「私はここに残ります。」

  一緒に来ないか?と言う原田の誘いを、は少しの逡巡の後にきっぱりと拒んだ。
  ここで別れれば二度と、彼と会う事は出来ないと分かっていたのに、それでも、その手を取る事が出来なかった。
  何故ならばここにはにとって大事な人がいたからだ。
  その人のためにがすべき事がまだ、あったから。
  だから、

  「私はここに残ります。」

  愛する男の手を、は取らなかった。



  甲府での大敗の後、考えの違いから永倉と原田は新選組から離隊することとなり、戦力は一気に落ちた。
  戦力だけではなく、純粋に人でも足りなくなり、欠けた二人の代わりに斎藤もも毎日忙しく走り回ることとなった。
  戦況は悪化の一途を辿り、目の前には絶望しか見えてこない。
  それでも彼らはあがき続けた。
  それ以外、知らなかったからかもしれない。
  否、足掻く事で忘れたかったのかもしれない。彼女は。

  だから、
  その迷いにつけ込まれた――


  「。少し、よろしいですか?」

  足りない人員と戦力をどう補うべきか。
  が一人考え込んでいたときだった。
  いつの間に夜になっていたのだろう。闇に染められる一室ではっと振り返るとすぐ傍にその人がいては驚いた。

  「さ、山南さん?」

  気配さえ感じさせず、闇からとろりと這い出てきたような。
  そんな化け物でも出てきたかのように言えば彼は気を悪くするだろうか。
  は口を噤んで、代わりになんでしょうかと訊ね返す。
  彼はにこりと以前となんら変わらない人の良さそうな、だが決して心の内を悟らせない作り物のような笑みを浮かべて、
  「実は、君に力を貸して欲しい。」
  と言うのである。
  はなんだろうかと首を捻った。
  羅刹隊である彼がに助力を乞うとは珍しい。
  には医学の知識などないに等しかったからである。
  山南は言った。
  「君にしかできない事です。」
  眼鏡の奥がすうと熱く、
  どこか狂気を孕んだ色を湛えた。
  ぞくりと背筋が震えたのは純粋な恐怖からだった。

  「君の血を、私たちにください。」

  君の。
  鬼の。
  化け物の血を、と、彼は告げた。


  彼女には出来る事がたくさんあった。
  土方の仕事を手伝う事も、彼らの為に戦う事だって出来た。
  彼らの助けになる事はできたが、だからといって、憂いを全て取り除く事は出来ない。
  所詮、一人が意気込んだ所で出来る事はたかが知れている。
  には永倉や原田が抜けた分の穴埋めを完璧にこなす事は出来ないのだ。何故なら、彼女は一人だから。
  こと隊士達の志気というものはどうしようもないもので‥‥今更のようにあの二人の存在が偉大だったという事を思い知
  らされた。

  「‥‥いくら西洋式の戦い方を教えるっていっても‥‥」

  結局、その人間が武士としての魂を持っていない限りはどうしようもない。
  敵を目の前にして恐れをなして逃げ出すのではいくら教え込んだところで無意味なのだ。

  「‥‥だからといって、羅刹隊を強化するのは‥‥」

  それを考えると、死を恐れない彼らの方が役に立つのだろう。
  だが、戦場に出るたびに血に狂い、敵味方関係なく仲間を切り捨てるのでは困る。
  いかに改良を加えても血に狂うという点に関してはなんら進歩がない。
  陽の光を恐れない‥‥という綱道の羅刹は確かに優れたものかもしれないが、それでもやはり血に狂えばただ人を切り刻
  むだけの化け物になる。

  血の狂気を抑えるためには、どうすればいいのだろうか?

  はふとそんな事を考えて頭を振った。

  馬鹿馬鹿しい。
  羅刹の強化はしないと、土方が決めたではないか。
  それなのに、があれこれと考えるのは間違っている。

  「‥‥‥」

  間違っているはずなのに、
  は考えてしまう。
  それは自分も、
  彼らと同じ化け物だからなのだろうか?



