連日。
  朝も昼も夜も。
  鬼の副長は、仕事の鬼とも化して働きづめであった。

  ひとえに人手が足りない‥‥という理由と、人材不足故だ。

  局長不在、総長不在、また一番組組長も、六番組組長も、八番組組長も不在。

  総長と八番組に関しては夜のみ活動可能ではあるが、それでも人材不足である。
  まあ、重要な懸案については組長に頼むことも出来ず、結局副長自身が動くしかないわけで。
  今は、重要懸案ばかりが、目の前に転がっている。
  そんなわけで、
  鬼の副長は大忙しだった。

  「大丈夫ですか?」

  青白い顔を見て、は心配そうな顔で覗き込んだ。
  元より白い顔ではある美男子だが、今はとにかく病人かと思うほど青い。
  目の下には隈がうっすらと出来ているし、頬も少しばかり痩けてきた。
  どこからどう見ても疲れているという顔は、悲しいかな、彼のような美しい男では、ただただ色気が増す材料に
  さえなってしまう。

  「ああ、平気だ。」
  ひら、と手を振り、彼は心許ない足取りで部屋へと戻っていく。
  お世辞にも平気とは思えない。
  はもう一度大丈夫ですか?と言う代わりに、無言でその後ろを続く。
  金魚の糞か、と土方は心の中で悪態をついたが、口にする気力はなかった。

  限界は部屋に入ると同時にやってきた。

  ずる、と襖を開けるや否や彼の身体は滑る。
  「土方さん!」
  悲鳴みたいな声を上げ、彼女が手を伸ばすのが分かった。
  後ろに身体が傾いだせいで、の助けに大いに助かった‥‥が、正直格好がつかない。
  小さな女の身体に支えられ内心舌打ちを零しながら、彼は認めざるを得ない事実に、溜息混じりに呟いた。

  「少し、休む。」

  支えて貰った事への礼も述べず、男は己の力で持ち直すと、それこそ倒れ込むようにどさと畳の上に転がる。
  どうにか彼女に背を向けた所で瞼は持ち上がらなくなり、
  一気に、
  意識が沈んだ――



  暗い泥に沈むような感覚だった。
  重たい水に囚われ、指先一つ動かすことが出来ない。
  藻掻けば、また水に沈み、一層けだるさが身体を襲った。
  水の中にいるのに、口を開けても水は入り込んでこない。
  彼は飢えていた。
  喉の奥が干上がり、張り付いている気がした。
  唇を薄く開き、水を求めて声を漏らす。

  水‥‥

  音に出来たのか分からない。

  水が欲しい。
  彼はそう言った。

  これほど水が溢れているのに‥‥どうして自分は飢えているのだろう。

  水が、欲しい。

  もう一度、彼は掠れた声を漏らした。

  次の瞬間、
  濡れた感触が唇に伝わる。
  乾いた唇をそっと‥‥何かが撫でた。
  僅かな水滴が開いた唇から滑り込み、そこで漸く、水を一滴、口にした。

  瞳を閉じているはずなのに、
  途端、天井が青く染まったのが分かる。
  それはさながら水底から空を見上げているかのように。
  青い水面が空を覆った。

  ――もっと。

  とせがめば、触れていた何かが戸惑うように一度、震える。

  どうした?
  もうくれないのか?

  問いかけたか、それとも、もっとという言葉を口にしたかは分からない。
  ただ、止まっていたそれが今度は離れた。

  一度、
  離れ、

  ひやりと、
  今度は唇全体に冷たいものが押し当てられる。
  冷たくて、柔らかい、なにか。

  そして薄く開いた唇の隙間から、
  水が注ぎ込まれた。

  少しずつ、
  少しずつ、

  その飢えを、満たす。

  何故だろう。
  水が一滴注がれるたびに、気だるさが消えていく。
  まとわりついていた重たいものが、少しずつ剥がされていく。
  身体が軽くなり、青い空に向かって、浮上していくかのようだった。

  やがて、触れていた何かが離れた。

  待ってくれ――

  もう少し、と彼は手を伸ばした。
  先ほどまで動かなかったそれは自分の意志で動き、離れたそれをつかみ取る。
  そうしてもう一度引き寄せれば、小さな声が聞こえた気がした。

