あれは、夜も更けて静まりかえった真夜中の事だった。
鐘の音が八つ。
確かに聞こえたから、あれは丑の刻だった。
鐘の音が聞こえて暫くして、どうしても便所に行きたくなって、部屋をそっと抜け出して厠に行こうとしたんだけどさ。
誰も起きてねえはずなのに、人の気配を感じたんだよ。
でも、あたりを見回しても誰もいない。
気のせいかなって思ってとにかく廊下を歩いてたら‥‥ほら、庭の隅に石があっただろ?
そこにさ、
人が立ってたんだよ。
最初隊士の誰かかと思ったら、その人、女の人で。
こんな時間にこんな所に女の人がいるなんておかしいって思いながらよく見てみると、その人‥‥すげぇ薄着で。白い着
物一枚で黙って俯いてんだよ。
でさ‥‥オレ気付いたんだよ。
その人、足が、ねえんだ。
なのに浮いてるみてえにそこに突っ立ってて、
突然風が吹いたかと思うとその人の姿がそこから消えて無くなって、
やっぱり見間違いかと思って前を向いたら目の前に、女の青白い顔があって、
『おまえを呪い殺してやる!!』
「で、平助は怖くて漏らしちゃったと」
「誰が漏らすか! 誰が!!」
おどろおどろしい口調で語っていたはずなのに、次の瞬間に茶化すような言葉に空気が白ける。
調子よく怪談話をしていた藤堂は真っ赤な顔で怒鳴りつけ、そうじゃないだろ、とべしべしと床を叩きながら訴えた。
「普通ここは怖がる所だろ! オレほんとに昨夜見ちゃったんだぞ!」
いるんだぞ、本当に、と彼が言えば、ぽんとその肩に手が乗せられる。
それはで、彼女は酷く真面目な顔で‥‥言い放った。
「怖かったら、今晩から私が一緒に寝てあげようか?」
「馬鹿にしてんのか!!」
とうとう堪えきれなくなり、藤堂は立ち上がる。
「ほんっとーに、本当に、いたんだぞ!」
見たんだからな、と言い張る彼の目は、本気だ。
は表情を崩して、でもなぁ、と隣の沖田へと視線を向ける。
彼は視線を受けて、ひょいと肩を竦め、
「でも、平助以外誰も見てないし」
と返す彼に、藤堂は「う」と小さく呻いた。
西本願寺に屯所を移して、既に三月になるが、その間に彼が言う女の姿を見た人はいない。
彼が昨夜通ったという廊下が限られた人間しか通れない場所というわけでもなく、誰もが厠に行くのにはそこを通らなけ
ればならない。
それなのに、女の姿を見たのは彼、ただ一人なのだ。
「おおかた、寝ぼけてたんじゃねえのか?」
昨夜もしこたま飲んでただろう、と原田に指摘され、藤堂はあれくらいの酒量で酔っぱらうほど弱くはないと言い張る。
「じゃあ、出ると思ってたから、出たように見えたとか?」
次に言ったのは沖田で、彼は明らかに馬鹿にしたような顔を藤堂へと向けている。
暗に、怖いと思っていたから出たのだろうと、彼の臆病さを馬鹿にしているのだろう。
「だから! オレは、怖くなんかっ‥‥」
「しかし、もし、境内に人がいたとなれば侵入者かも知れぬな」
そして最後にそう言いだしたのはそれまでずっと黙って聞いていた斎藤で、彼はまるで見当違いな事を何やらぶつぶつと
呟いている。
人ではなく、幽霊だと言うのにこの男は、賊ならば討たねばなるまい、などと言い出す始末だ。
藤堂は溜息をはぁあと長く吐き、やがて肩を落としてどっかと腰を下ろした。
「まあ、それが本物の幽霊かどうかは置いておくとして‥‥さ」
「うん?」
興味があるのかないのか、沖田は飄々とした様子で皆に訊ねる。
「その女の人‥‥なんで幽霊になんかなっちゃったんだろうね?」
質問を投げかけられ、はうーんと一つ唸る。
「死んで、なお、この世に未練があるって事は相当想いが強いって事だよな‥‥」
しかも、それが女、となれば、その想いというのは自ずと知れる。
「好いた男に裏切られた」
「やっぱり、そうだよね」
沖田も頷き、それから悪戯っぽい表情で一同をぐるりと見回した。
「案外、この中の誰かに恨みがある人だったりしてね」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥」
言葉に一同は黙り込み、そして、視線を揃って一点へと向けた。
「ちょ、ちょっと待て!」
向けられたのは新選組の中でも色男として名高い原田左之助、十番組組長。
その美貌と、優しさに惚れた女は星の数。そして、枕を濡らした女も星の数、だ。
「左之さん、供養してあげてくださいね」
「だから! 俺は女を泣かすような真似はしてねえよ!!」
神妙な顔でが諭すように言うと、原田は妙に焦った様子で俺じゃないと頭を振った。