  「こんばんは、。」
  ゆるりと夜になれば当たり前に闇が忍び寄るように、その人が姿を現す。
  「山南さん‥‥」
  彼はにこりといつものように笑みを浮かべている。
  は一つ溜息を零すと、ごめんなさいと彼が何かを言う前に頭を振った。
  「私には、あなたに協力する事は出来ません。」
  言葉に彼は心底理解できないという風に首を傾げる。
  どこかあどけなささえ感じるその表情が、逆に恐ろしさを感じるのはどうしてだろう。
  それが血を寄こせというとても人道的とは思えぬ要望だからだろうか?
  「土方さんが、羅刹の強化は中止しろと言いました。」
  だから、と言えば山南は煩そうな顔になった。
  それを納得していない、という表情だ。
  「土方君は‥‥戦況を理解していないのです。」
  「でも、私は土方さんの助勤です。」
  彼の命令を無視するわけにはいかない、とは言う。

  ではこれで話は終わりに、とばかりには退室しようとすると、
  「お待ちなさい。」
  がしと手首を掴まれた。
  みしりと、男の手の中で骨が軋む。
  痛い、とは思いながら唇を噛みしめて離してくださいと固い声で言った。
  しかし、山南は手を離すどころか、そのまま骨を握りつぶさんばかりの力で掴む。

  「君は――」
  「ぅぁっ!」

  口から悲鳴のような声が漏れた。
  それに構わず、山南は手首を握りつぶすよりもの心を抉る言葉をぶつけた。

  「近藤さんや土方君が、死んでしまっても良いのですか?」

  大切な人が目の前で死んでしまってもいいのかという問いかけに、が『是』と言えるわけがなかった。



  「土方さん、状況は?」
  久方ぶりに屯所に戻ってきた土方には単刀直入に訊ねた。
  すっかり疲れたような顔をした彼はそうだな、と虚空を見つめて、しかし、包み隠さず本音を晒す。
  「状況的には、厳しいところだ。」
  「‥‥‥‥」
  幕軍は劣勢に追いやられている。
  今や味方は東北諸藩くらいで、その他は新政府軍に降っている。
  力の差は歴然、であった。
  先に見えるのが明るくない未来ばかりで、流石の土方も困ったような顔をするばかりである。
  人間には、
  限界があるのかも知れない。

  は俯いてそんな事を思った。

  「‥‥もし‥‥」
  「ん?」
  は握りしめた自分の拳を睨み付けたまま訊ねた。
  「もし‥‥羅刹が、血に、狂う事がなかったとしたら‥‥」
  「‥‥‥」
  「この状況は覆りますか?」
  彼女が、羅刹の話をするのは初めてであった。
  こと、彼らの強化を後押しするかのような発言は。
  それを見て、土方は彼女も追いつめられているのだと言う事を知った。

  だが、

  「‥‥そいつは‥‥俺にもわからねえよ。」

  土方には、それが最良の方法とは、とても思えなかった。

  「‥‥」
  その返答にはただそうですかと言っただけで、それ以上続けようとしなかった。
  そんなをちろりと見遣り、それより、と土方はずっと聞いてみたかった問いかけを口にする。

  「おまえ、本当に原田と一緒に行かなくて良かったのか?」
  「‥‥え?」
  唐突すぎる問いには顔を上げた。
  なんで、左之さん?とか言いたげな眼差しに、だから、と彼は言う。
  「だっておまえ、原田とは恋仲だったんじゃねえのか?」
  「‥‥んなっ!?」
  次の瞬間、は彼女らしくもなくひどく狼狽した声を漏らし、表情を強ばらせた。
  どうしてそんな事を知ってるんだとか、そんな事を言いたげだ。
  土方は気付かないわけがないだろうと苦笑を漏らす。
  「俺は、おまえの上司だぜ?
  部下の事をなあんにも知らねえ薄情な上司だとでも思ってたのか?」
  意地の悪い笑みでの問いかけにはいやそんなことはと慌てて頭を振りながら、しかしながら彼に気付かれていたとい
  うことに、どうしようもない羞恥心がこみ上げる。
  別に恋仲と言っても、愛の言葉を囁き口づけを交わす程度の仲なのだけど、それでも彼に知られていたと思うと恥ずかし
  くて堪らない。
  まさか目で追いかけているという事だって気付かれていたんじゃないだろうか。それは恥ずかしすぎる。

