三人が少しは酒を控えますように‥‥とか。
総司が悪戯しませんように‥‥とか。」
「副長助勤が無茶しませんように、とかか?」
意地悪く反撃され、はう、と小さく呻いた。
別に彼が困るほどの無茶はしていないつもりだ。
それにが挙げた二つとは違って、彼女が無茶をした所で彼にはなんの迷惑も掛けていないと言うのに‥‥
「‥‥おまえこそ、願い事を書いたのか?」
そういう自分こそどうなのだと訊ねられ、は首を傾げた。
「いえ?」
即答で否と答えられ、やはりな、と土方は苦笑を漏らした。
多分彼女の事だ‥‥短冊に願い事、なんて書かないとは思っていた。
逆に書いていると答えれば男は驚いてどれだと短冊を探しに行ったことだろう。
端から叶わないと決めつけているのか、
それとも無欲なのか‥‥
「‥‥ところで土方さん。
織姫と彦星のお話って知ってます?」
緩やかな風にながれる短冊を見つめているとふいに質問を投げかけられた。
「七夕伝説の話か?」
「七夕伝説?」
男の言葉に女はひょいと首を捻る。
なにそれ、と言いたげな反応に、彼は知らないのかと鸚鵡返しに訊ねた。
暇さえあると書物をひっくり返して読んでいるような女なのに、どうやら七夕伝説は知らないらしい。
まあ、書物を読みふけるといっても彼女が読んでいるのはもっぱら武芸書や、指南書だったか‥‥
物語的なものはあまり興味がないのかもしれないな。
「どんな話なんですか?」
聞かせてくださいと興味津々と言った風に訊ねる彼女に、土方は困ったように眉を寄せた。
「構わねえが‥‥俺は山南さんほど上手く話せねえぞ?」
「いいです、教えてください。」
それでも構わないと身を乗り出す彼女に、やれやれと土方は肩を竦めた。
「その昔、夜空に輝く天の川のほとりに、天帝の娘である織女という天女が住んでたそうだ。」
彼は、穏やかな声で物語を紡ぎ出した。
織女は天を支配する天帝の言いつけを良く守り、毎日機織りに精を出していたという。
彼女は美しい織物を毎日、一生懸命に作り上げていたが、
そればかりに打ち込むおかげで彼女はろくに恋も出来ない状態だった。
そんな我が子を不憫に思い、
「天帝は天の川の西に住んでいた働き者の牽牛って牛飼いと結婚させることにしたらしい。」
「へえ、二人は上手くいったんですか?」
の問いに、ああ、と土方は笑みで頷いた。
「だが、織女は牽牛との暮らしに毎日はしゃぎまわってばっかりで、すっかり機織りを止めちまったんだ。」
最初こそは新婚ということで大目に見ていた天帝も、それがずっと続くとさすがの父親も我慢がならなかった。
「天帝は織女が自分のすべき事を放り出してしまうようなら、再び天の川の岸辺に戻って機織りに精を出せ‥‥と言って
二人を引き離したそうだ。」
言葉を紡ぎながらなんとも勝手な父親だなと土方は思った。
自分が二人を引き合わせておいて、堕落したからと二人を引き離すなんて。
そりゃまあ確かに仕事をほっぽり出して遊んでばかりならば、怒りたくもなるのかもしれないけれど。
もし、新選組にそんな不抜けた奴がいたらやはり自分も引き離しただろうか?
いや、引き離す前に士道不覚悟で腹を詰めさせたか‥‥天帝よりもたちが悪いな。
そんな連中は新選組、少なくとも幹部の中にはいないだろうけれど‥‥
「七夕伝説って、可哀想な話なんですか?」
考えに耽っているとの声が聞こえた。
そこで話を止めてしまっていたらしい。
土方は慌てて頭を振った。
「話には続きがあるんだ。」
二人を引き離した天帝は、こう、続けた。
「二人を引き離したが、もし、心を入れ替えて一生懸命仕事をするというのなら「一年に一度、牽牛を会うことを許して
やる」って、事になったんだよ。」
「一年に一度って‥‥もしかして‥‥」
「ああそう。」
土方はそっと空を見上げた。
「七月七日‥‥今日だ。」
一年に一度、織女が牽牛と会うことを許された日。
「‥‥」
も同じように空を見上げた。
生憎の、曇天模様だ。
「‥‥今日、会えなかったんでしょうか?」
この曇り空じゃ、きっと天の川は渡れないだろうか?