自分ではないと言い切る事は出来ないはずだが‥‥まあ、不実な事をしていないのは彼の性格を知っていれば分かる。
優しい彼の事だ。
きっとどれほどに彼に恋いこがれた女でも恨んで化けて出てくるという輩はおるまい。
となれば、
「‥‥土方さんか」
なるほど、と沖田が呟く。
その表情はひどく嬉しそうだ。
恐らく最初から彼に標的を決めていて、原田はそのとばっちりを食ったに過ぎない。
「まあ、土方さん、昔女遊びが酷かったって言うし‥‥恨んでる人も多そうだよね」
彼の昔を良く知る沖田は、ほら、とまるで水を得た魚のように生き生きとした様子で話し始める。
「昔は毎日取っ替え引っ替え、綺麗な女の人と付き合ってたんでしょ? まあ付き合うっていうよりは身体だけの関係っ
てやつだったらしいよね。日野じゃ、ほとんどの女の人が土方さんの餌食になったって聞くし、そりゃ恨まれても当然だ
よね」
「‥‥お、おい、総司」
険しくなる斎藤の表情と、無表情になるに気付いて原田が彼を窘める。
聞いていてあまり気持ちの良い話ではない上に、そう言った話は当人の許しもなしに暴露すべきではない。
いくら口止めされていなかったとはいえ、普通は言うべき話ではないのだ。
それに、
「そういえば、京に来た時に関係があった菖蒲姉さんを酔わせて摘み食いした挙げ句に、なんか違ったとか言う訳分から
ない理由で途中で帰ったんでしょ? その後、菖蒲姉さん自棄になって首を吊って死んじゃったとか聞いたんだけど‥‥」
その人じゃないだろうかと、口を開いた沖田の、
「てめえ、何勝手な事言ってやがんだ!!」
頭に、がつんと‥‥拳骨が炸裂していた。
調子よく喋っていた沖田は気付かなかったらしく、まともに頭を殴られていたたと呻いている。
そして彼に鉄拳を食らわせたのは、勿論その人である。
「土方さん!?」
彼は怒りに目をつり上げ、口元を引きつらせて頭を押さえて呻く沖田を睨み付けていた。
「何を、ありもしねえ話をでっち上げてやがんだ」
「え?! 作り話なの!?」
驚いたように声を上げる藤堂は、どうやら彼の言葉をそのまま鵜呑みにしていたらしい。
「当たり前だろうが! 俺は新八みてえに女なら誰でも良いわけじゃねえんだよ!」
怒鳴りつける土方に藤堂はひっと小さく悲鳴を上げて首を竦める。
「でも、綺麗な女の人はだいたい土方さんのお手つきでしたよね?」
「総司!」
土方さん面食いだからなぁとしみじみと呟く彼の頭にもう一発。
お見舞いしたかったのだが、ひょいと逃げられてしまった。
土方は拳を握りしめて、逃げ回る彼を追いかける。
「やだな、僕男の人に追いかけられる趣味なんてありませんよー」
「俺だってねえよ! 追いかけてんのは、てめえをぶん殴る為だ!」
「なおさら止まれないってば」
沖田は笑いながら言って、ひょいと廊下に飛び出した。
脱兎の如く、とはこのことで、廊下に出た彼は瞬く間に走り去ってしまい、あの大きな体でどうしてそうもすばしっこい
のかと一同は感心というか、ある種不思議で仕方ない。
「あんの野郎‥‥」
追いかけて一発ぶん殴ってやりたかったのに、もう姿が見えないのでは仕方ない。
土方はしばし拳を握りしめて廊下の先を睨み付けていた、が、やがて、くるりと振り返って、一同をぐるりと見回す。
触らぬ神に祟りなし。
「そういや、俺巡察があったんだ」
「あー! オレ源さんに呼ばれてたんだっけ!!」
「斎藤、おまえも巡察当番だろ」
「あ、ああ」
などと口々に言いながら、そそくさと原田、藤堂、斎藤が逃げてしまった。
残されたは用があると土方に言われて彼の部屋に連行された。
部屋に入るや否や、どっかと腰を下ろした彼にこれとこれ、と書類を突き出され、どこどこへ届けてこいと一方的に言わ
れる。
「で? なんだって、あんなふざけた話になったんだ?」
分かりましたと言って腰を上げようとするに彼は問う。
どういう経緯で、彼のねつ造された過去が暴露される羽目になったのかと。
「なんか、平助が昨夜女の人の霊を見たらしいんですよ」
は上げ掛けた腰を下ろし、先程の会話の内容を話す。
女の幽霊が出て、彼女は何故幽霊になってしまったのかという話になって、きっとこの世に未練があるからで、その未練
というのは男の事で、新選組の中で女に恨まれているのは土方だろうという話になったと。
「なんで女の霊が出たからって、俺が恨まれてるって事になるんだよ」
「‥‥色男だからじゃないですか?」
しれっと答える彼女に、一瞬面食らう。
男前である事を褒められているのならば嬉しい事だが、その言葉には「女遊びが激しい」という意味が込められてはいな
いだろうか?