  構わずに引き寄せれば、唇に、濡れた感触が触れた。

  ああ、これだ。
  これが、欲しい――

  残った水滴を舌で舐め取る。
  そうすると、触れていた何かがびくりと震えるのが分かった。
  動くなと手に力を込めて、水の跡をたどって舌を滑らせれば、柔らかな何かに触れた。
  そこは湿っている。
  先ほどの水よりは温かなそれに、もっと欲しいのだとすすり上げる。
  そうしながら露の粒でも舐りとるように。
  あちこちを舌先で触れる。

  その時、びくりと跳ねた何かが舌先に当たった。

  それは先ほど自分が与えられた水と‥‥同じ温度、同じ味がするもので。

  土方はそれを追いかけた。
  追いかけ、逃げるそれを舌で絡め取り、吸い上げる。
  ざらりとした感触がした。
  水よりも、少し、甘い味がして‥‥

  「んっ」

  途端、その味よりも甘い、女の声が聞こえて、
  同時に、
  ぱしゃりと水が跳ねる音が聞こえ、身体が急に冷たくなる。

  驚いて、目が、開いた――


  「あ‥‥」
  目の前に、琥珀がある。
  二つの輝く、光が。
  それが自分を見下ろしている。

  彼の知る限り、
  それほど綺麗な琥珀を持つ人は、

  「‥‥?」

  彼女しかいなかった。

  しかし、その色は彼が知るよりもずっとずっと、甘く、濡れた色を浮かべていて‥‥
  近い場所で見る妖艶な瞳に思わず、土方は息を飲んだ。

  見つめ合う事数拍。
  見る見るうちに、その瞳には常の色が蘇り、やがて、

  「ご、ごめんなさい!!」

  唐突な謝罪を口にすると、彼女は逃げるように部屋を飛び出していった。

  「っ!?」
  寝起きだというのに、弾かれたように男は上体を起こす。
  から、
  とその瞬間身体の上から何かがこぼれ落ち、それを視線で追いかけた。

  から、
  畳の上を転がったのは白い、小さな器。
  表面は僅かに濡れ、畳を濡らしている。

  そうして上体を起こし、彼は初めて気がついた。
  彼が纏っている洋服にも、水が、零れていたことに。
  そして、
  その時になって漸く、気付いた。

  驚くほど近くにあった女の唇が、

  水で濡れていたこと。
  そう、

  「‥‥」

  彼の、唇と同じ温度で、
  濡れていたことに。


  その時、全部が分かった。
  「ああ、くそ。」
  誰に悪態をつきたいのか、彼は一人ごちて顔を隠すように口元を手で覆った。
  頬に熱が集まってくる。
  身体は火照るが、濡れた部分だけは、冷たかった。

  ふいに指先が己の唇に触れる。
  まだ、そこは濡れていた。
  触れる柔らかさは‥‥やっぱり違う、と彼は気付いた。
  それから何かを思いだして、

  「まずい‥‥な」

  と呟く。



  「わっ!?」
  かくんと、は突然膝の力が抜けたのが分かった。
  部屋を飛び出し、自分の部屋へと戻る途中。
  廊下の真ん中で膝が折れ、は慌てて柱にしがみついて‥‥
  その場にへなへなとしゃがみ込む。

  腰から下が思うように動かない。
  まるで、痺れたように‥‥力が入らなかった。

  は舌打ちと共に顔を、いや、口を押さえた。

  口を押さえた瞬間、その唇に触れた感触を思い出して、身体の奥からじんと甘い痺れが戻ってくる。
  唇だけではなく‥‥触れた全てを思い出して、は吐息を漏らした。

  「やっば‥‥」

  両手で口を覆い、は呆然と呟く。

  「土方さんの口づけ‥‥」

  同じ頃、男は残る甘さを噛みしめながら口にした。

  「――気持ちよかった――

  あいつとの、口づけ。


  同じ




  土方さん寝ぼけてキス(笑)
  多分、土方さんのキスは上手いと思う。