「さんは‥‥辛くないんですか?」

  そんなはずがないと思いながら千鶴は自分の言葉が止まらない事に気付いた。

  たった三年という短い期間ではあったけれど、彼女がどれほど仲間を大事に思っているかという事だけは分かっていた。
  それこそ自分の命を差し出しても惜しくないというほど‥‥彼女が彼らを大事に思っているかを。
  辛くないはずが、なかった。

  沖田が、藤堂が、
  変若水を飲み羅刹となった事が。
  いつか、
  彼らも血に狂い、人ではなくなってしまうかもしれない。
  かつて血に狂った隊士達のように‥‥殺さなくてはいけないかもしれない。

  平気でいられるはずがない。
  辛くないはずがない。

  でも、

  「‥‥平気だよ。」

  はにこりと琥珀を細めて、穏やかに笑った。
  多分。
  彼女は殺せと命令されれば迷わずに彼らを殺すのだろう。
  そして今と同じように、平気だと笑って言うのだろう。
 だって、仕事だからと。
  仕事だから仕方ないんだと。

  ――そんなはず――

  千鶴は苦しげに唇を噛みしめて頭を振った。

  平気なはずが、
  仕方がないはずが、

  「ない――」

  悲しい笑顔を浮かべるその人に違うと言った。

  彼女が平気なはずがない。
  たった三年という短い期間で知ったのは、彼女が仲間思いだという事だけではない。
  彼女は‥‥とても器用に見えて、とても不器用な人だと言うことも知った。
  それが仕事だからと割り切っているのも、納得しているんじゃなくて、無理矢理、自分の心を殺しているんだという事を。
  そしてきっと、
  彼女は、
  「仕事」を終えた後に一人で苦しむと言うことも。

  「そんなはずがない!」

  千鶴は彼女にしては珍しく強い口調で叫んだ。

  「さんは本当は苦しいはずです!」
  「‥‥千鶴ちゃん‥‥」

  は噛みつかんばかりに詰め寄る彼女に困惑したような表情を浮かべる。

  どうしたの?ちょっと落ち着こう?
  という自分を落ち着かせるような優しい声にも、どこか白々しさを感じて千鶴は悔しくて悲しくて、更に感情が高ぶって
  しまう。

  「どうして、いつもそうやって、我慢するんですか?」
  「‥‥私は我慢なんてしてないよ。」

  やりたい放題だよと笑った彼女に嘘吐きと千鶴は泣きそうな顔で言った。

  「さんが‥‥っ辛くないわけ、ないじゃないですか!」
  「辛いのは私じゃないよ?」

  何より辛いのはあいつらだと、が言えば、だから、と千鶴は引きつった声で言った。

  「だからこそ、さんは辛いに決まってるじゃないですか!!」

  何より仲間を思いやる彼女だからこそ。
  自分が何も出来ずにただ見守るしかないのが辛いに決まっている。
  彼女は苦しんでいる。
  あの時どうして二人を助けられなかったか。
  どうして自分が代わってやれないのか。
  どうしようもないことを、それでも考えて、苦しんでいる。
  千鶴と同じように。
  いや、それよりもずっと強く。

  それなのに‥‥

  「どうして‥‥どうして辛いと言ってくださらないんですか?」

  どうして、彼女は笑おうとするんだろう。
  どうして、彼女は、辛いと言ってくれないんだろう。

  「どうして‥‥っ」

  どうして、と告げる千鶴の瞳が苦しげに歪められた。
  ああ、そんな顔をしてはいけないよ。
  折角の可愛い顔が台無しじゃないかとは思いながら、ふと、視界がぐにゃりと歪んだ事に気付いた。

  あれ?どうしたんだろう?
  どうして視界が歪むんだろう?
  世界が曖昧になって、見えなくなってしまうんだろう?

  そしてどうして、

  胸が、
  苦しいと思うんだろう。
  苦しくて苦しくて、
  呼吸も出来ない。

  あれ‥‥どうして‥‥

  どうして。

  熱いものが喉の奥からこみ上げてくるんだろう?

  どうして。
  どうして。

  声を限りに叫びたくなるんだろう?

  どうして‥‥

  どう、


  ひくりとその細い喉が震えた。
  琥珀が揺れた。
  そして、
  瞳の表面に何かが盛り上がって‥‥


  「――そこまでだ。」


  その瞳がそっと、大きな手で覆われた。
  千鶴が驚いて顔を上げれば決まりが悪そうな顔をした土方の姿があった。

  「‥‥土方‥‥さん。」
  「千鶴、悪いがそのくらいにしてやってくれ。」

  彼は困ったような顔でそう言いながらぐいとの身体を引き寄せる。
  すっぽりと腕の中に隠して、ぐいと小さな頭を胸に押しつければ暖かい何かを感じた。

  土方は苦笑で告げた。

  「こいつは‥‥おまえよりもずっとずっと、不器用だ。」

  千鶴のように思ったように感情を出すことが出来ない不器用で哀れな女。
  でも、それ以上に彼女は、

  「おまえよりもずっと‥‥意地っ張りな女だ。」

  だから、
  彼女はきっと千鶴の前でその姿を見せるのを厭がる。

  彼女の前ではしっかりした人間で在り続けなければいけないと‥‥自身が無意識に自分に課してしまっているから。
  いや、彼女だけではなく、沖田や藤堂、原田や永倉、近藤の前でさえも、彼女は意地を張るのだ。
  勿論、自分の前でも。

