龍之介は自分がとんでもない不運な人間だと思っていた。
生まれた時から、まるでそれが運命なのだと言わんばかりに不幸ばかりが続いている気がする。
最大に運が悪いと思ったのは死にかけている所をあの男に助けられてしまった事だろう。
確かに死にたくないと思った。
だからみっともなく土で汚れた握り飯を食った。
そうまでして生きながらえて続く不運に龍之介は己が人生を呪った。
「邪魔だ、どけぇえ!!」
振り下ろされる白刃に、龍之介は思った。
もしかすると、自分は不幸を呼び寄せるのかも知れない、と――
彼は芹沢に頼まれた通り酒を買いに来ただけだ。
起きがけで機嫌が悪かったらしく鉄扇で一発殴られた。
まあそれはいつもの事だから、良い。
それよりも酒を買いに出た先で、まさか不逞浪士とばったり出くわすとは思わなかった。
金をせびりに来たらしい浪士は断られたのか、店の中で刀を振るって店主に怪我を負わせて金品を奪い、逃げた。
悲鳴が上がる中なんだろうと思って振り返ると抜き身の刃を持って走ってくる姿を見つけ、何故、彼らがこちらへと向か
ってくるのだろうと龍之介は不思議に思ったものだ。
ただ彼らの行き先がこちらだったからで、本当に偶然なのだが、その偶然の為に浪士に邪魔だと喚かれ、刃を振り上げら
れた。
腰に獲物を差してはいても、龍之介はずぶの素人だ。
人を斬る事はおろか、刃を受ける事さえ難しい。
それ以前に咄嗟の事で凍り付いてしまっていた。
まずい‥‥と思ったときには道の真ん中を彼は塞いでしまっていて‥‥
「邪魔だ、どけぇえ!!」
厳つい男が血のついた刃を振り下ろした。
血よりも赤く血走った瞳が、まるで理性のない狂った獣のようで。
ああ、これは今度こそ死ぬな――
龍之介は直感しつつ、目をぎゅっと瞑った。
死の瞬間は出来ればあっという間に過ぎてくれと願った。
――その瞬間、
一陣、強い風が吹き抜ける。
まるで叩きつけるかのような風は龍之介の横を過ぎ去り、そして、
キィン――
空に甲高い音を打ち上げた。
「‥‥‥‥‥‥あ、あれ?」
確かに死の瞬間はあっという間に過ぎてくれと願ったものだが、あまりに実感が無さ過ぎて龍之介は小さく声を上げる。
もう死んだのだろうか?しかし、痛みは一瞬も無かった。
斬りつけられたのだから当然痛みはやってくるものだと思っていたのだが、それが、ない。
まさか斬りつけられる前に恐怖で心臓が止まったというのだろうか?
いやまさか、それではあまりに情けなさ過ぎる。
死を直感したのは今のが初めてではないというのに‥‥
そんな事を考えていると、な、と驚きの声が聞こえてきた。
そしてぎちぎちと耳を覆いたくなる嫌な音。
それが金属の咬み合う音だと気付いたとき、ふわりと香ったその野蛮さとは無縁そうな柔らかい香りに、まるで惹かれる
ように瞳を開いた。
「なっ‥‥」
龍之介の目の前に小さな背中があった。
一瞬、子供かと思うほど小さくて華奢な背中だ。
まさか自分の代わりに斬られたのだろうかと青ざめれば、その手に抜き身の刃が握られていて、それで刃を受け止めてい
るというのを知った瞬間になんて命知らずなと命の恩人に失礼な事を思ってしまったものだ。
「な、なんだてめえは!?」
顔を真っ赤にしながら浪士が狼狽えながら訊ねる。
と、その場に似つかわしくない、どこぞの浪士組の物騒な男を思い出させる、楽しそうな声が、その口から零れた。
「通りすがりの一市民、かな?」
揶揄するような言葉は、思った通り、高い。
やっぱり子供じゃないかと龍之介が慌てると、浪士はふざけるなと怒鳴った。
怒鳴られて、刃を向けられている、というのにその人は相変わらず、楽しげに、こう続ける。
「どうでもいいんだけど、その格好、ちょーっと恥ずかしくない?」
その格好?
浪士と、それから龍之介が一瞬首を傾げる。
なんのことだろうかと二人は同時に思って、それから格好と言うからには彼がおかしな格好でもしているのだろうか、と
視線をそっと下ろせば、
「なっ!?」
そこで漸く気付いた。
男の身につけていた袴がばさりと地面に落ちている事を。
それを当人も今初めて気付いたのだろう。
ぎゃあと声を上げて、慌てて刃を離すと、やはり慌てて落ちた袴を拾い上げる。
その格好はかなり情けない。
どうやら袴の紐が切れたらしい。
しかし切れたのではない。
結び目はそのままで綺麗に切り離されていたのだ。
斬られた‥‥
「っ」
恐らく、目の前のその人に、だ。
目を瞑っていた龍之介には見えなかった‥‥いや、目を開けていてもきっとその動きを追う事は出来なかっただろうが、
袴の紐を斬って、返す刀でなおかつその刃を受け止めたというのだ。
「‥‥‥どうする?