  「‥‥で、どうなんだ?」
  「え?」
  一人赤くなったり、青くなったりを繰り返しているとまた訊ねられた。
  なに?と顔を上げるとこちらを見る目が、ひどく優しい事に気付いた。
  「‥‥原田と、一緒に行かなくて、いいのか?」
  問いかけはまるで、

  彼と一緒に行ってもいいのだと、

  それを許すような響きを湛えていて、

  「――いいえ――」

  は迷わず頭を振っていた。

  「私は、ここで、戦います。」

  こんな優しい人たちを置いていくわけにはいかなかった。



  「斎藤。
  一つ、頼まれちゃくれねえか?」

  その日、土方は斎藤を呼びつけて、言った。
  頼み事があると。



  闇に紛れて、その人は離れへと向かう。
  灯りさえ点さないそこはまるで本当に闇に飲まれてしまっているかのようで、月明かりが届かないそこから先は、まるで
  世界が違うのだと言うようでもある。
  だが、恐ろしいとは思わない。
  元より自分はそちら側にあるべき存在だ。
  陽の光の元で生きる人とは違い、闇の中でひっそりと暮らす化け物。

  「山南さん。」

  まるで、彼はの来訪を予感していたかのように、にこりと笑みで出迎えてくれる。
  「決心‥‥してくださったのですね。」
  あなたは素晴らしい決断を下した、とでも言うかのような嬉しそうな眼差しには狂気の色は見えない。
  その闇の向こうでぎらぎらといくつも、人とは思えぬ赤い眼が蠢いている。
  それらは、を見ると飢えた色を浮かべた。
  いくつもの狂気が、それこそ身体を貫くかのようだ。

  「‥‥私の血を、役立ててください。」

  はすいと久遠を抜き、現れた白刃で己の肌を裂く。
  じりと灼けるような熱の後に感じるのはとろりと何かが溢れた感触だ。
  深紅が、肌を、伝う。

  その紅を前に羅刹たちの目の色が一層凶暴な物へと変わった。

  今にも飛びかかりそうなそれらに、山南は制止の声を掛けて、
  いつも同じ顔で、
  にこりと笑った。

  「勿論です。」

  きしりと踏みだした一歩と同時に、手が闇から伸びた。

  「君の血の一滴さえも、無駄にはいたしません。」

  良く知る瞳が、ぞくりと背筋が凍るほどの狂った色に変わった。

  死ぬかも知れない――は今更のように、思った。
  そんな瞬間になって、
  ひどく、
  あの人に会いたいと思った。


  がしゃんっ!!


  けたたましい音を立てて障子戸が吹き飛ぶ。
  吹き飛んだそれは赤い目をした彼らをはじき飛ばし、あるいは下敷きにして、止まる。
  破られたそこから青白い月光が差し込み、先ほどまで真っ暗だった室内に淡い光を差し込んだ。
  闇の世界にいたのはほんの僅かな時間だというのに、その淡い光さえ眩しく感じては目を細める。
  しかし、その眩しさよりも鮮烈に、の目に飛び込んできたのは、青白い光を受けて幻想的に染め上がる赤だった。

  「なんで‥‥ここに‥‥」

  驚きに見開かれた瞳に、無性に会いたかったその人の姿が飛び込んでくる。
  彼は瞳に激しい怒りの焔を灯していた。
  その瞳でじっとだけを見ていた。
  の決断を咎めるような、そんな瞳だった。