  それを分かっていて、他の人間は誤魔化されてやっているのだ。

  たのむから。
  と彼は困ったように笑った。

  「おまえは誤魔化されてやってくれ。」

  悪役になら、自分がなるから―――



  ぐちゃぐちゃと腹の中で嫌なものが渦巻いている。
  それをなんと呼ぶのかは知らず、またそれの対処法も知らなかった。
  ただ、気持ち悪くて嫌な感じがして、しきりに顔を顰めて歯を食いしばる。
  喉の奥で変な音が漏れた。
  なんだあれ、と思っていると大きな手が背をさすった。
  そういえば‥‥

  「ひじかた、さん。」

  自分は彼に抱きしめられているというのに今さらのように気付いた。
  そうしてその瞬間、今さらのようにふわりと香った白梅の香りに‥‥何故か心がざわついた。
  嫌な気分が一気に増した。
  それこそ、今すぐに吐き出したいくらいの気分の悪さだ。

  「離して。」

  突っ慳貪に言い、は胸を押す。
  しかし、男は手を緩めず、逆に抵抗すればするほど強く抱きすくめられた。
  逞しい胸板に受け止められるようで、
  その強い腕に守られるようで、
  ここは居心地が悪いと思った。

  「馬鹿野郎が。」

  抵抗を続けると頭上から苦い口調の声が降ってくる。
  どうして馬鹿と言われなければいけないのかとが反論を口にしようとすれば、それよりも先に男の声が続いた。

  「あいつなんかに、泣かされそうになりやがって‥‥」

  抵抗を止めるべく、更にぐっと強く抱きしめられの呼吸が止まった。
  実際、彼女の息を止めたのはその言葉だっただろう。

  泣かされそうになりやがって――

  自分が?
  まさか。
  とは嘲笑を浮かべた。

  「‥‥泣いてないです。」

  自分が泣くはずがない。
  だって、

  「泣く理由がない‥‥」

  どうして自分が泣かなければいけないのというんだろう。
  悲しくもないのに。

  「‥‥」

  土方はその言葉にひたすら長い溜息を漏らした。
  千鶴がもどかしい気持ちはよく分かる。
  彼はと知り合ってもう七、八年にもなるが、何かある度に同じように思ったものだから。

  「この意地っ張りが。」

  いっそ、あの時泣かせていればよかっただろうか?
  男はひっそりとそんなことを思いながら、そっと背中を押さえつけていたその手を優しく滑らせた。
  それはまるで子供をあやすような手つきで、は子供じゃないと小さく呟いた。

  「子供より厄介だ。」
  「‥‥ひどい。」
  「ああ、俺はひでえ男だ。」

  酷いと自分を罵る男の手は、だけどそうとは思えないほど優しい。
  あんまり優しくては恐ろしささえ感じた。
  怖かった。
  優しくされて‥‥自分がその優しさに甘えてしまうのが。

  「やめて。」

  はいや、と腕の中で頭を振った。
  やめろというのに彼の手は止まらない。

  「やだ‥‥」

  声がふるっと震えた。
  腹の底に溜めていたもやもやとしたものが一気にせり上がってきた。

  「はな、してっ」

  うっと嗚咽が漏れる。
  嘔吐感がこみ上げて、は涙目になった。
  吐く、このままでは確実に吐く。

  「はなして、っ」

  ひく、ひっくと喉が震えて変な音が出た。
  早く離してとが言えば、土方は眉間に深い皺を刻んで、ゆるりと頭を振った。

  「駄目だ。」
  「や」
  「暴れたって離してやらねえぞ」
  「いやっ」

  お願い離して。
  今すぐ離して。

  このままでは‥‥吐き出してしまう。

  ぐ、と女の喉が押しつけられたように鳴った。
  喉元にまでこみ上げたそれを、必死に飲み込もうとする彼女に、土方は言った。

  「俺は、酷い男なんだ。」

  もう一度彼は自分を酷い男だと称した。
  先ほどよりもずっともっと優しい声で。

  「おまえみたいな跳ねっ返りをも泣かせる、ひでえ男なんだ。」

  だから、

  「‥‥おまえが泣くのは俺のせいだ。」

  酷いと思うならば泣かせるな――

  その紡ぎたかった言葉は、もう、意味を為さないわめき声にしか鳴らなかった。


そんなあなたが大嫌い



どうしようもなく不器用な女。
そんな彼女を泣かせる悪役は彼くらい。