そこには、花がなかった。
元々貧乏道場だ‥‥食う物も困るほどの貧乏生活を強いられている。
そんな彼らが庭に花を植える余裕などなかった。
いや、もし植えたとしても彼らのような無骨な男達に育てられるわけがない。
ということで、庭はいつも、力強い緑の色で統一されている。
花は‥‥ない。
春先になると、どこぞから桜の花びらが舞い込んでくる。
それくらいしか、なかった。
それなのに、
ふわり、
と、
道場の中ではいつも、花の香りがした。
いや、実際花の香りかと聞かれたらどうか分からない。
そんな香りをさせている花を見た事がないからだ。
しかし、その香りは花に似ていると誰もが思った。
どこか、爽やかで‥‥甘い‥‥香り。
なんだか吸い寄せられるような香りに、彼らは虫になった気分になる。
花に群がる、虫になった気分に。
「お疲れさまです。」
稽古を終え、縁側で一休みしている土方を見つけ、が声を掛けた。
手拭いで汗を拭っていた男は振り返り、おうと手を挙げる。
ぱたぱたと少女が近付いてきた瞬間、自分が纏う汗のにおいをかき消して、彼女の香りを強く感じた。
不思議と、心の和む香りだった。
「不思議だな‥‥」
と土方は思わず呟いていた。
呟きに、隣に腰を下ろしたがきょとんと目を丸くする。
不思議だと土方は思う。
は‥‥確かに女の子ということで道場の中では特別扱いをされている所がある。
とはいえ、彼女も門弟達と同じく稽古に励むし、寝起きも同じようにしている。
風呂には毎日入るようだが、着物は襤褸だ。
汗だって同じようにかくはずなのに、何故だろう。
彼女からは汗のいやな匂いがしないのだ。
が、自分のように香を焚いているとは聞かない。
それにから香るのは香とは違う気がするのだ。
それがの体臭というやつかもしれない。
だとしたら随分とは綺麗なもので出来ている気がした。
「おまえ、花から生まれたのか?」
「なんでですか?」
は首を捻る。
口にしてから我ながら、おかしな事を言った物だと土方は思った。
花から生まれた?
例えの出自が分からないにしても、花からなんてそんな御伽噺のような話があってたまるものか。
だが、どこぞの綺麗な女だって、夏になれば汗のにおいもさせている。
それを誤魔化すために香を焚きしめているのだ。
「花って‥‥なんでですか?」
「おまえ、花みてえなにおいがするんだよ」
「花?」
は言われ、すんっと自分の着物の裾を自分の鼻面に押し当てにおいを嗅ぐ。
そこからはただ衣のにおいがするだけだ。
「‥‥?」
「自分ではわかんねえものなのかもな」
ひょいと肩を竦める彼の視界をふわりと綿埃みたいなものが横切る。
「?」
何かと見遣れば、白い小さな蝶々だ。
ふわふわとそれは楽しげに揺れながら、彼らの周りを飛んでいる。
そうして、
ひら、
と羽を動かしての頭に、止まった。
そこでしばし羽を休めるように。
「っは、ほら、蝶もおまえのにおいに釣られてやってきた。」
土方は思わず笑ってしまう。
きっと蝶々も甘い香りに釣られてきたのだ。
そして、花と間違えて彼女の頭に止まった。
飴色の髪を、控えめに飾る白い蝶々を見ながら土方はくつくつと喉を鳴らして笑った。
その瞬間、
「あ」
声に驚いたのか、それとも十分に羽を休める事ができたのか、蝶々は羽を動かして飛んでいってしまう。
ひらひらと、上空を羽ばたき、やがては緑しかない庭をゆっくりと離れていってしまった。
「蝶が間違えるほどだから本物だな‥‥」
蝶々の行方を見送り、そうだろ?とに同意を求める。
しかし、
「?」
声を掛けるが、彼女からの返事がなかった。
それどころか、は足下へと視線を落としたまま、動かない。
「どうした?」
顔を覗き込んでみれば、
「おい!?」
彼女は真っ青な顔をしている。
具合の悪そうな顔で、ぽつぽつと額に汗を浮かべていた。
「どうした?
なにか‥‥」
あったかと土方はの額に手を当て、様子を確かめる。
と、そこへのんびりした、
「土方さん、何してるんですか?」
沖田の声が飛んできた。
「が‥‥なんかおかしいんだよ‥‥」
土方は振り返りもせずに答える。
普段の彼ならば「おかしいのはいつものこと」と笑ってみせるだろうが、その声が尋常じゃないのに気付いて、
「?」
真剣な顔でこちらに近付いて、裸足にもかかわらず庭に降り彼女の顔を覗き込んだ。
視線をしっかりと絡めると、その瞳が僅かに緩んだ。
「‥‥そう、じ‥‥」
「どうしたの?」
普段では決して聞く事のない優しい声で訊ねれば、彼女は首をゆっくりと横に振った。
なんでも‥‥と誤魔化そうとした所で、また、
ふわ、
と影がよぎる。
ふわふわと、揺れるそれに視線を向ければ、先ほどとは違う蝶々が舞い込んできて‥‥
「っ!?」
その瞬間、の顔が強ばった。
見開いた瞳に、そのゆらゆらと動くそれを映して、動かない。
「え?」
二人は同時に驚きの声を漏らした。
の視線は、蝶々に釘付けだ。
しかし、その目は蝶々に好意を持っているというよりは‥‥恐れの‥‥それ、で。
「まさか‥‥」
「苦手、なのか?」
あれ。
と二人はゆらゆらと浮かぶ、人畜無害そうな生き物を見つめた。
まるで幽霊でも見つめるかのような、怯えた目で凝視した少女は、ひらりと蝶の身体が揺れた瞬間、
「っ!」
びくりとその身体を震わせて、土方の大きな身体に飛びついた。
「土方さん、なにげに嬉しいとか思ってないでしょうね」
「思ってねーよ、つか、んな事言ってる場合か、あれどうにかしろ」
「土方さんがどうにかしてくださいよ。僕が代わりますから。」
「ばーか、できるか。こいつくっついて離れね‥‥」
「―、土方さんよりも僕んとこおいで?
その人助平だから何されるか‥‥」
「てめぇにだけはいわれたくねえよ」
苦手
つかその前に追っ払ってやれよ←
最初に見たのはこの二人。
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