「さてな‥‥」
土方は他人事のように言って、ひょいと肩を竦める。
そんなのはただの伝説だ。
本当にそんな二人がいたのか‥‥というのさえ怪しいものだ。
まあ、本当にいたとしたならば可哀想だと思わなくはないけれど。
「‥‥ね、土方さん。」
は夜空を見上げたまま、静かに口を開いた。
なんだと視線を向けるけれど、彼女はこちらを見ない。
分厚い雲の流れをじっと見つめたままだった。
「もし、土方さんが牽牛だったらどうしますか?」
「ああ?なんだそりゃ?」
あまりに突拍子のない話に男は眉根を寄せる。
怪訝そうな視線にも構わず、だから、とは続けた。
「もし、土方さんが牽牛の立場だったら‥‥」
彼はどうするだろうか?
は思った。
もし、自分の好いた女が川の向こう側にいて、
こんな風に生憎の曇り空で、
舟を出して貰えないのだとしたら、
会えないのだとしたら、
どうするだろうかと。
諦めるだろうか?
それとも‥‥
「‥‥」
土方はと同じようにそっと、曇り空を見上げた。
その空は‥‥ちょっとだけ嫌だと思った。
天の川どころか、月が見えない。
だから、その空は嫌だ。
別に二人が会えたとかそんなのはどうだっていいんだけど、と心の中で誰にも言わないのに言い訳。
男はふっと、溜息を零すと緩やかに唇を開いた。
「んなもん決まってんだろ。」
分厚い雲を睨み付け、その向こうに流れるだろう美しい星の川を思い描いて、言った。
「二度と離れねえように、奪いに行く。」
絶対の自信を込めたその言葉とその眼差しに、
は一瞬、呆気に取られたように目を見開き、
「ふっ――」
やがて噴き出した。
「土方さんってばおっとこまえー」
くすくすと笑いながら茶化すと彼はなんだよと不満げに顔を顰めた。
「だって、相手天帝ですよ?偉い人ですよ?」
「だからなんだって言うんだよ。
惚れた女と一緒になりてえなら、んなもん怖がってる場合じゃねえだろ。」
「そうだけど‥‥ふはっ‥‥」
よほどは面白かったのか、腹を抱えて笑い転げる。
土方はそんな彼女を不満げに睨み付け、
「くっそ、気分悪ぃな‥‥」
飲み直してくる、と腰を上げた。
飲めない癖に、とは内心で呟きながら涙を浮かべた目元を拭い、土方さん、ともう一度声を掛けた。
「んだよ、まだ笑い飛ばし足りねえのか?」
彼は不機嫌に振り返る。
ああもう、そんな顔しないで。
もっと拗ねさせたくなるじゃないか‥‥
そんなことを口にしたらきっと、もっと、彼を怒らせる。
はただそっと、目元を細めて笑うと、
「私が織女だったら‥‥同じ事してくれます?」
そう、訊ねた。
もし、自分が織女だとしたら。
彼が先ほど言ったように、
奪いに来てくれるだろうか?
二度と離れることがないようにと、その腕に抱きしめてくれるだろうか?
質問に彼は紫紺を大きく見開いて、
それから、
「ばぁか。」
と、その目を眇めて苦笑交じりの笑みを浮かべた。
その瞳を、
何よりも甘い、それに変えて。
「引き離される前に、連れてってやるよ。」
誰にも邪魔をされない、二人だけの場所に――
そんな甘い言葉にまるで「退散」とでも言うかのように‥‥
空の分厚い雲が、散って消えた。
その向こうで、
光輝く、
天の川が見えていた。
七夕
副長はロマンチスト。
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