そのお金、置いて逃げる?」
「っ‥‥」
「それとも。」
と続ける声に微かに滲むのは殺気だ。
瞬間、背を向けられている龍之介には分からないが、浪士たちがぎくりと肩を強ばらせたのが見えた。
そして、顔をざあっと音を立てて青くして、
「ひ、ひぃいええ!?」
これまた情けない声を上げて、逃げていってしまった。
勿論、巻き上げた金を置いて。
「‥‥‥まったく。」
やがて砂煙の向こうに男の姿が見えなくなると、その人はくるりと振り返った。
柔らかい飴色が揺れて、振り返ったその人の顔を見た瞬間、もう一度龍之介は目を見張った。
その人は驚くほど綺麗な顔立ちをしていたのだ。
白い肌に通った鼻筋、細い顎の線に、薄い唇。
武士よりも、役者をしている方がお似合いだと思うような顔立ちで、なにより印象的だったのが、その瞳だ。
強い意志を持った琥珀は、どこまでも澄み切っていて、見ているだけでその美しさに引き込まれてしまいそうだった。
「ほら、行くよ。」
その人は唐突に目を細め、にっと笑ったかと思うと呆気に取られる龍之介の腕を掴んで、歩き始める。
思ったよりも強い力に引かれてうわ、と龍之介の口から声が上がり、そして次に我に返って、ちょっと待てよ、と彼は声
を上げた。
「ど、どこにいくんだよ!」
見ず知らずの人間に引っ張られてついていく程、彼は子供ではない。
慌てて手を振りほどくと、
「なんなんだよ、おまえ!」
と警戒心剥き出しで問いかけた。
ここに原田あたりがいれば「まずは礼を言うのが先だろう」と拳骨の一つでもお見舞いされたところだろうが、その人は
気を悪くした風もなく、ただ振り返って目を眇めただけで、
「ここにいると、町方に根ほり葉ほり聞かれて面倒な事になると思うけど?」
「っ!?」
振り返るとばたばたと駆けてくる町方の姿が見える。
確かに面倒な事になるのは間違いないだろう。
というか、こんな所で時間を食って芹沢の酒が切れる前に戻れなければ、鉄扇の一発や二初をお見舞いされるというものだ。
「‥‥そ、そうだな。」
些か緊張した面持ちで頷くと、龍之介は歩き出した。
そんな彼を見て、ひょいと肩を竦めるとその人も歩き出した。
まさか八木邸に用事があるのだとは思わなかった。
ろくに挨拶もせずに別れると、その人は躊躇いもなく八木邸の門を潜る。
誰かの知り合いだろうかと少しだけ気になって見れば、門を潜った先で藤堂・原田・永倉が馬鹿騒ぎをしていて‥‥ああ
またでかい声を出して殴られるじゃないかと龍之介がうんざりした瞬間、その人物の姿を見て、三人の表情が変わった。
「!?」
まず一番に声を掛けたのは藤堂だ。
驚いたようにそう声を上げると、、と呼ばれたその人はふっと口元を緩めて、笑う。
「久しぶり。元気にしてた?」
「久しぶりって、それはこっちの台詞だろ!」
知り合い、なのだろう。
それは藤堂だけではなく、原田・永倉もそうだったようだ。
「なんだよ、戻ってくるな一言くらい言ってくれりゃあ、ご馳走でも用意してもらってたのによー」
「何言ってんだ。八木さんとこに厄介になってる身でんな事できるわけねえだろうが。」
にかっと白い歯を見せて豪快に笑う永倉に、原田が苦笑を零して、そうしてそっとその大きな手をの頭に乗せる。
くしゃ、と掻き混ぜられ、飴色が少し乱れる。
は気にした様子はなく、ただ嬉しそうに目を細めるだけだ。
「元気そうでなによりだ。」
「左之さんも、新八さんもね。」
「元気に決まってんだろ。」
おまえが心配する事じゃねえよ、という声は優しく、まるで家族に対する愛情のようなものを感じた。
兄弟、というにはあまりに似ていない。
龍之介はそんな事を思いながら眺めていると、藤堂が振り返って大声を上げた。
「おーい、みんなぁ、が帰ってきたぞー!」
大袈裟すぎやしないだろうかというそれに、慌てたような足音がいくつか、邸の中から聞こえてきた。
沖田や斎藤や井上だけではなく、近藤や土方、山南と言った局長副長までもが出迎える姿に龍之介は唖然とした。
その誰もが優しい眼差しでという人を見ている。
口々に「おかえり」と言う言葉には、やはり深い愛情を感じた。
なんだ?あいつは?
仲間なのか?
いやでも、あんなヤツ見た事も‥‥
龍之介が唖然として立ちつくしていると、そんな彼に気付いた藤堂が「お、龍之介」と声を掛けてきた。
呼ばれてびくんっと彼は肩を震わせる。
なんとなく盗み見をしていた気分になってあの、と視線を彷徨わせていると、険しい顔になった土方の横で溢れんばかり
の笑顔になっていた近藤に手招きされた。
本当はそのまま帰りたかったのだが‥‥沖田と斎藤の眼差しがおっかなかったので、しかし無視して帰ると沖田に何をさ
れるか分からない。
仕方なくとぼとぼとやってくると、そんな事に気付かずに、近藤が笑顔で言った。
「紹介しよう。
俺たちの仲間の、だ。」
見下ろす形になるその人の身体は、やはり、小さい。
こうして向かい合うと頭も小さくて‥‥やっぱり子供なんじゃないだろうかと龍之介は思った。
「よろしくお願いしますね。
井吹龍之介さん。」
にこやかに笑ってそう言ったに、龍之介は「ああ」と言いかけてふと、違和感を覚えて止める。
そういえば彼女に名を名乗った覚えはなかった。
その者颯爽と現れり
龍之介との出会いはこんな感じ。
|