惚れた女に、遊び人だと誤解されるのは困る。
確かに、沖田の言う事に事実はあるけれど‥‥それは過去の話だ。
だと言うのに、
「土方さん、女の人泣かせてきたんですか?」
彼女にそう問われて土方は頭を抱えたくなる。
しかもそれが嫉妬故、ならばまだ良い。
かわいげがある。
でも、彼女は至極真面目な顔で訊ねてくるのだ。そうまるで、男の不実さをお節介という名の下に正してやろうとするみ
たいに。
恐らく彼女にとっては過去の事、と割り切れているのだろう。
先程は誤解されたくないが為に「過去なのだから」と割り切ったが、彼女には割り切られては困る。
確かに過去の事だ。
でも、過去でも惚れた男の事なのだ。
もう少し、関心を持ってくれても‥‥
(俺の過去にゃ興味もねえってか)
言っていて少し情けなくなって、土方は頬杖をついて溜息を零す。
悩ましげな憂い顔にはどきりとした。
この表情を、今まで他の女も見てきたのか‥‥と思え、心は痛む。
痛む、というか、腹立たしい。
過去の事と、とはいえ、やはり割り切れない。
今更どう足掻いても彼の過去は拭えないけれどそれでもやっぱり、彼の様々な表情を知っているのは自分だけでありたい。
そんな勝手な言い分を彼に押しつける事は出来ないのは分かっているけれど‥‥でも、
「泣かせて、きたんですか?」
の声が微かに揺れた。
その音に気付いて視線をちらりと向けると、先程まで真っ直ぐに見つめていた琥珀が、逸らされていた。
長い睫が影を落とすその表情は、酷く悔しそうで、そして、どこか寂しそうで‥‥
ああ。
溜息が思わず零れる。
このという女がどういう女なのか、今、改めて思い知らされる。
情が薄いのではなく、ただ、思いやる事が出来る女だと。
それでも、自分への狂おしいまでの恋情を抱いてくれているのだと。
だからこそ、自分だけにこんな、愛らしい表情を見せてくれるのだと。
ふわりと、空気が揺れた。
影が視界の隅で動き、何かと視線を上げればこちらを見つめる紫紺の甘さにぎくりと背中が強張る。
「今は、泣かせてねえけど」
けど、と余韻を持たせた言葉を零し、その指先がとん、と彼女の膝に触れる。
そしてそれがゆっくりと上へと這い上がっていくのにの双眸が見開かれ、徐々に顔が赤みを帯びていくのは当然の事。
何故なら男は妖しげな指使いで、彼女の秘めたる場所へと指を進めたのだから。
「ひ、ひじ‥‥」
何をと馬鹿みたいに問い掛ける声が震えている。
怯えているのか、それとも期待しているのか‥‥土方はこくりと喉を小さく震わせて生唾を飲み下すと、余裕のある顔を
してにやりと艶っぽく笑ってみせた。
指先を、すいと着物の裾に引っかけて、意味深な視線と共に持ち上げながら。
「おまえが、望むんなら泣かせてやってもいいぜ?」
そう、彼女が望むのならば、
今夜にでも――
そんな甘ったるい囁きにの緊張は限界へと達し、
「うわぁああああ!!」
悲鳴を上げて、ずざざざっと盛大な音を立ててが出口まで逃げてしまう。
真っ赤な、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
なのに、虚勢を張るみたいにこちらを睨み付け、こう叫ぶ。
「ひ、土方さんの馬鹿!」
何故彼を罵倒したくなったのかは自分でも分からない。
ただ酷く悔しくて、恥ずかしくて、その気持ちを誰かにぶつけなければ気が済まなくて、はぐちゃぐちゃになる想い
をぶつけて彼の言葉を待つよりも先に逃げ出していた。
「馬鹿! 鬼!! 助平親父ぃいいっ!!」
「そりゃ男なんだから当然だろうが‥‥って‥‥」
ばたばたと遠ざかる足音を聞きながら、やれやれ、と土方は溜息を漏らした。
「やっぱ、逃げやがったか」
彼女は大人なようで、まるで子供だ。
色恋に関しては特に。
あれでは先が思いやられるなと内心で呟きつつ、思った異常に燻る熱を誤魔化すように乱暴に吐息を漏らし、やがてくる
りと文机へと視線を向けた。
その時、
「あ?」
ちくりと刺すような視線を感じ、彼はちらりと開けはなったままの襖へと視線を向けた。
するとそこに、いつから居たのか、先程は逃げ回って土方を翻弄した諸悪の根元がそこにいるではないか。
しかも何やらにやにやと嫌な予感をさせる嫌な笑みを浮かべている。
まさか、
土方は些か青ざめた。
「総司、おまえ、いつから‥‥」
上擦る問い掛けに、沖田は襖の隙間から顔半分だけを覗かせて――言った。
「助平親父」
「総司―――!!」
何故か青空に、土方の怒声が鳴り響き、平和な屯所を揺るがしたと言う。
女の敵
副長は女の敵だと思う☆
色んな意味で。
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