  「俺は‥‥」

  原田は拳を握りしめる。
  室内では不利だろう槍を携えて、彼は吼えた。

  「こんな事をさせるために、おまえの手を離したわけじゃねえっ!!」

  まるで怒声が風となって身体を叩くかのようで。
  が一歩をたじろいだ瞬間、俊足で距離を詰められてその腕に囚われた。
  がっしりとした逞しい、揺るがないそれに、囚われ、は安堵しながらもぎょっとした。
  何故ならばここには羅刹たちがいて、
  いや、
  それよりも彼が、
  自分を腕に捕らえた理由が分かったからだ。

  「だめ、左之さん、離して!!」

  藻掻くけれど逞しいそれは離してくれず、そればかりか軽々と肩に担ぎ上げてしまう。
  そうして原田はぎろりと山南を睨み付けると、唸るように告げた。

  「こいつは返して貰う。
  てめえら羅刹の餌食になんかさせるもんかよ。」
  「‥‥‥‥」
  言葉にすぅと山南は目を眇めただけだった。
  まるで、それさえも予感していたかのように、うすく、笑う。

  「左之さっ‥‥」
  そのままくるりと踵を返して飛び出す彼には離してともう一度声を上げた。
  彼は応えてもくれず、こちらを見てもくれなかった。
  「私、まだっ」
  ここでやる事がと未練がましく振り返れば、廊下に出てきた土方とばちりと視線が絡む。
  その彼女を見る目は何故か、優しくて、

  『それで良い』

  そんな声が聞こえたような気がした瞬間、は大声を上げた。

  哀しかったのか。
  それとも嬉しかったのかは、分からなかった。
  ただ、腹の底から叫んだ。



  声が枯れるだけ叫んだ。
  こんな時間に迷惑だとか、そんな事は考えられなかった。
  何を言いたいのかさえ分からなかったけれど、はただ、叫び続けた。
  もう、声が出なくなるまで。
  そうしなければ、責めてしまいそうだったから。
  そこから救い出してくれた原田を、
  そして、許してくれた土方を。


  「謝らねえぞ。」

  ぽつんと、抱えたまま無言で歩いていた原田が零す。
  いつの間に歩みは緩やかになっていたのだろう。そんな事さえ気付かず、は彼の肩に縋って声を上げ続けていた。
  ぼんやりと言葉に顔を上げる。
  すぐ横にある端整な顔立ちは、怖いくらいに真剣な色を帯びていた。

  「俺を恨むなら、好きなだけ恨め。
  だけど、俺は、間違った事をしちゃいねえ。」

  をあそこから連れ出した事。
  彼らから引き離した事。
  それは間違いではないのだと彼は言う。
  はそれが間違いなのか正しいのか分からなかった。
  ただ、告げるその人の真剣さが伝わって、
  「っ」
  堪らなくて逞しい首に縋り付いて震える声を漏らした。
  大声はもう出なかった。
  ただ、一心不乱に求めるように、さのさん、と呼び続けた。
  そうすると背中をしっかりと抱きしめられて、

  こうするのが一番だったのかも知れない、とぼんやりと思った。


  まだ、
  それが正しいのかは分からないけれど、
  きっと、
  選んだ事に納得できる日が来るだろう――


 捨てたものと選ぶべきもの



  リクエスト『原田さんのシリアスで切ない話』

  ドシリアスな話になりました。
  恐らく左之さんが離隊するという話になったらは迷うと
  思う。
  迷って、多分自分の想いよりも恩とか、そういうのを優先
  させて‥‥左之さんもの気持ちを優先させてあげたいと
  思うんだけど、最終的には強奪、という(笑)
  どうしても「こんなことを‥‥」の台詞がどうしても言わ
  せたかった!!
  悔いはない!
  でも恋愛でも切ない話も書きたいなぁとか‥‥思ったり。

  そんな感じで書かせていただきました♪
  リクエストありがとうございました!

  2010.12.11 三剣 蛍